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2024-04-18

古典的な美の概念

美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアルネサンス絵画建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。

イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧バランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧イメージを達成しようと努めました。あらゆる形態自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的作曲システムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定独立性を維持します。それは原始芸術無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。

古典的概念では、美しさは、比例、調和対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。

これは西洋原始的な美の概念であり、古典および新古典建築彫刻文学音楽のどこにでも体現されている。

アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。

そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)

アリストテレス示唆しているように、この見方黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。

この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書パルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。

カノンは、完璧プロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。

医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率指定していると説明している。

その論文身体のすべての対称性私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体正典と呼んだ作品でその論文裏付けた。

古典的テキストにおける「対称性」の概念は、双方向鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要

それはまた、古典的意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能比率一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。

たとえば、『ソフィスト』 では、プラトン高潔な魂を対称的である説明している。

古代ローマ建築ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的概念体現している。

建築は、ギリシャ語タクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人ディアシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人エコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます

秩序とは、作品の細部を個別バランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。

プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。

シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます

アクィナスは、典型的アリストテレス多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)

18 世紀のフランシスハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。

「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。

実際、この見解の支持者はしばしば「数学スタイルで」話す。

ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッド命題を挙げる一方で、次のような普遍的物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然熱狂的に賞賛している。

「美しさはある、と彼は言いますアイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)

美とは部分間の特定比率問題であり、したがって古典的概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちアイデア起源についての哲学的調査」で与えられている。

植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えていますリンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えていますしかし、バラリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間身体には、相互一定比率を保っていることが観察される部分がいくつかありますしかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。

2022-03-15

池内恵tweetの件なんだが

池内恵tweetの件なんだが

日本人は、加害者としての歴史を忘れるな」って言ったことがある人は、「ロシア市民に罪はない、強権支配被害者

って言うのは欺瞞だ云々のアレだけど。

 

https://twitter.com/chutoislam/status/1503200219286097921

 

これに続くツイートの方がちょっと奇妙で

そういう逡巡の跡が見られない人は、まあ人間としてそう言うもん

から学者としての尊敬は得られない

卓越性とか人格陶冶とかちょっと感じさせてくれないとやってられない

と飛躍がある事を言ってるのね。

特に「卓越性とか人格陶冶とか」は唐突感が強い。

 

この「卓越性と人格陶冶」って保守主義を好評価する時に使われる紋切り型なのね。特に2つ併置されるのが紋切り型

フランス人思想とかアメリカ合理主義などの理性主義だと人間平等で理性を動員して抑圧無き良き世界を作っていくって風になるんだけど、意志の力で克服とかストレス晒し人格を鍛錬するっていう風な事は落ちてしまう。

古典的自由主義ハーバート・スペンサーなど)やドイツ国法学なんかを志向することが多い。

あとはエドマンド・バークなんかの反フランス革命保守主義とかも。

すると差別っていうのは単に悪じゃなくて主体が乗り越えるべき情況って意味付与される。

 

例えば西部邁少年期に吃音(どもり)があった。

今の感覚だと言語療法プログラムで訓練して、周りもそういう癖に気遣わなきゃいけないね、ってなるけど、西部はこれは自己意志問題だと考えたのね。実際吃音行動療法には価値の明確化、つまり自分意志の再構築をする方法もある。

それで意志の再構築で吃音を克服した西部オルグ天才となって学生運動トップになってしまうのだけど。

その後右に転向したのだけど、西部思想にはその原経験が生きているなんていう評論のされ方をよくする。これは紋切り型評価の一つだ。

 

もう一つの例挙げると、ハワイダニエル・K・イノウエ国際空港の名になっている日系アメリカ人ダニエルケン・イノウエ。

この人は日系人でありながら合衆国上院議長まで上り詰めた人なんだけど、ハワイ大学在学時に日本軍真珠湾奇襲が起こった。

当然日系人の肩身は狭くなり、イノウエは合衆国への忠誠心を示すために軍に志願して第442連隊に入れられた。

これは日系人構成される部隊もの凄く損耗率が高かった事で有名だ。激戦区に配属された為だな。損耗率が高いっていうのは死亡率や負傷率が高くて、死んだら補充を繰り返したってこと。イノウエも片手を切断している。

そこまでしてアメリカ人として認められて戦後上院議員としての道を歩み上り詰めたわけだ。

これは過酷だが差別という情況を克服して陶冶された人物代表例だろう。

 

