はてなキーワード: 包含とは
ピーナッツをほおばりながら、扇子を仰ぐ。
非常に暑い。。
気持ちのよい、というより、きもち、気持ちのよい昼下がりである。太陽はすでに存在を夏として同化し、俺の存在を見てくれといわんばかりにムキムキで俺らを悩ませる。
ムキムキの太陽はまるで歌の広場のロゴマークのような形であり、ソフトクリームをなめるそのしぐさに惹かれている((c)ビーズ)。
異様に時間が過ぎるのは遅い。まるで日本代表のパスサッカーのように、何も起こらない時間が続く。
たった今テレビのリモコンを押してみる。
とっても退屈だ。
澱粉のようにお湯で溶かしてドロドロになった暑い夏休みの暑い昼下がり、まったく進まない文章の展開と、まったくアイデアのわかない脳みそ。
それを俺は「夏休み」と名づけた。
「昼休み」でもいいけど、「夏の昼休み」は包含関係的には夏∋昼なので「夏休み」を採用したんだな。これが。
タバコに火をつけて一本の煙が舞い上がる。煙は天井まであがるとで折れて、右曲がりにひろがっていった。まあ、左にも曲がっていったんだけど、右曲がりの煙の方が多かったかもしれない。
煙はぐるぐると→→↓↓と結局部屋を対流しはじめた。
小学校の教科書の「対流」ページの動きだ。なんて想像通りなのだろう。まるで、日本代表のパスコースのように読め読めだ。
リモコンボタンを取り出して、適当に必殺技っぽく←→→→のボタンを押してみる。なんだかよくわからないチャンネルにつながった。今までみたことのないチャンネルだ。
違うよ。人間の認識や寿命に仮に制限がなかったとしても,無限回の行為が完了することはない。
var frames = new Array(Infinity); for(var i=0; i<frames.length; i++){ Achilleus.stepForward(); }//it is a metaphor, not executable in your computer
これが終了しないのは人間の肉体のせいじゃない。ラプラスの悪魔が宇宙の終わりまで実行しまくったとしても終わらない。物理じゃなく論理の問題。量として無限をとらえるとなんとなく納得してしまうけど,序数として無限を考えると、その定義に「終わりがないこと」が包含されてしまっていることに気づく。
分数同士の割り算が、式で何故掛け算になるのか これを小学生に一番わかりやすく説明する方法って何だろう。
遠山啓の書いた「数学入門」という、その手の疑問に懇切丁寧に答えてくれる名著がある。
以下、数学入門(上)の42ページあたりに書いてあることの引用。
3メートルのひもから1/2メートルつまり50センチメートルのヒモを切りとったら何本できるか、という問題を考えてみよう。
(ここに3メートルのヒモから50センチメートルのヒモを6本切り出す絵が挿入されている)
メートルをとって考えると3÷1/2だが、答えは明らかに6である。つまり
3÷1/2=6
割る前の3が割ったあとでは6にふえているが、このように割り算を3m÷1/2mという包含割りと考えれば、少しもふしぎではあるまい。
6メートルの針金から2/5メートルの針金を切りとると何本できるか、を考えてみよう。式で書くと6m÷2/5mであるが、メートルを省略すると
6÷2/5
になる。この計算は一度にはできないので二度にわけてみよう。
まず2メートルの針金を切りとってみよう。
これは6m÷2m=3で3本できる。
(ここに6メートルの針金から2メートルずつ針金を切りとる図が挿入されてる)
つぎにその2メートルを5等分すれば2/5メートルの針金ができるが、本数は5倍になるので
3×5=15
になる。最初から計算すると
6÷2×5=15
となる。すなわち分子の2で割って、分母の5をかけている。
