はてなキーワード: 浸食とは
私もそう思う。親を施設に叩き込むなんてけしからん、同居して面倒を見るのが当然とかいう綺麗事を言うヤツは現実を知らなすぎる。
うちの祖母は父方も母方も存命だが、父方は特養、母方は老人用のアパート(?)みたいなのに入っている。うちの両親は毎週面会に行っているが、それだけでも結構な負担だ。うちの父母は70代前半だが、老々介護もいいところ。
父方の祖母は元々実家で同居していたので、最初は自分たちで面倒を見ようとしたようだが、夜も何度もトイレに行き、その始末を自力でできないので父が付き添って介助するのが大変で音をあげて施設に入れることになった。頭の方も最初は物忘れがひどい程度だったのが、どんどん認知症化してまともに会話が成立しない。そのくせ気になることは何度も繰り返し言うので聞いている方が発狂しそうになる。
母方はもう少しましな状態だが、いかんせん足腰が不自由で手も思うように動かないのでイライラや八つ当たりがひどい模様。かつて有能な主婦だった人が思い通りに動けなくなるとかなりストレスがたまるらしい。最初は頭がしっかりしているからと料理も掃除も自力でやる施設に入れたが、結局母が行ったときに買い物に付き合ってやり、掃除などもする羽目になっている。認知症までは行っていないと思うけど、元々持っていた欠点が顕著になり、まだらボケのような症状を呈しているようだ。
そんな連中と毎日顔を合わせて生活を共にしたら面倒を見る側がストレスで倒れるよ。たまたま経済的にそういう施設に入れられる状況にあって本当に良かったと思う。
たまにしか会わなければ優しくできるし、多少手がかかっても諦めがつくけど、それが毎日で自分の生活を浸食してくると耐えられなくなると思う。冷たいようだけど介護する側にも自分の生活があるんだから、経済的に可能なら施設に押し込むのが一番だと思う。
そもそも正当性は証明されているので、わざわざ証明を補足する必要もないんですが。法的に問題ないのは明らかだ。
この問題に関して非論理的な否定で「献血ポスターの正当性」を否定できたと勘違いする人が居るといけないので、「補足」しておく。
その「反論」を献血ポスターに適用するのは「無理」だというのが、言いたいことの中心だ。
無理筋である理由を説明しておこう。一言で言えば、「男性が求めるから」
男性が求めてはいけない理由が存在しない以上、無くなることはあり得ない。
女性が見たくないものを「見たくない」という権利がある。それは当然。と「同時に」、見たいものを「見たい」というのも男性の権利として存在しうる。
なので、単に「見たくない」で規制するのは、「男性への差別」だ。全部の男性がそう思うかどうかは重要ではない。昔々はフェミニズムが「先」に権利があったかもしれないが、今は存在しない。これらの権利は「同時」に発生しうる。
フェミニズムがもう無理な理由は、ここにある。男性差別が激しく、これからの論理としてもう終わってると考えるべきだ。
なお、これは男性を優遇しているという論理ではない。当然女性を差別していいという論理でもない。
例えば、人前に出たくない女性を無理やり出させるとか、明らかな「差別」をしていいと言ってるわけではない。
そもそも元がポスターなのだから、嫌な人に強制されているわけでもなく、女性差別をしているわけでもない。過度に性的なわけでもない。
この献血ポスターを見て「女性を性的対象とみていい」というメッセージだというのは、「気のせい」だ。それが証拠に何一つ証明されてない。
これからは、「女性を性的対象にするな」は無意味であって、「何々だから」という理由が必要だ、という話。
なお、「女性」を性的対象にするなという主張が無意味な理由は、もはやすでにほぼ達成されているから、だ。「アンチフェミニズム」で、その論理を一生懸命否定する奴が存在しない。否定する理由もない。
ひと昔前はそういう「アンチフェミニズム」も存在した。例えば「女性は出しゃばってくるな」とか、非論理的なのは存在していたが、さすがに今は絶滅してる。
献血ポスターのような存在は「絶対に存在しない」命題も否定されることになる。
ある程度献血ポスターのような三次元も「存在しうる」のは明らかであり、「存在しないような」女性を描いて差別を助長しているという批判も当たらない。
なお、この献血ポスター他の場合、なぜ巨乳かと言えば、以下の理由がある。
ある程度の理由があるのであって、成り立ってるものを何の理由もなく否定できる理由はない。
結局のところ「問題ない」所の「公開」を否定されてしまった場合、これからは「全てダメになるだろう」と予想せざる得ない。
いわば領土みたいなもので、すでにさんざん浸食されているのだから、これから際限なく浸食されるのだろうという思うのは「自然」だ。
pix〇vに投稿されてる夢小説を漁るのが趣味なんだけど、ここ最近人気もあってか鬼〇の刃夢小説が大量に流れてきている。
ただ大量に投稿されてるならまだいい、ジャンルに活気がついてるもんな
でも他ジャンルまで浸食されていってるの、本当に見るに堪えないし内容はもっと見るに堪えない
クロスオーバー系の夢小説が鬼滅と他ジャン両方のタグを付けて出している。
これもまだわかる、どちらの夢でもあるならだ。まだ仕方ないし他のジャンル同士でもよく見かける
ただなんなんだ???「刀〇女士が鬼〇の世界に転生して〜」とか、「公安の下っ端が鬼滅の世界へトリップ!」とかがこれでもかってくらい目につく。何故?公安のトップもスナイパーも名探偵も男士も本編に極わずか設定の都合上でしか登場してないのに何故他ジャンルの夢タグを付けてるんだ???御相手ほとんど鬼〇なのに!!?頭可笑しいんじゃないか!?
