はてなキーワード: 共感能力とは
たとえば
犯罪の使いっぱしりにされるとか、性的虐待とか受けてしまう人が多い
これは共感能力が高い、といえるだろうか?
まあ高すぎて暴走しているとは言えるかもしれないが、異常ではある
そして、挙げられていたような活動家たちや支持者も
これがポイント
ウィリアムズ症候群のように共感能力が高すぎて暴走しているとかではない
単純な心とものすごい複雑な心まで全部推論すれば誰にでも共感できるが
当事者性だけで判定するのが単純だというのはそのとおりだ
複雑な人間に共感し、単純な人間に共感しないのは共感能力が高いか、といえば微妙だろう
誰にも共感できない極限と誰にでも共感する極限が共感能力がぶっ壊れている人間であり
まして、同一の対象をみんなで叩くのは
逆に俺は共感能力が人並みにはある人間だが(思い込みかもしれんが、会話でそれほど困難を感じたことはない)、そういう人間から見た「共感能力」とはどういうものか書いてみる。
まず「共感能力」というのは、増田が考えてるような、相手の気持ちや快不快を読み取る能力とは少し違うと思う。
「共感能力が高い」と言われる人間が、相手の心を読み取れてるかというと、そんなことはない。エスパーじゃないんだから。
読み取れてはいないのだが、「このトーンでこの言葉を投げれば相手を喜ばせられるだろう、相手を不快にさせないだろう」というのは経験的に分かる。サッカー選手がいちいちボールの蹴り方を考えなくても、「このくらいの強さで蹴れば、大体あそこら辺に飛ぶだろう」というのが分かるのと似た感じ。
じゃあ、共感能力の高い人間は、その能力をどこでどう身に付けたのかと言うと、「人生経験」としか言いようがない。
共感能力の高い人間も、小さい頃は共感能力なんてほとんどなかったはず。しかし、「親にこう言ったら喜ばれた」「先生にこう言ったら褒められた」といった成功体験を積み重ねて、「こういう言葉が相手を喜ばせるのか」というのが、体感として身に付いたんだろう。
そして、成功体験の多い人間ほど、相手を喜ばせる確度が高くなるので、「共感能力が高い」と言われる。
じゃあ、大人になったら共感能力は伸ばせないかというと、そんなことはないと思う。
増田のように「システム2思考」において相手の気持ちを考えられるのなら、事前に「会話の状況と、相手が喜ぶであろう言葉」のパターンをできるだけストックしておいて、その出力を少しずつ早くしていくトレーニングを積めばいいのではないだろうか。
英会話のように、最初は文法や単語を思い出しつつゆっくり話していたのが、場数を踏むにつれて滑らかに話せる、という体験が得られるのではないかと思う。
とは言え、こんな訓練はやるだけでストレスだろうし、どんなにやったところで、元から共感能力高い人間に追いつけるものでもないだろうから、そもそも共感能力が必要のない環境に身を置くよう心がける、というのが最善な気がする。
共感能力がないのになんで共感しなきゃいけないと思ってるのかが不思議。
「共感能力が乏しいのではないか」という言葉が意味するところ? 教えてやろうじゃないか。
増田には共感能力がなくて、増田の話し相手には共感能力があると思っているのが間違いだ。相手にもそんなものはない。話し相手は、自分勝手な「思い」を増田に一方的に言い張って、それを理解してもらえないのを増田のせいにして「増田に共感能力がない」ということにしている。本当は相手にも共感能力がないから増田に伝わっていない。
「共感能力が乏しいのではないか」というのは「共感能力が乏しいのではないか(だからお前が俺に共感しろ)」なんだよ。相手に「共感能力」なんてものがあるんだったら相手が増田に共感すればいい。
そりゃ仕事やなんや、英語が便利なのは確かだろう。が、日本語には日本語にしかないものがある。と、思っている。
例えば、虫の声。
虫の出す音を「声」と感じるのは、日本人とポリネシア人だったかな、だけらしい。
日本人とポリネシア人は、虫の鳴き声を言語を司る左脳で聴き、西欧人は右脳で聴いているのだとか。
このため日本人は、虫の出す音を「声」と感じ、そこに様々な情緒を感じとる。しかし西欧人にとっては虫の出す音は「音」であり、うるさいと感じたりもする、と。
他にも、雨音や、川を流れる水の音。風の音なんかも同じだとか。
で、こういう違いがあらわれる原因はなにかというと、どうやら日本語にあるらしい。
日本語・ポリネシア語を母語とし、幼少の頃から触れているかどうか。それによって、こういう違いがあらわれるのだとか。
日本人じゃなくても、日本語を母語として育てば、同じく「声」と感じるようになるらしいです。
こういう様々なものに情緒を感じる力と、制約が少なく柔軟な日本語の特徴とが相まって、日本語には擬音・オノマトペが多く、多彩です。曖昧なものを曖昧なまま伝え、共有する力に長けています。これは日本人の「和」という言葉に象徴される、共感能力や協調性の高さへも影響しているでしょう。
他にも、日本語は制約が少なく柔軟という特徴をもっています。そういった特徴は、新しい言葉を作り出す能力の高さに繋がっています。
ノーベル賞を受賞した益川教授は、英語が苦手で、ノーベル賞受賞のスピーチにのぞんだ折り、日本語でスピーチをしました。
これに世界は大変驚いたらしいです。何に驚いたかというと、英語が出来ないということではありません。もちろんそれもあるでしょうけれど、もっと驚きだったのは、英語が苦手なのに、ノーベル賞を取れるほどの学を積めたことに対して驚いていたのです。
大学レベルの学問まで、ほぼ単一の単語で学ぶことができるのは、英語と日本語くらいじゃないでしょうか。(他にもあった場合はすみません)
これはなぜかというと、日本人が、全て日本語にしてきたからです。言い換えると、新しい単語を作りまくったからです。
そういうことができた理由は、日本語がとても柔軟な言語だったからに他ありません。
柔軟で、情緒溢れる言語は創作を生み、独特の感性を形作ります。それらが日本人の「日本人らしさ」に与えてる影響はとても大きいでしょう。
母語を英語にする。そりゃそれの方が楽なこともあるでしょう。けれど、古来より紡がれてきた「日本人らしさ」を、徐々に薄めてしまうかもしれない可能性を考えたら、いらないなと思うし、なによりこんなに素敵な言語を捨ててしまおうと思える気がしれないなぁと。
わたしはそう思うなぁ。