だけど、「卓越性と人格陶冶」の紋切り型っていうのは批判する時にも使われるわけよ。

要するに「保守主義だと卓越性と人格陶冶が重視されるがお前はそうではない」って言い方。ネトウヨがメッキの為に保守とか自称してるのに対して言ったりするのが判り易い。

 

で、件の池内ツイートにぶら下がったりブクマ付いてるのって単にWhataboutismの相対主義としての好評価のやつしかないわけよ。

Whataboutismの本場はソ連で、よりによってロシアの非合理関係の事でWhataboutismしたりそれに蝟集したりすんなよ。

それでそういう動機での好評価を集めているのに池内自身は何も注釈しない。

それに他の場所では

ロシア文化にも責任はない」とロシア文学者が言うのは、エネルギー業界の人たちが「ロシアから石油・ガスを買っていけないというのでは商売上がったりだ」と言うのと、それほど違いはない

とか言ってる。https://twitter.com/chutoislam/status/1503124758950518787

 

こうなると単に相対化であって、「卓越性と人格陶冶」の紋切り型での批判に対するルサンチマンなのか?と疑ってしまうわけ。

 

ところで最後ツイートには前段があって、

逃げなかった人たちを、シリアでは「テロリスト戦闘員だ」と呼んで無慈悲砲撃兵糧攻めにして殺してきた。それがプーチンロシアです

と、過去シリアでの虐殺スルーされて来た事べの憤りだって事が判る。絶滅収容所の近所のドイツ人達にアメリカ将校が「いいや、あなた方は知っていた」と言ったのと同じだ。

だったらちゃんと焦点をぼかさず言いたい事を前面に出すべきだろ。

 

文学者だの学者としての尊敬だのは言い訳の為の吃音しかない。

ロシア人の戦争責任日本戦争責任を持ち出すなら自分はどの立場かを明確にせねばならない。プーチンを許してきたロシア人を免責できないなら日本戦争責任も免責できないと言わねばならない。

なんでそうしないかというとそこを誤魔化すとWhataboutism相対化としての好評価が得られて尚且つ軋轢が減るからだ。

でもそれは単に差別感情がWhataboutismと絡んだ人気でしかない。「いいや、あなた方は知っていた」という視点を持つ人はどれだけ出るの? 

 

という訳で池内の言う事にもその動機にも強い意味がある。

だが池内自身が余りに大したことがない為に表出的吃音が克服できずにWhataboutismとしての表出しか出来ていない。

「いいや、あなた方は知っていた」と「ネットでの軋轢忌避」を天秤にかけて後者を選んだからWhataboutismだけが表出されている。

嘘とWhataboutismの帝国に対してそんな事しててどうすんだ。

2020-02-29

anond:20200229131158

https://en.wikiquote.org/wiki/Edmund_Burke#Disputed

エドマンド・バークがそのようなことを言ったという証拠存在しません

そもそもバークは考える前に行動する層を思いっき批判していた保守派親玉みたいな人なので、こんな革命家が喜びそうな言い回しをしたというのは違和感があります

Twitter不特定多数に正しさを求めるやつ何なの

アイルランド政治思想エドマンド・バークが残した言葉がある。

「悪が栄えるのに必要なことはたったひとつしかない。善人が何もしないことだ」


最近Twitterジェンダー政治について声を上げる人が増えた気がする。それは良いことだろう。何も言えない社会の方が異常だった。

でも、上記エドマンド・バーク言葉を知ってか知らずか、今般の新型肺炎関連の混乱を受けてTwitterで「こんな時節に現実から目を背けて楽しいことだけ考えてよー!という脳内お花畑思考が今の事態を招いたのだとは思わないか」という趣旨ツイートをする人がいる。

お前の正義はそういう形なんだな。それならお前がお前の脳内お花畑を一斉に枯らして、お前の手が届く範囲で何かやれ。不特定多数の誰かにその言葉を向けるな。


現実世界では言えない思いを思い切り壁にぶつけられるのもTwitterの利点かもしれない。耳障りの良い言葉綺麗事ばかりの社会なんてうんざりなんだろう。

ただ壁の向こうにいる有機物たちにも現実がある。声を上げられるようになったのは良かったと言った舌の根も乾かぬうちからTwitter正義を声高に叫ぶ人にうんざりしつつある。