しかも何、刀〇女士の夢主、まだ許せる、横行してるし最早どうでもいい、その話がそのジャンルだけの話ならまだいい。
公安の下っ端も米花のJKもまだいい、その話なそのジャンルだけの話ならまだいい。
わざわざ他ジャンルにトリップする意味あるの????控えめに言って踏み台にされてる気がしてならないし節操無く設定継ぎ足してるゴミのような小説がタグも節操無く付けて横行してて吐き気がする程である。
私は正直鬼〇は好きでもなんでもなかったけど、この機会に鬼〇は節操無い人しかいないイメージがついたし、ハッキリ言って嫌いだ。本当に大嫌いだ。奴らみたいな字書きとも言えないような人達が横行して我が物顔で他ジャンル侵食してるんだもん。
早く廃れてくれないかな。
タイムラインであがってきていたので再び読んだ。
「結局のところ棲み分け」「参加しなければいいだけ」
>界隈から離れるには横の繋がりが多すぎて村八分状態になってしまうのが寂しい
ここからすると、主のいる場所はエモいうちよそで浸食されて居場所を失っている。
「CoC」で遊びたい。周りは「CoC」で遊んでいるが、そのTRPGスタイルは受け付けられない。
その場に留まることは地獄だが、友人たちを嫌いになったわけではない。
という一言で断ち切れる友人とのつながりじゃないから苦しんでいる。
堂々とうちよそRPをTLで繰り広げられるようにする流れに対し、段々麻痺してきた。
タイマンシナリオは言ってしまえば連れ込み宿で、堂々とうちよそするための口実なんだなと思う。
我ながらひどい言い様だと思ったが、もうそれ以外の目で見ることが出来ない。
「最近のアニメすごいな、流行るだけあるな」と思った。そういうレベルの人間視点
セカイ系とかは知らない
ネタバレは多分少しあり
一回目(ひとりで)
・映像美に見入った、雨の描写の大変さは素人でも想像に難くない
・気になったのは
・総じてネットでよく言われてるやつ。まあ「そういうもんだし」で片付くので大きな問題はない。
・あえて悪い言葉でいえば「幼稚」な印象をもった
・でも抗えない魅力があった。男の子と女の子が互いの名前を叫べばそれだけで立派な物語だ。
抗えず二回目(ひとりで)
・開始前にトイレ行ったのに、少人数+冷房のパワーで思考キャパが尿意によってみるみる浸食されていった
・夏美がコーヒーやらビールやらごくごく飲む頃にはすでに漏れそうだった
・でも頑張った。同じ映画を二回見る経験なんて初めてだから、なんとしても失敗するわけにいかなかった
・それがもう失敗であった。エンドロールが始まるや、慎重にかつ速やかにおずおずと情けなく退出したのは私です
一回目の視聴では「いやいや、出会ってからホダカがなんで陽菜に恋したかが貧弱すぎて感情移入できねー」と
思っていたが、冷静に考えればこれほど魅力的な女の子が日常に現れたら好きにならないはずがないのだった。
君じゃないとないよ、意味は一つもないよ、と。そういうこと。
二回目ってことで「陽菜はいつから自分の体の変化を認識してたのだろうか」という視点が持てた。
太陽に手をかざす描写がこれでもかと出てくるんだけど、一回目と意味合いが全然違って見えてくるのね。
あとあんまり喋ってない気がするんだよね陽菜。気のせいかなセリフ少ないと思う。もっといろんな声聞きたかった。
陽菜が最後の最後、どういう感情だったのか、これがもう少し描かれていてほしかった気はする。
当事者として彼女の葛藤は誰よりも大きいはずなのに、基本的にホダカ視点だからなこの映画。
・凪、かわいいよ凪
言わずもがなの、センパイ然とした大人顔負けのサービス精神と子供の無邪気さが共存する魅力的なキャラ
一回目の視聴では釈然としない部分に気を取られてかそこまで感動しなかったけど、
二回目は凪先輩のパンチライン「姉ちゃんを返せ!」で涙を流させていただきました。
でもなんで凪先輩はあのビル来れたんだろうね
あとこのキャラは抜群に声がいいと思う。声優とかわからんけど演者の方もっと評価されるべき
・声がいいといえば、ホダカ。これはすごいことだ。
序盤の「帰りたくないんだ」で見せる弱さは胸を突くし、なにより終盤の叫び連発に込められたエモさはヤバイ。
叫びってのは基本的には耳障り悪いはずなんだけど、ホダカの叫びは淀みない真っ直ぐな感情が乗ってて
聞き手の心をぐいと動かす力がある。最優秀ボイス賞。
一回目は「いやリーゼントとかあり得ないし」と冷めた部分もあったが、この良質な叫びのおかげで二回目は変に引くことなく楽しめた。
・総じて二回目は話の流れがわかってるだけに、キャラの感情の動きに注目して見ることができた。
(これはこの作品に限らず、そういう楽しみ方があるという発見)
スガさんとかね、「実は奥さん晴れ女だった」考察が話題になってたけど、そういう視点で見るとなかなか面白かったり。
さすがに三回目はないけど、機会あれば見たいし誰か誘ってくんねーかなくらいに思ってる
言うほど賛否両論ではないと思う
書き方とかローカルルールも理解できてないけど、今の自分が思っていることを整理するために書き投げる。
タイトルが不穏だけど、アレだよ「まんじゅうこわい」と同じだよ。
アニメは見てない。
主題歌は知ってる。
そこから何かのアニメやドラマCDでちょいちょい名前を見かけていたけど、なんだかパッとしない声だなって印象だった。
寺島は、中音からやや低音にかけての声をこの頃よく使っていたように思う。
正直、主役声ではなかった。
このまま脇役でおさまる声かな?って感じだった。
私が寺島拓篤という役者と向かい合ったのは、うたの☆プリンスさまっ♪という作品だ。
何かの雑誌に載っていた、新作ゲームコーナー特集の数ページだったと思う。
女装教師に「珍しい役やらされてるwww」って笑っていたり、「割と歌えるメンバー揃えてきたなぁ」とキャストを眺めたりしていたが、
という文字を見ても、「寺島…?あーあの人かーへー」ぐらいの感想だった。
それぐらい10年近く前の寺島拓篤は、私にとって印象に薄い役者だった。
そこから数年後、うたの☆プリンスさまっ♪のアニメが始まった。
主題歌のマジLOVE1000%が頭から離れず、そこから転げ落ちるように…とはならなかったが、じわじわとうたプリに落ちていった。
今でも推しは変わらず青い人なんだけど、アニメを見てもゲームをしても音也にはハマらなかった。
何かが変わったのは、声優さんがライブをする、所謂プリライ。5thの時だ。
音也のキャラソンは『元気』『明るい』『楽しい』という印象の歌が多かったのだが、
5thの時に歌った歌はそれまでの印象とは違う歌だった。
発売された時も、こういった歌が歌えるようになったのか~と思っていたが、生で聞いたらダメなやつだった。
寺島がセンターステージにギターを抱えて現れ、【木漏れ日ダイヤモンド】の1小節目の音をかき鳴らした瞬間に、何故だか涙がこぼれた。
音で聞いて分かる。
弾くことに慣れてない。