これは÷2/5に限らず、どのような分数についても言えることだから、一般化すればつぎの規則が成り立つ。
「分数で割るには、分子で割って、分母をかける。」
だから÷2/5は×5/2と同じだということになる。だからつぎの規則ができる。
「分数で割るには、分子と分母を入れかえた分数をかければよい。」
…÷△/□= …×□/△
それだけにもったいない気がしてなりません。以下、順を追ってご説明します。
「思われてならない」「思う」のように主観的な記述に終始しており、事実に基づいた客観性を充分に有していません。すでにブックマークコメントでも指摘があるとおり、
と主張するのであれば、「増田内での何月何日のどの記事にこのような記述があるが……」と引用することで、記述された内容に基づいた、より客観的な記述が可能になります。逆にこれを怠ると、「この人は自分の主観――悪く言えば思い込み――でものを言っている」と看做され、あなたの主張の「通じやすさ」を著しく損なう恐れがあります(事実と意見の区別がついていないよりは、ずっとよいのですが)
この言説が、
「ニセ化学批判者は現代科学こそがすべてであると思っているが、現代科学は万能ではない」
という言説に酷似しているように思います。特に、ならばどのようなものが妥当であるのか、を具体的に示していないという点で。「数学的論理性のみが論理性ではない」という命題は、数学的論理性以外の論理性が一つでも例証されれば真となりますから、論証それ自体にかかるコストは大きくないはずです。それさえも行っていないことが、あなたの主張の根拠を弱めてしまっています。
立派な科学者先生がトンデモを堂々と主張できるんだから、トンデモを信じることと論理性になじみがあるかは、あまり関係がないんだろう。
記号論理学がお好きだそうですから、ここで一つ三段論法を使ってみましょう。先の引用を前提と結論に分けますと、
……あ、あれ? もう一回やってみますね。
うーん、やっぱり欠けているような気がします。そもそも前提が一つでは三段論法になりません。つまり、明示されなかった前提(アサンプション)があるわけですね。こういうことです。
さて、ではこのアサンプション、真と言えるでしょうか?
実は反証があります。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081127/p1
この記事曰く、
たぶん、科学者は科学者というぐらいなんだから、科学的思考を扱う能力は必須だろうと考える人が多いと思う。でも、現実はそうでもない*2。
研究にはある程度の決まりきった手順がある*3。それに従うと、科学的思考なんてのをあまり意識しないでまともな結果を出せたりする。
この「科学的思考」の中に論理性も包含されるとすれば、「立派な科学者は(全員)論理性になじみがある」というアサンプションは、かなり怪しくなります。平たく言うと、
「立派な科学者がトンデモを信じてるって、そりゃその科学者が論理性ないだけなんじゃないの?」
と指摘することができる、というわけです。
確かに、自分が論理に慣れていると過信するのは危険なことです。これは自分が文系であるか理系であるかオイラー系であるかなどという自己認識とは無関係です。であるからこそ、自らの主張の論理性を常に疑い、兜の緒を締めてゆくことが必要なのではないでしょうか。これは、自らが疑似科学的な誤謬に陥らないためでもあるはずです。
http://anond.hatelabo.jp/20081002225923
> そもそも無性卵を食べる卵とする
これは区別を必要としない、と言う意味のはずだよ。
私はずっと有精卵でも無精卵でも鶏の卵と言うはずだ、食べる卵ではあらゆる卵を包含してしまい区別が出来ない、と主張しているのだから。
言いたいことは分かる。
で、論理的な話にそれるけどw
これは逆じゃね?
