はてなキーワード: ピテカントロプスとは
そしてピテカントロプスになる日も近づいているという…
ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ
ピテカントロプスになる日が近づいたのか?
宮沢章夫『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版)を筆頭に、ピテカンの誕生は1982年3月と
言われているのだけれど、磯部涼氏がcakesで連載していた『日本語ラップ史』にはそう書いていなかった。
例えば、2017年6月16日に投稿された「中西俊夫はNYでアフリカ・バンバータを聴いた〜ピテカン誕生前夜」では、
と書いてある。で、どっちが正しいんだろう、と思った。
このときは、cakesの無料部分しか読んでおらず、ちゃんと読めばわかるかな? と思って有料会員に登録し、
すると2017年5月26日の記事、「戦後、原宿の変遷〜セントラル・アパート、竹の子族、ピテカン」では、
となっている。ん? やっぱり3月? と思ったが、
2017年6月9日の記事、「映画『ワイルドスタイル』と原宿「ピテカントロプス」の交接点」では、
と書かれていた。これはタイプミスなのかもしれないが、それにしても、と思う。なにしろ
「「日本語ラップの歴史」をはじめてひもとく」連載なのである。磯部涼氏も2017年5月11日のツイッターで
と述べている。そういう場所にあって、ヒップホップだけではなく、アートや演劇、80年代の
ロック等とも関わりの深いピテカンの開業日すらぶれている、て、どうなんだろう。
どうなんだろう、と思ったので、その旨を先月(2022年1月)ツイートした。そうしたら、なんと、
連載の記事がほとんど消えてしまった。2017年の連載以来、ずっとインターネットに漂っていた
磯部涼『日本語ラップ史』から、上記にあげた「中西俊夫は〜」も「戦後、原宿の変遷〜」も
「映画『ワイルド〜」も全部、きれいに「記事が存在しません」になった。
私のツイートは全然バズったわけではない。0いいね、0リツイートだ(普段からそんな感じ。な、なによ!)。
だから関連があるかはわからない。偶然、cakesのサイトに異常が生じたのかもしれない。スクショとか魚拓もない。
だから上に書いてある内容も、実際そう書いてあったか保証はできない(なにしろ記事が全部消えてしまったので)。
記事の無料範囲のキャッシュがグーグルに残っていて、6月16日に「12月20日」と書いてあるのは読めたけれど。
私は別に、これが悪いことだとは思わない。記事の内容がちがっていることも、インターネットに
ピテカントロプスになる日は、近づいたんだろうか。
ピテカントロプスにだいぶ近づいてまいりました‼️‼️‼️
これ地味に理想じゃね?
全部のソシャゲがこれやるべきでしょ。
「ソースコードも公開出来ないうちはまたやらかすだろうな」
ユーザーが長年言語化したくてもできなかった本当に求めていた答えがここにある。
究極の再発防止証明とは、ユーザーに公開できるように書き直したソースコードを元のソースコードと共に公開することだ。
最高の時代が来た。
ユーザーと開発者が共にゲームのソースコードについて意見を語り合える時代が来た。
これと比べれば今まで住んでいた世界は火を恐れる猿が跋扈する原始の時代だったのではないだろうか。
今、ゲーム開発の歴史はようやく石器時代に突入したのかも知れない。
ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ。
以下のカッコ内の文章について、作者の意図に最も近いものを選択肢の中から選びなさい。
「今日人類がはじめて木星についたよ(ついたー) ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ」
1,科学的な単語の意味は分からないがランダムに並べることで歌詞としての面白さを表現することはできる、という科学中心主義への皮肉
2,我々人類は科学的発展を続けているが、人類以外の種も進化をしており、我々人類とは異なる新たな進化の系譜も産まれるかもしれない
3,宇宙進出などの科学の進展ひいては人類の進化はとどまることを知らず、現在に生きている我々もいつかは古い人類種のように扱われるだろう
