はてなキーワード: ロンダとは
Fラン大学の教員をやっていたころに少し驚いたのは、大学に行きたいから来た、という学生が思っていたよりもずっと多かったこと。
正直に言って、俺は、Fラン大学なんて勉強なんかしたくないやつらがモラトリアムで来ていると思ってた。
(博士課程まで行くような俺たちには、出身大学の体育会やテニサーやりサーだって大学に遊びに来ているように見えていたのだが。)
でも、実際には、金が無かったり能力が低かったりどこかのタイミングで著しくさぼったりして勉強ができなくても
「勉強がしたい」「大学は出たい」という子供がたくさん来ていた。
まだ斜に構えていた着任当初、「なるほど。行っても行かなくてもいいような大学だからこそ、行きたいやつが来るのか」と思ったのを覚えている。
やる気のある学生にちょっと真面目に教えれば、当然、東大早慶の院にも入れるやつも出たりする。
そんな大学で入学シーズンによく見かけたのは、子供がした入学手続きを親が取り消しに来る、というもの。
もちろん、そんな親の反対を押し切って入学手続きまでするような子供は、本当にとても大学に来たい。
だけど、こちらとしては、未成年より保護者の意思を優先することになる。
本当にかわいそう。
成人年齢が下がると、このあたりの扱いは変わるのだろうか。
他方、逆のケースもある。
親が「俺は○○屋だけど子供は大学に行かせてやりたい」という熱意に満ち溢れている家庭。
ややもすると、人はそういう苦い記憶をしばらく経てば無かったことにしてしまうものらしいので、戒めとしてここに個人的な経験を書き記すことにする。
→当然、地帝に現役で受かるものだと思っていたら、学年平均層は関大や立命館や地元駅弁受かればかなり頑張ったほうで、限定ではほぼ全員同志社も落ちると聞かされ絶望。
実際、そうなってた。
関関同立×、駅弁×、地元私大〇で浪人。一浪で関関立〇、駅弁◎というのが黄金パターンだった。
地帝への院ロンダに成功したことが幸いし、早朝に体操をやるという某大手メーカーに見事内定。圧倒的勝利を確信する
→産近甲龍卒の高校同期が入社した大手子会社(従業員1000人足らずのノンバンク)と給与水準が変わらなかった。なんなら、課長までの年収なら若干負けてた。
地帝院卒で泣く子も黙る巨大企業に勤める20代なら婚活女子は入れ食い状態だろう
→「凄いですねー!尊敬します( ^ω^ )」で終わり、一切お付き合いに発展しない。
どうやら結婚願望ある女子でも、学歴とか年収とか会社名とかの外形的肩書きは
「それだけ揃ってるならお付き合い大歓迎!」
という婚活イージーモード突入の決定打とは全くならないようだ。
たとえ相手が派遣社員でも30代女性でも「で、肩書き除いたあなたはどんな人間なの?」と自分を安売りせず冷静に値踏みしてくる。
以上、戒めでした。
また「学歴ロンダだと見下される、院から東大の人」の話題がYahoo newsかなんかに上がったらしい。
毎度のことなので気にしてもしょうがないが、たまたま私大の子がドン引きしているのを見て、ちょっとまずいなと思った。過剰に深刻にとって、東大に来るのを止めたりしないで欲しい。
大学院は研究をする場所なので、研究をする奴と、周りの研究を助ける奴がえらい。フリーライダー的な修士は、学部がどこだろうが邪魔。これにつきる。
東大の学部から上がった子でなく、地方国立や私大から来た子がラボのエースになるのはよくあることで、彼らを「ロンダ」などと呼べば、むしろそう呼んだ奴が周りから馬鹿にされる。
企業の人事もその辺の感覚は同じはずで、研究開発職に同ラボの二人が応募したとき、「学部が東大でない方」が採用されるのは極々普通。
あなたが「研究をやらない人」なら話は違う。修士を積極採用するような会社は、「自分の手で実験・解析をしている人なら絶対にしないような受け答え」を見抜いてあなたを落とすだろう。
こういう状況では、学部の大学名が効いてくる。東大なら取りあえず雇う会社というのは存在するが、彼らは学部入試の勝者を取りたいので、他大から来た人は不利になる。
「ロンダ」なる蔑称が存在するのは、「就職のために東大院に入り、就活に専念して研究せず、修論提出や学会発表で周囲に頼りまくって迷惑をかける奴」という類型が存在するからであって、これに当てはまらないなら一向に気にする必要はない。
偏差値レースのノリが抜けない子や会社の先輩が「ロンダ」と呼んでくることもあるだろうが、彼らは東大院卒のマスでないことをわかってほしい。
私はそれなりの有名私大から有名国立大学院に学歴ロンダリングした。
元いた私大の大学院に進んでもよかったが、やはりとりわけ理系では、国立優位なことは認めざるを得ない。
貧乏だった人が裕福になることを目指し、何か問題があるだろうか?