少し震える弦の音と、手元をしっかり見て一つ一つ確かめるようにコードを押さえる寺島の姿。
一十木音也というキャラに対して向き合う寺島拓篤の姿勢に、心を動かされたんだと思う。
曲が終わるまでペンライトも振れず、ただただ立ち尽くして泣くしかできなかった。
そして、後からゆっくりと「もしかして寺島拓篤はヤバい奴なのでは?」と思いだした。
思った時にはすでに浸食は始まっていて、そこから今まで気にしなかった一十木音也やうたプリに対する寺島拓篤のコメントを読むようになった。
ダメだった。
役者としての気持ち、クソオタとしての気持ち、両方分かる寺島拓篤のコメントは、私が求めている「欲しい言葉」がいつもあった。
なんなのあの人。
木漏れ日からかかった呪いは時間が経つに深くかかり、新曲が出るたび、プリライに行くたび、ブログを読むたび「あ゛ぁ゛ー」と汚い声を上げて泣くようになってしまった。
と語彙力が失われるほど心に刺さった。
うたの☆プリンスさまっ♪はスタリから始まり、カルナイ、ヘブンズと新しいグループが作られている。
内部(ファン同士)での殴り合いは、何かあるたびに起こっている。
そんな事を知ってか知らずかは分からないけど、あの言葉は音也と寺島、両方の気持ちなんだろうなと思っている。
そして二次元男性アイドルコンテンツを確立したパイオニア的立ち位置にある作品としての気持ちでもあるのでは、とも思っている。
今でも胸を張って言えるのは、私は寺島拓篤のファンではない。という事。
個人ライブに行かないし、うたプリという作品以外での活動にはあまり興味を持たない。
かと言って、一十木音也が推しになったのか、と言われると、そうではない。とはっきり言える。
音也関連のグッズ等の何かを買いたいという気持ちは、今でも起こったことがないからだ。
しかし、一十木音也が、そして寺島拓篤が、うたの☆プリンスさまっ♪という作品にいなければならない。いないと成立しない。と思っている。
そう思わせる寺島拓篤の人となりが凄いと思う。
なんだか長くなってしまって文章がとっちらかってるけど、最終的に何が言いたいかって言うと、
って言う事。
新潮社のトマス・ピンチョン全小説の『V.』を読み返していたら、ちょっと気になる箇所があって、これは原文ではどうなってんだろうと、図書館で原書を借りてきてみました。そしたら、あれ、もしかしてこれ、この翻訳ひどい?
というわけで、原文と翻訳を照らし合わせたうちで、これはいくらなんでもという箇所を以下で検証していきます。
この段落はニューヨークの下水道に巣食うワニを狩るパトロール隊として雇われているプロフェインという男が第五章で書かれたワニ狩りのことを回想しているというところです。訳文とそれに対応する原文を引用していきます。訳文の引用は『V.』上巻の217,218頁から。
フェアリング神父の教区を抜けてイースト・リヴァー近くまで、独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。
He thought back to the one he'd chased solo almost to the East River, through Fairing's Parish.
「抜けて」とありますが、第五章を読めばわかるようにプロフェインは教区を抜けていません。ここのthroughは「~の間を通って」の意でしょう。
ちなみにフェアリング神父は下水道でネズミにキリスト教を布教しようとしていた人物です。
そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。プロフェインが酔っぱらってか欲情してか、頭がポワンとしていたとき、ワニの足跡だらけの泥の上で、契約を交わしたのか?
It had lagged, let him catch up. Had been looking for it. It occurred to him that somewhere--when he was drunk, too horny to think straight, tired--he'd signed a contract above the paw-prints of what were now alligator ghosts.
「なにか取り決めでもあったのか」という訳文に対応する箇所がない。
これに対応するらしき原文はこのあと出てくるのですが、なぜここに置かれているのかわかりません。それ以外にも問題がありますが、それは後述。
It occurred to him thatが訳されていない。
tiredが訳されてない。
of what were now alligator ghostsが訳されていない。
この段落ではこのalligator ghostsなるものがどういう存在なのか、このあと縷々綴られていくので、これを落としてしまうのはちょっと。ここは訳すなら「今や幽霊であるワニたちが、かつてそうであった存在の」となるのでしょうか。あまり自信はないですが。
プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える、それでイーヴン、恨みっこなしと。
Almost as if there had been this agreement, a covenant, Profane giving death, the alligators giving him employment: tit for tat.
Almost as if there had been this agreement, a covenantが訳されていない。
上に出てきた「なにか取り決めでもあったのか」が訳文なのかもしれないけど、this agreement, a covenantとわざわざ言い直して二回言っているのを「取り決め」の一語にまとめるのはどうなんですか。しかもcovenantなんて「(神との)聖約」という強い意味の語なのに。そんな語がワニ相手に使われているというのがこの文のミソだと思うのですが。うーん。
プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを覚えていたのか。
He needed them and if they needed him at all it was because in some prehistoric circuit of the alligator brain they knew that as babies they'd been only another consumer-object, along with the wallets and pocketbooks of what might have been parents or kin, and all the junk of the world's Macy's.
