はてなキーワード: 自己憐憫とは
※ブコメその他がためになったので追記した(2/23 18:23)
※あとこの投稿は「最底辺に落ちれば自信が出るからそうしろ!」とかいうものでは一切無いです。そういうニュアンスが出ちゃってたのは大変申し訳ない。少しでも浮上してるならそれに越したことはないし下がれなんてとんでもない。この投稿は助言でもなんでもなくて、自分はこうだったなぁという糞自分語りに過ぎない(最後のオナニー以外)からそれを踏まえていただければ大変うれしい
自分も自己肯定感はそこそこ低い方で、 増田と同じく学生時代は自分以外の全員がド有能の聖人に見えてたんだけど、増田のもちょっと違う気がするんだよな。
「私と仲良くしてくれる人は何を考えているんだろう、こんなグズに優しくしてくれる聖人たちに何を返せばつりあうだろう」
そう、ここまではほぼ一緒。でも俺の場合はこの次の段階があって、
「こんなに有能な聖人が言ってる事をグズの俺が否定する権限はない」
って理論が発生するんだよな。
少し場面を想像してほしいんだけど、数少ない友人と会話してる時、案の定おれの「俺なんてゴミやし……」とかいう発作が起こるよな? グズの俺と違って友人は有能の聖人だから、まぁ「いやそんなことないよ」とか、たまに「増田の〇〇なとことか凄いじゃん」とか言ってくれる。俺の脊髄は(いやいやそんなことなくて俺はゴミでぇ……)とか反射しそうになるんだけど、"グズの俺が否定する権限はない"ので、お世辞であれその言葉を甘んじて受け入れないと絶対におかしいんだよ。ここで「いやそんなことはない、私はゴミだ」と言える時点でまだそこそこ自己肯定感あるから安心していいと思う。向きはともかく、自分の思考や理論を相手のそれより強いと思えてるから。
逆に自分が否定された時はそもそも自己肯定感が最底辺なのでノーダメージ。ゴミな自分は有能な他の全人類に否定されて当然だし不当でもなんでもない。当たり前の事を当たり前に指摘されただけなので悲しくもならない。でも[ゴミと友人になってくれる有能な聖人]とただの[有能]だと前者のほうが優先順位が高いので先述した友人の言葉が消えるわけではない。仮に消えたら聖人の友人に失礼極まりないのであり得ない。周りに当たるなんて選択肢はどうやっても発生しない。
このマインドを続けてると、基本的に肯定感が正の値になることはあってもマイナスにはならない。ふとした拍子に2とか3くらいゲージが溜まってちょっとウキウキな気分の時だと、理不尽な否定と正当な批判の切り分けなんかも意外にできるようになったりするので、ただでさえ鉄壁の防御力にさらに磨きがかかる。余裕ができると「ほんとにちょっとだけなら"俺の〇〇なとことか凄い"んじゃね……?」とか思えてきたりこなかったりする。
要は、自己肯定感低いアピールは人が多いところでやると時に不快感を撒くことになるから、基本控えめにしてある程度自己評価あるフリでもしてたほうが周りの人を尊重してることになるし、結果的に自己評価を見つめ直すことにも繋がる。理論的に考えればそういう考えに落ち着くのが真っ当じゃね?っていう話ですわよね。
まぁなんというか、自己憐憫って蜜の味なんだよな。だから癖になってるひとも多いと思う。今は夕方一人外で歩いてる時とか、中高の時に毎回テスト最下位で赤点で居残り勉強してた時間とかを思い出して「相変わらず俺ってゴミだなぁ」とか思いながら自己否定オナニーして自己憐憫欲を解消してる。もちろんオナニーは心の上での比喩だけど、めっちゃ気持ちいいからおすすめしたい。
珍しくブコメが色々ためになったので(自己肯定に溢れた感想)、お礼と言うにはおこがましい自分語りだけど返事をさせてもらいたい。
oratansu よく「最底辺に落ちたのであとは上がるだけ」みたいなコメントする人いるけど、それ以上に落ちるかもしれないのによく今が最底辺だと定義できるなあという感想しかない
読み直すと「死ぬこと以外はかすり傷!(ドン!)」とかいうどっかのゴミ自己啓発本と同じ台詞言ってるように見えてめっちゃ恥ずかしい。ごめん。(自己啓発本は悪だって言いたいわけじゃないんだけど、なんというか基本強者の理論だと感じちゃうんだよね)
今の自分の絶対値的なこの場所が最底辺、というよりは"自分=ゴミ"の図式が無条件で成り立っちゃってるから、落ちたところで自動的に認識が再修正されるので特に何も感じない、というほうが正確だろうか。こう書くとより救いがない感じがするな。でも気は楽。弊害は未知数なのでオススメはしない。
