はてなキーワード: どっとはらいとは
話題になってからだいぶ時間が経ってしまった今更投下するのも何だが、レコ大の選定にYOASOBIの「アイドル」が入れなかったことについて、個人的な考察を。
ネットはやはりオタクが多いせいか、「この超人気曲が入れないなんてオールドメディアはブヒー!!!!!」というオタクらしい超近視眼的な話ばかりだったように思う。
実際のところどういう話なのかは想像するしかないのだが、落ち着いて考えれば「アイドル」がレコ大で触れられないのは当然なのだ。
何故なら、「アイドル」は知っての通り「推しの子」というアニメのために作られた曲だからである。
通常のタイアップ、例えばB'zの曲が「コナン」のエンディングに選ばれるのとは訳が違う。まさに「専用」な訳である。
そうなると当然、曲の評価は元となる作品の評価の延長線上に並ぶことになる。
他の曲からしてみれば、曲自体の評価に加えて元作品の評価も上乗せされた相手と戦うことになる訳だ。
これがかなり公平性を欠く事態であることは、冷静になればよくわかるだろう。別にアニメ蔑視という視点ではなく、そもそも別枠にするしかない訳である。
また、「アイドル」の場合はMVも「推しの子」そのものになっている。この辺りの権利関係の調整も困難なのだろう。
と同時に、これは「レコ大」という企画自体の限界でもあったのだろうと思う。
タイアップを通り越した「ある作品の専用曲」を評価しようと思うと、その作品のプロジェクト全体を評価するような形になってくる。それはもう「レコード大賞」の手に負える話ではない。
おそらくアニメソング、それもタイアップではない専用曲で、一般曲に迫り追い越すような人気曲が出てくること自体が、想定外だったのではないか。
もうすぐ11月も終わり、レコ大だ紅白だと年末モード特番の話題が増えてくる時期に、そんなことを思ってみる。ああ、ダメだ、うまいシメが思いつかないのでこれで勘弁。どっとはらい。
保険金請求窓口なんて安価なコールセンター要員で成り立ってるからマニュアル通りの対応になるのはそりゃあ当然…保険なんか入れないような安い賃金で働いてる人間がなるべく給付されるようにご親切に動くはずなんかねぇのよ、と派遣同士で笑っとるわ
保険金請求の書類だってろくに読まずに平気で不備だらけで出してくる気狂いに限って何で金が出ないんだってキレて喚き散らすんだよなぁ
お前が書類をきちんと読まず、揃える必要のある書類を出さず、こっちからの再三の要請を無視してるからだが???と何度思ったことか
生保より損保の方がコルセン対応が楽だと聞くけどどうだろう。クレカ会社と生保はどっちも似たようなもんだったな。悪い方向で。
そもそも保険営業の人たちも自分の売る保険の商品のことは知っててもその他の保険周りのことなーんも知らんのよな
末端営業がコルセンに客からの質問丸っと投げてくるのなんか日常茶飯事
でも保険営業で食ってきたガチベテランのおばちゃんたちは全然違う
コルセンにかけたらどこまで解決するか、第一声どういう内容でかければ話が早いのか、そもそも請求の流れも把握してるから客にある程度説明もしてるからそういうおばちゃんの客はどういう電話をどこにかけて何を用意したら良いのか分かってかけてくるから書類手続きの手戻りもなくて給付もスムーズ
こっちもそういうおばちゃん営業から電話がかかってくると、この人デキる…!ってなる。SVへの引き継ぎラインも見極めやすいし助かる〜
保険営業の資格、めーっちゃくちゃ簡単に取れるから、就活失敗したコミュ力ない若い女の子の営業とかしょっちゅう入ってくるけど絶対頭の回転が早くて賢い人じゃないと続かないだろうなと思った
2年コルセンやってて営業に正社員で入るか辞めるかって話になったけど絶対無理www自分コンプラ意識も向上心もゼロっすわwwwwって思ったから辞めた
現在ネット上で私に対する告訴をちらつかせている人物は、その人物の元・妻であると私が称したと主張している。しかし、文章の修正の前も後も、私はそんなことは一言も書いていない。その点に関してだけは明確にしておく。