息の長い原文を切って日本語として不自然じゃないようにしているのでしょうが、かえって意味のつながりが見えにくくなっているような。
おかげで分かりづらい。これでは「必要だったのか」「生じていたのか」「覚えていたのか」と三つの疑問文がただ並列されているように見える。せめて「生じていたのか」「覚えていたのか」を「生じていたからなのか」「覚えていたからなのか」にした方が良いのでは。
the world's Macy'sを「世界中のデパート」としているのは明らかに誤訳です。メイシーズは基本的にアメリカにしか展開していないようですし、なによりもこの挿話の元になった都市伝説はニューヨークのメイシーズで、ペット用に売られた赤ちゃんワニがトイレに流されて下水道で成長していたというものだったわけです。なのでthe world'sはここでは「ここらの界隈の」みたいな意味ではないでしょうか。
あと英語の仮定法を日本語の疑問文で訳すというのは翻訳のテクニックとしてアリなのでしょうか。いや、アリならアリで全然いいんですけど。ただの素人なのでよくわかりません。
トイレを通って、地下の世界に流れてきたのは緊張の中の束の間の平和に――いずれは子供の、見かけだけ動きのあるオモチャに戻っていくしかない、それまでの借り物の時間に――すぎなかったのだろうか?
And the soul's passage down the toilet and into the underworld was only a temporary peace-in-tension, borrowed time till they would have to return to being falsely animated kids' toys.
トイレにジャバーっと流されて下水道に流れ着くという事態を「魂の道行き」なんて大げさな言い方をしているのが、面白いところなのになんで訳されていないのか。あとダッシュをいれて「――いずれは子供の(中略)借り物の時間に――」と挿入するくらいなら原文の語順通りに訳したほうがわかりやすいように思えます。
もちろん自分から望んでのことではない。望みは、もとの自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。そしてそのまま、教区の聖なる水に浸食され、あの日、あのワニの墓場を明るく満たした光のような燐光を発する、アンティークな骨細工になっていくしかない。
Of course they wouldn't like it. Would want to go back to what they'd been; and the most perfect shape of that was dead--what else?--to be gnawed into exquisite rococo by rat-artisans, eroded to an antique bone-finish by the holy water of the Parish, tinted to phosphorescence by whatever had made that one alligator's sepulchre so bright that night.
to go back to what they'd beenが「もとの自分たちの暮らしにある」でいいんでしょうか。このあとに続く文に則して意味をとるなら「暮らし」では変では? それに原文はto go backなのに「帰る」という意味が訳文から感じとれないです。
さて、ここから先が問題です。ここは第六章の中で非常に重要な段落の中でも、さらに重要な一文だと思うのですが、まともに訳されていなくて頭をかかえました。
まず、ダッシュで囲まれたwhat else?が訳されていない。
「しかない」という形で間接的に訳されていると言えるかもしれませんが、それでもこれを落とす理由にはなりません。
exquisiteが訳されていない。
tinted toが訳されていない。
by whatever以後の節を「燐光」にかけて訳していますが、これは英文解釈的に無理なのではないでしょうか。また、そのせいなのか原文の語順がぐちゃぐちゃにされてしまっています。なぜeroded to an antique bone-finishとひとまとまりなっているのを千切って「浸食され」と「アンティークな骨細工」をかけ離れたところに置いているのでしょうか。
原文を素直に読めば、ワニは死後、gnawed-齧られてrococo-ロココ彫刻になって、そのロココ彫刻がeroded-浸食されてan antique bone-finish-骨仕上げのアンティークになり(bone-finishというのは妙な言い方ですが、matte finish-つや消し仕上げをもじったような表現だととりました)、そのアンティークがtinted-染められてphosphorescence-燐光になると読めます。
つまりワニの死後、時間の経過によってワニがどのように変貌していくかの推移を追うことができるように読めるわけです。しかし翻訳ではそのように読むことはほぼ不可能です。
さらにこの段落の一番最後に来るのは原文ではwhatever had made that one alligator's sepulchre so bright that nightなわけで、ここに意味上の大きな負荷がかかっていると思えるのですが翻訳では「燐光」の前に置かれて目立ちません。
これでは、4コママンガのコマの順序を入れ替えてしまったために、オチの意味がわからなくなっているようなものです。
ここのところをわたしなりに試しに訳してみたので、ここに置いておきます。
そして、その望みの最も完璧な形とは死ぬこと――他に何があろう?――であって、そうして工匠ネズミに齧られて精妙なるロココ彫刻とされ、教区の聖なる水に浸食されて骨仕上げのアンティークになり、何ものかに染められて澄んだ緑色の燐光と化すのであり、そしてその何ものかこそ、あの晩、あのワニの地下埋葬所をあんなにも輝かしく光らせていたのだ。