なぜなら正義暴走し得る。エドマンド・バーク言葉は正しいかもしれないが、善人が正義を行っていると信じて暴走した時の恐ろしさもまた事実だ。


歴史においてはほぼ全ての人がモブ(その他大勢であるモブ正義を叫んで暴走するのが1番怖い。そのうち大波に呑まれ運命モブの1人であったとしても、自分の抱く思想が本当に正義か、その正義暴走していないか、それだけは注視していたい。

2018-11-01

anond:20181101173533

知ってるかどうか分からんが、CoD4は明確にストーリー反戦で、その上にゲームロード中にパトリオットミサイル価格は何ドル・・・ヘリ価格は何ドル・・・というメッセージや、「悪が栄えるために必要なのは、善人が何もしないことである。 ―― エドマンド・バーク」みたいな引用が出てくる。これを読んで、ゲームで無邪気に楽しんではいるが、現実戦争暴力は良くないという気持ちを新たにするもんなのよ。俺はそうだったな。戦争ものFPSを娯楽として描く作品は、まぁ早々ないよ。

2016-08-02

金欲、食欲、性欲にまみれたワンパターンリアルワールド日常なんてつまんねえぜ、飽きちまったぜという方々を空想世界へいざなおうと思います空想とはすなわでぃ、ヴァーチャル、オプティックブラストみたいなゴーグルかけて今を煌めくVRなんて略し方は許しません、そんな流行病ではなく、はるかからある古典的な維持するために改革せよのエドマンド・バーク主義空想、もはや妄想空想の原点は妄想にあり、爆走少年妄想を頭の中にとどめず、外側に排気ガス撒き散らしてしまおうという魂胆だ。そうやって個々の妄想リアルワールド媒介とした銀河を駆け巡り、シェアリツイートいいね!自らの妄想にとどまっていたはずの空想他人の頭の中へ侵入し、世界観を共有することになる。「僕たち、本当はみんな同じ世界に生きていて、ほら、こうやってみんな分かり合えるんだ!」洗脳ではありません。パッケージ化された他人妄想各自の好みによって選ぶことができます。選べる妄想、それは空想他人想像、俺の感想、撒き散らしては、新たに広がる、拡張された素晴らしき幻想、我々二残サレタ時ハ最早アト四〇年カ若シクハ二日ヤモ知レヌ、然レドモヒト度幻惑ノ内側二潜ムヤ否ヤ、悠久ノ時ヲ過ゴスコトニ成ロウ。これはいわゆる、あれです。わかりやすく言うと世界の終わりの話なんですが、時間とは、この1分1秒の間に無限存在するわけです。1分を1時間のように長く感じることがあります。同様に、1時間を1分のように短く感じることがあります時間というのは一定ではありません。認識意図的にずらすことによって、1分は1時間にも1年にも無限にも広がります。その認識をずらすという作業がつまり、細分化です。1秒を細かく分けていきます。0.1秒を10個、0.01秒を100個、0.0000000000000と幾つにも分けていけばそれはイコールではありませんが、限りなく無限に近い数の個体ができあがり、そのわずか1秒でさえ悠久の時として頭の中で無限に広がります。いつまでたっても1秒が終わらないように、妄想は、幻想は、夢は終わることがありません。かつて良キャラだった黒ヒゲ危機一髪の「人の夢は終わらねえ!」うるせぇ!ドン!今やラスボス筆頭格、それが我々のリアルワールド時間概念を異にするもう一つの世界の強みです。さあ扉を開けましょう、呼んでみましょうサザエさんあなたの目の前のいたるところにその入口は有ります。気づかないうちに落っこちて目を覚ましたら10年経っていた浦島太郎経験あなたにはありませんか?その時開いていた扉はまさしく竜宮城への扉、乗せられていた亀の背中、つるつる滑る、溝に爪ひっかける、日常狭間二待チ構ヘ足ルハ、糾イノ門ナリ。

