はてなキーワード: 格差社会とは
立民は格差是正とよく訴えているけど、ピンとくる日本人そんなにいるのかな。
サンデルが能力主義批判していたけど、あれはしくじると家すら失い、医者にも行けなくなり、路上で野垂れ死ぬしかないアメリカの超格差社会での話であって、正直日本の格差は能力の差で納得できちゃうんじゃねえの?って思っちゃうんだよな。
でも、親ガチャ失敗してもネグレクトや虐待が無ければ屋根があるところに住めるし、病院に行けるでしょ?
数値や統計では格差がいろいろ現れてくるのはわかってるけど、実感することがあまりない。
コロナだってせいぜい中等症の綾瀬はるかが入院したとか、その程度の話しかなくて大体金持ちも貧乏人も救われてるし、死ぬときは病床が空いてない時でそれは金持ちにも貧乏人にも平等に降りかかっていた問題だし。
アメリカみたいに金が払えないから貧乏人が死ぬなんて自体はほぼなかったはず。
むしろたくさんあると思う。
いや、死んでる人はいるかもしれない。
ただ、リアリティがない。
ホームレスが冬凍死してました、とかわかりやすく格差を実感する機会が周りにない。
その実感のない格差是正を訴えられても、まぁ生活辛いと言えば辛いからとりあえず金くれぐらいしか言えないんだよね。
ただ、正直死ぬほど困ってるわけじゃないから優先順位としては低い。
まず考えられるのは給料の差かな。
部長は年収1000万でヒラの俺が500万しか稼げないことを格差とするのか。
別業種で働いている同い年のアイツが800万稼いでることが格差なのか。
正規社員と非正規とか何かしらの格差が潜んでいるのかもしれないが、金だけの話だとそこに大きな問題があると断定しにくいんだよな。
でも生活保護があるでしょ?
命までは取らないよね。
わかりやすく格差を実感し、リアルで重大な問題だと思える状況=格差による死の日常化が日本にはあまりないんだよな。
誰かが飢え死にした、というニュースならたまに見たことがある。
ただ、これは日常のリアルではなく、ニュースになるような特殊な事態だということであり、更に格差問題を現実から遠ざけている。
アメリカでは飢え死んだホームレスをわざわざニュースに取り上げないと思う。
数値ではいろんな格差が現れているのに、なぜ格差を金でなく死という形でリアルに感じられないのか不思議だが、自分の実感としてはこんな感じ。
他の人も案外こんな感じなんじゃないかな。
ただ、その不思議な感じがある日突然崩壊して、死という形で格差を実感する日が来るかもしれない。
ただ、この不思議な感じが続く限り、格差是正は大した売り文句にならないと思うし、格差はあってもみんな生きていけてるんだから他にやることがあるだろと言われ続けると思う。
就活で、第一志望の企業におそらく落ちた。1営業日で一次面接は合格連絡が来た
「熱意をみています」
と大体の会社は言うが、熱意とスキルなんか書類と1次面接を通過した時点で担保されているし
与えるメリットなんか、入った人が会社の制度を使って資格取得したり、会社から与えられた役割の範囲で仕事を
こなせるって言いきれば担保される
それ以上なにを求めるのか。
会社の制度を使ってという言い方がまずいとか、面談時に話が長いとかそういった理由で落としてくるだろう
面白い話ができたり、とんちのきいたことを言える人が欲しいだけならお笑い芸人を雇え
俺は応募要件を満たしていて、やる気があって、現職のクソみたいな環境を変えたいからという理由で
一次面接を突破したんだぞ。つまり、人格、スキル、要件すべて満たした状態なんだぞ
その企業にとっては大した準備はしていないだろうが、こっちは二次面接までどれだけスクリプトを用意したか
そういった裏側の苦労への想像すらしていないだろう
アニメやゲームをしたい気持ちを抑えて、わざわざ就活という茶番大喜利大会の用意をしていたんだぞ
面接官も結局は資本家に雇われた犬の癖に、面接官という役割を与えられたとたんに、切って捨てる。
一次で落ちるとさすがに自責思考になるが、二次で意味わからん理由で落とすのは
比較的マシな会社に受かって、さっさと転職し、今のクソみたいな環境と見切りをつけるために受けている
それだけでやる気十分だし、目的も成長目的なのに何がいけないのか
今まで俺を落とした判断をした面接官すべてに自宅まで来て理由の説明と土下座を伴った謝罪をしてもらいたい
本当に殺意が湧く
日本国内で言う「普通の子育て」は、金がかかる。個人的に、原因は先進国じゃないのに形だけの先進国らしさがあるからだと思ってる。
例えば…
保育園入れない←祖父母や親戚と暮らせ、それができない被虐家庭は連鎖するから子づくりするな
教育費が高い←給付型奨学金もらえないような頭の子供は義務教育+公立高校で終わらせろ
養育費取れない←その程度の稼ぎしかない男と子づくりするのが間違い
ほかいろいろ
これが現実
保育園←概念がない。暴力や虐待は日常茶飯事だから被虐家庭っていう概念もない
案外、日本もこんな感じじゃない?もう、日本は途上国なんだよ。この程度で暮らさないといけないの。子供いたらこういう暮らしになるんだよ。わかる?
