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はてなキーワード: 包含とは

2013-10-26

http://anond.hatelabo.jp/20131026024434

中学生に要求しない」なら間違ったことを教えてもいい、という考え方はなんなの?

a/0=0(a>0)と小学生に教える、という話も聞いたことあるが、教育水準が低いからと言って嘘を教えていいという理屈マジで理解できない。

包含無視するなら、整数自然数実数に含まれるとか、そういうことについても嘘つくのか?

俺は別に数学者じゃないけど、線形代数とか微分幾何とか測度論的確率論とかは仕事普通に使うよ。

http://anond.hatelabo.jp/20131026012953

で、それを中学生に要求するの?

包含」という概念をどうしてそこまで軽視できるんだ?

集合論ベース現代数学全否定するつもりなの?

お前が数学者だとしたらまあ、その主張も認めよう。

で、お前はどこまで数学やったの?最低でも東大数学科修士くらいは出てるの?

http://anond.hatelabo.jp/20131026005716

どの角でもいいんだから混乱しないでしょ。

包含」という概念をどうしてそこまで軽視できるんだ?

集合論ベース現代数学全否定するつもりなの?

2013-10-24

http://anond.hatelabo.jp/20131024144808

まあ文系だよな…。それならまだわからんでもない。

しかし、そもそも、「上司は部下の能力を完全に包含する純粋な上位にいる」という状況で仕事したことがないのが理解しがたい原因かなと思った。

個々人が何かしら自分しか持ってないスキルや知識を持っているという状況しか経験がないんだよねえ。

例えば俺の能力を完全に包含する人間はそうそういないと思うし、そういう人がいる組織には俺レベルじゃ参加できないと思う。

そういう意味では、「完全に何も分かってない人間採用する」という状況を全く想定してないのが違いかも。

しかしなあ。そういう人って学校とかで何やってたんだろうか?

でもって普通そういう人はそもそも採用しなくないか

2013-10-23

釣りかもしれないけどと保険をかけるブーム到来

http://anond.hatelabo.jp/20131023004101

俺が書いた文章もそれに包含されてるけど、一個しか書いてないから同一人物じゃないよ。

2013-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20130617101923

割り算順序問題にも異を唱えるべきで、等分除包含除もクソってポジションに立ってるの?

等分除とか包含除は紛れもなくクソだけど、割り算順序問題ってなに?

http://anond.hatelabo.jp/20130617101923

http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/sansu/WebHelp/03/page3_03.html

左は,全体をいくつかに同じように分ける場合で,等分除といいます。等分除は,□×3=6の□にあてはまる数を求める計算になります。右は,全体をいくつかずつに同じように分ける場合で,包含除といいます包含除は,3×□=6の□にあてはまる数を求める計算になります。これらのわり算は,具体的な場面に合わせて,その違いをわからせるように指導することが大切です。

なんじゃこらああああああああああああああああああ。

日本語でok。誰かこれの意義を説明して。

http://anond.hatelabo.jp/20130617101923

等分除包含除って初めて聞いたな。意味が分からなすぎてググっちまった。

こんな無駄に複雑なだけの謎概念小学校教師のオナニーだろ。

掛け算順序問題で、順序に意味が無いって人は

割り算順序問題にも異を唱えるべきで、等分除包含除もクソってポジションに立ってるの?

長方形の公式縦×横、平行四辺形の底辺×高さ、正方形の一辺×一辺なんてクソ、とか思ってるの?

俺はそうだよ。

あ、一応きっかけになったtogetter晒しときます

http://togetter.com/li/519422

中学校理科教科書小数の割り算をという話 - Togetter

要は、これの中の話で、読んでた時にふと「あ、そういえば!これって」って思いだしたからとりあえず増田に投げてみた。

2012-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20120611112650

いや、その総論じゃなくて、超具体論な。

ホームレスが、刑務所での食事ほしさで犯罪を犯すって具体例は実例としてちゃんと把握されている。

そういう歪みも、ちゃんと認識しているか?という事であって、政府が何もしていないとは言っていないよ。最初から実効性がない。という話しかしていない。

刑務所の飯は、確実な実効性があって、ホームレス救済には実効性がない。だから精度が歪んで、上記のような事態が起きている。

 

そういう事と包含して、個別論ではなく、すべての個別論ありきの総論としてどうなのか?って聞いてみただけ。

ひとつひとつ実効性があっても、全部となると歪むということはあるからね。

 

で、国家ではなく、増田がその件に関して、具体的に何をしているのかも、できたら教えて。ボランティアとかの人?だとしたら、経験も含めて色々書くとみんな考えると思うよ。

2011-09-15

コンピュータ基礎理論ハンドブック2 形式的モデル意味論」の目次

第1章  有限オートマトン
	D.Perrin:橋口攻三郎
1. 序論
2. 有限オートマトン認識可能集合
3. 有理表現
4. Kleeneの定理
5. 星の高さ
6. 星自由集合
7. 特殊なオートマトン
8. 数の認識可能集合


第2章  文脈自由言語
	J.Berstel and L.Boasson:富田 悦次

1. 序論
2. 言語
	2.1 記法と例
	2.2 Hotz 群
	2.3 曖昧性と超越性
3. 反復
	3.1 反復補題
	3.2 交換補題
	3.3 退化
4. 非生成元の探求
	4.1 準備
	4.2 生成元
	4.3 非生成元と代入
	4.4 非生成元と決定性
	4.5 主錐の共通部分
5. 文脈自由群
	5.1 文脈自由群
	5.2 Cayleyグラフ
	5.3 終端


第3章  形式言語とべき級数
	A.Salomaa:河原 康雄

1. 序論
2. 準備
3. 書換え系と文法
4. Post正準系
5. Markov系
6. 並列書換え系
7. 射と言語
8. 有理べき級数
9. 代数的べき級数
10. べき級数の応用


第4章  無限の対象上のオートマトン
	W.Thomas:山崎 秀記

序論
Ⅰ部  無限語上のオートマトン
	記法
1. Buchiオートマトン
2. 合同関係と補集合演算
3. 列計算
4. 決定性とMcNaughtonの定理
5. 受理条件とBorelクラス
6. スター自由ω言語と時制論理
7. 文脈自由ω言語
Ⅱ部  無限木上のオートマトン
	記法
8. 木オートマトン
9. 空問題と正則木
10. 補集合演算ゲームの決定性
11. 木の単項理論と決定問題
12. Rabin認識可能な集合の分類
	12.1 制限された単項2階論理
	12.2 Rabin木オートマトンにおける制限
	12.3 不動点計算


第5章  グラフ書換え:代数的・論理アプローチ
	B.Courcelle:會澤 邦夫

1. 序論
2. 論理言語グラフの性質
	2.1 単純有向グラフの類S
	2.2 グラフの類D(A)
	2.3 グラフの性質
	2.4 1階のグラフの性質
	2.5 単項2階のグラフの性質
	2.6 2階のグラフの性質
	2.7 定理
3. グラフ演算グラフ表現
	3.1 源点付きグラフ
	3.2 源点付き超グラフ
	3.3 超グラフ上の演算
	3.4 超グラフの幅
	3.5 導来演算
	3.6 超辺置換
	3.7 圏における書換え規則
	3.8 超グラフ書換え規則
4. 超グラフの文脈自由集合
	4.1 超辺置換文法
	4.2 HR文法に伴う正規木文法
	4.3 超グラフの等式集合
	4.4 超グラフの文脈自由集合の性質
5. 超グラフの文脈自由集合の論理的性質
	5.1 述語の帰納的集合
	5.2 論理構造としての超グラフ
	5.3 有限超グラフの可認識集合
6. 禁止小グラフ定義される有限グラフの集合
	6.1 小グラフ包含
	6.2 木幅と木分解
	6.3 比較図
7. 計算量の問題
8. 無限グラフ
	8.1 無限グラフ表現
	8.2 無限グラフの単項性質
	8.3 超グラフにおける等式系
	8.4 関手の初期不動点
	8.5 超グラフにおける等式系の初期解
	8.6 等式的超グラフの単項性質


第6章  書換え系
	N.Dershowitz and J.-P.Jouannaud:稲垣 康善,直井 徹

1. 序論
2. 構文論
	2.1 項
	2.2 等式
	2.3 書換え規則
	2.4 決定手続き
	2.5 書換え系の拡張
3. 意味論
	3.1 代数
	3.2 始代数
	3.3 計算能代数
4. Church-Rosser性
	4.1 合流性
	4.2 調和性
5. 停止性
	5.1 簡約順序
	5.2 単純化順序
	5.3 経路順序
	5.4 書換え系の組合せ
6. 充足可能性
	6.1 構文論的単一化
	6.2 意味論的単一化
	6.3 ナローイング
7. 危険対
	7.1 項書換え
	7.2 直交書換え系
	7.3 類書換え
	7.4 順序付き書換え
	7.5 既約な書換え系
8. 完備化
	8.1 抽象完備化
	8.2 公平性
	8.3 完備化の拡張
	8.4 順序付き書換え
	8.5 機能定理証明
	8.6 1階述語論理定理証明
9. 書換え概念拡張
	9.1 順序ソート書換え
	9.2 条件付き書換え
	9.3 優先度付き書換え
	9.4 グラフ書換え


第7章  関数型プログラミングラムダ計算
	H.P.Barendregt:横内 寛文

1. 関数計算モデル
2. ラムダ計算
	2.1 変換
	2.2 計算可能関数表現
3. 意味論
	3.1 操作意味論:簡約と戦略
	3.2 表示的意味論ラムモデル
4. 言語拡張
	4.1 デルタ規則
	4.2 型
5. 組合せ子論理と実装手法
	5.1 組合せ子論理
	5.2 実装の問題