2013-01-23

橋下改革が失敗する理由、フランス革命を批判したバークが指摘してる

議会が改革と称して、既存制度の廃止やら全面的破壊やらに

うつつを抜かしているのも、困難に直面できないせいで現実逃避を図っているにすぎない。

物事をぶち壊したり、台なしにしたりするには、手腕ではなく腕力があれば十分だ。

そんなことに議会はいらぬ。暴徒にやらせておけばよい。

バカであろうと粗野であろうと、何も困りはしないのである

キレて逆上した連中は、ものの三十分もあれば、すべてをメチャクチャにしてしまう。

これを埋め合わせるには、

英知と先見性を持った者たちが、百年にわたって熟慮を重ねても足りない。

従来のシステムの過ちや弊害は、誰の目にもハッキリと映るため、

たいした頭がなくとも容易に批判できる。

ましてや絶対的な権力を握っているのであれば、ひとこと指示を出すだけで、

それらの過ちや弊害をなくすという名目のもと、

システム全体をぶち壊すことができるだろう。

かかる姿勢は怠慢にしてせっかちであり、

横着を好みつつ何かせずにはいられない。

はたせるかな、新しいシステムをつくり上げる際にも、

議会は困難に直面しようとしなかった。

物事をこれまでと正反対にするのも、安直さにかけては、

すべてをぶち壊すのといい勝負である

前例のないことを試すのは、じつは気楽なのだ

うまくいっているかどうかを計る基準はないのだから

問題点を指摘されたところで

「これはこういうものなんだ」と開き直ればすむではないか

熱い思いだの、眉唾もの希望だのを並べ立てて、

「とにかく一度やらせてみよう」という雰囲気さえつくることができたら、

あとは事実上、誰にも邪魔されることなく、やりたい放題やれることになる。

対象的なのが、システムを維持しつつ、同時に改革を進めていくやり方である

この場合既存制度にある有益な要素は温存され、

それらとの整合性を考慮したうえで、

新たな要素がつけ加えられる。

ここでは大いに知恵を働かせなければならない。

システムの各側面について忍耐強く配り、

比較力や総合力、さらには応用力を駆使して、

従来の要素と新しい要素を

どう組み合わせたらいいかを決めることが求められるのだ。

また人間は、あらゆる改善を頑固に拒んだり、

「いまのシステムには飽き飽きした」と軽率に見切りをつけたがったりもするので、

その手の主張にもじっくり対処していく必要が生じる。

こんな反論が寄せられるかもしれない。

「それでは遅すぎる。議会の偉大さは、普通なら長い歳月かけて達成される事業を、

 わずか数ヵ月のうちにやってのけることではないか

 あなたが言うような方法で改革を進めては、

 成果があがるまで何年も待たねばならない。」

むろん、そうだろう。そうあるべきなのだ

時間をかけて物事を変えていくのは、さまざまな長所を伴う。

その一つは、変化が起きているとは思えないほどペースが緩慢な点にほかならない。

慎重に用心深く作業を進めるのが賢明であることは、大工職人も承知している。

おまけに社会システム解体したり構築したりするとき

われわれはレンガや木材を扱っているわけではない。

この場合、素材となるのは生身の人間である

彼らの地位や境遇、あるいは習慣を不用意にいじり回すなら、

ひどく悲惨な結果を招くことになるだろう。

現在、人々がいかなる痛みを味わおうと、

平気で改革を進めていくことこそ、

偉大な政治家の条件だと見なされているらしい。

だが、私の考えはまったく異なる。

真の政治家たるもの、温情あふれる心をもっていなければならない。

そのような人物は祖国と同胞を愛しつつ、

おのれの能力をつねに疑ってかかる。

到達すべき目標をとっさに把握する才覚をもっていたとしても、

実際の行動においては一歩一歩じっくりと進んでいく。

政治を良くしていくには、人々の心をまとめあげねばならないものの、

これは一朝一夕にはできない。

力任せに押し切るより、我慢強く気長に頑張るほうが、

じつは成果があがるものなのだ

フランス革命省察エドマンド・バーク (1790年刊行)」訳 佐藤健志

これ以上の橋下批判は聞いたことがない。

急進的な改革は上手くいかない、やるなら徐々に行うべきだ。

後はどういう失敗の仕方になるか。

橋下が改革を成し遂げられず失敗するか、改革をやり遂げた結果、フランス革命のように全体主義を呼び込んで失敗するか。

後者なら目も当てられない

2012-07-22

偽善者は素晴らしい約束をする、約束を守る気がないかである

偽善者は素晴らしい約束をする、約束を守る気がないかである

それには費用も掛からず、想像力以外の何の苦労も要らない。

エドマンド・バーク



人が言うことには以前ほど注意を払わない。人の行動をただじっと見る

2009-02-08

大陸臭は動物

 ~動物臭ことってどんなこと? 他人を気にしないこと~

 動物はそこらに糞尿を垂れる。なぜならば,「他人」という概念がないからだ。

 当たり前のことを書くけど,「人間は何故服を着るの?」ということは大切に問題だ。

 全裸であれば,他人に不快感を与える可能性があるからだ。肉体は,よほど清潔にしていなければ匂いもするし,不潔感もある。

 現代のように毎日シャワーにあびれる環境ではなく,昔のようにこまめにフロに入れない時代であれば,皮膚病もあるし,とにかく清潔ではなく,相手に不快感を与える。それが「清潔にされた特別な美女」でない限り。