(phosphorescenceという単語を見ていたら、どうしても『宝石の国』のフォスフォフィライトの顔がチラついてしまったので「澄んだ緑色の燐光」としてしまいました)
とにかく第六章にはここ以外にも訳されていない語、節、文がたくさん出てきます。他にも誤訳、誤訳とは言いにくいけどおかしい訳もままあります。誤訳ではなくてもあまり使われない珍しい単語が使われていたり、凝った表現がされていたりするところが、平易な分かりやすい、いいかえれば、ありきたりでつまらない日本語になっていたりします。
いったいなんでこんなことになっているのでしょうか。ピンチョンが好きでこの『V.』も何度も繰り返し読んできたというのに、今まで読んできたものは何だったのかという気分で、ショックが大きいです。
共訳者の一人、佐藤氏は何十年もピンチョンの研究、翻訳をされてきた人で、こんな訳をするとは思えないのですが。それとも、このころ『重力の虹』の翻訳に集中していて実は『V.』にはあまり関わっていなかったとか? しかしもうひとりの小山氏もイギリスの大学院に留学して英語の著作もある人だそうですし。学生に下訳させて、ろくに直さずに出版したとか? まさか。
ただ原文を横において検討したのは第六章だけなので他の章はちゃんとしている可能性はあります。わたしの英語力では全文チェックするなんてとうてい無理なので、誰か英語を読むのが苦ではなくて、現代アメリカ文学に詳しい人に『V.』全編の翻訳をチェックしてみてほしいです。
https://anond.hatelabo.jp/20190218155937
たしかに、基数に対するサクセサが表現として、固定されていると考える必要はない。
だから、2!と銘打ったものが1に対する加算的な位置づけにある必要性はない。
おそらく、集合論的な意味での濃さがけものフレンズ2に存在すれば、それは2という数字を含んでいても問題なく、2の濃さ(よさ)を理解できない「論理的でない人間」という判断を下されちゃっているのだと思うが、しかし、2が1の続きでないという判断を、その表現の濃さ(よさ)だけでどう判断すればいいのだろう?(2が現物として全く良くない、というのはおいといて)
「いやなら見るな!」という(死ぬほど頭の悪いと私は思っている)発言に通じるものがある気がする。
いやだと判断するためには、最低一回は見なければならない。
2を判断するためには、1を知らなければならない。
ここらへんは私にとって当たり前だと思うんだが、どうやら、そうでない人間がいる。
それらは、「最初からとんねるずの番組や、”2”が、「自分にとって嫌かどうか」を判断できる基本的かつ前提的な思考が他人には存在する」と考えている。
最近、ツイッターのくそ具合や、ここ、はてなのくそ具合から、「インターネット」というもの、および、万人平等論的な思想がぐらついている。
ぶっちゃけ、2だけど1とは関係ないよ!関係あると思うやつは論理的じゃないやつだよ!とか発言できる人間と、ネットとはいえ、つながっている必要性があるのだろうか?
しかし、つながっているのだ。インターネットとはそういうものなのだ。
…ここまで書いていて思った。インターネットってそういうものだっけ?ちがくね?
だが、現在のインターネット上のメインメディアは、障害の浸食に耐性を持っていない。
この「インターネットの目的」と書いた知的な意味での障害耐性は、人間も持っていない。おそらく、KADOKAWA社内での会話は完全に障害状態だろう。けものフレンズ2の「売上」という数字が出て初めて、この障害に対する自己修復が始まる(か、もしくは単に無視され、角川自体の崩壊まで進むか。ニコニコのように…)。
例のPremiumの動画についての件。
いや、俺は別にPremiumがどうとかはどうでもいい。金銭感覚は人に依る。
問題は以下の、
どれだけ大切な時間か…YouTubeなんかに使うくらいならそっちにお金かけたほうがいい
『そういう普通から逸脱した人が僕は成功すると考えてます!』
俺はこれに大変失望した。幻滅した。
Hikakinに対して抱いていた「尊敬」が一瞬にして「憎悪」に変わった。
そんなわけないだろうが!
いや、「普通」、つまり常識なんかを疑い、新たな道を見つけること、これは確かに成功に繋がることがある。
だが、言及元のコメントで言えば、「Youtubeより、友達との大切な時間に金をかける」ということを「普通」として、それから「逸脱」した方が良いと言っている。
もう一度言う。
そんなわけ、ないだろうが!!!
Hikakinがこれまでやってこれたのも「支援者」、「人の繋がり」があってこそだろう。
そしてHikakinもそれに応え得るために様々な活動を行ってきた。それには当然金銭的コストが掛かるだろう。
Hikakinを中心としたオープンなコミュニティみたいなものが形成されるために、Hikakinは毎日様々なことをして、様々なもののために金をかけてやって来た。
そう言った、「人」の温かみに囲まれてやってきたはずの人間が、「友達」よりも「動画」至上主義となり、言葉は汚いが『Youtubeの犬』に成り下がってしまったことに俺は大変失望している。
俺がわざわざはてなのアカウントを作ってまでこの匿名ダイアリーにこの記事を載せようと思った理由はたった一つ、
この考えがユーザー、特にそのメインである「学生」に波及してしまったら大変まずいと思ったからだ。
それは、自分の話になるが、そんな「動画至上主義」が「学生」の自分を社会から置いてけぼりにしてしまったからだ。
Youtuberが台頭し始めた頃、俺は丁度高校生になりたてだった。
もちろんHikakinもそうだが、はじめとかマホトとか様々なYoutuberがいて、俺はそれにどっぷりのめり込んでいった。
動画の時間は短いようで、長い。平均10分の彼らの動画を夜に30本見るためには300分、5時間かかる。
実際はもっと見ていた。大体の人気のYoutuberをフォローしていた。
俺の人生が、俺の昼の時間までもが、Youtuberに浸食されている危機感に、俺は気付いていなかった。
昼休みに動画を見ていた。気付けば、生身の友達の横で、まだ見ぬYoutuberを捜索していた。