という命題を否定するのであれば、女性に対して有効かつ男性に対して無効なスキルを挙げなければならない。
まぁ、これいっぱいあります。
「対女性スキル」を言い出した元増田だけれども。「非モテ」の人には色々言われると思うから増田のままで言わせてもらうよ。悪いね。
主題は「非モテ」ってなんなの? です。
うん、正直そう思うところはある。ただ、男性の前なら普通にできるのに、女性を前にすると同じことができなくなるって人はいると思うけど。
だから、本当の「非モテ」なんていないのよ。逆に本当の「非モテ」は対人スキル0で、他の人のことはどうでもいいから「非モテ」なんて考え自体が出てこないと思う。
でも自称「非モテ」さんって自分のことをそう言うでしょ。
オレなんてダメだ的な。そりゃ立ちすくんで何もしなければどんな結果も得られないって。
「モテ」たいなら努力しなきゃ。友人に小太りで顔も不細工なやつがいたけど、大学時代そいつは二股三股はあたりまえって生活してたよ。
なんでなのか疑問だったから色々聞いてみたけど、私の結論は「そこまでしてモテたくない」だったけどね。
価値観なんて人それぞれでしょ。自分の価値観にしたがって生きていて、それが「キモい」って言われちゃうのは悲しいことだけど、それが自分の価値観でそれにしたがって生きてるならどっかはあきらめなきゃ。その価値観にしたがって生きる事は他の人にとって「キモい」んだって。
「キモい」って言われたくないなら「キモくない」人の価値観にあわせなきゃ。
そりゃGacktみたいにガンオタなのに…って人はいるよ。でも彼はガンオタでも「ビジュアル系」の価値観で生きてるでしょ。
顔の造詣はともかく、体鍛えてる?歌のためにのどに気をつけたりしてる?そういう一般にアピールできる価値観も持って生きてるから、彼はガンオタでも受け入れられるんだって。顔じゃないの。
「キモい」って言われる価値観で生きているまま誰かに「モテ」たいってなら、どこかにいる青い鳥を探すしかないよね。でも青い鳥を探すのも努力が必要だよ。寄ってくるのを待つって?「非モテ」を自称して自分を卑下する人のどこに魅力がある?
『皆は「キモい」っていうけど、受け入れてくれる人がいるはず』って思うなら、「キモい」っていわれる事は受け入れなきゃいけないじゃん。
仕方ないよ、「キモい」んだからさ。
「キモい」とも言われたくない、でもそのままを受け入れて欲しいってどんなわがままよって話になるじゃん。
じゃぁ弱者はどうすればいいのか、って思うのはわかる。弱者は死ねというのかとね。
でもさ、この場合「弱者」って何よ?それは本当に自分ではどうにもならなくって誰かの助けが無ければどうにもならない「弱者」なの?
その疑問は初出だな。前の増田ははっきりと「普通見た目の良さや頭の良さや対人コミュニケーション能力の高さも含まれると思う」と書いている。人間の能力のほぼ全てなんてどこにも書いていない。「だから」でつなげる神経を疑う。
そんなのエントリ見てればわかると思うけど
エントリのどこにも書いていないよ。書かれている事と、妄想をはっきり分けたほうがいいぞ。ついでに言えば疑問に対する答えもNoだ。
この記事にはブクマを見る限りだいぶ懐疑論が集まってるみたいだね。残念ながらWebで資料を探しても見つけることができなかったので、憶測でしか語れないけれども、たぶん大丈夫だと思う。もっとも、「理論的には」の話であって「実用的に」どうかは知らないけどね。
まず、大矢氏はその道では有力な研究者で、名前も売れてます。俺のような門外漢でも知ってるぐらいだから。だから、胡散臭いものに手を出すという動機がまずないんですよ。
ただし学者というのは自分の仕事を宣伝してナンボという商売でもあるから、まだ残っている欠点を敢えて黙っているということはあるかもしれない。でも、少なくとも「CABは完璧な暗号である」とは言っていないはず。そういう意味で、嘘はついていないことは信用していいと思います。
次に、大矢氏の発言「鍵空間は無限大ですから、鍵を推定できる確率はゼロ」という発言は数学的に普通かつ真っ当なものであって、レトリックでないことを指摘しておく。
数学では、確率は長さとか面積とか体積とともに「測度」という概念に包含されるんだけれど、「確率0」というのは「『点』は『無』ではない」という話と本質的には同じものだ。例えば、中学校の時「点には大きさがない、長さも幅もない」「直線には幅がない」「平面には厚みがない」と習ったはずだけれど、つまりこれは「点の長さは0」「直線の面積は0」「平面の体積は0」って話なんだよね。点とか直線とか平面というのは「無」ではなくちゃんと存在するものなのに長さとか面積とか体積が0(こういうのは「零集合」なんて名前もついてる重要なものだ)という話、当初違和感をもたなかった?多分、今になってみれば感覚的に「そんなもの」だと理解できているはずだけど。つまり、「長さや面積や体積が0ということと、存在しないということは別物だ」ということ。
確率が0というのもこれと同じなんだ。例えば、0<x<1を満たすxを全くのランダム(あるxが別の数より選ばれやすいということはないものとしよう)に選んでくることを考えよう。これはまさに「数直線0<x<1上、x=0.5という一点の長さはいくつ?」と聞いているのと同じことで、答えは0になる。別に変なことではないでしょ?