 このため,人は衣類を着用する。

 衣類を必要とする理由は,自分のためではなく他人のためだ。

 あなただって,もしも無人島に一人しかいなくて,助けに来る気配もないとする。まわりには動物かいない。気候が温暖であり,岩場やとげのある植物もないようなところだったら,それでも衣類を着るだろうか?

 自分の汗なくすため,こまめに洗濯をするだろうか?

 いま貴方はどんな部屋にすんでいる?

 頻繁に友達や恋人が訪れる部屋ならば,掃除が行き届いてるいることだろう。部屋が不潔であることは,来客に対して失礼であるからだ。

 しかし,誰もこなければ部屋は汚くなる。

 「他人のため」という意識が,人の自律をうながす。

 他人という存在知覚し,理解するからこそ,つまり「社会」という概念があるからこそ,言葉遣いも正確になって誤解のない表現をつかい,几帳面になり,物事にたいして正確になる。

 他人を意識するからこそ,他人に共感するからこそ,他人の権利や心情を理解し,他人の権利を侵害しない。つまり,違法な行為をしない。

 すべて人間だけが持つ能力だ。

 動物には「他の者」という概念がない。世界には自分一体だけだ。だから,誰にも関心を示さないし誰からも関心をもたれないと思っている。

 従って,他人の権利という意識もないから,女が欲しいとおもったら犯すし,空腹になれば盗むし,感情的になれば殴るし,違法な行為をする。

 能動的にしなくても,自分の義務を全うしない。法律に何がかいてあっても,「ただの紙」と思う。

 人間であれば,常に他人の目を意識する。だから,感情的になるような不愉快なことがあっても,社会秩序と自分の権利義務の範囲で行動する。

 動物人間の違いは,「他人の目がある」という意識があるかないか,ということにある。

 だから,私たちは,不潔な格好をしていたり,いつも「へらへら」とわらっている気色の悪い表情の者や,円滑に会話することすらできないほどの無知,その他の「反社会的行為」が起きる。

 結論をいうと,人間犯罪をしないし,動物は「躾」や「鎖」がない限り,必ず犯罪違法行為)をする。

 動物は「ルール」を理解できない。

 自分がそのとき考えたことが「ルール」である。

 動物には意思がない。だから,いきなり性行為を強要したとしても,「嫌だ」という意思がないのだから強姦にならない。

 従って,動物同士には,窃盗強姦もない。「とられたら嫌だ」とか「おかされたら嫌だ」という意思がないからだ。

 しかし,これを人間相手にしたとき深刻な被害が生じる。

 他人の心(犯されたくない,殺されたくない,傷つけられたくない,盗まれたくない等)は,そもそもそこに心があるからこそ,「読みと力」が発達する。

 誰も意思がなければ,共感能力を発達させる必要性がない。

 相手の意思を確認する能力,それが共感能力であり,これは人間前頭葉にあるミラーニューロンによって機能する。

 この前頭葉には,ブロカ野といって言語を司る機能がある。

 言葉とは,相手の表情や筋肉の動きからではなく,より的確に「相手の心」を把握する手段だ。だから,人間だけが言語を発達させた。

 「他人と連携するため」に。

 動物は,一体でいきている。そこに「他人」という概念がない。

 だから,法律も守らないし,法律という意識がそもそも存在しない。他人の所有権という概念を理解できない。そして,たいてい,言葉がろくに話せない。

 単語を発することが出来るが,オウムのように何かを模倣して繰り返すか,コピーのみできる。どれも「不適切」な用法で。

 だから,人間社会言葉を話せない者,聞けない者を人間として認めない。

 (ただし,その人が幼児または動物にかこまれて半生を生きたため言語能力が発達していない場合除く)

