はてなキーワード: 共感能力とは
「人間」として理解しようとしたことを後悔しているし、相手に申し訳ない事をしたとちょっと思っている。
自分には相手の気持ちを考えず論理的整合性も無視し明らかに嘘やレッテル貼りとわかるような罵倒をし続けるような思考が理解できなかったから、
あくまで意識的に共感性をオフにして凶暴な人格を演じているのだと思ったんだけど、普通に共感性がなくて素で凶暴だったらしい。
その荒らしは「俺は相手の気持ちが分かるからお前らの心に刺さる罵倒ができるし、お前らと違って女にもモテる」とさんざん言っていたのだけど、これは己に共感能力がないという事の切実な表現だったのかもしれない。
ちょっと気になるのが女性首相が誕生するとしたときに、女性リーダーを望む人たちの声の一部だ。
女性は協調的だから、女性は平和主義だから、こういった言説を語る人がたくさんいる。
男性リーダーは権力闘争が好きで、戦争を引き起こす可能性が高いということの表裏の理屈。
リーダーには、力強いリーダーシップも協調できるリーダーシップも両方とも必要だ。
もしどこかの国や地域から日本に向けてミサイルが飛んでくれば、防衛のために反撃することを決断しなければならない。相手の追加攻撃能力を奪うために同盟国や友好国に支援を求めなければならない。同盟国や友好国の国民に向けて力強さと協調性のどちらのメッセージも発信して、日本をその国の政府が助けることを納得してもらわなければならない。
例えば台湾の蔡英文総統は、力強さも協調も必死に努力していることだろう。もし台湾有事が発生したときに、台湾を助けるべきだと共感したり理解したりする日本国民は多いのではないか。
男性でも女性でも同じことだが、共感することも理解することも義務ではない。
容量が大きい人もいれば小さい人もいる。その容量は強制しても増えない。また、自分自身で増やしたいと思っても簡単に増えるものでもない。
すでに自分の容量が何かへの共感や理解でいっぱいになっている人は、別な何かへの共感や理解を示す余裕はないかもしれない。
せっかく女性首相が誕生しても女性であることに縛られて、「女性ならではの政策を」とか、「女性なのに結局は男と変わらない判断をするのか」とか、本来リーダーに求められることと関係ないことで評価するのはやめるべきではないのか。
でも「ちょっとした刺激でチンコが目立って恥をかく。女は欲情が表にでないだけで傲慢だ!」っていう逆の見地を一番最初に世の中に出したの竹宮恵子の1980年代の作品やで
高橋留美子だって両性の眼差しをうまく表現できる(女っぽい男性も、男っぽい女性も)
あそこまで共感能力ある化け物がバカスカでていた70年代組がいて男のほうがなぜやらなかった?っていわれると、
やっぱり基礎的になんかが足りてなかったんやろなぁと
二次的にはバトル漫画=金という環境しか用意されてなかったせいかもしれんけど
そのあと和田慎二だの魔夜峰央もでたけど男は読まなかったんかなぁ
立原あゆみ(男性)の「麦ちゃんのウィタセクスアリス」もあったわなー
今も大島薫もいるもちぎもいる
私は典型的な理系人間で、今はありがたいことに理学分野の研究者という地位を頂いている。そういうバックグラウンドがあると、他人からは「論理的思考力」とやらを評価されることが多い。私はどうやら「論理的」な人間らしい。みんなが言うならそうなんだろう。同業者の自己評価も「私は論理的」というものが多いと思う。
「論理的」と言うと、褒め言葉に聞こえる。しかし私は、そう言われる度に、チクリと痛む棘が潜んでいるようにも感じる。思えば小学校、中学校くらいまで、私の思考が「論理的」であるとして褒められた経験など一例も思い浮かばない。それ以上に思い浮かぶのは、「理屈っぽい」という蔑みの言葉だ。「理屈っぽい」という言葉には、「おまえは冷血で、人の心を持たない、人外の怪物だ」という、拒絶の意志が込められていた。
当時の私にとって最も屈辱的だったのは、「私の感情が無視されていた」ことだった。決して、「論理的、と褒められないこと」ではなかった。私は私なりの「感情」に突き動かされた行動をしたに過ぎないのに、そこで私の「感情」が評価されることはなく、ただ「みんなの感情を無視した」行動として評価されることに、途方もない理不尽を感じた。「正論だけじゃなくて、みんなの気持ちも考えて」と言う人が、「私の気持ち」を考えてくれたことは一度もない。私はそれが悔しかったのだ。
かつて、自閉症スペクトラムの人々は、共感能力に乏しいと言われてきた。しかし、比較的新しい京都大学の研究によれば、自閉症スペクトラムの人々は、ただ定型発達に対する共感能力に乏しいだけで、同じ症状を持つ人同士では高い共感能力を有しているらしい。
https://news.mynavi.jp/article/20141111-a322/
私個人が発達障害かどうかは、診断を貰ったことがないのでわからないが、共感する部分はある。障害と定型の間に線引きはないとの前提に立てば、まあそういう要素が私の中にあると思っても問題ないと思う。私が求めていたのは「私なりの感情を感情として認めてもらうこと」であって、「感情の排除」ではなかった。
「私は論理的」というアイデンティティを掲げる人がインターネットにはたくさんいると思うけど、それは果たして本音だろうか?と私は考えてしまう。私が見るに、彼らの多くは随分感情的だと思う。私はそれを良いとも悪いとも思わない。ただ、「私は論理的」という強がりが、彼らを守る鎧なのかなと思ってしまう。貼られ続けたレッテルが、アイデンティティに転ずる現象はよくある。マイノリティのコミュニティで、「真の」マイノリティのような言説が時に権力を翳してしまうのと同様に。人種・LGBTQなど、様々な場面で当てはまるだろう。「理屈っぽい」というレッテルを貼られ続けた人々が、「論理的」と言い換えることで、自分を守っているように見える。
「おまえ俺の事バカにしてるだろ!」と因縁をつけてくる人に、「バカにしてるけど、それが何か?」と返すのは溜飲が下がるかもしれないけど、そんな風に自ら孤独を作ることは、あなたを孤独に仕立てあげたい人間の思うつぼでもある。あなたが本当に言いたいことは何なのか。彼らが本当に言いたいことは何なのか。ネットミームとレッテルで思考放棄するばかりではなく、再度考え直してみる必要があるんじゃないかな。