立場が弱かった人が権利を主張し、責められることがあるだろうか?
いや、ない。むしろ何もせず怠惰である方が恥ずかしいとされる世の中だ。
しかし、学部から異なる大学院に進む話になると、学歴ロンダリングだ!!!と喚き出す人間が存在する。
なぜ。。。
どれも努力した (そして今後もするだろう) という点で、本質的には同じはずなのに。
しかも面白いのが、学歴ロンダリングを叩く人々は、中々の割合で地頭信者なのだ。
彼らの言い分は大抵こう。
大学入試の問題 (特に数学、物理) は地頭がよくなければ解けないが、大学院入試は簡単で誰でも解けるから、バカなお前でも入れる裏口入学のようなものだ!
少し自分語りをしたい。私は大学に入るまで、勉強というものが嫌いだった。
多少賢い方だったので、小学生時代に学習塾で受けた模試でよく冊子に名前を連ねていた。中学受験を勧められていたが、家庭の事情で地元の公立中に進んだ。
小中と勉強しなくても学校のテストの点はよかったので、勉強しない癖がついた。好奇心は強い方だったと思うが、私は怠惰な人間なので、目先のゲームの方や部活の方にばかり気持ちが寄った。
その後進学校と自称進学校の半ばくらいの高校に、そして某私大に進学した。私はやはり怠惰だったので、高校受験も大学受験もさして勉強はしなかった。
勉強嫌いは治らなかったが一般受験というものを経験してみたかったので、大学受験は推薦などは取らず一般で受けた。
高校受験は舐めてもなんとかなったが、流石に全国規模の大学受験は思うようにはいかず、諸々の大学に不合格を貰い某私大に進んだ。
勉強関連で大した失敗経験がなかったので、困らないくらいの学歴は手に入るだろうというバカな考えがあった。まあ正直今でもそう思っているし、有難いことに一応はそうなった。
この某私大は一般的に M*RCH と同程度か超えるくらい難しいところだと思う。ネット上では M*RCH は 3 ヶ月!などと暴論をかます人がいるが、私に言わせればまだ甘い。M*RCH も某私大も 0 ヶ月だ。
そしてこの某私大は、私の感覚的に、研究員になれる最低ラインの大学なのである。この大学に合格していなければ、恐らく研究の道に進もうとは思わなかっただろう。
もっとも、出題によっては、M*RCH にも落ちたりした。運のよさだけが取り柄である。
念のため付け加えると、上記をみれば明らかなように、私は学歴などには大して興味はない。大学受験で努力できた人の方が、人として私よりも圧倒的に優れていると思う。努力した人をバカにする意図はない。
また、自分を稀代の天才などと思っているわけではない。だいたい研究の道に進めば自分より優秀な人なんて山ほど出会うし。入試だって東大 0 ヶ月を主張する者さえいる。
この某私大で、転機が訪れた。大学の勉強が楽しいのだ。なんということだろう。
私は情報系の学生である。小学生の頃にゲームを改造するという形で情報技術に興味を抱き、高校まで趣味でプログラムを弄っていた。
高校までの授業は、特に普通科高校などでは、まずやっておけば間違いない (悪く言えば当たり障りのない) 教科ばかりで構成されている。生徒が卒業後どの分野にも進めるように組まれているのだから当然だ。
大学は研究機関であり、かつ専門教育を行なう機関なので、高校までとは毛色が違う。
大学の講義や研究は私の興味に合致した。このまま進みたいと思うようになった。楽しいから仕方ない。この後の進学までの流れはどうでもいいので省略するが、結果、学歴ロンダリングの道を選択した。
自分に限界を感じて諦めるかもしれないが、それならそれでも構わない。ロンダロンダ煩くされるなら、院の名前は出さず某私大の名前だけで生活してみせよう。学歴自体にはさして関心がないのだから。
少し話が逸れてしまったが、したがって、
大学入試の問題 (特に数学、物理) は地頭がよくなければ解けないが、大学院入試は簡単で誰でも解けるから、バカなお前でも入れる裏口入学のようなものだ!