第8章  プログラミング言語における型理論
	J.C.Mitchell:林 晋

1. 序論
	1.1 概論
	1.2 純粋および応用ラムダ計算
2. 関数の型をもつ型付きラムダ計算
	2.1 型
	2.2 項
	2.3 証明系
	2.4 意味論健全性
	2.5 再帰関数論的モデル
	2.6 領域理論モデル
	2.7 カルテシアン閉圏
	2.8 Kripkeラムモデル
3. 論理的関係
	3.1 はじめに
	3.2 作用構造上の論理的関係
	3.3 論理的部分関数論理同値関係
	3.4 証明論的応用
	3.5 表現独立性
	3.6 論理的関係の変種
4. 多相型入門
	4.1 引数としての型
	4.2 可述的な多相的計算系
	4.3 非可述的な多相型
	4.4 データ抽象存在型
	4.5 型推論入門
	4.6 型変数をもつλ→の型推論
	4.7 多相的宣言の型推論
	4.8 他の型概念


第9章  帰納的な関数プログラム図式
	B.Courcelle:深澤 良彰

1. 序論
2. 準備としての例
3. 基本的な定義
	3.1 多ソート代数
	3.2 帰納的な関数プログラム図式
	3.3 同値な図式
4. 離散的解釈における操作意味論
	4.1 部分関数と平板な半順序
	4.2 離散的解釈
	4.3 書換えによる評価
	4.4 意味写像
	4.5 計算規則
5. 連続解釈における操作意味論
	5.1 連続代数としての解釈
	5.2 有限の極大要素と停止した計算
6. 解釈クラス
	6.1 汎用の解釈
	6.2 代表解釈
	6.3 解釈方程式クラス
	6.4 解釈代数クラス
7. 最小不動点意味論
	7.1 最小で唯一の解を得る不動点理論
	7.2 Scottの帰納原理
	7.3 Kleeneの列と打切り帰納法
8. プログラム図式の変換
	8.1 プログラム図式における同値性の推論
	8.2 畳込み,展開,書換え
	8.3 制限された畳込み展開
9. 研究歴史,他の形式のプログラム図式,文献ガイド
	9.1 流れ図
	9.2 固定された条件をもつ一様な帰納的関数プログラム図式
	9.3 多様な帰納的関数プログラム図式
	9.4 代数理論
	9.5 プログラムの生成と検証に対する応用


第10論理プログラミング
	K.R.Apt:筧 捷彦

1. 序論
	1.1 背景
	1.2 論文の構成
2. 構文と証明論
	2.1 1階言語
	2.2 論理プログラム
	2.3 代入
	2.4 単一化子
	2.5 計算過程―SLD溶融
	2.6 例
	2.7 SLD導出の特性
	2.8 反駁手続き―SLD木
3. 意味論
	3.1 1階論理意味論
	3.2 SLD溶融の安全性
	3.3 Herbrand模型
	3.4 直接帰結演算子
	3.5 演算子とその不動点
	3.6 最小Herbrand模型
	3.7 SLD溶融の完全性
	3.8 正解代入
	3.9 SLD溶融の強安全性
	3.10 手続き的解釈と宣言的解釈
4. 計算力
	4.1 計算力と定義力
	4.2 ULの枚挙可能性
	4.3 帰納的関数
	4.4 帰納的関数計算力
	4.5 TFの閉包順序数
5. 否定情報
	5.1 非単調推論
	5.2 閉世界仮説
	5.3 失敗即否定規則
	5.4 有限的失敗の特徴付け
	5.5 プログラムの完備化
	5.6 完備化の模型
	5.7 失敗即否定規則の安全性
	5.8 失敗即否定規則の完全性
	5.9 等号公理と恒等
	5.10 まとめ
6. 一般目標
	6.1 SLDNF-溶融
	6.2 SLDNF-導出の安全性
	6.3 はまり
	6.4 SLDNF-溶融の限定的な完全性
	6.5 許容性
7. 層状プログラム
	7.1 準備
	7.2 層別
	7.3 非単調演算子とその不動点
	7.4 層状プログラム意味論
	7.5 完全模型意味論
8. 関連事項
	8.1 一般プログラム
	8.2 他の方法
	8.3 演繹データベース
	8.4 PROLOG
	8.5 論理プログラミング関数プログラミング統合
	8.6 人工知能への応用


第11章  表示的意味論
	P.D.Mosses:山田 眞市

1. 序論
2. 構文論
	2.1 具象構文論
	2.2 抽象構文
	2.3 文脈依存構文
3. 意味論
	3.1 表示的意味論
	3.2 意味関数
	3.3 記法の慣例
4. 領域
	4.1 領域の構造
	4.2 領域の記法
	4.3 記法上の約束事
5. 意味記述法
	5.1 リテラル
	5.2 式
	5.3 定数宣言
	5.4 関数抽象
	5.5 変数宣言
	5.6 文
	5.7 手続抽象
	5.8 プログラム
	5.9 非決定性
	5.10 並行性
6. 文献ノート
	6.1 発展
	6.2 解説
	6.3 変形


第12意味領域
	C.A.Gunter and D.S.Scott:山田 眞市

1. 序論
2. 関数帰納定義
	2.1 cpoと不動点定理
	2.2 不動点定理の応用
	2.3 一様性
3. エフェクティブに表現した領域
	3.1 正規部分posetと射影
	3.2 エフェクティブに表現した領域
4. 作用素関数
	4.1 積
	4.2 Churchのラム記法
	4.3 破砕積
	4.4 和と引上げ
	4.5 同形と閉包性
5. べき領域
	5.1 直観的説明
	5.2 形式的定義
	5.3 普遍性と閉包性
6. 双有限領域
	6.1 Poltkin順序
	6.2 閉包性
7. 領域の帰納定義
	7.1 閉包を使う領域方程式の解法
	7.2 無型ラム記法モデル
	7.3 射影を使う領域方程式の解法
	7.4 双有限領域上の作用素表現


第13章  代数仕様
	M.Wirsing:稲垣 康善,坂部 俊樹

1. 序論
2. 抽象データ型
	2.1 シグニチャと項
	2.2 代数計算構造
	2.3 抽象データ型
	2.4 抽象データ型の計算可能性
3. 代数仕様
	3.1 論理式と理論
	3.2 代数仕様とその意味論
	3.3 他の意味論的理解
4. 単純仕様
	4.1 束と存在定理
	4.2 単純仕様表現能力
5. 隠蔽関数と構成子をもつ仕様
	5.1 構文と意味論
	5.2 束と存在定理
	5.3 隠蔽記号と構成子をもつ仕様表現能力
	5.4 階層仕様
6. 構造仕様
	6.1 構造仕様意味論
	6.2 隠蔽関数のない構造仕様
	6.3 構成演算
	6.4 拡張
	6.5 観測的抽象化
	6.6 構造仕様代数
7. パラメータ仕様
	7.1 型付きラムダ計算によるアプローチ
	7.2 プッシュアウトアプローチ
8. 実現
	8.1 詳細化による実現
	8.2 他の実現概念
	8.3 パラメータ化された構成子実現と抽象化子実現
	8.4 実行可能仕様
9. 仕様記述言語
	9.1 CLEAR
	9.2 OBJ2
	9.3 ASL
	9.4 Larch
	9.5 その他の仕様記述言語


第14章  プログラム論理
	D.Kozen and J.Tiuryn:西村 泰一,近藤 通朗

1. 序論
	1.1 状態,入出力関係,軌跡
	1.2 外的論理,内的論理
	1.3 歴史ノート
2. 命題動的論理
	2.1 基本的定義
	2.2 PDLに対する演繹体系
	2.3 基本的性質
	2.4 有限モデル特性
	2.5 演繹的完全性
	2.6 PDLの充足可能性問題の計算量
	2.7 PDLの変形種
3. 1階の動的論理
	3.1 構文論
	3.2 意味論
	3.3 計算量
	3.4 演繹体系
	3.5 表現力
	3.6 操作的vs.公理意味論
	3.7 他のプログラミング言語
4. 他のアプローチ
	4.1 超準動的論理
	4.2 アルゴリズム論理
	4.3 有効的定義論理
	4.4 時制論理


第15章  プログラム証明のための手法論理
	P.Cousot:細野 千春,富田 康治

1. 序論
	1.1 Hoareの萌芽的な論文の解説
	1.2 C.A.R.HoareによるHoare論理のその後の研究
	1.3 プログラムに関する推論を行うための手法に関するC.A.R.Hoareによるその後の研究
	1.4 Hoare論理概観
	1.5 要約
	1.6 この概観を読むためのヒント
2. 論理的,集合論的,順序論的記法
3. プログラミング言語の構文論と意味論
	3.1 構文論
	3.2 操作意味論
	3.3 関係的意味論
4. 命令の部分正当性
5. Floyd-Naurの部分正当性証明手法とその同値な変形
	5.1 Floyd-Naurの手法による部分正当性証明の例
	5.2 段階的なFloyd-Naurの部分正当性証明手法
	5.3 合成的なFloyd-Naurの部分正当性証明手法
	5.4 Floyd-Naurの部分正当性の段階的な証明と合成的な証明同値性
	5.5 Floyd-Naurの部分正当性証明手法の変形
6. ライブネス証明手法
	6.1 実行トレース
	6.2 全正当性
	6.3 整礎関係,整列集合,順序数
	6.4 Floydの整礎集合法による停止性の証明
	6.5 ライブネス
	6.6 Floydの全正当性証明手法からライブネスへの一般化
	6.7 Burstallの全正当性証明手法とその一般化
7. Hoare論理
	7.1 意味論的な観点から見たHoare論理
	7.2 構文論的な観点から見たHoare論理
	7.3 Hoare論理意味論
	7.4 構文論と意味論の間の関係:Hoare論理健全性と完全性の問題
8. Hoare論理の補足
	8.1 データ構造
	8.2 手続き
	8.3 未定義
	8.4 別名と副作用
	8.5 ブロック構造局所変数
	8.6 goto文
	8.7 (副作用のある)関数と式
	8.8 コルーチン
	8.9 並行プログラム
	8.10正当性
	8.11 プログラム検証の例
	8.12 プログラムに対して1階論理拡張した他の論理