元の増田は男女関係ないと書いていたが、個人的にはああいう迷惑なアプローチをしてくるのは男ばかりだと思う。
女性の場合はむしろ逆で自信がない人が多く、そのため元がどんなに美人だろうと美容やファッション、一部は整形までして可能なだけ自分の容姿に磨きをかけている。それに好きな人がいても自分に釣り合うかどうかよく考えてから行動を起こす。
それに比べて男は元がチー牛以下の不細工でもなぜか最低限の身だしなみすら整えない人も多い。それなのになぜか自分は女性から愛してもらえるはずという根拠のない自信があって、無駄に女性にアプローチを仕掛けてくる。そのアプローチもちんこの画像をDMで送りつけるみたいな奇行の場合も多い。ありのままの自分を愛してもらえるはずという甘えた根性、そして男特有の共感能力の低さが関係していそうだ。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これを、男性の方が不安や心配事が少なく生きられるというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ、男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分が男なら自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。…
…これは「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ここ数週間のネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、それは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって満足しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿やすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主要な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性被害者の方が多いですが)」「腕力が強くて静止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、真っ向から対立しますから。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
これに近い話題は、今までも男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは悲惨な女→男セクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、その根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆になっている、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」は信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係、恋愛、経済、ジェンダーロール、弱者男性論が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されていることが困窮してはじめて露見するなど、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われるとか、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
人心が荒廃している。
舞台は今をときめくウマ娘だ。噂と嘘が蔓延し、人は疑心と暗鬼に陥っている。
競馬好きと擬人化オタク。彼らは必ずこれからもぶつかり争うだろう。
だったらアレをやるしかない。
悪意をばらまく魔女を見つけなければならない。
競馬好きが?オタクか?違う。彼らを不幸にした人間がいるはずだ。
力がある者が魔女だ。人の心を惑わすことで生きながらえる存在が魔女だ。
それを焼くべきだろう。そうすれば平和になるのだ。
彼らはただ、あるがままに生きる羊であって、生贄なのだ。
違う。
俺が魔女を指し示す。
クリエイターだ。
生きる世界が違う人と人はわかりあえない。
幼稚なオタクは、大人の世界では生きていけない。感動できない。
だが、二つの世界を同時に理解できる者がいる。それが魔女の正体であり、つまりはクリエイターである。
競馬はただ昔から競馬としてあっただけなのに、突然翻訳されその世界を晒された。
この世には鬼や呪いなんていないのに、それに立ち向かう人の話に感動させる。詐欺だ。
とっくに死んだ馬を人にして、まるで彼ら彼女らが楽しそうに生きているように見せる。
そもそも表現というものは、人間の共感能力なる欠点を利用した詐欺である。
価値なきものに価値を錯誤し、繋がるべきでなかった人と人を繋ぐ。
人は人の思いを知ることなどできないのに、それを出来るかのように錯覚させる。
魔女は焼かねばならない。クリエイターなるものは全て焼かねばならない。
本を燃やせ。フィルムを燃やせ。歌を殺せ。それらを支える組織を焼き討て。
笑ってはいけない。泣いてはいけない。人に何かを伝えることは悪になりうるのだから。
出来ないな。
全て焼かねばならぬ日がくるとわかるだろう。
だから、まず手始めに、俺を吊るすと良いのだろう。
ただの愚痴です。
身体的には体臭も口臭もひどいし毛深いしゴツいし肌も脂ぎってて汚い。おっさんからはハゲててデブも増える。
それなのに清潔を保つことやスキンケアや体毛処理は怠っている。
中身も性欲が強くて共感能力が低くて暴力的で差別的思考が強くて自信過剰で感情的ですぐカッとなる。ネットでも男から出会い厨されたりセクハラされたりクソリプされたり本当にうんざりする。
女性だけの国が切実にほしい。それか男からの加害を恐れなくてもいい女性だけのSNSがほしい。5chの喪女板や既女板は男に荒らされてるし、レズビアン専用SNSも男によって荒らされているらしい。
どうしてそんなに女性に接触したがるんだよ。そういう男に限ってミソジニーが強くて女性を見下している。そんなに女性が嫌いなら女性に関わろうとしないで男だけで楽しくしてろや。男同士で勝手に性欲も承認欲求も満たしてろや。