もっとも確かに、「現実のコンピュータ上で、鍵の候補が無限大なんて関数が作れるのか」という疑問があると思う。俺の理解が間違ってなければこれは確かに無理だ。でも、そういう言い方をするのは無理なことではないんだ。
というのは、アルゴリズムの理論を作るときは、暗黙に「コンピュータには無限にメモリがある」と仮定してしまうことがある。もちろん現実にはそんなことはない。でも、必要なだけメモリを増設すればいくらでもその状態に近づけることはできるので、実用はともかく理論としてはそれで十分と考えることがあるんだ。
もう少し詳しくいうと、チューリングマシンっていう数学モデルがあるんだけれども、これはメモリが無限にあるコンピュータと等価な能力を持っている。そして、情報工学の問題はチューリングマシンに対して考えられることが多い。しかし、現実のコンピュータはメモリが有限しかないから、これは本当は「有限オートマトン」(基本情報処理の試験にも出るから知っているはず)とよばれる非常に単純なモデルで表せてしまうものだ。これの能力は余りにも限られているので、たとえばカッコ対応問題(たとえばCやJavaで"{"と"}"の数が釣り合っているかを確かめる問題)すらも一般的には解けない。実際、メモリ内で表現できる最大の数以上のカッコを与えてやればいい。もちろん、そんな沢山のカッコを与えるなんて現実には無理だけどね。
そういう風に、アルゴリズムについて理想と現実の壁は大きく、常に実用化の壁というものがつきまとう。そういう意味で大矢氏の新暗号が本当に画期的なものになるのかどうか、これはやってみないとわからないと思う。今後の展開に期待だね。
生半可な知識で下手なこと書くもんじゃないですね。専門家からのご批判を頂きました。
http://d.hatena.ne.jp/smoking186/20080412/1208008068
というわけで、この記事は反面教師として下さいませ。この記事単独では、間違ったことは書いてないつもりですが、前提を理解していませんでした。
はてなは、理屈っぽくて、議論大好きな人が多いところが好きだ。
でも、論理と理論をごっちゃにして使っている人がいると、がっかりする。
がっかりは言いすぎだけど、せっかくの熱弁もこれひとつで台無しだと思う。
「え、その違いがわからずに議論してるんですか?」
「もしかして、普段から、自分の議論が論理的に正しいかどうか、全然判別できずに議論してませんか?」
と、疑惑の目を向けたくなってしまう。
検算ができない子に、この計算がここで間違っていると指摘しても、
その子は自分は正しいと言い張るかもしれない。
論理と理論をごっちゃにしている人に対して、僕は同様の疑念を抱いてしまう。
もし、こちらが、あちらの論理の間違いを指摘しても、相手は理解できず、
お互いに気分を悪くして、議論が終わってしまうのではないかと、すこし不安になる。
ごく簡単に言えば、
理論は、ある結果(現象)が起きる因果関係を説明するモデルだ。
以下、演繹、帰納、理論について、もう少し詳しく説明してみる。
アリストテレスは人である。人はいつか必ず死ぬ。よって、アリストテレスはいつか必ず死ぬ。
こういうのを演繹法という。「アリストテレスは人である。」「人はいつか必ず死ぬ。」この2つが事実であって、
事実から、「アリストテレスはいつか必ず死ぬ。」という結論を導き出している。
つまり三段論法というのは、A=B、B=C、よってA=Cのことだ。
(これ、イコールじゃなくて、包含関係で説明するのが本式だが、そこは省略する)
なお、演繹法では、事実とした事柄が、実は、事実ではない場合、
当然ながら、結論が間違ったものになることには、注意が必要だ。
帰納法は、多数のサンプルとなる事実から、共通して言えることを結論とする方法だ。
A猫は4つ足で歩いていた。
B猫も4つ足で歩いていた。
C猫も4つ足で歩いていた。…と可能な限りのサンプルを集め、
サンプルとして集めた猫が、全て4つ足で歩いていたなら、
「猫は4つ足で歩く」という結論が導き出せる。
帰納法では、少なすぎるサンプルから結論を出したり、
サンプルからは言えないことを結論にしてしまったりすることに注意が必要だ。
理論というのは、ある最終的な結果が起こるための因果関係の説明だ。