第16章  様相論理時間論理
	E.A.Emerson:志村 立矢

1. 序論
2. 時間論理の分類
	2.1 命題論理 対 1階述語論理
	2.2 大域的と合成的
	2.3 分岐的 対 線形
	2.4 時点と時区間
	2.5 離散 対 連続
	2.6 過去時制 対 未来時制
3. 線形時間論理技術的基礎
	3.1 タイムライン
	3.2 命題線形時間論理
	3.3 1階の線形時間論理
4. 分岐的時間論理技術的基礎
	4.1 樹状構造
	4.2 命題分岐的時間論理
	4.3 1階の分岐的時間論理
5. 並行計算:その基礎
	5.1 非決定性と公平性による並列性のモデル化
	5.2 並列計算抽象モデル
	5.3 並列計算の具体的なモデル
	5.4 並列計算の枠組みと時間論理の結び付き
6. 理論見地から時間論理
	6.1 表現可能性
	6.2 命題時間論理の決定手続き
	6.3 演繹体系
	6.4 モデル性の判定
	6.5 無限の対象の上のオートマトン
7. 時間論理プログラム検証への応用
	7.1 並行プログラム正当性に関する性質
	7.2 並行プログラム検証証明論的方法
	7.3 時間論理による仕様からの並行プログラム機械合成
	7.4 有限状態並行システム自動検証
8. 計算機科学における他の様相論理時間論理
	8.1 古典様相論理
	8.2 命題動的論理
	8.3 確率論理
	8.4 不動点論理
	8.5 知識


第17章  関係データベース理論の構成要素
	P.C.Kanellakis:鈴木 晋

1. 序論
	1.1 動機と歴史
	1.2 内容についての案内
2. 関係データモデル
	2.1 関係代数と関係従属性
	2.2 なぜ関係代数か
	2.3 なぜ関係従属性か
	2.4 超グラフデータベーススキーマの構文について
	2.5 論理データベース意味について
3. 従属性データベーススキーマ設計
	3.1 従属性の分類
	3.2 データベーススキーマ設計
4. 問合わせデータベース論理プログラム
	4.1 問合わせの分類
	4.2 データベース論理プログラム
	4.3 問合わせ言語と複合オブジェクトデータモデル
5. 議論:関係データベース理論のその他の話題
	5.1 不完全情報の問題
	5.2 データベース更新の問題
6. 結論


第18章  分散計算モデル手法
	L.Lamport and N.Lynch:山下 雅史

1. 分散計算とは何か
2. 分散システムモデル
	2.1 メッセージ伝達モデル
	2.2 それ以外のモデル
	2.3 基礎的概念
3. 分散アルゴリズムの理解
	3.1 挙動の集合としてのシステム
	3.2 安全性と活性
	3.3 システム記述
	3.4 主張に基づく理解
	3.5 アルゴリズムの導出
	3.6 仕様記述
4. 典型的な分散アルゴリズム
	4.1 共有変数アルゴリズム
	4.2 分散合意
	4.3 ネットワークアルゴリズム
	4.4 データベースにおける並行性制御


第19章  並行プロセス操作的および代数意味論
	R.Milner:稲垣 康善,結縁 祥治

1. 序論
2. 基本言語
	2.1 構文および記法
	2.2 操作意味論
	2.3 導出木と遷移グラフ
	2.4 ソート
	2.5 フローグラフ
	2.6 拡張言語
	2.7 その他の動作式の構成
3. プロセスの強合同関係
	3.1 議論
	3.2 強双模倣関係
	3.3 等式による強合同関係の性質
	3.4 強合同関係における置換え可能性
	3.5 強等価関係上での不動点の唯一性
4. プロセスの観測合同関係
	4.1 観測等価性
	4.2 双模倣関係
	4.3 観測合同関係
	4.4 プロセス等価性上での不動点の唯一性
	4.5 等式規則の完全性
	4.6 プロセス等価性に対するその他の概念
5. 双模倣等価関係の解析
	5.1 等価性の階層構造
	5.2 階層構造論理的特性化
6. 合流性をもつプロセス
	6.1 決定性
	6.2 合流性
	6.3 合流性を保存する構成子
7. 関連する重要な文献

2011-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20110428185447

理性もまた自然の営為に包含されるものであり、弱肉強食の理を超越するものではない。

人類もまた自然に生きる生物であり、どれだけの努力を積み重ねようと弱肉強食のそれを免れることはできない。

2011-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20110216165623

今回は日記の反応を見て思い浮かんだことを述べていきます

(そもそも私は「鹿島茂(2003)『勝つための論文の書き方』(文藝春秋)」を踏まえてこの日記を描いています。)

まず、先日の日記(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」に対して

意図に反して論文に対する、あり方や手法という点で反響してしまった

というのが全体的に見て思ったことです

論文のあり方については多様でいいと思うので、ここでは問題としません。

前回の日記も「テーマの意義」についてでしたので、テーマを決めた時の「どこまで問題点着眼点を絞るのか」に対する考察しかありませんでした。(問題と目的(序文)、手法、結果考察(本文)、今後の課題、といった論文段取りの全ての「前提」としてテーマを取り巻く要素から研究意義」を考察しただけです。要するに自分テーマのみを考えるだけでは社会的な前提や研究意義にはならない可能性が高い、あえてテーマの外部にあるであろう要素から迫る方がテーマ本質は見やすい、ということでした。)

無論、このことは研究に対してのモチベーション維持に関係するだけではなく、実際に調査をする上での注意点や考察を書く上での前提になりえます

また、よくありがちな「結局何が言いたかったのかがわからなくなる」のを防ぐ役割があると思います。

論点がブレないための論文の前提としての考察に、引用が多すぎることは、深く考えるだけ無駄でしょう。

今回、論文を書く上で問題だと思ったのは「引用の多さが恥に思える」点です

 この考え方の背景には、論文を書く上での前提が「前人未踏であることによる自分らしさ」となっているということだと思います。

なるほど、たしか自分の考えを誰の考えも前提とせずに書けることは素晴らしいと思います。そんなことをしてのける天才になってみたいものです

しかし、私は賢い人が論文を書くのではなく、疑問に思った人が論文を書くべきだと思います。

それに、仮に体裁を気にして、できるかぎり自分で考えた結果を主張をしたものの、「それって〇〇といってること同じだよね、どう違うの?」なんて聞かれたら(○○について知っていても、知らなくても)終了してしまうようなシビア世界でもあります

未踏であることは前提ではありますが、自分らしくあることに前人がいてはいけないということはないと思います。

というのも、時代によって物事のあり方は変化していくので様々な観点での検証の余地がでてくるものだからです

例えば、「既存の手法を別の目的転用する」というブリコラージュという手法もあります。(横井軍平さん風に言うと枯れた技術の水平思考ですね。)

「こんな考え方が認知されているんだから最新の研究である、私のテーマでも適用してみます。」は研究の観点的に未踏なのです

ところで、内田樹自分らしさについてこんなことを言っています。

自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。ところが脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである

階層化する社会について (内田樹研究室)(http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php)

また、欲望とは他者の欲望の模倣であるとする「欲望の三角形」というルネ・ジラール理論もあります

つまり、「○○好きな自分」は別の「○○好きな誰か」たちを模倣し、複合した結果になります

模倣したことを恥ずかしく思うよりは、模倣することによって何か一つでも自分の観点に自分だけの結論が見いだせるならば、

それだけで素晴らしいことではないでしょうか。

そのプロセスを隠すかどうかは、正直馬鹿しい事のようにさえ思えます

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕を研究にして発表してよ!」http://masuda.livedoor.biz/archives/51603662.html

まとめサイト考察に関する批判をいだだきました

・読者にとっても作り手にとってもクソの役にも立たない研究ってくだらない

→あくまで、役に立つか、ではな真剣な問いがあるかで研究は考えるべきだと思います。好きだからでは駄目です。役に立つかどうかは考え方で決まります

・読者を楽しませようとする=読者にないもの提供するという一面は当たり前だけどラノベ萌えに限った話じゃなくすべて外部性

セカイ系というジャンルに言及出来ていない点で不完全でしたセカイ系というジャンル考察定義を踏まえるとラノベ萌え包含する範疇です

引用したかっただけ・文脈で引っ張らずに個別に切り貼りしてんじゃねー

→少しでも「女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置)」であることをまず認識して欲しかったという点で細かな引用しました引用があまりにも細部に及んだ場合拡大解釈に繋がりかねないことは度外視しています。web以外で探せるならば文脈で引用ができますね。その点で浅はかな引用した。ただし、書籍引用デリダの読解(「ハイデガーニーチェを読解したものの」デリダの読解)はフェミニズムという点でデリダの中で一貫していると本人が発言した書籍内にもありましたので問題ない部分です

モテない男は女性性の代償行為としてラノベを読む。代償行為はラノベに限った話ではないが、じゃあラノベを取り上げるのはなぜか。どう違うのか。どう意味が、時代性が。

マクロ社会を語りたいの? 現代オタク内面を切り分けたいの?

→まさに批判された指摘部分に焦点を当てて意義を捉え、調査すべきですね。つまりマクロ現代社会の延長としてのオタク内面を切り分けていくべきだと思います。

2011-02-01

大学院博士課程はどうなるべきなのか?

id:aionarapです自分ブログがなく,ブコメじゃ情報を書き足りないのでこの場をお借りしました

エントリを書くきっかけ

“徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm

はてなブックマーク - “徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm

この中教審答申に関して,ブコメでは否定的な意見が多数,というか肯定意見は皆無ですね.しかし,私個人はある程度この試みに賛成です.あ,先に書いときますが,完全肯定じゃないですけどね.修論は書いたほうがいいし,徒弟制の完全廃止もどうかとは思っています.

じゃぁ何が賛成なのよ,という話ですが,Qualifying Examの導入,及び広い範囲の教育に関してです.これは必須,と私は考えています.この辺りのお話に関するご意見を皆さんに聞いてみたいと思い,当エントリを書くことにしました

要約

今回の中教審答申は,博士の現状の問題を反映した意欲的な取り組みに感じる.丸呑みにするには良くない部分もあるが,期待しても良いのではないのか.

