はてなキーワード: 教養とは
これはどうよ?
数式は「眺め方」さえわかればこわくない! 数学アレルギーはもったいない。微分積分や確率統計の「読み方」から、経済学、政治学、論理学、哲学がもっとおもしろくなる数学的思考をわかりやすく伝授します。
数学1、2、3、A、B、Cというアラカルト方式による縦割りから脱却し、つながりをもった1本の大きな体系として高校数学を捉え直した。
あるいは同じ著者のこれ
目を奪られる様々なイラストは狂おしいほど美しくて、
紙に綴られた物語はいともたやすく不思議の世界へ彼を突き落とした。
僕もそんな、誰かを、誰かを動かすような何かをしたい、作りたい!
そんな単純な夢だった。けれど彼は努力を知らなかった。一朝一夕で身に付けられるものではないとわかりながらも、わずかな時間に積み上げられるモノの少なさに、単純なその量に心が折れた。
果てしない積み重ねの最後にようやく至れる領域に思いを馳せながら、その彼我の距離に絶望したのだ。
一日1mmの前進が一年でどれだけ進むかと考えられず、感じられなかった。
情熱は枯れ果てた。
必死に頑張っても方向が違えばやってないのと結果は変わらない。そんな、くだらない思想の元に毎日、毎日毎日毎日、それこそ積み上げて3年間腐りに腐った彼に現実が隔たる。
努力することを知らない彼に、当前のように苦労を積み重ねる彼らが信じられなかった。
努力の先を知らない彼に、自分より先に進んでいる彼らとの差が何かわからなかった。
努力した後に残るものを知らない彼に、彼らの見ているものは見えていなかった。
情熱なんてなかった。
他の人に失礼だと思わなかったのか。
ここまで目標に頑張りましょう!
あと少しなんだから打ち込んでみたら
…
一生懸命に生きるってなんだろう。
全力を尽くすことは阿呆で、努力は天才のための言葉で、馬鹿な僕には関係のない縁もゆかりもない異国の言葉に過ぎないはずなのに。
うすっぺらな自分の、何もない道程に今更すぎる後悔だけが、積もって重なって
もう先も見えない。
暗い森の奥深くのように、行くべき先はわからない。
方位磁針はとっくに壊れて、怪我はないのに足は動かない。
体力はちょっと足りないかもだけど、でも進めないわけじゃないはずなのに。
なんで、こんなに苦しいのか
ちょっとずつしか進めないときに何度も何度も夢を見ていた。理想の自分、なりたい自分。
何かできるようになりたいとは思っても、どうすればなれるのか、何をすればなれるのか知りもしなければ、調べも、教えを乞うこともなかった。
一生懸命生きることが、積み重ねることであるならば、その先に僕は何かを見ることができるのだろうか
今はまだわからない。
なんと言うか、漠然と哲学的なのではなく、特定の思想とかなりシンクロ率が高いみたいなのを知りたい。
最近読んだ中では、
だなと思った。
そのようなものがあったら、教えて欲しい。
追記:
とても参考になった。
漫画・哲学の素養が乏しく、カバー範囲が狭いのだが、回答できるコメ・ブクマだけ回答させてもらう。
ドラえもんをニーチェ的に読むと言うのは、過激な試みに見える。
どうもこれはそうっぽい。読んでみる。
パプリカはどうやらそうっぽいので、これも読んでみよう。
よく知らないけど手塚治虫の「ブッダ」は仏教思想とシンクロしてるらしいな。伝聞なので間違ってたらゴメン(意味不明/ファンロードでなんか凄いの読んだ記憶あるが内容とか何一つ思い出せんので偽記憶かも
「ブッダ」レベルでシンクロしている漫画が、哲学的なマンガと言って差し支えないものなのではないかと考え直した。
手塚治虫の解釈が入っているかもしれないが、仏典と仏教史からマンガを起こしているからな。
ブッタとシッタカブッタ
ちょっとググって見た。内容紹介には「宗教でも心理学でもない」ってあるんだけど、心理学と仏教のミクスチャーとして読んでみよう。