元々高校に入る前からネットにはまり気味だった俺にも、高校のネット仲間、別にネットについて詳しくはなくても他の繋がりで仲の良い友達がわりといた。
部活に入っていなかった俺にだって、クラスで友達を作ることは簡単だった。
放課後に、部活に入っていない友達同士で色んなところに遊びに行ったり、食べに行ったりすることが、学校生活一番の楽しみだった。
楽しみだった。
いつからか、「あー、今日は帰るわ」と、無意識に口をついて出るようになるまでは。
俺が下校時まで、下を見ながらYoutuberの動画に笑い歩くようになるまでは。
今思えば、どう見ても面白くない内容の動画が、学校での他愛ない雑談よりも「面白い」と考えるくらいには。
その先は言わなくても分かるだろうが、一日中スマホを見続ける俺から友達は離れていった。
「それでもいい」と思っていた。ここまでくれば明確に「頭がおかしい」、と今の俺でも思う。
受験になって、時間の大切さを改めて知るまで、正確に言えば、スマホ中毒だと俺を病院に連れて行った母とそこの医者に言われるまで、それは治らなかった。
スマホ中毒自体はYoutubeに限ったことではなかったが、俺はそれによって初めて自分の異常さに気付いた。
大量にチャンネル登録していたそのアカウントは消した。今はサブ垢一つになった。
動画を見るのはすっかり一日一時間程度になった。俺にとってはかなりの進歩だと思う。
もう昔ハマっていたYoutuberを見ることもほとんどない。今でも面白いと思えるチャンネルしか見ない。
でも、フォローがやめられない。
いや、書いた通り日本のYoutuberはほとんどフォローしていない。
海外だ。
今の冷静な頭で、面白いと思える動画が、世界にはまだまだある。
あの頃に「友達との喋り方」みたいなもの、いやもっと根源的に言えば「友達の作り方」みたいなものをすっかり忘失してしまった一浪大学生の俺に、今も友達は一人もいない。
言い過ぎているわけではなく、文字通り友達が「一人もいない」。
自業自得だった。
Hikakinのあの一言が、恐らく安易な気持ちで返信したあのコメントが、そんな事態を不特定多数に遭わせようとしている。
もう自業自得ではない。
あのコメントを見たユーザーが、Hikakinの考えは意識が高いな、じゃあ自分も…となり、俺のような事態になってしまったら。
その責任は、言うまでもなくHikakinにある。言い逃れはできない。
そんな「影響力」が自分のコメントにあることに、彼は気づいていない。
正直Hikakinの活動については俺はかなり肯定的であったと思うが、今回の一言でさすがに幻滅した。
これを書くためにキーボードでタイプしているこの手もまだ怒りで震えている。
これまでHikakinが行ってきた人道的な活動や好意的な交流については変わらず称賛したい。それは誰も文句が言えないことだと思う。
しかし、Hikakinよ。お前の影響力がどれだけか、まだ分かっていないのか。
そもそも小学生の夢がYoutuberって時点でヤバいのは分かる、だがそれは「個人」の影響ではない。
ただ、お前の「一言」には確実に大きな、莫大な力があるんだよ。
お前の普通を語るなよ。
『人それぞれいろんな考えやお金の使い方、自分への投資、あると思うけど』と言うなら、お前の普通を社会の普通と思うなよ。
『僕は~と考えてます!』という予防線は「普通」という単語を使った時点で矛盾してるんだよ。
お前は才能があったから、「コミュニティ」から逸脱しても、ネットで囲われることができたんだ。
大多数の人間には、「独り」から広げられる人脈はごく限られている。俺に限っては無かったんだけどな。
友達がいなくなる。
「それでもいい、『普通から逸脱する』ことが成功につながると、Hikakinも言ってた」
俺はそんなことを言い始める学生が一人でも現れたら、発狂しそうなくらい悔しくなると思う。
ゾーニング論争はエロ嫌いvs.エロ好きの戦いではないし、さらに言うならオタク嫌いvs.オタクの戦いでもない。少なくとも私にとっては。
エロ絵そのものはいいんですけど、エロ絵を日常に持ちこむ人、それを当り前だと思っている人の感性が怖いですよね。たとえば猫虐待してる絵が表紙の本が本屋にずらっと並んでたらどうですか。ツイッターで「猫いじめさいこー」とか盛り上がってる人たちがいたらどうですか。猫の飼い主、怖くならない?
以下、個人的な話なんですが参考までに読んでみてください。
私はかつて小学生だったとき、ネットを彷徨い偶然エロテキストサイトをみつけてしまい、最初はあまりの衝撃に速攻ブラウザを閉じたけど徐々に好奇心が湧いてきて一通り読み漁ったという過去があります。
ここで良かったのは私が元々本好きでフィクションに慣れていたので、『これは架空の物語であり特定の欲望を満たすための都合のいい展開である』ということを認識できたことと、文字媒体なのでどぎつい描写もモヤモヤ~とした映像しか頭に浮かばなかったこと。
小学生が明らかに18禁の小説を読むのはよろしくないことですが、ともかくそんな感じで私は『女性が性的に辱められる』『極端に男性に都合のいい設定』『とにかくエロだけを追求した話』『びっくりするほど下品であけすけな隠語』というものに嫌悪感はなかったのです。だってそれはそのサイトにいかなければ読めないものだったし、自分が読みたくないときは読まなければいいのだし。
それは刺激的で、斬新で、背徳的で、ジャンクフードのような中毒性がありました。普段は見ないけど、たまにひたすら頭の中の興奮ボタンを連打したくなったときに一気読みして、はー楽しかった、終わり、ってすっきりしてました。
しかし同時に、私はネットでしばしば予期せずでてくるエロ広告を嫌悪していました。私はあくまで刺激が欲しい時にエロを摂取したいのであって、いきなり飛びこんでくるエロはお呼びでないのです。むしろ「女を都合よく辱める創作を女に見せつけてもいいと思ってるんだ」と屈辱的な気持ちになりました。
おわかりになるでしょうか? 「私が見たい時だけでいい、あとはいらない」と言うとわがままのように思う方もいらっしゃるかもしれません。