格差社会が許せないなら自分でその悔しさを終わらせようとは思わないのかね?少なくとも、自分はここで終わらせようと思う。こんな国に子供を産み落とすのは、子供が気の毒だ。絶対に産まない。そんなこともわからないアホだから貧乏人になるんだよな。貧乏子沢山は途上国の象徴だもんね。
冷静に考えたら武器持った危害を加える気満々の基地外を銃火器なしで防衛するのなら
それこそ中世のヨーロッパやアジアみたいに甲冑きて弓矢やクロスボウや槍や刀で武装した人間が掻盾並べて射倒すか突いて追い返すくらいしかないというか事実上歴史的に見ても不可能
だから法律や警察があるんだが、最初から死ぬか刑務所入ることを目的とした無敵の特攻兵から身を守る方法なんか事実上ない、訓練を受けたプロの軍人でもまず逃げて体制を整えてから反撃するくらいしか方法がない
となると、君子危うきに近寄らずで常に注意の目を光らせ、怪しい奴や危ないところには行かないし見かけたら距離を取る、そもそもそんな人間とは関わらないようにすると言う防衛策しかない
そしてそれが積もり積もった結果が恐らく中世の封建制のような身分・格差社会になってしまう
マキャベリがかつて指摘したように、社会は歴史をぐるぐる回っているだけなのかもしれない
と言っていた
新自由主義を批判していることで知られる、英国の著名な人文地理学者David Harveyは、彼の著書の中で「『個人の自由』を至上の価値に戴く個人や集団は、容易に新自由主義に乗っ取られる」と云う箴言を記しています。
福澤諭吉は、おそらく最も本邦のネットウヨクに人気がある思想家です。福澤諭吉は神仏の類いを一切信じず「人間の在り様は全て『個人の努力』のみによって決定される」と考えるような「近代日本における『自己責任論者』のパイオニア」でした。ですから、巷間よく言われる「ネットウヨクは『保守』ではない」と云う言葉は、正しいと言えると思います。(四書五経や日本の儒学者の著作、仏典、古事記・日本書紀・万葉集・古今和歌集などの国文学等に親しんでいるネットウヨクなどは、ゼロではないでしょうが多数派でもないでしょう。)
その福澤諭吉は、彼の自宅を訪れる人間が貧しかったり地位が低ければ「そいつがそんな状態に在るのは、努力を怠っているそいつ自身の自己責任なのだから、そいつをぞんざいに扱っても構わない」という態度で、わざわざ安物の茶を出すなど対応の仕方を変えていたと伝えられています。
我が国におけるアジア諸国に対する蔑視感情も、福澤諭吉の系譜に連なる「日本は努力して脱亜入欧を果たした。しかし、彼奴等の国は努力をしなかった。だから、オレたちが彼奴等を見下しても彼奴等の自己責任だ」という考えに帰着します。
さて、現在のはてな界隈では「不寛容な(例えば、人権意識が低い)人間に対しては、こちらも不寛容な態度に出ても構わない」とする考え方が主流のようです。
そこで、私個人の考えていることは、
(1) 寛容性は、教育・学習により身につく知的な財産である。
(2)_a 格差社会が深刻化すれば教育・学習格差も拡大して、貧しい教育しか受けられない人間が発生する。
(2)_b 仮に経済的に貧しい家庭ではなくとも、保護者に問題があって、教育ネグレクトや洗脳の状態に置かれれば、学習機会を得られない人間が発生する。
(3) そうして教育・学習の機会が貧しくなり、寛容性を身につけられなかった人間が発生する虞がある。
ということです。なお、(2)_bの教育ネグレクトや洗脳の被害者に対するセーフティネットも、格差社会が深刻化すれば、貧弱なものになると予測されます。
それを踏まえて、ここで私が問いたいのは、我々が不寛容な人間に遭遇した時に「それは、そいつが『不寛容な人間』にならないように努力することを怠った結果なのだから、我々もそいつに不寛容な態度をとっても構わないのだ」とすることが許されるのか?と云う点についてです。
ある人は言うでしょう。「教育・学習の機会が貧しくても、そういう人間の全てが『不寛容』になるわけではない。だから、そいつが不寛容なのは、やはり、そいつ自身の責任なのだ。したがって、こちらも不寛容な態度をとっても構わない」と。
あるいは「こちらが不寛容な態度をとることによって、奴らに目を覚まさせるのだ」と。
かつて生活保護バッシングが起きた時(と言うか今でも現在進行形で起きているのですが)に、決り文句のように言われた/言われるのが「貧しい人間の全てが、生活保護に頼っているわけではない。条件に拘らずに働き口を探せば、生活保護を受けるような貧困状態に陥るはずがない。生活保護を受けるような人間は、そいつが怠惰だからなのだ」とか「生活保護に頼らざるを得ないような、不健康な状態にまで身体を壊したのは、そいつが努力を怠って不節制な生活を送っていたからだ」といった言葉です。
はてな界隈では、リベラルや左派の方が多いので、経済的な貧しさ、疾患・障害などの肉体的な貧しさ等に関しては『自己責任』論者が批判される傾向にある一方で、知的な貧しさに関しては『自己責任』論者となる人が屢々見られるので、私は不思議に感じてます。
以前は「攻撃や争いよりも対話や教育を」という姿勢の方も多数見かけたような気もしますが、最近では「彼奴等は、あんな奴らだから、関わったり対話を試みるのは徒労だ」として、対話の努力を放棄したかのような人も増えたように見えます。
はてな界隈は、個人の自由を重んじる人が多いので、D. Harveyの言うように新自由主義に乗っ取られてしまい、結果として「自己責任論者」が主流となったのでしょうか?