因果関係というのは、原因(の現象)と結果(の現象)の1セットのことをいう。
レシピの詳細は省くが、
シチューという最終的な結果は、
人が、包丁、まな板、鍋、火などを使って調理することで起きる。
順番を間違えるとうまく結果が出ない。因果関係に則っていないからだ。
シチューが生まれる過程を簡潔に説明し(無駄な現象を捨象するという)、
シチューを作る上で、あまり重要ではないことが書いてあるのは、上手な理論ではない。
(たとえば、調理中にキッチンにゴキブリが出たら、すぐさま潰してください、とか。)
ここまで説明した「理論」というものは、論理によって構築される。たとえば、帰納法を使って、
おいしいシチューAには、肉が使われていた。
おいしいシチューBにも、肉が使われていた。…と、
自分がおいしいと思うシチューのサンプルを集めていき、全てに肉が使われていたなら、
自分がおいしいと思うシチューを作る要素のひとつは肉であると結論づけられる。
また、どんな理論も仮説だ。仮設と言い換えてもいいかもしれない。
理論とは、ある結果に至るプロセス(因果関係)を説明したものに過ぎないので、
いずれ、もっと上手にそのプロセスが記述される可能性があるからだ。
こういったことは、議論をする相手には、ぜひとも知っておいてほしいよなあと、思う。
自分の書いている文章の論理展開も、気にしながら書いてほしいよなあ、とも思う。
あらゆる現象を完全に説明できるたった一つの理論というのも、未だ発見されていない(そして、たぶんない)。
だから、お互いに指摘しあって、修正しあえるのが良い。
そのためには、少なくとも議論する人同士が、前もって、
長文申し訳ない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080108-00000002-yom-soci
事件の概要はご存知のとおりなので省略させてもらうが、審理の経過や判決について疑問を持つ人も多いと思う。
検察側は当初、訴因として「危険運転致死罪」をあげていた。これに対し裁判官は「業務上過失致死罪」について予備的訴因として追加せよと命じた。
訴因というのは、起訴状に記載されている、法律的に構成された犯罪事実の記載のことです。
【被告人は、いついつどこそこで、これこれのことをして、もってなんちゃら罪を犯したものである。】
みたいに記述されます。
わが国の刑事訴訟では、この訴因の事実について本当に存在したのかを当事者(弁護側・検察官)が主張立証し、それについて裁判官が判断することになります。
この訴因の効用については、審判対象の確定ということが挙げられます。
つまり、訴因以外について判断しないので、被告人が思いもしない理由で罰せられることがなくなるのです。
たとえば殺人だと思っていたのに、強盗罪が成立、なんて言われると、たとえば盗んでいないという弁解をする機会が保障されません。
そうすると、原則的には、訴因の事実がなかったことが証明されれば無罪となるはずです。
でもそうすると、あまりに硬直的になるので、他の罰条が適用されることを慮って、訴因を追加することを認めています。
今回は予備的に追加しています。主位的な訴因が認定されなかったときに初めて審理・認定されるのが予備的訴因です。
現実に行われた犯行という事実はただひとつなのに、別な事実を認定するのは、ちょっと奇異に写るかもしれませんが、
いくつも法律構成が可能な法律論ならではの制度とご理解いただきたいと思います。
ところで、通常は、訴訟でなにを構成し主張するかは当事者にまかされているのですが、任せっぱなしにすると不当なことが起こりうるので、たまに裁判所が介入します。
今回も、検察官が訴因に挙げていなかったという理由だけで無罪になる可能性があるので、裁判所があせって追加させた、というわけです。
どちらも自動車による事故で問題となる罪ですが、大きく違う点があります。
それは、前者が故意犯であるのに対して、後者が過失犯であるということです。
これは大きな違いで、実は包含関係(傷害と暴行)だったり似たような犯罪(業務上過失致死と重過失致死)だったりであれば
さっきの訴因追加などは必要なかったりしますが、本件では必要とされているのはそういうわけなんです。
しかし、意思なんてものは本人の主観ですから、他人がどうこうするのは難しいです。