オーダーとずれるけど面白いよ /有罪無害玩具http://tirasimanga.web.fc2.com/TUM/043/043.html 下校時刻の哲学的ゾンビ https://omocoro.jp/kiji/64616/
これも要チェックで読んでみる。
なんかこっちの方が鬼気迫るものがあるな。
俺にそれを読み解く能力があるかが疑問だが、チェックしてみよう。
全部が全部そうじゃ無いことは前提とした上で。
今回の騒ぎで昔のラノベだって扇情的だったと言っていくつか写真が上がっているが、
いくつか見たものの布面積こそ少ないが奇乳とか恍惚とした顔とか局部の強調とかはほとんど無かった。
シュトルムの写真に写っていたラノベの表紙のような絵柄とポージングはおそらくエロゲ発なのかなと思ったんだが、どうなんだろう。
ちょうどエロゲが男オタクの基礎教養扱いされだした頃にオタク界隈から離れてしまったので、リアル体験した人の話を聞きたい。
15年前には奇乳が揺れるアニメが流れていたのを見てるからその頃にはオタク界隈では定着していたんだろうけど。
エロゲの絵を描いた痛車とかが話題になったのもこの頃だったように思うし。
あと乳や局部の強調の一般化というか感覚の麻痺にお尻マウスパッドが関係しているのかどうか。
卓越した知識人としての能力とかならともかく一般人的な意味での教養なんてニッコマレベルで学んだ内容で十分でしょ
必要に応じて単にそれを発展させていくとかでいいのでは
でも、自分は地頭凄くいいはずみたいな、その気になれば高学歴だったはずみたいな気持ちも強くある。
自分より学歴高い人と接するときに雑談についていけないことばかりで腹立ったから教養身につけようと躍起になったんだけど、
雑学コレクターみたいになってしまった。周りからは頭良い人とはみなされない。
歴史小説、百田尚樹、東野圭吾、フルフォードとか読み漁ってて知識ついたけどまだ全く教養人の話についていけない。
大東亜戦争のことすら全く知らないバカが世の中には物凄く多いから俺は相当教養あるほうだとは自覚してるけど、それでもまだもう一歩足りない。
どうしたら教養身につけられる?
ありていな話、「わかりやすいエンターテインメントフィクション」は前近代的価値観でないと成立しにくい
たとえば、私的な問題に対する司法権力を無視した暴力による解決、私情による復讐での殺人、近代的な企業のビジネスライクな上下関係にはない濃密なロマン性を持った主従関係、所属集団が敵対しているゆえ結ばれない男女……等々
おかげで、それらを描いた作品を作ろうとすれば、時代劇とか異世界ファンタジーになるのが通例
現代劇でその手の要素を描こうとしたら、「現代に生きてる前近代=侠客アウトローの世界」ぐらいしかないのだ
現実の生活においてはとっくに、ヤクザや不良や暴走族を嫌う人間の方が多数であろう
高倉健の任侠物映画や深作欣二の実録ヤクザ映画が若者の基礎教養みたいなもんだった60~70年代に比べれば、ヤクザも不良もエンターテインメントの世界においても随分と隅っこに追いやられた方だと思う
しかしながら、フィクションの世界において現代においてなおヤクザが都合良く使われているのは、みんな心の奥底では「近代の自由・平等ってつまんない、前近代的な暴力性や主従の束縛などがあるほうが”ドラマとしては”面白い」と思ってることの証左
衣食足りて礼節を知るというけれど、あくまでエンターテインメントとしては、平和な時代になったからこそ、むしろみんな前近代的なものを楽しく思うのさ
それだといわゆる
「教養科目と専門科目」って枠組みにおける「専門」って言葉なわけだけど
じゃあ
「大学とは専門を学びに行くところだ!」って主張してる人は、
いわゆる教養科目を全否定する意味で言っているはずだってことなのか?