2022/05/30告訴をちらつかせている人物がいるが、私はその人物の元・妻ではない。繰り返しになるが、最初から私はそのように称していない。本来ならば、セクシャルハラスメントの被害者として、特定されたり好奇の目に晒されるような二次的被害を防ぐために個人情報を曖昧にして書いた。それなのに、告訴をちらつかせている人物からは「自分の元・妻ではないから、このセクシャルハラスメントの被害の話は虚偽」と言われ、私は非常に苦痛を強いられている。痴漢冤罪をピックアップすることで痴漢の被害者の声を掻き消そうとする人たちがいるが、それと同じことをセクシャルハラスメントの被害者に対して行っていると、告訴をちらつかせている人物には自覚して欲しい。
以下の話は、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
ーSLAPP訴訟を準備している人に対する注釈ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最初に発表した時点では無かった「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、上のとおり書き加えることにした。後に続く部分でも同じ書き加えをした。この、たったの一文を挿入することが、私には耐え難い苦痛だった。私自身のハラスメント被害を無かったことと、皆の前で宣言しろと言われているような気持ちになったからだ。私は今、トイレに行って嘔吐してから、この部分を記している。結局、あの頃と同じく今の私も、保身のために自分の主張を引っ込めたことになる。
ーSLAPP訴訟を準備している人への注釈・終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
元・夫が、ある場所で「離婚したとはいえ、元・妻が傷つけられるのは許せない。何らかの対応を検討する」と言っていることを知った。この元・妻というのは、何を隠そう私のことだ。はてな匿名ダイアリーに書いているのだから、隠すも正体を明かすもないが。
「傷つけられる」と元・配偶者が言っているのは、かつて私がある人物から受けたセクハラについての情報が広まって、私が心無い言葉を浴びたり、中傷される状態を指しているようだ。
今になって「元・妻が傷つけられるのは許せない」と言い出すぐらいなら、何故あの頃、言ってくれなかったのか。そう思って、元・配偶者ながら、というか元・配偶者だからこそ余計に、私はゲンナリしている。
私にセクハラをした加害者は、元・夫の仕事上で付き合いがあり、仕事以外のプライベートな時間や場でも私たちと交流が有った、私たちよりも年長の男である。
加害者は、私にセクハラしただけでなく、そのことを仕事仲間などに自ら話したりもしていた。懺悔としてではない。愉快な話としてである。つまり、セクハラをされた時にだけでなく、その後にも継続的に、私は傷つけられ続けている状態に置かれていた。
セクハラされた時、私は「そういうことは止めて下さい」と加害者に対して言ったのだが、私の憤りや恐れや嫌悪の感情をまるで理解しようともせず、軽い口調で「ゴメンゴメン」みたいな感じで誤魔化されただけだった。今でも「もっと強い口調で言えば良かったのでは?」「いっそ殴ったり蹴ったり物を投げつければ良かったのでは?」「何故あの時、もっと適切な反撃ができなかったのだろう」と、自分自身に対して不甲斐無さを覚えて、自己嫌悪に陥ることが度々ある。
さらに私が苦しむ原因になったのは、その頃は婚姻関係にあった現在の元・夫が、私の側に立ってくれなかったことだ。
加害者から私がセクハラを受けたこと、それに対して私は憤りや恐れや嫌悪を感じたこと、加害者へは私に対する謝罪をするように要求して欲しいことを、その頃は夫であった彼に訴えた。それに対する彼の反応は「あの人も悪気があった訳ではない」とか「あの人は昔気質の人だから」とか「あの人は冗談のつもりだったのだから、怒るのも大人げない」とか、概ねそういった言葉だった。漫画『寄生獣』でパラサイトと会話する主人公・新一が、昆虫か何かと話している気分に陥る描写があったが、私も新一と同じような気分だった。つまり元・夫は、加害者の側の人間だった。だったという過去形ではなく、であるという現在形で言うべきだろうか。