これも本音なんですが、本質はもうちょっと深いところにあります。
エロテキストサイトとどこにでも湧くエロ広告の違いは、受け取り手の能動性の差です。
エロテキストサイトを見る場合、私は「荒唐無稽で現実離れしてる刺激的なエロい文が読みたい」と意識してから、サイトを開きます。私がそう思って行動しない限りサイトは開かれません。そして、サイトにはエロい話ばかりが集まっています。エロくない話の中に騙し打ちのようにエロい話があるわけではないので、そもそもこれはエロくてヤバい話を読みたい人向けのサイトだとわかります。つまり、「今から読む話では女性の人権が滅茶苦茶に蹂躙されてるけどみんなこれが架空だってわかった上のお遊びだから大丈夫」という安心感があります。
ところがエロ広告は、求めてもいないのに突然バン!と現れます。しかも絵なので防ぎようがありません。日常のなかに現れたドギツい描写にこちらは面くらい、そして、「こんなヤバいエロを日常のなかに放り込むなんて、この発信者はもしかしてヤバいエロと日常を別枠だと思ってないのでは?」という恐怖を味わいます。
まぁ、今思うとエロ広告はむしろ不意打ちをこそ狙ってるんでしょうね。エロのなかにあれば目立たないエロも、日常のなかにあれば目立ってありがたがられますからね。ジャンプで過激化するお色気系漫画とかもそうなんでしょう。エロ漫画としてはそこそこでも少年誌の枠内では超エロ、っていう。
でもね、人間、慣れるんですよ。
嫌がってる人はなかなか慣れませんが、好きな人や特に気にしてない人は普通に慣れます。ロリコン公言とかハイエースとかね、最初は「俺たち過激なこと言ってるぜ」っていう昂揚感、ヤベー奴スゲーみたいなとこから始まって、今ではすっかりネットミームでしょう。
小学生を恋愛対象に想定するタイトルとか、女の子がめちゃくちゃ露出してるとか、そういうのがありふれ過ぎて、日常に浸食している。意図せず目に入ってくる。そういう状況は怖いです。
ラノベは昔からエロ絵あったとかいう意見もわかりますが、さすがにここまで多くも露骨でもなかったですよ。ホライゾンの表紙はラノベの中でもわりと異色だったように思います。少なくともエロい絵として喜ばれるぐらいには。今、特にオタクの中で話題にならないじゃないですか、エロい絵の表紙。もう当たり前になっちゃったんですよ。
露出の多い女の子が恥ずかしそうにしてるとか、乳首が浮いてるとか、パンツ見えてるとかの絵、女の子を性奴隷に、だの、ロリがなんちゃら、だのいうタイトル、が『女性が性的に辱められる』『極端に男性に都合のいい設定』であり、『日常とは隔離された架空のおままごとである』という認識が薄れてきています。だって日常にあるんですもの。
大人になってから触れた人はまだいいですよ。それなりの分別はあるでしょうし、もし影響されて何かヤバいことしたとしても本人の責任です。それが大人ってものです。
でも子供のうちにあれが日常と地続きにある環境は確実に問題があります。ただでさえ子供のうちは架空と現実の境目が曖昧なんです。自分で言うのもなんですが私は特殊例で、ヤバいエロに触れるずっと前に親から子供の生まれ方や性的に気をつけなければいけないことを教わっていましたし、架空の物語との付き合い方をわかっていました。だから『女性の人権が滅茶苦茶に蹂躙されているエロ』という箱を脳内に作り、これは日常とは絶対に交わらないものとして区分けできたのです。
でも無視できない程度に日常にヤバいエロが浸食していくようになるにつれ苦痛を感じるようになりました。エロ広告ぐらいならまだ対処しようがありました。ネットを使って行くうちに、なんとなくエロ広告が出そうな場所を察知するようになり、それを避ける術を身に付けたので(もちろん取りこぼしはあります)。
でもアニメ、漫画、ラノベ、ツイッター、動画サイト、ありとあらゆるところに蔓延るヤバいエロ思想。オタクをやってると避けて通れない、どころか今やオタクじゃなくても目に飛び込んでくる数々の女体エロ絵。
かくして私は『女性の人権が滅茶苦茶に蹂躙されているエロ』を読めなくなりました。もはやそれは日常の地続きにあるからです。「お話の中ではとことんヤバいけど私は安全」とは思えないからです。
何故ヤバいものを日常に持ちこみたがる人がいるのか、私にはわかりません。まぁ彼ら怖くないんでしょうね。女体持ってないから。でも、自分達にとって『日常にあっても怖くないし楽しいもの』が他人にとって『日常にあったら怖いもの』だということはわかって欲しいです。
言われそうなので先に書いときますけど私は少女コミックとかもどうかと思ってます。今は知りませんが数年前に読んだときは「え~……?」と思いました。エロ描写自体はたいしてないですが、安易に性行為に突入する展開が多く、さすがに注意書きとかレーティングとかがいるのでは、と。あれは表紙は無難なのでその点はラノベエロ表紙よりはましですが。
BLの表紙も、扇情的すぎるのはキツいです。中身はエロくていいから表紙はやめてくれ。私はBLも嗜んでるんですがやっぱり日常に現れるエロは嫌です。エロ広告とかも最近はたまにBL系のやつをみかけることがあり、エロ広告の常として過激なとこを抜き出してくるので無理矢理描写とかが多いんですよね。日常に人権無視の思想を入れて来ないで欲しい。私は心構えをして、人権無視した話が読みたいと思って、自分で専門の場所にいったり専門の書籍を買い、そして初めて人権無視創作を楽しみたい。
要は「これは人権を無視している」という認識を確かに持った人々が愛好する人権無視創作じゃないと、「ひょっとしたら人権無視だと思わないでこの創作を楽しんでいるのでは?」という恐怖に苛まれるんです。被害妄想じゃないですよ、私結構な数の「ロリとつきあって何が悪い」って言ってる人見ましたからね……思い出すだけでキッツい。
だからゾーニング(○歳以下禁止、表紙にエロやら辱められてる人間やら未成年との恋愛を示唆する内容は出さない、コーナー作る)したいんですよ。日常とごっちゃになってるのほんと無理。殺人事件の本はあるじゃんとか言いますけど、本の表紙が首絞められてるとことか眼球に針刺されそうなとこのアップとかだったらぎょっとするでしょう?
