私は典型的な理系人間で、今はありがたいことに理学分野の研究者という地位を頂いている。そういうバックグラウンドがあると、他人からは「論理的思考力」とやらを評価されることが多い。私はどうやら「論理的」な人間らしい。みんなが言うならそうなんだろう。同業者の自己評価も「私は論理的」というものが多いと思う。
「論理的」と言うと、褒め言葉に聞こえる。しかし私は、そう言われる度に、チクリと痛む棘が潜んでいるようにも感じる。思えば小学校、中学校くらいまで、私の思考が「論理的」であるとして褒められた経験など一例も思い浮かばない。それ以上に思い浮かぶのは、「理屈っぽい」という蔑みの言葉だ。「理屈っぽい」という言葉には、「おまえは冷血で、人の心を持たない、人外の怪物だ」という、拒絶の意志が込められていた。
当時の私にとって最も屈辱的だったのは、「私の感情が無視されていた」ことだった。決して、「論理的、と褒められないこと」ではなかった。私は私なりの「感情」に突き動かされた行動をしたに過ぎないのに、そこで私の「感情」が評価されることはなく、ただ「みんなの感情を無視した」行動として評価されることに、途方もない理不尽を感じた。「正論だけじゃなくて、みんなの気持ちも考えて」と言う人が、「私の気持ち」を考えてくれたことは一度もない。私はそれが悔しかったのだ。
かつて、自閉症スペクトラムの人々は、共感能力に乏しいと言われてきた。しかし、比較的新しい京都大学の研究によれば、自閉症スペクトラムの人々は、ただ定型発達に対する共感能力に乏しいだけで、同じ症状を持つ人同士では高い共感能力を有しているらしい。
https://news.mynavi.jp/article/20141111-a322/
私個人が発達障害かどうかは、診断を貰ったことがないのでわからないが、共感する部分はある。障害と定型の間に線引きはないとの前提に立てば、まあそういう要素が私の中にあると思っても問題ないと思う。私が求めていたのは「私なりの感情を感情として認めてもらうこと」であって、「感情の排除」ではなかった。
「私は論理的」というアイデンティティを掲げる人がインターネットにはたくさんいると思うけど、それは果たして本音だろうか?と私は考えてしまう。私が見るに、彼らの多くは随分感情的だと思う。私はそれを良いとも悪いとも思わない。ただ、「私は論理的」という強がりが、彼らを守る鎧なのかなと思ってしまう。貼られ続けたレッテルが、アイデンティティに転ずる現象はよくある。マイノリティのコミュニティで、「真の」マイノリティのような言説が時に権力を翳してしまうのと同様に。人種・LGBTQなど、様々な場面で当てはまるだろう。「理屈っぽい」というレッテルを貼られ続けた人々が、「論理的」と言い換えることで、自分を守っているように見える。
「おまえ俺の事バカにしてるだろ!」と因縁をつけてくる人に、「バカにしてるけど、それが何か?」と返すのは溜飲が下がるかもしれないけど、そんな風に自ら孤独を作ることは、あなたを孤独に仕立てあげたい人間の思うつぼでもある。あなたが本当に言いたいことは何なのか。彼らが本当に言いたいことは何なのか。ネットミームとレッテルで思考放棄するばかりではなく、再度考え直してみる必要があるんじゃないかな。
増田のいう論理とは?
今はありがたいことに理学分野の研究者という地位を頂いている。そういうバックグラウンドがあると、他人からは「論理的思考力」とやらを評価されることが多い。 だいじょうぶ明...
ネトウヨのおっさんだが自分のようになるなよ、といういみだねw
論理的とか頭でっかちって、結局「ディベートの強さ」に依存してるだけで、真に論理的であったり頭が良いわけじゃないんだよね。 本当に論理的だったら、論理的に考えて「相手に訴...
nikakuinikaku 論敵の論理を借りて批判するのは理想的な批判の方法だと思う、それが出来ない場合は自分側の論理を用いる訳だけど、それでは自分側の論理に相手に同意して貰わなければ...