会社勤めとか役所勤めの仕事などであればその組織に訴え出て処分を要望するとか、金銭や知識を持っていれば弁護士などに相談するとか、何かしら対処の仕方があったかもしれないが、私は上手いやり方を思いついたり実行したりすることは出来ず、そうこうしているうちに私たちは、元・夫と元・妻という関係になった。
あの頃、彼は「馬鹿馬鹿しい話だ」と言った。近頃の彼は「これまでは馬鹿馬鹿しい話だから取り合わずに放置していたが、いい加減、噂を広められて元・妻が傷つけられるのは許せない」と言っているようだ。私にとっては、あの頃も現在も、少しも馬鹿馬鹿しい話ではなかったのに。
私の元・夫が「馬鹿馬鹿しい話」として放置できなくなったのは、決して私が苦しんでいることが理由ではないことを、私は知っている。元・夫が黙っていられなくなったのは、加害者の男が批判されているからである。元・夫は、あの男のことが大好きなのだ。
最近では、何処の業界や職場でも大なり小なり、セクハラは良くないことであり、するべきではないし、セクハラをする人がいれば止めたり批判するべきであるという意識が浸透し始めた。私にセクハラをしたことを愉快な話として吹聴していた加害者の男と、私を救ってはくれなかった元・夫が関係している仕事の世界にも、少しは変化があった様子で、私に対するセクハラの話を愉快な話とは受け止めてはもらえなくなったと聞いている。
このため、加害者の男は「大袈裟に話して誤解を招いた」と言うようになったらしい。大袈裟?誤解?私にしたことを、そのまま本人が言い触らして回っていたのに、いったい何が大袈裟で何が誤解なのだろうか。
元・夫は、誰に対して、どんな対応をするつもりなのだろうか。私がされたセクハラの話を誰よりも他人に広めたのは、ほかならぬ加害者本人なのに。元・夫は、加害者を批判したり止めたりしてくれなかったのに。まさか、加害者を批判する人たちに対して「元・妻が傷つくから許せない。セクハラについて語るのを止めろ」と言うつもりなのだろうか。仮にそうだとしたら、それを何故あの頃、加害者に対して言わなかったのだろうか。元・妻である私を救おうとしなかったことが知れ渡ると、元・夫としては困るのだろうか。
セクハラの被害者が、セクハラの加害者に対する批判を食い止めるために、よりによって元・配偶者から利用されるという救いの無い境遇を知ってもらうために、理解してもらうために、自分の気持ちを吐き出すために、はてな匿名ダイアリーに書いた。
以上の話はフィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。最初に書いた時には、ここに「どっとはらい」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このフィクションの日記に書かれた人間関係が、具体的に誰のことを指すのかに関して、はてブで推察と特定が試みられている。それに対する答えのようなものを記しておく。
以下もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。
私は、人物特定に関する推察を肯定、否定のいずれもするつもりは無い。答えは無い。それが答えである。実在の人物・団体・事件には一切関わりはない。
そもそも特定が可能ならば、匿名ダイアリーに書いたりする必要は無く、私も現実の世界で対処しているはずだからだ。
一次的なセクハラが反復的に行われていれば、それを例えばボイスレコーダーで録音するなどして証拠を固めて私も反撃できただろうと思う。しかし、一次的なセクハラが突発的・単発的なものであった場合、被害者は驚きやパニックなど心理的な硬直状態に陥って、証拠固めなど実行できずに終わることが多い。たとえ複数回、継続的に行われるセクハラであっても、被害者が恐怖心で萎縮するなどして理性的に思考するのが困難な状態に陥り、やはり証拠固めをできないことは珍しくない。
私に対するセクハラを愉快な話として加害者が吹聴していたという、二次的な加害行為に関しては、その話を聞かされた人たちの記憶にも残っている。しかし、一次的な加害行為そのものに関する証拠が残されていない状態では、加害者が今になって主張する「大袈裟に話していただけで、事実ではない」という言葉を覆すのは、極めて困難だ。