4,科学的発展はとどまることを知らずいつかは文明を滅ぼすほどのダメージを与え、人類は原人のような生活にもどってしまうだろう
私は今年30歳になるが、私の生涯でそれは実現しないだろう。
恐らく、西暦2250年ころなんじゃないだろうか。なんとなくそう思う。
2250年ころには日本と言う国家や日本人という民族は、私たちの想像できないほどに、今と異なっているだろう。
けれども予感のすることは、予感のすることはこうだ。
バンドたまはどこか文化や社会のどこかできっと、きっと生き伸びるのではないかと言うことだ。
そして現在の私たちでいう、ワイドショー的なものの2250年的なもので、木星への初の人類到達を報道する時、かならずたまのさよなら人類が流れることになると思う。
これは私にとって確信していることだ。私が死んだあと、2250年ころにそうなる。
なぜなら木星に到達したことで、ピテカントロプス(ジャワ原人)になる日が近づいたとたまが歌うからだ。
巨視的に見れば、ピテカントロプスになることも木星に人類が着くことも同じだ。
達成する、ある場所にヒトが進む。評価は措いておいて、ある場所に歩みを進める。
それが時空間の中で木星に着いたかピテカントロプスになったかの違いでしかない。
見事な循環的な発想だ。
だから想像もつかないけれど、私も未来のことを考えてもいいし、江戸時代の人だって250年くらい後のことを想像したっていい。
2250年代の人々だって、たまの「さよなら人類」が歌われたバブルのころに思いを馳せてもいい。
こういう理由を以て、2250年代にたまの「さよなら人類」が木星に着いたことを言祝ぐ歌曲で登場するし、私がそれを想像する余地をたまの「さよなら人類」は生んでいる。
彼の独特な作風は間違いなく評価されるべき才能であると思うのだが、ものすごい不遇。圧倒的に不遇。
地味な作家ならいろいろ打ち切られても当然だと思わなくはないのだが、彼に関しては間違いなく光る何かを持っている。それでいて埋もれている。
まずデビュー作の「少女奇談まこら」という作品があるのだが、これは未だ完結していない。
この作品は原作付きで、原作は平野俊貴(魔法騎士レイアースなどの監督)植竹須美男(アニメ脚本家)の2人。
「ゲゲゲの鬼太郎」をオマージュした妖怪漫画で、妖怪皇の血を引く少女まこらが、お供の妖怪と共に父母を探す旅に出るお話。
2006年にリイド社の月刊少年ファングで連載を開始したのだが、1年後にその雑誌は休刊。
作品自体は好評だったようで、その後、講談社のピテカントロプスというウェブコミック誌で「まこら〜ひひひ怪々伝」に改題して連載再開したのだが、これも08年の終わりあたりに突然の更新終了。無念。
その間に、講談社の別冊少年マガジンで「バニラスパイダー」が連載開始(2009年)。
別冊少年マガジンの創刊号の連載陣としてラインナップされ、そのおどろおどろしい世界観とSF的なストーリーでそこそこ注目された。
原作無しの完全オリジナルの連載は初めてだが、きちんとストーリーも書けることを証明してみせたわけだ。
だが、別マガには他に同じようなおどろおどろしい雰囲気を持った怪物的な作品があった。
こちらの作品は瞬く間に注目され、あっという間に人気作に。
一方バニラスパイダーの方は一部で話題に出るものの特にブレイクはせず、地道に連載を続けていたのだが、結局3巻で打ち切られることになった。
別に「巨人」に何の罪もないのだが、完全に陰に隠れてしまった感がある。
実はこの作品、3巻でものすごくきれいにまとまった傑作なので、最初から3巻の予定だったのでは?という疑問も浮かぶのだが、
序盤に出された伏線が回収できていないことと、3巻での作者のコメントを見る限り「打ち切り」だったのは間違いないと見ていい。
とまあここまでならありきたりな話だが、阿部洋一の不遇はまだ続く。
バニラスパイダー終了後、2010年末に今度はアスキー・メディアワークスの電子コミック誌・電撃コミックジャパンで「血潜り林檎と金魚鉢男」を連載開始。
コミックジャパンという名が付いてる時点で嫌な予感がするのだが(過去に短命に終わった同名の雑誌が2つある)、先に言ってしまおう。これも休刊する。
しかも、こともあろうに阿部洋一はこの雑誌で2つの連載をしていたのだ。
1つは前述の「血潜り~」、そしてもう1つはなんと連載を休止していた「少女奇談まこら」だったのである。