そもそも「稼いでる人間が魅力的な無職を養う」と言うモデルが一般的だった時代なんかないからね。
「稼いでる男が家柄が良く教養のあるお嬢様と結婚してその家柄や教養を利用する」と言う構図であって
別に男が女を一方的に養っているのではなく、お互い持ちつ持たれつのwinwin関係なわけ。
「男側に性的魅力以外に与えられるものがない、ただ性的魅力があるというだけの頭も家柄も悪い女」は精々愛人止まりで正妻にはなれないのが普通。
性的魅力なんか歳を取れば衰えるし、そんな女に大事な子供の教育や財産管理を任せられるわけがないんだから当たり前のこと。
そういう女が愛人ではなく正妻になるのは珍しい事だからこそ「玉の輿」と言う特別な名称で呼ばれてたわけだ。
男女入れ替えて考えたって同じこと。
女は下方婚して俺を養えと言ってる男は、例え女だとしても「性的魅力すらない頭も家柄も悪い女」でしかないんだから
性的魅力があるなら、ぎりぎり「逆玉の輿」には乗れるかもしれないがそれも少数。
かと言って頭と家柄が良い男であれば、自分で稼ぐ方を選ぶ。
さすがにはちまの900ブクマ越えはびっくりしたよね。一気に目が覚めたよ。
はてな民というのはなんだかんだ言って最低でも旧帝一工神筑早慶上智ICU国立医学部くらいの感じの集団だと思っていたんですよ。バカだバカだと言っても、低脳先生のように最低でも九州大学あたりを卒業しているような。
でもスマホの普及があり、すべての伏線となるサードブロガー(?)の発生、そして互助会アフィブロガー流入と席巻と撤退、この辺りでもはやまともな人はほとんど出て行ったような気がしていました。
しかし、ここにきてはてなダイアリー終了宣言。完全に完璧にひとつの時代が終わったということなんですよ。小難しい長文を読める人間がいなくなってしまった、あるいは小難しい長文の需要がなくなった(とはてなが見なした)ということです。はてなにおいても中途半端な自称理系ばかり増えて人文知というものが必要とされなくなりましたが、これは日本全体の雰囲気に連動しているようにも見えます。
人文知や教養を必要としなくなった中途半端な自称理系の選択したものがラノベ的なるものです。なぜ中途半端な自称理系がラノベに惹かれるかというと、構造がわかりやすく分析しやすいからです。そこには構造と論理しかないです。そして、こうしたラノベ的なるものというのは何もラノベだけではありません。
代表されるのがはちまや痛いニュースなどの有害まとめサイトです。対立煽りというのはラノベ的な感性にヒットします。わかりやすいからです。実際、ラノベオタクたちはラノベ天狗による悪質なtogetterまとめをブクマし続け(なんならラノベ天狗を称賛し)ています。アイロニカルな視線でそのまとめを見るのではなく、ラノベ天狗に同調して「そうだそうだ」といった感じなのもとても嘆かわしいです。物事を矮小化して型にはめてレッテルを張る、あるいは文脈から切り離して誇張してみせる、そういったわかりやすいエンタメが世間には溢れていますが、まさにはてなもそういったエンタメに支配されているように見えます。
この前、増田で話題になったB'z稲葉の話も似たような部分があります。わかりやすいちょっといい話に仕立ててあるわけです。そういうものに多くの人が釣られています。ベストセラーになる小説なども同じようなものでしょう。感情を煽って、雑にレッテルを張る、そしてそれがレッテルを貼っただけのハリボテだということをなるべく認識させないようにする、そのような本で溢れています。なぜなら需要があるからです。わかりやすいものしかわからない人たちがたくさんいるからです。インテリはてな民の皆様にはそんなものに心動かされないで冷静に観察していただきたかったです。しかしもうそんなことができる人間ははてなにもほとんど残っていないわけです。
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そして今朝のできごと。
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ラノベ、ビジネス書、スゴ本、こういったわかりやすいものに飛びつくのをやめて、専門書を正確に精密に読解するという訓練をするべきです。わかりやすいものに飛びついていては知力が鍛えられません。
「難解であれば高尚であり素晴らしいというのは間違いだ」というのはある程度は真実ですが、難解であることが悪いのではありません。難解なものを理解しない人は「難解なものは悪いもの」「わかりやすいものこそ素晴らしい」という思想になりがちです。しかし難解にしか語り得ない領域というのがあるのです。それは「意味」というより「文体」によって享受できる詩的な体験ともいうべきものです。そしてその領域に触れ、体験したことがあるかないかというのが知的であるかどうかのひとつの分かれ目なのです。
難解であることをほめ讃えよと言いたいのではありません。難解なものによって自分の知力を鍛え、見る目を養おうと言いたいのです。わかりやすいものに飛びついて、わかりやすい構造を理解し、わかりやすい意味を理解し、理解という快楽によって全能感が肥大していく、そんなことはもうやめようと言いたいのです。
はてなは今危機を迎えています。はちまが900ブクマを超えてしまったことの意味をそれぞれが考えてみるべきではないでしょうか。