fukazawakyoko これ、元増田もそうだけど最底辺感がないんだよな。能力が低くてガチで自己肯定感が低いというより、どっか余裕のある人が考えた自己肯定感の低さって感じ。
あ~やっぱそういう感じ出ちゃってるよなぁ。言い訳させてもらうなら、現状、そこそこ自信というかなんだかんだ俺もそれなりに大手を振って生きてていい(≒他の人間も大した理由があって生きてるわけじゃない)って思えるようになってるから、この立場から何書いても薄っぺらいってのはあるかも。一時期は何言われても「おっ悲しいなぁ(諸行無常)」みたいな感情しか湧かなかったから、這い上がろうという気力も湧かなかったのはホントのところだとは思うけどね。
コメントにも出てきてるけど"余裕"は本当に大事だと思う。これが枯渇してるとホントに何も考えられなくなるし、シンプルに周りにも迷惑がかかる(その迷惑で自分を卑下する必然性もないんだがそう考える余裕も無くなる)。自分の少しの余裕がどこから湧いてきたのか考えると、やっぱカウンセラーとか薬ってことになっちゃうのかなぁ。ラッキーだったのは、「精神科に行って薬まで出された自分は欠陥人間だ……」とか、どうしても先生を信じきれずに(orあってない先生をずっと変えなかったりして)ネットのメンヘラ界隈的な場所ででくだをまいちゃったりすることはなかったって点だろうか。一応心理学専攻で、治療に対してそんなヤバい行為だとは考えてなかったってのもあったし、治療受けるのってどんな感じなだろう……!みたいな好奇心が少し先行してたのも大きい。
でもカウンセリングや薬ってなんだかんだお金かかるし、1割負担にするのもちょっと抵抗感ある人もいるかも知れないから、こういうのも含めた余裕を考えると俺もまだまだ序の口ってことなんだろうなぁ。保険で色々試せるのおもしれえなぁとか、ビンシャリってこれかよ草、みたいなノリは万人にできるものではない。
Caerleon0327 自分よりできない人を見たり、自分より大変なことになっている事象(例えば、今回の新型コロナパンデミックとか)見て、それと比べて自分の目の前のことはマシだと慰めている
この理論で生きてると、自分よりできない人が他の場面で自分より高い性能を発揮する現場を目撃すると総崩れになるから注意したい。そこで「できないように見えた人にも得意なことがある」なら「できない自分にもなんかいい点がある(≒自分をある程度認めないとその人の優れた点まで否定する事になる)」と考えを反転して良い感じにしてたんだけど(これも自己啓発の謎理論っぽくてキモいな)、まぁこれもある程度の余裕がないと出来ないことだよなぁ。
自信がない状態から立ち上がれるかどうかは周辺環境に左右されまくる、ってのは本当そう思う。そこにつけ込まれると色々厳しい。弱ってる人間につけ込んで追い打ちかけてくるゴミなんて生きてる価値無い、社会に害を振りまく俺以下のゴミじゃん、って思えれば楽なんだけど、そう思えるまでが長いんだよなぁ。これを個人でどうすべきかはちょっとわからない。今の自分はそういう人間の屑を見るとめっちゃイライラする性格と化したからそれに関係する仕事をしてるんだけど、そういう支援もまず最初に人の目に触れないと始められないし……難しい。
aeka そんな言葉遊びしてる次元じゃないんよ。「自分なんてクソで…」などと人様に聞いていただこうなんておこがましいこと思ってるようじゃまだまだ下がいてだな…いやこんなことわざわざ衆目集まるところですみません。
俺もすまん(挨拶)。寧ろそれを伝えたい文章だった。俺の作文力の無さが光る。そう、自分が糞という意思をもってる時点で自分を肯定できてるから、そんな奴らの言うことなんて何の参考にもならない。これはポジティブ思考でもなんでもなく、ただただそれを出来ない自分が沈んでるだけで、良い事はなにもないから安心してほしい(?)。
アドバイスなんて身の程知らずなことは一切できないけど、それこそカウンセラーがダイレクトに助けられる数少ない場面な気がする。先生は仕事だから聞くのは毎日のことで一人が増えても大差ないだろうし、自己開示はただするだけである程度意味がある。今は心療内科もいっぱいいっぱいだから難しいかもしれないけど、それに準じた相談をできる場所は結構あって、意外と人のいない穴場もあったりするからちょっと頭の隅に置いておくのも悪くないかもしれない。