「えぇ……(大丈夫かな)」
でしょうけど
とかになりかねないわけで、この人らが内心「もちろん冗談だけど」という気持ちだったとしても字面だけ見れば既に倫理は崩壊してるんですよ。正直眼球刺されそうな絵より可愛らしい絵柄の「ロリが俺のこと好き」みたいなタイトルの本の方が怖いです。これ(https://twitter.com/traductricemtl/status/1039259936453283841)の「今日から俺はロリのヒモ」ってやつ、さすがに萌え絵のエロ本かと思ったらMF文庫でヒィッってなりました。マジか……。
元ラノベ読みなので別にラノベみんなこうなわけじゃないのは知ってますが、各社サイト行くと恥ずかしそうな顔で露出したり胸と股強調された服の女の子の絵ほんと多いなぁと思いますしMF文庫特にヤバいな。
露出過多で恥ずかしがってる女の子可愛いって言うのぶっちゃけいじめっ子の感覚だし、纏足して足が小さくなったせいで転んでしまう女の子を可愛いって言ってるのと同じですよ。
LEDの影響についてのリンク - http://www.geocities.jp/mihoko3_me/led.html
「LED光による劣化はもちろんのこと、そのLEDの光を浴びて変質した雨がLED水となって、
植物、小動物を傷つけ、コンクリートや金属、硬い石までも浸食・劣化させていくという事実。」
何が目的なんだろう…
備忘録なろうカクヨムで一定以上の筆力があり転生要素がない、または薄い作品をあげる備忘録。
ttps://ncode.syosetu.com/n1784ee/
微転生要素。主人格は現地人。転生前人格の浸食はなく知識のみ。
人類、亜人で争っているが社会格差がなく対等という点は珍しい。
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●ラピスの心臓
ttp://ncode.syosetu.com/n4006r
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●家の納屋にダンジョンがある ―God in the abyss of despair―
ttps://ncode.syosetu.com/n7386ct/
ダンジョン攻略。「俺Tueee」を「俺の種族Tueee」に拡大した感じ。
しかし、落ちこぼれだろうと一般人からみたら薩摩武士が全員頭おかしいことに変わりないという感じ。
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ttps://ncode.syosetu.com/n9636x/
我が道行く系ヒロイン。後宮モノ。少女マンガにありがちな設定。
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ttps://ncode.syosetu.com/n9073ca/
濃い。胸焼けするほど設定が濃い。
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ttps://ncode.syosetu.com/n6221dl/
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●Tamer's Mythology
ttps://ncode.syosetu.com/n9218ci/
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ttps://ncode.syosetu.com/n2327cv/
傭兵は確かにクズだけど扱いがあんまりにも酷いから地位向上がんばる。(更新滞る)
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ttps://ncode.syosetu.com/n3216dg/
地下世界。ボーイミーツガール。地上を目指す。王道SF。(更新滞る)
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ttps://kakuyomu.jp/works/1177354054880238351
カクヨム不動の一位。最強系。有能だけどブラックな職場でがんばってる社畜。(更新滞る)
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●《死に狂い》の侍が勇者のパーティーをクビになったので魔王をサクッと倒して自由に生きようかと思います
ttps://kakuyomu.jp/works/1177354054885098239
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ttps://ncode.syosetu.com/n0260dj/
私は現役で東大に受かり、新ふりを経てとある学部に入って、そこで何年か研究してました。
私が所属してたラボ(だけならまだしも研究科も...)はFラン出身の人がいました。所謂ロンダ組ですね
つか内部生を探すのが大変なんじゃないか?ってくらいロンダがうじゃうじゃいました。
奴らときたら研究室でしょうもない議論をしてたり(耳障りだった...)、授業でも○○してたり.....
もうほんとに知性の欠片も感じませんでした。
しかもどうみても身分不相応な会社に行こうとしてたり、、、(勿論はじかれてました)
こんな環境が心底嫌になってしまって..衝動的に中退してしまいました。
その後さっさと某国立大学医学部医学科(学士編入)に入って現在に至ります。
現在ですが、やっぱ国立医学部だけあって周りの学生のレベルは東大学部生並であり、非常に居心地がよろしいです。
自分と同等かそれ以上の知性を持った人間が集まった集団に属するのがbestだとつくづく感じます(勿論息苦しく思うこともなくはありませんが)。
自分の人生に妥協はできる限りしないほうがいいです(当たり前のことですが....自戒を込めて)。最初は良くてもすぐに嫌になります。
こんなことすらわかってなかった(というより考えてすらいなかった)学部時代の自分をぶん殴ってやりたいです。
とはいっても東大大学院全体でFラン勢による侵略が進行しているわけではないです。(学部時代の友人談からすると)
ですので学科選びとラボ選びさえ慎重にやれば私みたいな思いをすることはないです。
あと行きたい研究科の院試で外部性がどれだけ浸食してきてるかはホームページとかで確認できるはずですので、院進する内部生の皆さんは必ず確認しましょう!
「縄文海進」という言葉がある。縄文時代末期の約6000年前、今の間氷期が始まる直前に地球上の氷河融解によって海面の高さが上がることによって、海面の高さが約100メートル高くなったことである。
この海水面の上昇によって、地球上の多くの低地が水没して人が住めなくなってしまったのだ。
日本列島において、この縄文海進の影響が深刻だったのが西日本である。
今の西日本の地図を眺めてみると、虫食いだらけの地形になっている。
伊勢湾や大阪湾、若狭湾など、近畿地方の大部分は海で浸食されている。
淀川や太田川の河道が異様に短いのも、元々陸地であった大阪湾や瀬戸内海を流れていた川が海に飲み込まれてしまったからだ。
現在の大阪湾や瀬戸内海の海底には、淀川や太田川の河道が残っているらしい。
今回の西日本豪雨にでも、被害に遭った地域は、瀬戸内海に面した下流部ではあっても、実質的には河川の「中流部」の場所なのだ。