 動物世界では,反対に言語を自由にあやつる者を「動物として認めない」。

 さて,以上までは社会科学の立場から論じた。

 自然科学の立場から,「動物」を論じることが今,世界中で起きている。

 事の発端は,「恐怖の大魔王」が世界を滅ぼすという予言のあった1999年,人類起源そのものをかえてしまう発見ポルトガルであったことだ。

 人間サピエンス)と,旧人ネアンデルタール)の混血化石発見されたことだ。

 2002年,米ワシントン大のアラン・テンプルト博士が,人類の常染色体の10座標から,原人旧人の血統を発見した。

 2008年,この研究発表に対して様々な反論がくわえられたが,ついに断念,人類の「混血」が確定した事実となった。

 混血の頻度は,西欧がもっとも低く,ついで東欧中央アジア東アジア,の順となっている。

 ネアンデルタールは,人間に似た形をしているが人間ではない。共食いが大好きだし,空腹になればまず子ども妊婦を殺して食べる。

 感情的になればすぐ相手を殺すし,つまるところ他の動物となんら違いはない。

 ボスの座をめぐって,殺し合いをするチンパンジーの習性と全く違わないし,子どもの脳(栄養価の高い)を食べて空腹を満たすチンパンジー母親となんらかわることはない習性を持つ。

 言語ははなせないが,石器などから人間の真似をすることはできる。勿論,劣化コピーとなる。

 旧人はお互いに交流しないと連携しない。だから,交易はない。たいてい,近親相姦によって子孫を増やす。

 遺伝的に等しいので,近親相姦をしても問題がないのだ。

 進化の速度がはやい人類は,劣性遺伝があるので,近親相関は奇形児の生む確率が高い。しかし,旧人進化の速度が遅くて均一しているので問題ない。

 勿論,「旧人との混血なんて無いはずだ」と感情的にただ叫ぶ者もまだ世界には多い。

 だが,考えてもみてほしい。

 人間であるあなたは,「全て人間だ」つまり自分と同じだと思えるだろうか。「全て」に対して。

 エドマンド・バーク偏見の大切さを論じた。

 人間の「裸の理性」(思いつき)によって為されたことは失敗し,長い歴史時間の積み重ねによって得た英知が,「偏見」にあると論じた。

 確かに,一つや二つ異常をみたところで,人は先入観を抱かない。

 歴史的に連続した「異常」によって,偏見が形成される。偏見は,すぐにはつくられない。

 もちろん,偏見の中にも,時代の変化によって不適切なものが含まれてくる。その場合は,再び時間の経過によってその事象が偏見の中から削除される。

 あなたは,今までの人生の中で,明らかに「人間ではない存在」を多く見たり,或いは新聞ニュースの伝聞で聞いているはずだ。

 犬は犬に対して異常とはおもわない。しかし,人間が犬の行動をもし「人間がしていたら」と思うと,「異常だ」と思う。吠える,噛む,糞尿をたれる。

 しかし,「あれは犬だから」と認識することで自然だと考える。だが,もし犬が形態的に人間とあまりかわらない形をしていて,かつコピーされうような人間言葉をある程度再生できる能力を有した状態で,「犬の行動」をしたらどうなるか。

 「異常」とあなたは感じるだろう。

 なぜならば,人間の中には,吠えたり噛んだりする者はいないからだ。

 しかし,人間の形をしていることに違和感をおぼえる。

 あなたは「視覚」と「偏見」どちらが正しいと思うだろうか?

 あなたの偏見は,人間価値基準での偏見だ。

 参考までに,一つの「事実」を示そう。

 「プレ・ネアンデルタール」というのがいる。これは人間とそっくりだ。何故ならば,人間から分離して別の進化(まはた退化と呼ぶべきか)を遂げてから間がないからだ。

 そして,旧人には渡航能力がない。まだ島と大陸が同じだったとき,または氷河期に海面が凍結していたときに徒歩で移動した。

 従って,原則,アフリカユーラシア大陸にしか旧人はいなかった。

 イギリス日本にも徒歩で移動できるが,島であればそこにいるだけの旧人を殺してしまえば,後から「次は来ない」。

 旧人に接した人間は,どう変化するのだろうか?