本屋にいくと女のために書かれた本があふれかえっている。
うんざりする。
傷ついていることにようやく気づきました。
バカじゃねえの。
まだ自己が未分化で、無知無力ゆえ暴力に見舞われやすい子どものためならまだいいが、
反吐が出るよ。
いったいいくつまで、自分らしくあることに、肯定され満たされていることに拘泥するつもりか。
自分らしくいられないこと、肯定されず満たされないことを男や社会のせいにするつもりか。
自分らしく生きられず、肯定されず、満たされないとしたら、それは誰のせいでもない。
おまえがブスだからだ。
おまえがブスなのは、塩基配列の結果なのでおまえのせいではないし、
もちろん男や他人のせいではない。
美しくないうえに、うまくいかなさを誰かのせいにして、
おまえは一生ブスのままっていうか経年変化によってますます醜くなり、手の施しようがなくなるじゃないか。
「おまえが満たされないのはおまえのせいだよ」と教えてくれる本は皆無である。
「理解の出来ない他者」としての親、そして「愛情」という名の甘やかな「支配」について
他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。「他者」が現れるからこそ、自己は自己完 結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。
レヴィナスによると、「他者」は「理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである」とされ、「所有を、私のさまざまな権能を拒む」とされている。すなわち「他者」は、「私」(自己)の内面を切り崩し、空にし、「私」として安住することを辞めさせ、「私」を超えたものを求めざるを得なくさせる。
最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。
だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。
――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
理不尽な強制としてこの世に生を受けた幼子は、若者となり、己の意志でもう一度生誕を決意する。
自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出すのだ。それは神聖なる契約であり、人はそうして連なってきた。それが人をいままで繋いできた。
にゃん太はそれを守るためならば、我が身を灰にしても構わないと思った。ロンダークがそれを知ってくれるのならば、どんなことでもしてやりたいと思った。
世界、つまり親による絶対的かつ暴力的な侮辱によって、人は育っていく
愛情という名の「自己犠牲」、それと表裏一体の過干渉という、そのさらに裏にある「自己憐憫・自己満足」は人を根腐れさせる
あなたと私は違う
だから、あなたは世界からの期待に応えなくても良いし、応えても善い
あなたの両の目が見て、耳で聞いて、触れ、脳内で像を結んだものだけが「世界」に過ぎない
それ故に、あなたが何と対峙するかすらもあなた自身の問題である
@Gesu_Masuda
・ツイッターで何年もフォローしてたらいつの間にかフリーランスとして結果を出していた
・その間に自分も正社員になってるし戦っている場所が違うだけで大差はないのかも
それはまだ私達が大学生だった頃、お互いが大学を中退する前ぐらいのことだ。
インターネットではSNSという新しいサービスがナウなヤングにバカウケだったので、私達もアーリーなマジョリティの一団に紛れてそこに移住してきた。
現実では誰からも面白いと言われない下品な冗談と自己憐憫の繰り返ししかできない者たちが、クリック一つで手に入るふぁぼを求めて日夜レス乞食をしていた。
そんな中で私達は出会い、そしていつの間にかお互いにリアルでの交流もないまま十年来の友とも親しいなにかとなっていた。
ツイッターのブームが去り、やがて世間の流行りはLINEへと移っていく中で、私達は大学を中退したまま何者にもなれず相変わらずツイッタラーでクズのフリーターだった。
もしも違いがあるとすれば、彼にはゲーム・アニメ・漫画・インターネット以外の趣味があり、私にはそれが無かったことだ。
ろくな趣味もないくせにダラダラと時間を浪費し大学から消えていった私は、ニートとフリーターを往復する生活にも飽き、就職活動を本格的に再開することにした。