博士はなんなのか

さて,そもそもの出発点ですが,博士は「スペシャリスト」でありさえすれば良いのでしょうか?私は否と考えます博士こそ「ジェネラリスト」にもならねばならない.…と書くと誤解を招きますね.要は専門馬鹿なっちゃいかん,ということです

勿論,博士課程の人間自分の専門分野に関して,国際的な第一線に立てるような知識と経験が必須です一生懸命自分研究に取り組む必要がありますですが,それだけではダメで,最低限隣接領域(まぁ定義微妙ですが)に関して,可能であればもっと大きな枠組で知識を深めなきゃいけません.科学技術はどんどん煮詰まってきて,先に進むためには学際分野の融合による新しい概念の創出が必要です.それをイノベーションと呼ぶこともあるでしょう.それを生み出すためには,少なくとも2つの分野に関してよくものを知っていないといけません,そうですよね?

テクニシャンとして分野を極めるのもひとつの道かもしれませんが,博士に求められているのはそういうことではないと私は考えています.

国はどういうつもりで博士を育てているのか

加えて,博士が「スペシャリスト」のみを意識していると,博士課程の人材の活用先は研究者,それもかなり狭い分野に限定されます

ここで,大学院設置基準が定めている博士課程の役割を見てみましょう.昭和49年の時点では,

「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」

というものでした.それを,平成元年の時点で

「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行い,又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」

と,敢えて変更を行っています.差分は,

「又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力

が必要,と明文化したところ.その意図を,

社会の多様化,複雑化等に対応し,博士課程において,大学等の研究者のみならず,社会の多様な方面で活躍し得る高度の能力と豊かな学識を有する人材養成する必要から明確化」

した,と説明しています.

(以上,http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-3.pdfの2ページ目より引用.)

平成元年の時点で,大学院設置基準は博士課程学生に「社会の多様な方面で活躍しうる」人材たることを求めているのです

博士はどこで活躍できるのか / あるいはすべきなのか

「おいおい,博士研究者にならなくてどうするのよ…」という意見もあるでしょう,それは理解します.ですが,包含関係を取り違えてはいけません.研究者として生きて行けるのは,博士号を取得したうちの一部の人です研究者になるのは博士号取得者でしょう.です博士号取得者は全員研究者はなれません.国家として,限られた国庫の中から博士を全て取り込めるほどポストを恒久的につくるのなら別ですけどね….

それに,(ありえませんが)もしそうなったとしても,全員研究者になるのもどうかと思います.一人ひとりが研究テーマを持って,プロジェクトリーダー的な役割を果たしつつ,世界最先端を突っ走ってきた人間が,その経験と知見を他の分野に持っていくことは非常に意義があるでしょう.ある意味,一人でプロジェクトチームに求められる役割を全て果たす必要があるのですから,その能力は推して知るべしです.是非,社会のあちこちで活躍するべきです

非常にポピュラーなのは,専門を活かした職業でしょう.企業での研究開発を初めとした「明示的に博士を求めている」職業は多いです.…まぁ敢えて書く必要はないですね.

初等,中等教育の教師もいいでしょう.勿論高専も.起業もいいですね.

そして,本当はその他の「博士が求められていない」と考えられている職業にも行ったほうがいいと思うんですだって,ずっと知的体力を鍛えてきたわけですから,同年代博士号非保持者と比較してその辺りは大きくリードしているはずです

彼ら/彼女らが持っている問題発見能力は,必ずや企業にとって大きな助けになります

現状はどうなのか

前節の内容に関して,同意して頂けましたでしょうか?して頂けた方も,そうでない方もいらっしゃるでしょう.

でも,同意/非同意にかかわらず,ほとんどの人は「夢物語乙!www」という感想を抱くのではないでしょうか.いえ,私もそう思います.

だって現状が全く異なるのですから

例えば,id:scicom 氏の快著,「博士漂流時代「余った博士」はどうなるか?」(http://goo.gl/Pd0ls amazonへのリンク)には現状の博士号取得者,特にポストドクター(PD)の状況が整理されています.

簡潔に言えば,現状は散々たる物です企業博士号に魅力を感じていません.これは伝聞ですが,採用担当者は「博士は当たり外れが大きい」と感じているようです.ハズレを引くリスクを恐れて採用を控えるそうです

そもそも,皆さん,博士号をとっている人間が「最低限」「共通して」何を出来るか,分かりますか?

言い換えると,博士号が担保しているものは何か,知っていますか,ということです

公開されたばかりの中教審の資料から引用しましょう.

特に,博士課程では,①学生特筆すべき顕著な研究業績を求める大学院もあるなど,博士学位が如何なる能力保証するものであるかについての共通認識確立されていないこと,②博士課程(後期)の教育が,個々の担当教員がそれぞれの研究室等で行う研究活動を通じたものにとどまり,学位プログラムの整備という観点から不十分であること,③大学産業界等との間において,大学院養成する人材像と産業界等の評価や期待に関する認識の共有が十分でなく,修了者が産業界等の社会の様々な分野で活躍する多様なキャリアパスが十分に開かれているとは言えないこと,といった問題点が見られる

(http://goo.gl/Jq0LU, pdfファイル,5ページ目)

文科省は,博士号が担保するものに関する共通理解は無い,と述べています.また,教育の質もバラけていることを指摘しており,このことも共通理解の妨げになるかと思います.

個人的には,博士号は「専門知識」と「プロジェクト(研究)遂行能力」は担保していると思います.…が,サンプル数が少ないので断言はできません.

この「一般的な博士像の不存在」が,世間一般への博士の浸透を妨げていることは想像に難くありません.

現状は問題なのか

敢えて節を作って強調しますが,現状は問題です

当の本人たる博士号取得者は活躍の場が減る,すなわちたつきの道の選択肢が減ります

納税者の皆さんは,せっかくお金をつぎ込んで育てた人材が有効に活かされず,「税金無駄だ!」と感じるかもしれません.

後進の学生は,この惨状を見て博士に進まなくなります(というかそうなってます).

こうして,本丸たるアカデミック世界ごとジリジリと衰弱し,…あとは言わずもがな.

どうすればよいのか

勿論,「これさえやれば万事解決!」みたいな簡単な処方箋はないでしょう.でも,チャレンジは出来ます

私は,そのチャレンジの一環が今回の中教審答申だったのではないか,と考えています.(というか資料はそれを物語っています)

すなわち,博士の質を担保すれば良いのです

専門の知識だけではなく,基礎知識や計画力語学力倫理観などもちゃんと持っていることをQualifying Examで保証しましょう.

教育の質がばらけない様に,たくさんの先生教育しましょう.

どこに放り出しても生きて行けるほど強くするために,総合的な教育もちゃんとしましょう.

そういった取り組みが,今回の答申意図はないのでしょうか.

この新課程を出た博士がその有用性をアピール出来れば,在野の博士号取得者にもスポットが当たり始めるでしょう.

さて,ここで,「大学院に進んでまで人に教育を受けるとかwww自分で学べよそれぐらいwww」という気持ちになる人もいるかもしれません.

正直,私も「それぐらいじぶんでするわい」と思ってたりします.

でも,主眼はやっぱり「質の保証」なんだと思います.ちゃんと大学院は「最低限」「共通して」一定の能力を持った博士を輩出しますよ,という保証

さぁ,雇用者の皆さん,安心して雇用してください.

さぁ,経営者の皆さん,安心して共同事業を博士経営するベンチャーと行って下さい.

さぁ,保護者の皆さん,安心して博士教員を迎え入れてください.

そういう事を,皆が自信を持って主張できるように,ということでしょう.

ちょっとやりすぎじゃないのか?

ええ,上記の効果を狙ったとしても,逆効果になる部分もあるでしょう.

徒弟制を完全廃止すると,一本軸の通った研究ができなくなって,結果として「スペシャリスト」にもなれなくなります

(念の為に再度主張しますが,博士は「スペシャリスト」の能力を最低限備えてなければなりません,と考えています)

博士課程に進学希望学生修士論文書かないと修士/博士の間のフレキシビリティを損なうことになります

なので,細かい部分は考える必要があるでしょう.

でも,今回みたいに,現在抱えている問題に対してちゃんとコミットメントしたということで,私は文科省をちょっと見直しました

というかなんか雰囲気で「お役人は肝心なことに取り組まない」みたいな思い込みがあったのですが,やっぱりそんなこともないよなぁ,と思いました

なんせ,前述の「博士漂流時代」を読んで気になったことを調べ始めたら,殆ど中教審の資料にまとめられていたのですから

さて,長くなりましたが,これにて本エントリはお終いです.お付き合い下さり誠にありがとうございます

意見コメント,批判,大歓迎です.皆さんの意見を知りたいです

私のtwitterアカウントhttp://twitter.com/aion_a_rapですので,何か有りましたら.

2010-11-20

補足

http://anond.hatelabo.jp/20101118060341

みなさん分かってると思いますが上のは嘘ですよ。

割り算の記号

これは豆知識の部類ですが、割り算の記号は国によってばらばらです。「÷」「/」「:」がほとんどだと思います

ピーターフランクルが「:」を使ってたので、東欧のほうではこれなんでしょう。

左から割る記号

左から割る記号に「\」を使うのは数学で一度だけ出会ったことがあります群論で剰余類で類別するところです。

参考: http://www.econ.hit-u.ac.jp/~yamada/algebra_pdf/2_2_subgroup.pdf 2ページ目の記号のところにありますね。

普通はこの意味で「\」を使うことはありません。差集合の意味で使うのが普通です。

参考: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E9%9B%86%E5%90%88

等分除と包含

整数どうしの割り算には大きく2種類の意味があります。等分除と包含除です。

上に書いたように5人で分けると1人分はいくつでしょうといった等分除と、3個ずつ分けると何人に分けられるでしょうといった包含除です。

参考: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A4%E6%B3%95

普通に算数を学んだ人は、この2つの違いを意識することはないと思います

どちらも同じ割り算という計算をすれば答えが出ることをすぐに思いつけるレベルになっているでしょう。

即座に割り算だと分からないと、割り勘も出来ないし生活で困るはずです。

むしろ、この2つの違いを意識して式を立てるほうが異常だと思います

3×5=3+3+3+3+3=5+5+5

3×5 の定義は3を5回足し合わせること。すなわち 3+3+3+3+3 である。もちろんこれは正しいことです。

よって、3×5 は3個のりんごを5組集めてきたときの総数という意味解釈しなければならず、5個のりんごを3組としてはならない。これは完全に誤りです。

定義は掛け算の計算方法を定めているのであって、意味を定めているものではありません。

たとえば、掛け算には面積を計算するという重要意味もあります。縦3m横5mの長方形の面積は何平方mでしょう?