 以前まではの内容は,いままで散々日記に書いてきた。過去4年間にわたって書いてきた。

 ここからが,「旧人と接しつづけた人間は,どうなったか?」という新しい考察だ。

 いや,そもそも「なぜ,旧人人間から離れてしまったのか」。

 進化論インテリジェンスデザイン論も,根拠がない。

 人間は猿から進化したといっても,その「進化した様子の化石」がいまだ発見されず,「失われた輪」であり,想像の産物に過ぎない。

 一方で,神などの知的存在人間デザインしたという説も,具体的な根拠がない。進化論ID論も物証がない。

 しかし,私はアラブ人,シナ人,朝鮮人などをみて思うのだ。

 「彼らが,次の旧人ではないか」と。

 次の,というのは現時点で彼らの中にホモサピエンスがいることに違いはない。しかし,明らかに彼らは島嶼部の人類形態的にも試行的にも異なる。

 専門的なことをかくが,島嶼部の人類および「アダム」の時代とされる初期のホモサピエンスの頭示数は81以上-86未満であるのに対して,大陸人類は頭示数が86以上であり,サピエンス形態的に変化しているのだ。学術的には「過短頭」と呼ばれる。

 もはや,目でみて「大陸人間だ」とわかるようになるまで形態的な差が生じてきている。

 ここで私は考えた。

 もし,生まれたときから旧人と共に生活し,それが何世代にもわたってしまえばどうなるのか。

 恐らく,心を持つこと自体不毛であり,精神的につかれてしまう。他人をおもいやる気持ちをもっていても相手は自分を尊重しない。

 愛しても愛されない。守っても守られない。盗まなくても盗まれる。犯さなくても犯される。傷つけられなくても傷つけられる。殺さなくても殺される。

 この時,「他人を思いやる気持ち」(共感能力)を持つ人間は,精神的に疲弊して,やがて死んでしまうのではないか。死ななくても,子孫をつくる気力さえなくなってしまうのではないか。

 こうして,人類の中にも,旧人と共に暮らしてきた者は,「共感能力をなくす」つまり,退化するということで,旧人に対応したのではないか。

 動物に対応する方法は二つあって,動物を殺して統制して飼い慣らすか,或いは自分自身も動物になってしまうことだ。

 能力の高い人間動物を統制して対応し,能力の低い人間は同化したのではないか。その際に,全てを捨ててしまったのではないか。

 つまり「人間性」を。

 朝鮮人,シナ人への偏見は,「非人間性」を持つ。それは今更説明しなくても報道をみればわかる。

 そして,旧人ユーラシア大陸に分布していた。原人も同様だ。

 彼には明らかに退化している。人間としての機能が退化している。「他人を思いやる心」が無い。共感能力が無い。法がない。

 退化することで,自然淘汰を免れ,旧人と共に暮らす進化ベクトルおせんだのではないか。

 ここで一つの答えがある。

 どうして,プレ・ネアンデルタール人間から分離してしまったのか。後期型ネアンデルタールは明らかに人間と違う形態をしているが,初期型ネアンデルタール,つまりプレネアンデルタール人間と極めて似通っている。まだ分離して間がないからだ。

 このため,「進化している」と当初勘違いされた。実際,ネアンデルタールは80万年前に人類から分離して「退化」したのだ。

 なぜ退化したのか。

 そこには「原人」がいた。原人にふれた人間が,「他人を思う心」をなくすことで適応し,それが旧人へと「退化」したのではないか。

 ならば,大陸に住む人類の末路でなはないか。

 彼らは知能の問題から,人間動物を見極める能力を有さない。だから信じては裏切られ,ということを繰り返し,そのうち考えることも信じることもやめて,機能そのものを遺伝から削除した。

 退化した。

 それが生きる術だった。

 島嶼部の人間は,旧人を殺せば次はこないため,人間同士で生活し,人間特有の機能をそのまま進化させた。

 協力すること,信じること,愛すること,理解すること,尊重すること。

 アルフレッド・セイヤー・マハンによれば,シーパワーランドパワーはあきらかに区分することが出来るとする。

 それは地政学上の問題では論じることの出来ない,思想・思考の違いがある。

 ホモサピエンス,つまりアダムの子孫が住む地域は,日本イギリス台湾,およびこれらのイギリス人の子孫が入植した地域に限られる。

 その日本でさえ「人間が混じっている」という状態だ。

 なにしろ,1万年前まで日本大陸は陸続きだったのだから。

 人間人間でいることは,孤独の場合つらいことだ。

 自分が信じても相手は信じてくれない。自分が誠実にしても相手は適当。与えた分だけ相手に着服される。

 そんなことを繰り返していては,自分が死ぬ。だから,死ぬ前に彼らを殺すか,或いは自分自身が「彼らと同じになる」しかない。選択肢は二つしかない。

 私は,旧人を殺すことが正しいと思う。

 それは私の生育環境人間が多かったことが原因していると思う。

 私のこの意思は,ここに矮小ながら発信している。

 あにたは私の意思に共感するだろうか?