二次的な加害行為だけに関して言えば、それ自体がセクハラなので、その被害を司法機関などに訴え出ることは理論的には可能かもしれない。しかし、それを仮に私が実行したとしても、やはり加害者は「大袈裟に話していただけで、事実ではない。しかし、たとえ事実ではなかったとしても、愉快な話として触れ回ったことは被害者を傷つけた。だから、そのこと(二次的な加害)については謝罪する」といった、一見すると謝罪に見えるが、肝心の一次的なセクハラ行為については否定する言葉を述べるという手法をとるだけであろう。
私が、何よりも加害者に認めて謝罪して欲しいのは、一次的なセクハラ行為についてなのだ。それなのに、加害者にとっての都合が良い主張を、それを覆す手段も持たないままに聞かされて、挙句の果てには「一次的なセクハラ行為については、認定が困難である」と公的に結論づけられるかもしれない。そう考えると私は、とても精神的に耐えられない。もっと悪い方向に想像を巡らせ、加害者が「むしろ自分の方こそ、セクハラしたと誤った情報を流されて苦しんだ被害者の立場だ」と、SLAPP訴訟などで私を攻撃してくるかもしれないとも思って恐怖すら覚えた。元・配偶者ですら助けにならなかったという、孤立感も私を動けなくした。
こうして私は、自分が受けた一次的なセクハラの被害を決して忘れたわけではないのに、無力感や恐怖感から口を閉ざすことを選ばざるを得なかった。私が口を閉ざしているから、どうせ何もできないと高を括って「大袈裟に話していただけ」と言い張ることで、加害者は乗り切ることにしたのだろう。元・配偶者から「セクハラと思われるようなことは無かったよね?」と誘導され、無力感や孤立感から沈黙することを選んだので、加害者が私のことを何もできない人間と値踏みしたのも無理はない。
加害者の男は、私に対するセクハラを無かったことだと言っている。つまり、私に対して行ったセクハラの話は、加害者の男にとってはフィクションというわけだ。私を登場人物にして作り上げた、馬鹿馬鹿しいフィクションだ。
ならば、と私も考えた。
私が私自身にとってのフィクションを作ったとしても、特に問題は無かろう。今度は私のターンなのだから、私の周囲の人物を登場人物として、馬鹿馬鹿しいフィクションを書いたというだけのことだ。柳美里の作品とは異なり、人物特定もできないように最低限の配慮もしてある。人物の特定ができないということは、私の受けたセクハラは日本の社会でありふれた話なのだ。それに、加害者とは異なり、私は私のフィクションを現実の周囲の人たちに言い触らしたりなどしていないのだから、私の配慮に少しは感謝してもらってもいいぐらいだ。
世の中のセクハラ加害者たちは、私たちのような被害者たちが沈黙しているからといって、セクハラした過去を全く無かったことにできるなどとは思わない方がいい。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』の中で、法的に罪に問えない人物に対して京極堂が呪いを掛ける描写があったが、このフィクションも呪いとして書いたようなものだ。呪いが在るのか無いのか私には分からないが。
以上もまた、フィクションである。実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。一つ目の追記を書いた時には、ここに「とっぴんぱらりのぷう」という言葉を記したが、それは、めでたしめでたしという意味らしいので、この先の未来の私に少しでも幸いが有ればと願いを込めていたからだ。しかし今は、私は少しも救われなさそうだと理解したので、その言葉を消すことにする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は、自分が誰なのかも、文中に書いた登場人物が誰なのかも書いてはいない。私は誰それの元・妻ですとも書いてはいない。
では何故、私はフィクションと銘打って、人物を特定しない書き方をしたのか。それは、これが「普遍的な物語」だからだ。被害者となる人間、なった人間は、私だけではなく誰でもあり得るし、加害者もまた同じく誰でもあり得る。被害者の側に立たないで、加害者の側に立つことを選択する第三者も、同じく誰でもあり得る。だからこそ、読み手に「これは自分のことを書いているのでは」と自問自答して欲しくて、自省を促すために、そういう書き方をしたのだ。そういう意味でならば、読み手に「自分のこと」という思いを抱かせる狙いが有った。想像力がある読み手ならば、性別を入れ替えたりセクハラをパワハラに置き換えたりして、考えを深めてくれることだろうと淡い希望も抱いていた。