「まこら」連載再開時には大きく「復活」と取り上げられ、それまで発表された話数に加筆修正を加えた「完全版」の刊行、そして最後まで連載するという宣言もあり、ファンを歓喜させた。
そして「血潜り」と並行して連載されることになったのだが、結果は御存知の通り休刊で連載中断である。ひどい。
「血潜り~」は奇抜な設定の漫画で、第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品に選ばれたりとなかなかの高評価を得ていた。
「まこら」も連載再開後のエピソード「夢華族」が傑作中の傑作で、この作品はもう名作になること間違いなしだな、と勝手に思っていた。
それが休刊で2つ同時に中断である。「まこら」に関してはぬか喜びもいいところである。
休刊時の発表では、打ち切りではなく今後の動向は追ってお知らせするとなっていたが、いつまで経っても発表はされず、ついにはサイトまで消滅してしまった。
1つの連載作品で3つも休刊を経験するなんてなかなか無いことで、よくわからない称号を得たような感じすらある。
その後はまた別マガで2013年に「橙は、半透明に二度寝する」を連載開始したり(2015年中に完結予定、打ち切りかは定かでない。既刊1巻)、
集英社のウルトラジャンプで短期連載の「オニクジョ」を含め読切が複数回掲載され、短編集が発売されたり、
デジタル版に完全移行したコミック・アーススターで「新・血潜り林檎と金魚鉢男」として連載が復活したり(これまた新装版が発売されるようだ)(雑誌が雑誌なだけにまた休刊するんじゃないかとの声もある)
と、なんとか漫画家を続けてこられている。(しかし「まこら」は音沙汰なし)
ネット上でオススメの漫画とか紹介するのが流行ってたりするみたいだが、そこにもほとんど顔を出さない。
「少女奇談まこら」はマジで傑作。「橙は、半透明に二度寝する」もとてつもない怪作。オムニバスなんでとりあえず1話だけでも。(http://www.shonenmagazine.com/bmaga/daidaiha)
というわけで、皆さん是非読んでみてね。(わざわざ言わなくてもいいと思うけど、本人じゃないよ)
(追記)
ブコメに「総合マンガ誌キッチュの話はしないのかい?」とありましたが、はい。
「キッチュ」は同人誌に近いマンガ誌で、編集長が阿部洋一氏と同じく京都精華大学マンガ学科ストーリーマンガコースの一期生であるという繋がりからか、作品がよく掲載されています。
昔、私がまだ子供だった頃、母(当時三十代)が思いつめた顔をして私にこう相談してきた。
「あのね、年取った人って『昔は良かった、近頃の若いもんは』って言うでしょ。でもそう言ってる世代の人もさらに年取った人に言わせれば、『昔は良かった、近頃の若いもんは』ってなるでしょ。ということは、私たち人類って、どんどん劣化してきてるってことじゃない?人類駄目人間ばかりになって滅びちゃうんじゃない?どうしよう!」
多分母は昔「最近の若いもんは」って言われたことがあって、さらに相談する数日前あたりに「最近の若いもんは」って思っちゃうような出来事があって、昔言われた事と今の自分の感情を結びつけて考えた末、そういう結論を導き出したんだと思う。
若い盛りの私に若者けしからん論を真面目に持ち出されても返答に困るよと思いつつ、それは昔の人の視点に補正がかかってるんだよって説明した。当時は私も母もジェネレーションギャップとか既得権益とかそういう言葉を知らなかったから(単語は知ってたかもしれないけど、こういうところで使える語だとは気付いてなかった)、かなり回りくどくなったけど、納得はしてくれたと思う。
もしあの会話がなければ、母は年を経る度に頭の中で、ピテカントロプスになる日も近づいたんだよーとかそんなフレーズが頭をぐるぐるしていたんだろうなと時々思う。
母の仮説に真実がもりもり含まれていたとしても、駄目になって滅びるのは母も私も寿命が尽きた後だと思うから、母や私にしては相当スケールのでかい話をしていたと思う。もっと意識に即して言うと、取り越し苦労だと思う。
ちなみに私個人に向けて若いもんコールされたことがないせいか、未だにこの手の話は全体的に遠い世界の話っぽくて、言及するのもためらわれる。母のことを思い出したってのがメインの話ではあるけど、増田以外でうっかり打ってたら送信ボタン押さずに藻屑にしてたとこだよ。