3+3+3+3+3=15

により15平方mと解いたならこれは自信をもって×にできます

3mを5回足すことに面積を求めるという意味はありえません。大体、左辺と右辺で次元が違っています

3×5を定義で置き換えることで完全に意味が変わってしまいました。これは定義意味を示してるわけではないということです。

割り算も同じです。等分除で定義した割り算も包含除で定義した割り算も計算の結果は同じです。意味が違うだけです。

意味が違うからと違う記法を導入してはいけません。数学意味を捨て去って計算抽象化する学問です。結果が同じならみんな割り算と呼んでやればいいのです。

意味の違いを捨て去ることで算数のレベルひとつ上がりました。掛けられる数は常に左で必ず個数だと決めて覚えるのはもちろんレベルダウンですよ。

おわり

掛け算は何を意味するのか?それは定義ではなくて掛け算の性質(=定理)から得るのが自然だ。

3×5は定義から「3個×5組」という意味にとれるし、交換法則定義から「3組×5個」という意味にもなる。

3m×5m」なら面積だし、「3m×5本」なら長さの合計でもいい。

大事なのは上のように式の意味をたくさん見つけてくる能力を強化することと、逆に意味から式を作る引き出しを充実させることだ。

みんなこのプロセスを辿ってきたから、等分除とか包含除とか意識せずに割り算できるし、掛け算の左と右を区別するという引き出しの容量の無駄遣いなんてしなくなったはずだ。

わざわざ理屈で考えて式をひねり出させるような問題ではない。そんなことができるのは算数が得意な利口なのだけだろ。

2010-08-23

http://anond.hatelabo.jp/20100823000404

前者は後者包含されているわけだが、前者のみの意味で使用しているかどうかといえばどうだろう。

そういう無神経でアホな増田であるという告白なのかもしれないが。

2010-08-17

けいおん二期はなぜ失敗したか

2009年に放送され、ヒットを記録した「けいおん!(一期)」はまだ記憶に新しいが、その続編である「けいおん!!(二期)」の人気にはいささか翳りが見えてきているようである。

まず、客観的数値として一番わかりやすいそれぞれの初動売上を比較してみよう。

一期1巻:40,452

二期1巻:33,078

数字としては約2割も売上が落ちている。

もちろんキャンペーンの差であるとか、様々な要因が考えられるが人気作の続編としてこの下落率は大失敗と言わざるを得ない。

ここで本題である、「なぜけいおん二期は失敗したか」について考えてみたい。

あまり長いことを書いても読んでもらえないと思うので真っ先に考えられる一番シンプルな理由だけを極々簡単に紹介してみたい。ずばり、二期は全体的にヌルいということである。

一期は言うまでもなく高校入学から軽音楽部入部、そして初めての楽器演奏といった主人公唯の成長譚としても観ることができた。そして1クールという短い回数の中で二年間の成長がうまくまとめられていた。

まじめに練習しているシーンがないと重箱の隅をつつく人もいたようだが、短い尺に納めるため、練習していることは前提としてそれ以外のより重要なシーンを描くことに重きを置いたと解釈するのが自然だと思う。

一方で二期目はどうか。そもそもの話として、二期は一期の成功を確認した上での企画であると思われる。二期を観ていると一期で評価された部分にスタッフが味を占め、そこをあざとく強調しているようにしかみえない。

もちろん一期の短い放送回数では描ききれなかった日常シーンを望む声はあるだろう。けれど、実際に放送された二期をみると制作側からのチャレンジ精神は見えてこず、安易な需要へのフィードバックだった。

つまり、二期は「空気系」および「日常系」といった単語で安全圏に引きこもり、惰性でなんの起伏もないシーンをだらだらと続けているだけである。

過去に大ヒットを記録したアニメは例外なく多くの論争を巻き起こした。某ロボットアニメを例にとるまでもなく、歴史に残るような作品はすべて多大なる長所短所包含し、ネット論壇において、放送当時はもとより未だに議論の対象となっている。

ここでけいおん二期に話が戻ると、この作品に至っては「短所」がほとんど存在しない代わりに「長所」も皆無である。一期の成功を前提に無難無難に作られた作品であるが故に評価すべき点がまったくと言っていいほど見あたらない。

ネットを見渡してもこの作品について精緻考察を繰り広げているブログ存在しないのではないか。あるのは、キャラに対する表面的な萌えの声や、“あるあるネタ”への共感のみである。

けいおん!」(一期)は確かにヒットした。時代をうまく汲み取っていたし、批評性があるように思われた。けれどそれに続く二期は、うまみを知って舞い上がった制作陣による、薄く引き延ばした劣化レプリカ、失敗した二次創作、もしくは傲慢な京アニから放たれる醜悪な排泄物にすぎない。

京都アニメーションはこれまで時代性をうまく作品に反映し、優れた技術と相まってその時々を代表する作品を生み出し続けてきた。そういったアグレッシブメンタリティこそが京アニの真価であり、圧倒的な人気を誇ってきたゆえんでもあろう。

その京アニけいおん二期という冒険心のない凡作を生み出してしまったという事実は大きい。

一般メディア中高生向けクラスタへの露出の多さから関連商品は売れ続けるだろうが、その求心力はどんどん衰えていくだろう。

確かに新しいことにチャレンジすることのリスクは大きい。それが京アニという巨大ブランドであればなおさらだ。しかし、当初のコンセプトを失い、目の前にぶら下がった利益だけをむさぼり続けた企業が衰退していくことは歴史証明している。

京アニには腹の周りについた醜い贅肉をそぎ落とし、いつまでもラディカルな制作集団でいてもらいたい。けいおんはその意味でとてもいいクスリになったはずだ。

2010-06-22

http://anond.hatelabo.jp/20100622205240

想い出というのは、今の彼女との思い出も含めた想い出なんだから、あえて不等号をつけるなら当然、想い出>彼女になる。

だけど、それって正確には、想い出⊃彼女じゃない?

包含関係があるんだから当たり前に成り立つ不等号ってこと。

それを持ってして、彼女と別れるというのはなんかおかしいと思う。

2010-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20100617073209

意味はものとものと間に成り立つ関係のことだから、要素は2個あればいい。どういうものが2個あればいいのかというと、包含図考えてみたときに、「A」と「Aを含むようなB」

「末期患者」に含まれてる「かっこよく死にたい人」にとっての自殺の是非 とかそんな感じ

Aを含むようなBをあらかじめ仮定しているっていうのがAが意味を持つための条件かな

こういう言葉論理集合論に持っていって延々考えた人はバートランド・ラッセルとか、悩みそのものは宗教聖典とか、キルケゴールの「死に至る病」とか

これはタイトルからしてそのまんまだけど、哲学者っていうか岩波文庫の青(岩波文庫哲学書は背表紙のラベルが青い)は大概そんなんだったな

とりあえずラッセル?既知だったら恐縮です。

ラッセルパラドックス

2010-04-13

アニソン

何か、アニソン好きがJ-POPは駄目だ、アニソンが素晴らしいんだって必死に賛辞してるのって、痛々しいよな。

J-POPって言葉を聞いた瞬間に思考停止して、メジャーな曲しか想像できなくなってしまってるというか。

アニメタイアップもしていない、メジャーでもないような曲まで全部含めて考えたときには、J-POPには本当に凄い多様性があって、事実上最近アニソンの傾向を完全に包含しているんだよな。その意味で、J-POPアニソン系の曲を含む概念なんだ。ただ、その中でアニメに関係している曲がアニソンとラベルを貼られるに過ぎない。

だから、J-POPは駄目でアニソンは素晴らしいという言い方は、少なくとも曲の内容レベルでいうなら矛盾していると言わざるを得ない。まあ、「アニメは素晴らしい存在だから、アニソンも素晴らしくなるんだ」だとか「声優が歌っているから素晴らしいんだ」的な尺度からは矛盾しなくなるのかもしれないが、それは既に曲の評価そのものじゃないよな。

結局、J-POPを否定することで偉ぶりたいだけなんだろうけど、そんなことをしても、自分の浅はかさを露呈しているだけなんだよな。

「今の流行の曲は合わない、アニソンの傾向の方が自分には合う」くらいに留めれば何の問題も起きないのにさ。

2009-12-07

セカンドレイプ犯罪ではない(よね?)