しかし、それを「これは自分のことを書いているに違いない。だから自分に対する名誉毀損だ」と決めつけられて、法的な措置をちらつかせることで圧殺しようとする人間が出てくるとまでは思いもよらなかった。それはまるで『ホテル・ルワンダ』の公開に対して「これは関東大震災の朝鮮人虐殺を描いていて、日本人を攻撃している。日本人に対する名誉毀損だ」と言うようなものではないか。
自分のことではないならば「この文章に書かれた人間の同類にならないように、自分は気をつけよう」と省みれば済むことではないか。
私が「ある人物の妻ではない」ことによって、何故「私がセクハラを受けた話」まで無かったことにされねばならないのか。ルワンダの虐殺被害者でなければ、虐殺の被害者ではないと言うつもりなのか。自分たち以外に、この社会を構成している人間が存在しないとでも思っているのか。
仮に、ある痴漢事件で冤罪により罪を問われている人間がいたとしても、それとは別の痴漢事件の被害者に対してまで、被害を訴えたり加害者を批判したとしていることを「これは冤罪で苦しんでいる自分のことを書いているに違いない」と決めつけて「痴漢の冤罪を作るのは止めろ」と言うのは、いくらなんでもおかしいではないか。
セクハラを含めたハラスメントの被害というものは、とても苦しい。それ自体が苦しい上に、顔や名前を出せば好奇の目に晒されて、さらに苦しむ。その一方で、その苦しみを誰か他人に分かってもらいたい、共感してもらいたいという思いも湧く。以前、はてな匿名ダイアリーでは「保育園落ちた、日本死ね!」という記事が書かれたということを知っていた。だから、ここでなら匿名を保ったままで、自分の辛い気持ちを吐き出して理解や共感を得られると思ったのだ。
それを今、私は「お前は自分の妻ではない。だから、お前のセクハラ被害の話は嘘に違いない。正体を暴く」と脅されている。理解や共感を示してくれる人ばかりではないだろうとは予測してはいたが、まさかSLAPP訴訟によって口を塞ごうとする人が出てくるとは思わなかった。
私は、私が救われるために、私自身の物語を書いた。私自身の人生や尊厳を、無かったことにされたくなかったから。セクハラだけではなく、ハラスメント全体を減らしたい、無くしたい気持ちがあったから。たとえ過去の自分は救われなかったとしても、未来の他の誰かが同じような苦しみを味わうことは防げるかもしれないと思ったから。
「この文章は自分のことを書いている。だから許せない」と言う人間は、私が私自身の話を書く行為について、許可や不許可を下す権限が有るのか。例えば「今、そんな文章を書かれると、自分が誤解を受けて困るから止めろ」とでも言うつもりなのか。では、私は、いつになれば声を上げることを許可されるのか。一年後か?五年後か?十年後か?その日は、やって来るのか?文章を修正し始めて理解したが、そんな日が来ることはなさそうである。
この文章を書いた人間である私が、ある特定の人間の妻ではないからという理由で、嘘つき呼ばわりされて、勝手に私の苦しみが無かったことにされるのは、極めて心外である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、苦渋の決断とはいえ書き加えたことで、私の文章からは普遍性が失われた。私の文章を読んだ人間の誰もが皆、セクハラを含めたハラスメントの問題を自分自身のこととして受け止めて欲しいという思いから書き始めてアップしたはずの文章だったのに、今の私は、一部の人間をこの問い掛けの対象からは除外しようとしている。とんだ腰砕けだ。私は、セクハラを無くしたいと言いながら、土壇場になって、我が身かわいさの保身に走ったのだ。このクソみたいな自分自身のことを許せない。私にはセクハラやハラスメントを無くすことはできそうにないと思い知った今、絶望しかない。
宮沢章夫『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版)を筆頭に、ピテカンの誕生は1982年3月と