氷河期世代は2005年の郵政選挙で小泉自民に投票した人が多い筈なんだよね。選挙権はあったし、あの結果を見れば必然的に導かれる結論だ。
バブル崩壊後の就職難を経験して行き詰まりを感じている中、小泉が自民党そして既得権益層をぶっ壊してくれれば、事態を打開できて自分にも明るい未来が来ると期待していた。
だが実際にやって来たのは新自由主義の専横による格差社会だった。
その後の政権交代でも状況が改善しなかった。「悪夢の民主党政権」を自分の身で体験したと思いこんでいる人もいるけど、あれはリーマンショックと東日本大震災による錯誤だよね。テロと天災だった。「民主党」と書いた紙を見せられながら電気ショックを与えられたようなものだよ。擬似相関であり、因果関係はない。
そういった体験を経て、過去の自分の投票行動を否定できないために自民支持をしてしまっている人が多いと思う。
小泉自民に投票したけど、あれは失敗だった。2010年代の低迷も、自分が民主党に投票したことで責任を負う必要はない。それを認めて今からやり直そう。これからの人生で今が一番若い時だ。やり直せる。手のひらを返すことは恥じゃない。ダブスタを忌避する論調は強いけど、何も臆する必要はない。人間だもの。論理的で客観的で一貫した生き方なんて、行き着く先は殉死しかないよ。ダブスタ上等だ。もっと柔軟に投票行動をしよう。
現代は賃金格差が埋まってきているのだから女性が働いて男性が家事・育児をする家庭があっても良いという考えがある。
ライフスタイルは人それぞれだから勿論そういう生き方が認められるべきだし、現代においては先進的とも言える。
ただ、最近気がかりに思う事が出来た。
という物だ。
つまり高収入の女性が低収入・無収入の男性と結婚して生活を支えるべきだ、という事だろう。
幾ら賃金格差が縮まったとはいえ、女性の平均年収(280万円)が男性の平均年収(560万年)の半分しかないこの格差社会で、これはあまりに厳しい。
ならば女性ももっと稼げるように努力するべきだ、女性の平均年収が上がるように何らかの動きがあるべきだ、という意見もあるがその話は今は置いて置きたい。
女性が働けば男性が育児をする、という人は多いが、根本的に「男性の育児能力は女性に劣るので男性は育児に向いていないのではないか?」という疑問がある。
女性は10か月以上、自分のお腹の中に赤ん坊を抱えてまるで自分の一部であるかのように、自分以上の命であるように、我が子を慈しみ大切に育てる。
幾ら医療技術が発達しても出産の際に命を落とす女性は居なくならない。新たな命を産み落とすという行為は、いつだって命懸けだ。
そうしてこの世に生まれてきた我が子を抱きかかえ、お腹を空かせた我が子に乳を与え育てる。
粉ミルクという画期的な発明のお陰で赤ん坊にとって母乳は必ずしも必須ではなくなっているが、やはりそれも母乳の「代用品」でしかない。
また、子供は男性の筋肉質で堅い腕より女性の柔らかみのある腕に抱かれる事を好む。これは理屈の無い感覚的な物なので、どうしようもない。
女性だけが子供を育てるべきだ、という昔ながらの価値観は今では古臭い物になった。育児に母親だけでなく父親も積極的に関わるべきである。
だが、同時に男性はどうしても育児という分野で女性に敵わない部分が生来的に存在する現実も、また否定出来ない。
これから先人類が進化していくにつれて、その内男性と女性の肉体的境界は曖昧になっていくかもしれない。「男性の育児が女性と比べて不利」で無くなるには、その時を待たねばならないのかもしれない。
今更ですが、この「女性の方が男性より育児に向いている」という考え方は私独自の物ではありません。
三人子供を産み、夫の協力を得られずワンオペ育児をしたり時には実家に帰ったりもしながら何とか三人とも育ててくれた母が私に教えてくれたものです。
母に育てられた娘達も、時には実家で母の力を借りながら何とか子供を育てています。
母の言う事が全て正しいとも思いませんが、やはり三人の子供を一人で背負い自転車に乗って育てた母の言葉はそれなりに説得力がある物だと思っています。
母曰く、「子供は父親の匂いや堅い腕では落ち着かない。母親の匂いと柔らかい腕に抱かれて落ち着く物だ」との事です。これは私の父が喫煙者だった事も大いに関係があるような気はしています。