強姦犯罪です。3年以上20年以下の懲役らしいです。

強姦罪が成立するには、「女性性的自由を侵害する行為のうち、暴行脅迫を用いて被害者の抵抗を著しく困難な状態に追い込み、かつ姦淫(かんいん)を行うこと」が必要です。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E5%A7%A6%E7%BD%AA より引用

きちんと要件が決まっています。


一方、かんたんにセカンドレイプだと言う人もいます。

http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091205/1259974620

これを見て思ったことは、セカンドレイプ犯罪ではない、ということです。

ここで伸べられている「セカンドレイプのサンプル状態」を包含する条件が、(一番小さくても)大きすぎるだろうことが問題です。

ラッセルパラドックスにおいて、内包公理がその強すぎる集合の定義により、矛盾を持ってしまいました。

同様に、セカンドレイプ犯罪だとして、かつ、簡単にセカンドレイプだと言ってしまうと、矛盾をもってしまいそうです。


矛盾を認めない、かつ、簡単にセカンドレイプだと言っていいなら、セカンドレイプ犯罪じゃなのかなと思いました。

2009-12-02

よつばと!」と物語

ようやく9巻を読み終えたので、という訳でもないが、ふと思った「よつばと!」と物語性について少し書きたい。もう似たような議論をしている人もいるかも知れないが。

まず、「よつばと!」を物語性があるか?という視点で考えていきたい。

もちろん、ストーリー性は薄いよね、というのが大抵の人の回答だろうと思う。

確かに、時間軸的には進展しているが、エピソードの連続であり、ストーリー性は薄い。

ただし、この漫画は「(この作者の前作であるあずまんが大王のような)日常キャラ萌え四コマではない」事にも注目したい。平たく言うと、ページ数から考えて、「よつばと!」はオーソドックスギャグマンガモテモテ王国ジャガーイカ娘など)に近い構造をしている。つまり、ページ数が少なめで、非日常側にいる(ボケ役の)メインキャラクターの一人(この作品では、よつば)を中心に話が進むという構造である。

一つ思うのは、この漫画の非常に新しい点は、”ギャグマンガになっていない”事にあるのではないかということだ。

通常、ギャグマンガの場合、非日常側のボケ役が非日常的な行動を行い、ツッコミ役の常識人がツッコミを入れるという構造になっている。この「よつばと!」の場合は、基本的に、非日常側のボケ役を子供(よつば)が行っており、それに周りの大人達ツッコミを入れていく。

しかし、よつばは果たして、非日常側の人間なのだろうか?と考えた場合、(ちょっとおかしな所はあるけれど)子供普通こんなものであると言ってしまえる部分もあるのではないだろうか?よつばは十分に日常側の人間であると言うことができるのではないか。ただし、子供は基本的に非日常側の人間である、という意見も説得力もあるけれど。

議論が混乱してきたので、言いたいことをざっくり言ってしまうと、ポイントは以下の点だと思う。

子供(よつば)から見ると、日常が驚きに満ちた非日常に見える。

(ので、よつばの視点では、日常冒険(=物語)に満ちあふれている)

子供のいる日常は、子供という非日常包含しているが、「その非日常性は、大人自身も体験してきたことである(誰にでも子供時代がある訳だから)」。従って、漫画を読む視点として、複眼的視点が生まれる。具体的には、非日常的なよつばを見ることで和んでしまう大人としての視点、もう一つは、自分子供の頃の頃を思い出すノスタルジックな視点。


結局、「[誰にとっての]日常or非日常なのか」という視点の問題なのかも知れない。

例えば、銀英伝に出てくるヤンウェンリーが劇的な勝利を収めたとする。

ヤンウェンリー以外の作中人物はドラマチック性を感じるだろうが、ヤンウェンリー本人にしてみると、割と散文的な現実ではないだろうか。そして、非日常の中に日常を見る人間と、日常の中に非日常を見る人間という点で、ヤンウェンリーとよつばは、対照的であるし、その点が「よつばと!」の新しい点ではないかと思う。

そういう意味では、アニメ化が難しいと作者は考えているようだが、分からんでも無いなとも思う。

2009-07-23

包含関係

理系になれなかった人が文系になるように

女になれなかったヒトがオトコになるのに

文系とオトコがのさばってるのは不思議

2009-07-07

THE END OF EVANGELION」の感想集 2

http://anond.hatelabo.jp/20090707100038 の続き

 弐拾六話では全ての人とあっさり和解でき、すんなり受け入れられた。
しかし世の中そんなに甘くないというか、実はそれこそが自己中心的世界
と言える。もっとリアルに描いてみよう、というのが26話ではないかと。

 何故なら「本質的に解り合うことのできない他者が存在する」というこ
と、他者を認識するとはそもそもそうしたことである筈だったから。庵野
氏の構図で言う幻想世界の内部において、シンジはどうしてもそのことを
容認できず、他者を理解できないまま、自分を理解するよう他者に縋り続
けた。補完計画が完成し、群体から単体に還元され、全てを包含レイに
抱擁された時点で、彼はやっとそのことに気付いた。
 ラストアスカを殺そうとしたのは、アスカが正に他者であることを、
彼が遂に知ってしまったから。でも結局殺せないし、前のようにエヴァの
胎内に逃げることもできない。そこは既に第弐拾六話の月面と同様に、後
戻りの聞かない場所、補完が導いた現実世界。・・・

 なんと、エヴァと融合し全てのヒトを包含した神が、人一人殺せず、孤
独に耐えかねて泣いているんです。
 私はここに最高のユーモアカタルシスを感じました。こんなに見事な
ラストは、これまで観たことも読んだことも恐らく無かったです。(^-^)
宮村優子さんのラジオ発言とか最近目にするようになった彼女の雑誌のコメント
を見ると、宮村さんは今回の劇場版をお気に召さなかったのかなとも思います。
自分でも「なかなかのモノが出来た、俺の選択って凄いぜ。フフン」と庵野監督
が思ってたのに、いざ、脚本を渡したら宮村嬢からの冷たい反応。それにショッ
クを受けてああいったラストにしたのかな(^^;?
無責任な憶測ですけど
 あのラストシーンは,シンジが選んだこの世界が決して「気持ちのいい世
界」ではないことを辛辣に描いていました。しかし同時に,そこには絶望だけ
でなく,わずかな希望もあることをも示していたと思います。


 希望アスカの手,シンジの涙。 
                  そして,『会いたい』という気持ち。
 ラストシーン絶望的。シンジはほんの少しだけ変わった。もうひとり、ほ
んの少しだけ変わったひとがいるみたい。でも、その「ほんの少し」への一歩
のなんて遠いこと。2人は、まだ変わっていないみたいに見える。だけど、絶
望は希望の裏返し。これからどうするか、それは、私たちに委ねられたのかも
しれない。
  ひとつだけ考えられるのは、シンジ物理世界に戻ろうと決意したのをアスカ
  も知っていて、そんなシンジとだったら一緒にいても良いかな、って思ったの
  かも知れない。
  でも、砂浜で再び自分の首を絞めてる彼を観て「ああ…やっぱり何も変わって
  ないんだな…」と思っちゃったとか。
 寂しいことを言ってしまえば、アスカにとって、自分のために泣いてくれた人
を身近で感じたのは初めての体験だったのかもしれません。初めてで慣れてない
から、「気持ち悪い」のかも。
庵野監督は最後までアスカの扱いに困ってしまったようですね。その苦悩がラス
トシーンにも出てしまったのでしょうか。「おまえがいるから滅茶苦茶になっち
ゃったんだ~!」ってね。でもその存在を消せない(笑)
 嫌悪も一つのコミュニケーション。心の壁は現実そのもの。
 そして、今までと同じ、自我と、人を代表とする非我との戦いがつづく。
 何度もそれを確認しながら、幸せにも不幸にもなれるラストだったと思います。

 ラストシーンアスカ。第1話のレイと同じ場所に包帯を巻き、首を絞められな
がらもシンジの頬をなでる。
 これって、つまりアスカの中の“母性”を表してるのかな、と思いました。綾波
レイは「母」のメタファーそのものと言っていいでしょう。そして、シンジの側に
横たわっているアスカレイと同じ姿であることは、彼女もやはりシンジを優しく
包み込む“母性”を内に秘めていることを意味しているように思えます。その後の、
シンジの頬に触れる行為も。

 しかし、彼女最後の言葉は「気持ち悪い」。シンジを拒絶する言葉です。これ
は“14歳の女の子”として、「私はあんたの母親になる気なんて、今のところ、
さらさら無いわよ」と言ってるんじゃないでしょうか。「あんたが何を求めてるの
か分かんないけど、受け止めてあげる気なんてないわよ。余裕もないしね」と。ま
あ、あのシンジ-自分を傷つけるかもしれない他人を殺すこともできないで、ただ
しゃくりあげている-を受け止めることなど、14歳の少女に過ぎない、もちろん
自身それなりに問題を抱えているアスカに、できるわけないでしょう。たとえ“母
性”を持っているにしても。むしろ、一方的に求める方が酷です。(さらに、相変
わらず求めるだけっていうのも、また問題だ)。

 しかし、将来的には彼らがどう成長し、変化するかは分かりません。そういう意
味では、もう多くの方が感想に書いてますが、「これから」を感じさせてくれるラ
ストシーンではありました。もう語られることのない物語の続きの中で、彼らは彼
らなりに成長していくのでしょう。
不快感(=気持ち悪い)」というのは、赤ん坊が最初に感じる感覚だということを聞いた
記憶があります(←記憶あやふや)。そうでなくとも、「気持ちがよくない」という感
覚は、まぁ、「夢」だとか「望んだ世界」ではなく、「現実」を示唆しているのかな、
とも深読みしましたが・・・深読みしすぎかな?
 シンジアスカは、それこそお互い誰でもよかったんだと思います。憎む相手も
愛する相手も。でも、自分を互いに真正面からぶつけ合った過去が、二人には出来
てしまった。互いに、相手に対する憎しみも、相手が欲しいという気持ちも、相手
を拒絶する言葉も告げてしまうほど、互いの気持ちを相手にぶつけた。そして、そ
の憎しみも欲求も、おそらく今後の彼ら自身の心を強く拘束していくでしょう。
 ラストシーンで、くびを絞め、瞳を動かし、頬をなぜ、涙を流し、気持ち悪いと
つぶやいた二人は、それこそ、愛よりも深い、憎しみもかなわない、たとえ離れて
も、ひととき忘れても、もう互いの心の一部そのものにまで結びついたように見え
ました。

 One more final:   I need you.
 