に対する私の答えはこうだ。
「地頭」で能力の伸び方は変わるかもしれないが、上限は関係ないと思う。
現役 MARCH 全落ち 1 浪東大の人とか知ってるし。なんなら多浪高学歴 YouTuber とか何人もいるし。
逆に、浪人して俗に F ランなどと呼ばれる大学に行った人も知っている。でも彼らも伸びが遅いだけで、特別知能で劣っているのではないと思っている。
もちろん言うまでもなく、難関大学に合格する人は凄いです。私にはできなかったことなので、その賢さと努力は素直に尊敬します。
まあ確かに、確かに東大生を主張していた人が学歴ロンダだったら、あれ?って感じるのはわかる。明らかに元いた大学を隠しまくってたら私もうーんって思う。わかる。
全く誰からも批判されない人など居ないので、批判したければ常識の範囲ですればいい。でも、主語を大きくしてロンダは全て悪!は間違っている。
例えば気に入らない中国人がいたとしても、すべての中国人をバカにすべきではないだろう。
中国人は採用しない!とか発言して東大から解雇された某最年少准教授の例とかあったじゃん。
なんだか、人を叩いて気持ちよくなりたいタイプの方々が、若い芽を摘んでいるだけな気がしてならない。
しかもそれが割とスタンダードな考え方なことに、失望を隠せない。
前述の某最年少教授の処分にあたってそれとなくロンダをバカにする反応をしていた東大教授さえいたし。
昔付き合ってた人がまさにそんな感じだったけど、とりあえずなんとか形式だけでも修論の形にして、発表会でボッコボコにされるのを我慢して、発表会後にも修正しろとか言われるかもしれないけどそれも対応したら、単位は貰えるんではなかろうか。
修士で就職決まってるなら、先生もよっぽどのことがなければ落とさない。なんとしても卒業させる方向で対応するのが基本(←親族に大学関係者が多くて、皆そう言っている)。
友達とかOBとか、とにかく誰か物理的に手伝ってくれる人いない?形だけでも修論の形にするのだ。
ちなみに、その昔付き合ってた人は某私大から京都にある某国立大学にロンダして、全然ついていけなくて2年間ほぼ何もやってなかったようなレベル。がんばって。
今日の帰り道、長い塀とその中にある高い木々に囲まれた屋敷を見かけました。随分昔からあるような雰囲気でした。大きな門のところにはぴかぴかの監視カメラがあって、そこだけちぐはぐな感じがしました。
私は散歩が好きで、気がつくと三時間くらい歩いていたりします。この街はくまなく歩き回ったと思っていたのですが、まだ知らない場所があったみたいです。こういうことがあると、物語の中に入ったようで少し楽しい気分になります。ここはそんなに大きな街ではないので、もう何ヶ月かしたらきっと、本当に行ったことがない場所などなくなってしまうでしょう。そう思うと少し残念でした。その時が訪れたら、人に迷惑にならない程度に少しばかり酒に酔って散歩するのも良いなと思いました。そうして、意識がはっきりしていない状態で歩き回ると、「猫町」に出てくるような遊びができるかもしれないと考えました。
小説といえば、昔に村上春樹の小説を夢中になって読んでいたことがありました。近頃はあまり読まなくなってしまったのだけど、日常から非日常へとシームレスに暗転していく感じが好きで、今でも地下鉄に乗っている時や、古いホテルの長い廊下を歩いている時などに小説の情景を思い出します。
どうして村上春樹のことが頭に浮かんだかというと、今横を歩いているこの立派な屋敷は「1Q84」に出てくる篤志家の老婦人が住む家の描写に似ていたからだと思います。塀の中にはほうれん草が好きなドーベルマンや、隙なく鍛え上げられた肉体を持つガードマン・タマル氏がいそうでした。思わず空を見上げましたが、月は一つしかありませんでした。
小説の内容は断片的にしか思い出せませんでした。ただ、タマル氏が語った木彫りのネズミを作る少年の話ははっきりと記憶しています。その少年はタマル氏が育った児童養護施設にいて、ネズミを彫ることの他に何もしませんでした。少年がネズミを彫る情景は、何故かわからないが心に残っていて、それは自分にとって大切なもののように思える、というようなことをタマル氏は言っていました。それが彼の心象風景なのだと。
1Q84を初めて読んだときのことはよく覚えています。お金がなかったので本は買えず、図書館はずっと予約待ちでいつ読めるかわからず、でもどうしても読みたかったので、きっと責められるのでしょうが、隣町の図書館に行った帰りに本屋で立ち読みをして少しずつ読み進めたものでした。