こういう行為をするのは分かってやってるからだ、なんていう事実を積み重ねて行く必要があります。
一方、過失犯には、「あ、こりゃやばいな」くらいのことを思っていることが証明されればよく、
その判断も一般人視点なので、酒気帯びなんかだと簡単に認定できます。
するってえと、危険運転致死罪が適用されるのはかなり難しいということになります。
本件でも立証がうまくいかなかったのでしょう。
なんでこんなウンコみたいな法律になっているかというと、あまり知られていませんが、危険運転致死罪はイギリスのそれを丸パクリしているからです。
イギリスでも似たような事件があって適用されず、ウンコウンコ言われているらしいのになんで丸パクリするかな・・・。
条文(刑法208条の2)を見ても、確かに英文直訳調です。これはひとえに立法府を責めるしかない。
なお、最近、自動車運転過失致死罪(7年以下の懲役)ってのが出来ましたが、遡及処罰になるので本件では適用され得ません。
適用されたとしても、後述するように高々10年半までしか刑を科せません。
なにやらこの被告人、アルコール濃度を糊塗するためにペットボトルで水をがぶ飲みしてから自首したとか。
「証拠隠滅してる!証拠隠滅罪だ!」と思われるかも知れません。
しかし、刑法上、証拠隠滅罪は「他人の刑事事件に関する証拠」についてのみ限定して処罰しています。
なぜかって?
子供の頃、悪いことをして親にバレそうになったときにはめちゃくちゃな嘘をついたことがありませんか。
それと同じで、犯人が証拠隠滅することは不可避で、それをいちいち取り上げていたらどうしようもないっていうことなんです。
もちろん、罪として成立しないだけで、量刑には考慮されるでしょうし、
本件では、アルコール濃度についてももう少し上だったと認定することも可能ではあります(しませんでしたが)。
業務上過失致死(傷)罪が被害者の分だけ成立し、これはひとつの行為で起こした複数の罪です(観念的競合といいますが、どうでもいいです)。
これだけだと、最も重い罪の刑で処断します(この場合、業務上過失致死の5年以下)。
しかし、酒気帯び運転・轢き逃げ(道交法違反)についても訴因にあげ、成立しています。
このように、別の行為で罪が成立している場合を併合罪と呼び、最も重い罪の長期の1.5倍まで科すことが出来ます。
判決は懲役7年6月(ろくげつと読みます)で、これは、業務上過失致死罪を併合罪処理をして最大の刑期です。
一概に被害者への配慮を欠いたものとは言えないという評価もあります。
確かに法定刑マックスまで行くのは珍しいですし、もし故意が認定出来なかったのだとすればギリギリのところなんだとは思います。
あとは立法論、つまり法律が不備であったので整備すべきということです。
法解釈学においては、「ドッギャーン!立法論に逃げることは敗北を意味するッ!」なのですが、どうしようもないんじゃないでしょうか。
最近同様の事例で、やはり地裁で業務上過失致死罪を訴因追加させてそれを成立させた事件の控訴審で、
これをひっくり返して、危険運転致死罪を認めた判決がありました。
是非この線で行って欲しいですね。
元増田です。
宮部みゆきが小説中で言いたかったのはまさにそれです。その部分には納得するし的外れではないと思います。
納得いかないのはそれを表現するために、
「社会が求めている」形
としたところです。しかも、「誤解を恐れずに」と書いてる。
「社会が犯罪を求めてる。」と誤解されかねないと言うことをわかった上で書いていると思うんです。
納得いかない自分の気持ちを整理するとこんな感じ。
確かに社会構造によって生み出されてしまう犯罪はあるかもしれない。
でも、「社会が求めている」という表現には、
「こういう犯罪がおきればいいのに」って思ってる人々がいてそれに呼応して犯罪がおきる
って言う事が含まれている気がする。
「こういう犯罪がおきればいいのに」って思ってる人々の存在を認めたくないってのと、まだ日本では模倣犯や愉快犯なんてのをめったにみないから違和感を覚えて納得いかないのかな。と自己分析。
法律(実定法)を、条件判断文の一種として捉えるという考え方がある。
「もしAならばB」
というやつだ。
この場合のAは法律での禁止規定、Bは罰則規定だ。