 もう一つの終局もすべてのおしまいではありません。英語のタイトルは『私はあ
なたが必要である』でした。
 そして、皆に等しく、同じ戦いが、始まり、続きます。
 でも生きてさえいれば、幸せになるチャンスはどこにだってあります。だって生
きてるんですから。

 愛よりも深く。
 夏の映画は誰も他人を受けいれられなかった二人が、とにかくも深く結びついて、
そこから再び、同じ戦いが始まる、終局であっても、何も解決していない、ラスト
でした。
シンジ内面に問いかける声も、もはや静かなレイの後ろ姿ではなく、アスカの
赤裸々な罵倒へと変化しました。「お願いですから、もう電話してこないで下さ
い。」「よりを戻すつもりは更々ないの。」「その、やっぱり、友達以上に思え
ないの。」「ハッキリ云って迷惑なの。」「これ以上付きまとわないで下さい。」
これらのセリフ作品の展開からは伺うことができない以上、庵野監督自身の人
生から引用してきたものと解釈されます(もちろん脚色を加えているでしょうけ
れど)。つまり、劇場版におけるアスカは、これまで庵野監督を傷つけてきた
「5人の女性」のような「他者」を象徴する役割を与えられるようになったのだ
というのが僕の理解です。
 そうすれば、ラストシンジアスカの首を絞めかけたり、アスカがその後で
「気持ち悪い」と言ったりする寒々しい展開も、すんなりと納得できるのです。
現実の他者は、お互い決して期待通りの反応をしてくれない存在ですから。
 オタク依存を打破するために作ったアニメが、逆にオタク依存の代表になっ
 てしまった苦い皮肉。昨日某アニメショップで見かけた会話。

 「これ買えば」(とシンジ君が表紙のアニメディアニュータイプを指さす少女)
 「えーいゃぁー」(と汚いものでも見るかのように嫌悪する少女B)

 彼女らの心の中にはカヲル君しかいないらしい。作品全体のテーマを見ようとせ
 ず、自分のお気に入りのパーツを使って幻想エヴァを作り上げて固執する。虚
 構からも逃げ続けている。自分以外のエヴァはいらないのだ。そして、そのこと
 を指摘されると過剰に反応し激怒する。「ぱふ」の一部読者はひどいものだ。無
 論、綾波アスカの一部ファンにも言える。
 そういう意味で、庵野さんが「気持ち悪い」と言わざるを得なかったのは良く分
 かる。だから実写を入れてこれでもかこれでもかというぐらいに観客に語りかけ
 た。でもそれは届かない。最も病んでいる人間、庵野さんが最も一言言いたい人
 間は嫌悪する現実ファンタジーに変えて消し去ってしまうのだ。
シンジくんの首締めはちょっと??な気もしましたが
アスカシンジの頬を撫でて「気持ち悪い」は、
頬を撫でるシーン拒否、否定の感情からではなかったと思ったので
集合体としての生命の海から浮上して「こ」の世界の「ここ」にいる
「こ」の自分を認識し他の存在シンジ認識し
「気持ち悪い」ことも沢山あるけど「ここ」に自分と他人が存在
することを知覚認識して噛みしめていると感じました。

いやぁすっかりアスカが主役でしたね。
ここまでアスカ映画になってくれるとは
嬉しい誤算でしたってのはアスカ者の偏見でしょうが。

      とでも思わなきゃやってらんないよなぁ。
かくして、シンちゃんはアスカちゃんのドレイとなり、
一生、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
                                                       <終劇>
       自分は性的嫌悪感からくる言葉だと思ってるんですけどネ。
       DEATHの新作カットの「ミサトやバカシンジの使ったお
       湯なんて~」の頃には、もうシンジ君が自分の事を性的対象
       して見てる事に気づいていたのでは?このぐらいのお年頃の
       と女性ってそういうのたまらなく嫌だと思うのですがどうで
       しょう?
シンジアスカを殺そうとするが思い止まる。アスカに優しい言葉を期待する
"ファン=シンジ"だが"虚構=アスカ"は"気持ち悪い"と突き放す。

そういうことか?ヒゲメガネよ。
それと映画アスカシンジを否定したのは
(自分の勝手解釈ですが・・)
「シンジアスカの事を、好きで求めているのではないのを、
アスカは気付いていた。なので、コーヒーメーカーに激突させ、
最後に’気持ち悪い’とまで言った」
好きで求めていない、というのは、恋愛感情のみ、でなく、
シンジは弱い自分を何とか持ちこたえさせる拠り所に「強く
見えるアスカ」にすがっていたふうに見えたからです。
アスカにしてみればそんなおかんのような役、あまり嬉しく
ない気が・・・。
 また、最後の台詞「気持チワルイ・・・」ですが、ラストシーンでのアスカ
の様子を見てみると、腕と頭部と目に包帯およびガーゼが当てられており、
これは第壱話においてストレッチャーに乗せられてシンジ君の前に初登場
した綾波レイそっくりの状態で、加えてあの目線から察するに、アスカの
中には、彼女自身の魂や人格に加えて、レイの魂が入り込んでいるのだと
私は感じました。

 いわば、アスカとしてはトラウマを刺激するモノとして忌み嫌っていた
レイの魂が自分の内面において(シンジへの想い故に)融合しつつある
ことについて現在のところ「ケンカカレー」(歳バレ?)の状態にある、
ということで「気持チワルイ・・・」という言葉に繋がったのだと私は考えた
のですが、みなさんはどう思いますか。
あのラストシーンは実はハッピーエンドである。
あの砂浜のシーンは補完直後のシーンではない。
実はその前にシンジアスカを見つけ、傷の手当をし、ミサトの墓を作ると
いう一連のシーンがあったのである。
しかしアスカは何も話さない、何も反応しない病室アスカの状態に戻ってし
まっていた。(偽りの復活)
そんなアスカを不憫におもったシンジは思い余った挙げ句、彼女の首に手を
のばす。
しかしその時、今まで何も反応しなかったアスカの腕が動き、シンジの頬を
撫ぜる。
嬉しさのあまり、涙を落とすシンジ。
更にアスカは言う。
「(あんたバカー、何泣いているのよ)気持ち悪い(わねえ)」

そうあのシーンは「クララが歩いた」パターン感動的なラストシーンなの
である。
しかし観客の期待を裏切る事ばかりを要求された監督は素直に感動的なシー
ンを作る事ができずにあのような解りにくい形にしてしまったのである。
だが安心したまえ、ビデオ・LD収録時には完全版として失われたカット台詞が収録され、誰の目にもハッピーエンドである事が解るに違いない。
(笑)
シンジ監督アスカ・観客に置き換えると、あのラストシーンは
また違った見方が出来ますね。
現実から遊離してしまっている観客を不憫に思った監督真心アスカが無反応だったら悲惨ですね。
それより、もし「気持ちいい」と言われたらどーする(笑)
 シンジ・観客、 アスカ監督ではどうでしょうか?

 シンジ「わーん。こんなEVAはいらないよぉ~。
     謎もあまり解明されてないし~
     そこで気絶してないで、もう一回EVA作り直してよ~」
 アスカ「(まだやれっての?)気持ち悪い....」
1:呼吸困難になった為の気持ち悪い
  えー、シンちゃんに首をギュッとね!(爆)された惣流ちゃんですけど意識
  の無い状態で首を思いっきり絞められては血のめぐりも悪くなり気分が悪く
  なったという、低血圧で良く立ち眩みしてる女の子意見がありました(苦笑)
2:あのセリフみやむーちゃんのアドリブ説
  庵野監督に捧げるアドリブ説(黒い説ですわねぇ(苦笑))という人若干名
3:怪我のために気分が悪い説
  右手の謎の治療跡で判ると思いますが怪我してる場合気分が悪くなるもんです
  (経験者談)
4:2日目説
  ・・・・・・(^^;)・・・・・・
5:観劇してる人へのメッセージ説
  ・・・・・・
 「きもちわるい」。
 他人の体温が気持ち悪いことって、ないですか?
 でも、その嫌悪感を、人は「愛情」で中和させる。
 けれどそれは「無理をしている」のかもしれない。
 本当は、人なんて、生まれてこない方が良かったのかもしれない。

 だけれど、生きている。
 それでも、生きている。
 生きていなければならない。
 
 決して理解できない「他人」の隣で、それでも「一人ではなく」生きている。
 エヴァみたいな「黙示録もの」のラストって、和解・融合、善悪何れかによ
る統一、純粋な荒廃、・・・みたいな一元的な世界の出現で終わるのが相場じゃ
ないですか。これは魅力的だけど、弱点があります。つまり、解り難いんです。
 具体的にどんな世界になるのかが想像できない。私達の周りにあるのは、一
元的把握が通用しない、それこそ「他者」が存在する世界です。争いの無い平
和な世界、とあっさり書くことはできるけれども、そこがどんなところなのか、
人或いは人々が何を考えて生きるのか、よく考えると理解できない。
 放映版の受け入れ難さって、ラストのそういう典型的ユートピアが、観る側
の想像力を麻痺させたせいがあると思うんですよね。

 映画版は、そうした典型から脱したところが凄いと思います。シンジとゼー
レの意思に従って、一元的な新世界を一度は成就しておきながら、シンジの成
長というモチーフを重ねて「その先」を開いてしまった。この点に限れば、黙
示録を越えちゃってますよね。そうして出来上がった「他者の居る新世界」に
は、シンジがその成長の代償として手に入れた、純粋で人間的な憎悪や悩みや
悲しみがあり、観る側として非常に素直に感応できる。これがユーモアやカタ
ルシスでなくて何であろうかと。そしてまたそうした世界を、アスカの最後の
台詞一つで完成したところがまた見事なんですよね。
インパクトのある、出来るだけ短い、どうとでもとれる演出、ということで
ああなったんではないでしょうか。鏡のように、見たいものが見える、見た
くないものが見える、うがった人にはうがった見方が見えるラストシーンだ
と感じてます。
最後にアスカが包帯をしている意味は、
「アスカ自身が女になった」
「シンジにとってアスカが女になった」
という二つの意味を同時に持っていると思います。
「気持ちわる」という言葉には、リアリティを持たす効果と、
触れあいによって「産むことが可能な存在となった」=妊娠イメージを出す効果、
それに、存在が個に分かれていることの実感(喜びも悲しみも)が
表現されていたように捉えられました。
 最後のシーンについてはアダムとイブというよりアジア系神話 洪水で生き残った
兄妹の話(日本のイザナギイザナミの話でもこういう始まりのものもあります)
の方を連想しました。