言われているのだけれど、磯部涼氏がcakesで連載していた『日本語ラップ史』にはそう書いていなかった。
例えば、2017年6月16日に投稿された「中西俊夫はNYでアフリカ・バンバータを聴いた〜ピテカン誕生前夜」では、
と書いてある。で、どっちが正しいんだろう、と思った。
このときは、cakesの無料部分しか読んでおらず、ちゃんと読めばわかるかな? と思って有料会員に登録し、
すると2017年5月26日の記事、「戦後、原宿の変遷〜セントラル・アパート、竹の子族、ピテカン」では、
となっている。ん? やっぱり3月? と思ったが、
2017年6月9日の記事、「映画『ワイルドスタイル』と原宿「ピテカントロプス」の交接点」では、
と書かれていた。これはタイプミスなのかもしれないが、それにしても、と思う。なにしろ
「「日本語ラップの歴史」をはじめてひもとく」連載なのである。磯部涼氏も2017年5月11日のツイッターで
と述べている。そういう場所にあって、ヒップホップだけではなく、アートや演劇、80年代の
ロック等とも関わりの深いピテカンの開業日すらぶれている、て、どうなんだろう。
どうなんだろう、と思ったので、その旨を先月(2022年1月)ツイートした。そうしたら、なんと、
連載の記事がほとんど消えてしまった。2017年の連載以来、ずっとインターネットに漂っていた
磯部涼『日本語ラップ史』から、上記にあげた「中西俊夫は〜」も「戦後、原宿の変遷〜」も
「映画『ワイルド〜」も全部、きれいに「記事が存在しません」になった。
私のツイートは全然バズったわけではない。0いいね、0リツイートだ(普段からそんな感じ。な、なによ!)。
だから関連があるかはわからない。偶然、cakesのサイトに異常が生じたのかもしれない。スクショとか魚拓もない。
だから上に書いてある内容も、実際そう書いてあったか保証はできない(なにしろ記事が全部消えてしまったので)。
記事の無料範囲のキャッシュがグーグルに残っていて、6月16日に「12月20日」と書いてあるのは読めたけれど。
私は別に、これが悪いことだとは思わない。記事の内容がちがっていることも、インターネットに
おそらくそれは「達成感」を求めたがゆえなんだろうなと思ってる。
女性差別をなくすための運動の「わかりやすい成果」はめったに出ない。
それこそ5年10年かけて少しずつ改善していき、そういえば昔よりはずいぶん生きやすくなったなあ……と、ある日ふと気づくくらいのゆっくりな速度でしか社会は変えられない。
でも、「活動家」はこのゆっくりとした変化のスピードに耐えられないんだろうな。
自分が達成感を得て、周りに誇れるような、わかりやすい成果を欲しがる。
それこそ獲物の首を掲げるハンターのような達成感を求めた結果として目をつけられたのが
集団で抗議した結果として、大企業の広告を取り下げさせるのは、さぞ心地よい達成感を得られただろう。
そうして得た「撃墜マーク」を増やして仲間内で共有するのは、さぞ誇らしかったことだろう。
そうして、すぐに結果の出ない「現実世界の女性差別の解消」をおろそかにして、
夏からしばらくです。
10月の末から天気のいい週末を使って、めだかの冬越えの準備をしてきました。今日もなんとか晴れたので、まだやっていない水槽のめだかを移動しました。移動というのが何かというと、東面の水槽から南面の水槽へめだかを移す作業です。寒くなってくると東側と南側で温度差が出てきます。南側が比較的に暖かいので、南側の水槽へめだかを移していきます。今年はサンルームとなっている物干し場にも水槽を確保しましたので、気分的に楽です。
めだかの命に貴賤はないと思うのですが、市場価格というものがありまして、冬越えに失敗したときに備えて、高めな価格設定の「幹之(みゆき)」は、家の中の水槽に避難してあげたくなります。というかすでに白メダカの水槽で死亡案件が出ております。やっぱり東面の気温低下は想像以上のものなのでしょう。南側に避難させて正解のはずです。
今日はしばらく放っておいたたらいを探ってみたところ、生き残った幹之が10匹と大きなヤゴが3匹上がりました。本日捕獲したヤゴはでかいです。近くのクモの巣には、赤とんぼが捕獲されておりました。こいつも我が家のたらいの水面を狙ってきたのだなと思いつつ、クモ君のナイスプレーに拍手を送りたくなりました。