 もし共感したならば,もっと私を知って欲しい。私の考えや発想を暗記するほどに知って欲しい。そして私の目的をより理解してほしい。

 それがあなたの利益になるのだから。

 一体だれが,愛のない世界,他人の協力のない世界に生きたいのだろうか?

 この文明は,一人ではできない仕事だ。

 「他人を信じ合い,協力すること」でビルがたつ。製品が出来る。

 人間社会幸福を私たちはしっている。

 これを壊すことなく,維持発展させるには,旧人原人を皆殺しにすることだ。

 その方法は,唯一,私たちが共感能力をもちいてお互いに共感しあうことになる。

 共感すること。それが人間の力だ。

最近は「DISりたい奴の文章を勝手増田転載してブックマーカーに叩かせる」という手法がはやってるらしいので、某所で見かけた電波文を載せてみました。

2008-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20080905042139

本を読まない人間軽蔑していた。

こいつまったく勉強する気がないな、と。

「こいつまったく勉強する気がないな、と本を読まない人間軽蔑」する理由は明らかに自己肯定だよね.

単なる自己肯定で他人を軽蔑するほどではないと思うよ.

人生一生勉強だけど, 勉強学問したくない人もいるし, ニコ動から勉強できるすごい人もいるらしいし.

まあ学術系の知識や智慧はつかんだろうが

  • 人の品性は、その読む書物によって判ずることができる。スマイル
  • 書物なき部屋は魂なき肉体のごとし。キケロ

いわく、「そんな本読んでなんの役に立つの?」

月20-30冊ってレビュー書くわけでもないんだから多少趣味が入ってるよね?

役に立つかどうかと趣味関係ない.

  • 私が人生を知ったのは、人と接したからではなく、本と接したからである。アナトール・フランス
  • 書物は青年時代における道案内であり、成人になってからは娯楽である。コリア
  • 書物を読むということは、他人が辛苦してなしとげたことを、容易に自分に取り入れて自己改善をする最良の方法である。ソクラテス

確かに読んでも役に立たない本も多い。そんなにバリバリ読む必要はないのではないかと思う。

趣味ならバリバリ読む理由にはなるね.

いわく、「勉強してる気分になりたいだけなんじゃないの?」

趣味なら別に構わんだろうね.

読みたいから読んでいるんだが、なぜ読んでいるかと聞かれると、読んでないことが不安だから、勉強し続けてないと不安だから、というのもあるように思う。

継続趣味の一環だろう.

いわく、「実体験から積み上げたものじゃないと信用できないよ」

科学は実体験によらないけど信用できるよ」

  • すべて良き書物を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話をかわすようなものである。デカルト

本を読みすぎること自体、自分で考えることを放棄しているんじゃないかと自問することもしばしばだし。

確かに読むことに時間を取られると 考える時間が減るけど放棄とまでは言えないな.

まある程度考える時間を取るべきではあるが:

  • 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。ショウペンハウエル
  • 紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。―ショウペンハウエル
  • 読書しているときは、われわれの脳はすでに自分の活動場所ではない。それは他人の思想の戦場である。ショウペンハウエル
http://anond.hatelabo.jp/20080905100608

でも、俺より稼いでる。(1個上なんだけど、月収で5万は違う)

能力給料は相関でしかないから気にするな.

で、俺、読んだ本を読書録的にブログにまとめてるんだけど、それをどうやら見られたらしくて。

それで、増田で書いたようなことを言われたんだ。

「恥ずかしいから辞めろ」「給料に繋がらない」「何の意味も無い」とも言われたかな。

「人のことなのに恥ずかしいとはどういうことか」「職場での居眠りが給料につながる理由を教えてくれ」「過去ログです」

資格試験の本だけ集めて、一回も開かないまま本棚に溜まってるの、俺、見てるよ?

彼は積読趣味なんだよ.

もしくはコンプリート

そう思ったら「○○さんも本の一冊も読んでから反論してくださいよ、エロゲばっかやってないで」って言っちゃった。

「○○さんも 実体験から積み上がったものじゃない脚本エロゲで、恋愛セックスした気になって、そんなにエロゲやって何の役に立つの?」

とでも言えばおk

所詮趣味

 
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