 アスカの気持ち悪いのセリフですが考えによっては色々とれるセリフですね。
私はシンジと一線を引くセリフと取りました。
(ここから他人としてスタートとして2人の関係はどうなるかという・・・)
この最後はFANが自分たちで考える宿題だと思えました
最後のアスカも女っぷりがよかった!きっと、あれがアスカのやさしさじゃないの
かな?と思った。急にわかったようなアスカになったら余計かなしいもん。
とっても、ハッピーエンドだったと思います。映画みたあと結構すがすがしかった。

気持ち悪い,はよかった。絶望とそれでも幻想を構築しなくてはならないという
意志が感じられ・・・るか? 絶望だけか? 慰めてもらいたいのか?
立派に完結していたと私は感じましたし、救いもあったと思います。
ラストセリフは、生々しい接触も含めてアスカシンジを受け入れ始める、
という言葉ではないのか、と思うのですが。
少なくとも、突き放されて終わったとは感じませんでした。
私、あのシーンは本編に絡まないと思ってます。
庵野のファンに対する愚痴だと思ってます。
ファンによって傷つき首を絞められた「エヴァ」から、
おおよそ倒錯しているファンの一番多いアスカの声で、
ファンに対して文句を言ったんだと思います。 
創世記によればエデンの園では人も含めてすべての生き物は裸で(つまり自分自身
をすべて晒して)いても恥ずかしいとは考えなかった。ところがアダムエヴァが
禁断の知恵の木の実を食べた途端に裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、身体
を覆って隠した。このことが神の怒りに触れ、2人はエデンを追放された。
・・・ラストシーンの2人はやはり楽園を追われたアダムエヴァなのですね。
自分の殻(ATフィールド?)を壊すことができなかった(あるいは自分の殻に閉じ
こもって出ることができなかった)シンジアスカだけは結局補完されることなく、
荒廃した世界に取り残された・・。それでもアスカシンジを拒絶するかもしれな
い・・と。
この映画を、人間の内面の描写をメインとして考えると、まさしく、私の好きな
ジャンルに入るんですよね。いっかい、救っておいて、最後にもう一回、落とし
ちゃうっていう。(笑)でも、最後は、あれでよかったと思います。だって、簡
単にシンジが、他人を認め、世界も、そんなシンジを喜んで、迎え入れるで終わ
ってたら(テレビの終わり方かな?これは。)、面白さ半減だと思います。そこ
で、アスカに気持ち悪いといわれて、自分の選んだ世界の厳しさというものを示
して、終わった方が、なんか、心に重ーくのこるじゃないですか!(だから、
ONE MORE FINAL なんだとおもいます。)

  補完中にシンジアスカと、ものすごい勢いで傷つけあいます。
彼は最後には彼女の首に、手をかけるのです。
そこまで他人というのは自分にとって厄介なものなんです。
理解不能ですからね。

  それでも、シンジは「融合」ではなく「他者との並存」を選びました。

  「共生」だとか「相互理解」とか美辞麗句に彩られた根拠なんて、
これっぽっちも示されないのに。
根拠があるのだとしたら、寂しさゆえの「I need you」くらいなものです。
単体になってしまったら永遠に孤独ですからね。
(この辺、あまり自信無いな。二回目を見たほうがいいかな?)

  目の覚めた彼は、隣で寝ているアスカの首を、再び絞めにかかります。
そりゃ、あたりまえです。
自らの選択とはいえ、自分を苦しめる元凶が、
現実に厳然と、そこにいるわけですから。
ほっとくと、こっちが殺されるかもしれませんし。
「他人がいる」─────本当に深刻です。この問題は。

  なぜか生きていたアスカが、そんなシンジの頬に手をやって、
彼に「他者のいいところ」をちょっち認識させます。
苦しみとともに、ヨロコビもまた確実にあるのです。
シンジの手から、力が抜けて、その後のアスカの一言で
「終わらない夏の物語」の幕が引けます。
 アスカの「キモチワルイ」発言は、相当ショックだったのですが、
彼女らしい発言だなとも思います。少なくとも、病院のベッドで
息だけしてる状態で生きている彼女より、ずっといいです。
 「詩編 The End of Evangelion」では、アスカの言葉は、
「あんたなんかに殺されてやるもんですか」が入っていますが・・。
 現実は、そうそう、都合のいいようにはならないんだという事に
通じている気もします。
私が思ったのは、アスカはショックで植物人間状態がある程度つづいており、
(目がサカナだった)シンジはいっそ楽にしてあげようとしたと見えたのです
が。包帯をきれいに巻いてあるところを見るとシンジが悩むに十分な時間はあ
ったのでしょう。(だからエントリープラグから気が付いたらあの場面、てい
う訳ではない。)そしたらもう動かないはずのアスカの手が動いたので、嬉し
くて涙が出た。ついでに「気持ち悪い」という正常なアスカがはくセリフが出
て、アスカが完全復活したという、無条件ハッピーエンドだと迷いもなく思っ
たのですが。
あの最後のアスカ首しめられシ-ンですが、そのあと
のアスカセリフが最後の最後に観客を現実に引き戻すオチ
みたいにかんじました。首しめ、まえふり?みたいな(笑)

 TVシリーズを見る限り、アスカシンジに対して14歳の少女らしい「嫌いだ
けど好き」という心理を抱いているようです(まぁ25話で助けられなかったこと
がしばらくもめる原因にはなるでしょうが)。それゆえに、シンジ腑抜けさに我
慢がならないのでしょうか。ただ、その心理とは別にエヴァパイロットとしての
ライバル意識も強烈ですから、非常に言動もわかりづらくなるのでしょう。

 シンジの方は、ミサトさんレイアスカもいいという宙ぶらりん状態ですが、
考えてみれば男ならたいていは心理的二股、三股は当たり前です。しかし、この中
で本当に可能性があるのはアスカだけなのですから(ミサトは年上過ぎ、レイは・
・・実の所は母、ユイですから)、将来的になんとか努力するでしょう。そのため
に現世に戻ったのですから。

 で、最初のコミュニケーションが首締めと「気持ちわるい」。一種ダークな感じ
もしますが、「他人とのコミュニケーションが最初からうまくいってたまるか」と
いうことであれば、先がどうなるかは・・・
 しかし、あのラスト必然とはいえ悲しい物がありましたね。
アダムにとってイブとは所詮他人であり、殺意を抱く対象であ
り、自分を傷つける存在なわけですから。
しかし、やはり最後はきついです。安易な現実礼賛はもっと嫌ですけれども
あそこにはやはり意地の悪さは感ぜずにはいられません。
少数派なのかもしれませんが、肯定否定はともかく「私の趣味としては嫌だ」
というのだけは間違いないです。こんな人もいるということで、一応、存在
を認めていただけるとありがたいです。
やはり、あれは監督からのメッセージと取るべきではないかと。
月に斜線が入っているように、もうこの「エヴァ」は終ったんだ、
もう人の作品に自分の考えに目くじら立てて攻めるのはやめてくれ、
見る側と自分は「他人」なんだ、そこまで立ち入らないでくれ、攻めないでくれ、
こっちにしたら「気持ち悪い」んだ、
エヴァ庵野の首を絞めるのはもうやめてくれ・・・
そういう事だと私は感じました。いつまでも他人に依存されると気持ち悪いって
事だと・・・そういう意味の、監督の「エヴァは終ったんだ!」という宣言
ではないだろうか。
私はあのラストシーンは
「自分に棘があることも、相手が針を持つことも、
全てを承知した上で敢えて一歩前に進む事が出来るようになった
シンジ君」に成長した、と言う風に考えています。

「気持ち悪う。」の台詞に関しては、あそこから人類の新しい
時代が始まる的な雰囲気(オーケストラが聞こえてきそうな、
とでも申しましょうか。)の中で、劇の中の世界ではこれは
現実なんだ、と言う目的で入れたのではないでしょうか。
(日常性を出したと言った方がいいかもしれません。)
まあ、いわゆるハリウッド的な大円団では無いよ。ってとこですか。
私はいい出来だったと思ってます。
 アスカは「気持ち悪い」よりもその前に差し出した手の方が重要だと思います。
敗北の象徴である同じ右手だというのがヒントでしょう。
 シンジが心象世界ラストシーンアスカを求めて首を締める
シーンはレイプメタファーじゃないかという意見がありました。
確かにそう解釈するとあのラストも非常に理解しやすくなるんで
すよね。
そしてラスト台詞ですが、私はシンジだけでなく、世界の全て(自分も)
に対して感じたメッセージだと感じました。生きていくには気持ち悪い世
界だけど、やっぱり死ぬのは嫌だ、と。そもそもアスカシンジを好きだ
とは思ってなかったのでショックではありませんでしたが、手も触れず、
目も動かさなくてあの台詞だったら、やっぱつらかったかな(^^;)。ともかく、
我が儘を貫き通した監督に拍手!
やっぱシンジアスカの首を絞めたのは、ATフィールドの象徴で
しょうな。人は生まれながらにして、他人を拒絶すると


  

2009-06-01

http://anond.hatelabo.jp/20090601205514

一部であるからといって重要ということにはならんのだよ。

女性男性もおなじ「人間」なのに、どうして女性は筋力ないの?貧弱なの?なんて言うのは馬鹿だろ?


美容=健康という等式が常に成り立つとするなら(包含関係でもいい)、男性女性と同じぐらいに化粧やヘアスタイルに気をつけ体臭にも気を使わなければならない、となるはず。

実際はどうみても違うだろう。そういう男性が増えているとはいっても、さすがに女性を凌駕するほど気をつけている人は少ないし、

男の中での重要性は女性ほど高まるとは思えない。具体敵にというなら、女性雑誌男性雑誌と同程度店頭に並ぶとでも言おうか。

ありえるシナリオは、女性雑誌が衰退して男性雑誌と同程度しかない、ぐらいしか思いつかない。

話を戻すと、理由は美容と健康には大きな隔たりがあり、美容が継続するモチベーションに大きく関わっているからだろう。

女性は、美容から健康への経路でたどり着くが、男性にはその経路がないわけだ。美容で「釣る」ことも今のところ効果的ではない。健康はもっと遠いところにある。

もっとも、改善されるにこしたことはないし、アメリカだとそういう統計(みためが重要)があったと思う。

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