「もしA(という違法行為が存在する)ならばB(という罰則が適用される)」
大ざっぱだけど、これが法律という条件判断文になる。
さて、マナーの場合にはどうかというと、
「もしAならばB」
のうち、Bについては特段に明示的な規定が無いと考えればいいだろう。直接的な罰則は存在しない。
(細かいことを言えば「他の人からイヤな顔をされたりつまはじきされる可能性がある」のが罰則代わりか)
それではA、つまり「○○」禁止規定はどうか。
法律の条文ほどではなくとも、どこかに何らかの形で明確なガイドラインが存在するのであれば、それがAに当たる。
では、そういうのがない場合……においても、実はしばしば事実上のA=禁止規定が存在すると見なされることがある。
「常識」「良識」といった、曖昧であるが故に多義的でもあるガイドラインがそれだ。
ちなみに法律という条件判断文においても、法廷の場では「社会通念」として同種の概念が援用されることはあるが、それはあくまでも事実認定などの背景的要因として取り扱われ、条件判断においてBを選択する直接的根拠=Aそのものとして取り扱われるわけではない。(もし直接的な根拠になるのだったら「社会通念違反罪」なるものが出来てしまう)
「マナー」と(法律を含めた)「ルール」の違いをどこで線引きするかによっても変わってくるが、「マナー」の主な特性としては、
「条件判断のA項(条件項)に、直接的な行為記述として一意に決定できないような観察文が代入されうる種類の条件判断文」
と考えることも可能ではないかと思う。
もちろん一意に決定できてもいいが、その場合の条件判断文は通常は「ルール」と呼ばれる。
(もちろん、実定法ですら法文に照らした事実認定が一意に決定できず、個別の法解釈によらざるを得ないケースはしばしばあるので、あくまでも「こんな方向で考えることも可能じゃないか」という程度の話ということで。)
俺の結論。
「もし「他人が不快になる」ならばB」
という条件判断文は、これ単独で立派に「マナー」を構成していると思う。
最初から条件項の記述「他人が不快になる」が具体的に何を指しているのかを一意に決定できるなら、その場合に限ってそれは「ルール」になるが、それは「マナー」に包含されているとは言えても「not マナー」であるとは言えない。
スタイルシート ソース理解クイズ - [ホームページ作成]All About
まあ「仕様書で規定されていない部分については、IEおよびFirefoxの実装に従うものとします」などといった注意書きをもっとしっかりつけてくれれば大体は間違ってない。
しかし、Q7に関しては明らかに間違っている。選択肢の中に正解がない。
'margin-left' + 'border-left-width' + 'padding-left' + 'width' + 'padding-right' + 'border-right-width' + 'margin-right' + scrollbar width (if any) = width of containing block
CSS 2.1では通常フローにあるブロックレベル非置換要素の幅の算出に上の等式が使われる。しかし、問題の例では、この等式の左辺のすべての項がauto以外の算出値を持っている。この状態を「制約しすぎ」(over-constrained)であるといい、(包含ブロックのdirectionプロパティの値がltrならば)margin-rightプロパティの指定値が無視され、上の等式を基にmargin-rightの値が再計算される。よって正解は「包含ブロックの幅に等しいピクセル数」だ。
それから、Q9にも大きな不備がある。「同じ位置」「移動する」と回答中にあるが、これらが何に対してなのかが明言されていないのだ。固定配置の要素はスクリーンメディアにおいて、表示領域に対しては同じ位置にあるが、通常フローの要素に対してはスクロールに応じて移動するといえるので、このままでは正解をひとつに絞りきれない。
誤解を解こうというなら普通謝罪じゃなく釈明だろう。
まぁ、「誤解を招いてしまってごめんなさい」という謝罪はあるかもしれないが、その場合すでに誤解が生じてしまっていることが前提になるのであって、「誤解される可能性があったので、謝罪」なんてのはちょっと考えにくい。