大学を中退した理由である所の卒業論文にまつわる苦労を薄く広く伸ばしながら上手い具合に過去研究の成果を自分がやったものであるかのように捏造しながら面接を繰り返すうちに、いつしかそれらは真実味をおび、その中で私は流暢に自分のやった研究を喋れるそれなりの理系人間であるかのようになっていくのだった。
そうしていつしか私は年収300万円ほどのしがない正社員となった。
その会社の片隅で、どこへも行き場のなくなった人生を抱えながら、いつしか年収450万円ほどのしがない係長として野原ひろしの凄さに感嘆しながら死ぬ人生のレールの上をゆっくり進みだしていた。
私が自分の人生を虚無の塊と見切りそれなりの人生へと落ち着いた頃、件のツイッタラーも別の場所で結果を出していた。
私がフォローする前から続けていた趣味の世界で10年20年とかけて十分な力をつけた彼は、自分の創作物を価値あるものとして世に売り出せる所にまで来ていた。
彼の作った作品のウチ1つ目が小さくバズったあと、彼は自身をつけたのかフリーランスとして仕事を取り始めるようになった。
フリーとして働きだしてからは、単純労働のバイトも辞め、いよいよその趣味一本で生きる人生を確定させていくのが遠くから見て取れた。
2つ目の製品がバズっていく頃には、一部界隈ではその製品名が彼の名刺代わりのようになっているようだった。
そして、業界内で普通に仕事を取り、ただただ好きなことだけをして暮らす人生のレールの上を走り続けていくのだった。
差がつきすぎていた。
大学でやっていた勉強のウチ、好きなことの抱合せでついてきた好きでもない分野を武器として、好きではないが出来なくもないことをして働いている。
得意なわけではないし経験があるわけではない、正直言えば興味もないしやる気もないので今後その中で一角の人物になることもないだろう。
虚無だ。
栄光を人生に求めるならどこにもたどり着けなくなったあとの人生だ。
ただ生きて死ぬだけのいまを生きている。
彼はどうだろう。
同好の士とリアルでも繋がりを持ち、公私の人脈を広げるなかで確実に居場所を確保していく。
手に職があることの強さを思い知らされる。
だが、ふと自分の素性を振り返ってみれば、私だって仕事がクソなだけでその仕事の中で人との付き合いはある。
居場所がないという訳ではない。
平日は楽しくもないが、土曜日と日曜日はあっという間にすぎる程度には楽しめている。
結局、アニメとゲームぐらいしかない人生だが、それらはどんな無能でも受け入れてくれる。
何も生み出そうという気持ちがないから、何も生み出せずに過ごしたことへの後悔は気の持ちようだけで晴らすことが出来る。
楽な人生だ。
彼の人生は、遠くから見る分には楽しそうだが、その中では苦労もあるだろう。
会社員のようにいざとなったら会社そのものが持つ人脈によって仕事をフォローしてもらってあとはいつの間にかどうにかしてもらうという必殺技もそうそうは使えまい。
私が椅子に座って自動で流れてくる仕事に手を付けていく横で、彼は営業活動をしたりフリーランスの募集に応募をしている。
お互いがお互いに人には見せないウンコを自分の人生の中でそっと一人どこかの便座に腰掛け下水道へと流しているのだろうか。
誰もが腹にウンコを抱えて生きている。
クソ袋達が街をゆく、その人生は平等にその腹の内側からクソにまみれていく。
そんな中で人が人と比べあって何になるのか。
パンティー
自信満々な男に「君は素晴らしい」って言われるのと、卑屈で自己憐憫に浸った男に「君は素晴らしい」って言われるのはぜんぜん違う。
さっき息を引き取った。
最後は痙攣が長く続いたと言っていた。
医者や看護師は、俺が実家に帰ると言ってから、来るまで頑張ってみましょうと親身になって色々やってくれたらしい。
俺のことより猫がつらそうだったら楽にしてあげてくれと親には頼んでいたけれど、結局は苦しみを延ばしただけだったんじゃないか。
選べないであろう親に代わって俺が「楽にしてあげよう」って言い出すべきだったんじゃないか。
廊下の壁も襖も猫の高さでボロボロ、毛だらけになった毛布にクッション、爪研ぎにおもちゃにトイレにご飯皿。
捨てられて手のひらくらいの大きさしかなかった仔猫の頃から一緒にいて、たくさん思い出をくれたのに、
本当はありがとうって言うべきなのに、
ごめんしか言う気になれない。
どんな気持ちで逝ったんだろう。