発言直後に謝罪を行っています。誤解される可能性というよりも、素直に謝っていますが。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070128i112.htm
厚労相はその場で「機械と言ってごめんなさい」と謝罪し、「産む役目の人」と訂正した。
問題があるから、問題になっていると思うんですが。
あなたのように全員、割り切れれば問題はないと思います。
もし、柳沢厚労相の言う「産む機械・装置」が『「15歳から50歳まで」の「出産して下さる年齢」であるところの「女性」』以外になる解釈とやらがあるのであれば、それを聞きたい。
では、少し説明します。
仮定している発言は以下の通り。(([1]とします)
http://news.tbs.co.jp/20070129/headline/tbs_headline3480852.html
「女性は15歳から50歳までが出産をして下さる年齢。『産む機械、装置の数』が決まっちゃったと。その役目の人が、一人頭で頑張ってもらうしかないんですよ」(柳沢伯夫・厚労相 今月27日・松江市内)
私が「好意的に」解釈した内容は以下の通り。([2]とします)
http://anond.hatelabo.jp/20070131121516
好意的に解釈すれば、「15歳から50歳の女性の中で子供を産む意思のある女性=産む機械、装置の数」という解釈も可能です。(本人がどう思って発言したかは知りませんが)
[1]を私が「好意的に」解釈すると以下のようになりました。
「(一般的に)女性は15歳から50歳までが(出産の意思のある方が)出産をして下さる年齢ですが、その方々を『産む機械、装置』として見ると、『数』は必然的に決まりますね。でありますから、(出産の意思のある方が出産できるように我々は環境を整え)その方々に『産む機械、装置』としての役目を頑張ってもらうしかないのです」
[1]に、「女性は15歳から50歳までが出産をして下さる年齢。」の文と、「『産む機械、装置の数』が決まっちゃったと。」の文がありますが、文章として不完全なので、「15歳から50歳までが出産をして下さる年齢の全員の女性=産む機械、装置」という解釈以外の解釈も成りたちます。つまり、前者が後者を包含しているという解釈も成り立ちます。要するに後者は、「(母集団である前者の数が決まっている以上、その子集団である)『産む機械、装置の数』が決まっちゃったと。」という解釈も成りたちます。当たり前かもしれませんが、基本的に日本の場合、女性が「出産をして下さる」のは、その女性に出産の意思があるからです。よって、「前者のうちで出産する意思がある女性」を「産む機械、装置」とらえる解釈も解釈の一つとして自然だと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20070112230417
そうじゃなくて、プロは仕事として給与や要求に対して、それに見合う以上の結果を返さなければならないという義務があるだけ。
プロとアマチュアに技術的な差が存在しなければならない、というのはプロ/アマをクオリティ基準で分別しようとしているからそうなるんでない?
プロに必要なクオリティは、給与・要求以上のモノを返せることだとおもう。
日々の研鑽は、別にプロ/アマチュアに関係ない気がする。研鑽について言えば、プロとアマの差は「研鑽の結果、誰を満足させなければならないのか?」に尽きると思う。
プロは自分に対する他者からの要求に応えるため、また要求される状態を維持するために研鑽を必要とする。
アマチュアの場合、研鑽は基本的に自意識を満たすことが主要な目的である。仕事ではないので、必ずしも誰かを満足させる必要はない。
恐らくプロの研鑽への意識は、アマチュアにおけるそれを包含するものになると思う。他者からの要求=視線は自意識を喚起するものであろうし。
ある分野が腐ってる云々だったら、創作においては形式主義というのが腐敗臭を醸している気がするなぁ。
で、その腐敗(=発酵)から違うバリエーションが生まれたり、あるいはその方向性に対して反作用みたいな形で別物が生まれたりするんだろうけど、それさえなくなってしまった分野は腐っている、と言うか熱的に死んでる。