その当時の私は、失意のどん底にいました。大学受験に2回も失敗したのです。高校を卒業して就職し、少し経って色々なことが見えてきて、大学に行きたくなって、仕事をしながら受験勉強をしました。そして失敗しました。頑張って溜めたお金もどんどんなくなって、やっぱり自分は馬鹿なんだ、甘かった、叶わない夢を見ていたのだと思い知らされて、本当に惨めでした。それでも諦められなくて、図書館の自習室に通って勉強を続けていました。
そんな折にウッカリ病気になり、入院して手術を受けなくてはならなくなりました。高額医療なんとかという制度でかなりの額が戻ってきたのですが、それでもやはりお金は減るし、大部屋だったので周りの病人になんやかんや干渉されるし、古い病院なので暑くて臭いし、とにかく最悪でした。
その日も最悪な気分でした。手術で受けた傷が痛みました。術後から数日間しか経っておらず、しばらくは風呂に入れないでいたので、自分が臭いのがわかって辛かったものです。
気分転換でもと思って院内を散歩しているうちに、見知らぬ病棟に入り込んでしまったようでした。エレベーターで一番上まで上がると、屋上に続くドアを見つけました。
屋上には誰もいませんでした。洗濯されたシーツがはためく耳障りな音と、やかましい蝉の声だけが聴こえました。季節は夏で、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが憎たらしいと思いました。しかしながら病院の屋上というのはなかなか絵になるもので、まるで自分が小説の中に入り込んだような心持ちがして少し気が晴れました。ですが、そんな雰囲気で柵に凭れたら、熱された金属が肌を焼いて飛び上がり、格好が付きませんでした。ため息をついてふと見下ろすと、ある病棟の窓から内部が見えて、目をこらすと病室から廊下に棺が運び出されているのが目に飛び込んできました。
私はますます憂鬱になりました。それで、とぼとぼと病室に戻ると、点滴を引きずりながら歩いたせいで血が逆流してしまったらしく、看護師さんに怒られました。
落ち込みながら、歩き回って汗をかいたので着替えて、脱いだTシャツを流しで洗濯していると、明らかに大掛かりな手術をしたと思われる包帯ぐるぐる巻きの人がやって来ました。その人は壺のようなものを重たそうに持ってよろよろと歩いていて、とても怪しい人物のように見えました。それを流し台に置いて居なくなったかと思うと、しばらくして綺麗な花束を持って戻ってきました。壺ではなく花瓶だったのかと私は思いました。
その人にとって、かがみこんで花を花瓶に入れることも、蛇口をひねることも、そしてその後に運ぶことも難しい状態に思えました。普段は、困っている人に親切な行為をするのに随分勇気が要るのですが、その時は反射的に声をかけることができました。
病室のテーブルに花瓶を置くと、その人は小さな板(何回でも書いて消すことができる子供用のお絵かきボードがありますが、それに似ているものです)のようなものを取り出し「ありがとう、とても助かりました」と書きました。そして、手術をしてもう喋ることができないのだと続けました。私はその時初めて、その人が今まで一言も発していなかったことに気が付きました。
私は何故かその瞬間、自分を恥じました。しかし、そう思ったこと自体もその人に失礼で、恥ずかしく思いました。
視線を落とすと美しい紫色の花が目に飛び込んできて、見たことがない花でした。とても綺麗な花ですねと私は言いました。
その人は花の名前を教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、こういう見た目の花ということは知りませんでした。
そう言うと、好きな花なんです。母が持ってきてくれた。と答えました。
それからもう10年が経ちました。あの夏を過ごした翌年に、私は何とか滑り止めの大学に合格しました。その後、機会にめぐまれて、大学院にまで進学することもできました。いわゆるロンダリングです。恥を忍んで正直に言うと、大学に入るまで大学院を存在することを知らなかったので、それを初めて知った時はなんだか謎めいた機関のように思えました。周りに院を出ている人などいなかったし、そもそも大学を出ている人も多くはありませんでした。今では、本の奥付に書かれた著者のプロフィールにX大学大学院X課程修了などと書いているのが目に入るようになりました。昔から色々な本をたくさん読んでいたはずなのに、きっと見えていなかったのでしょう。
20代前半で初めて東京に出てきて、育った環境の違いに打ちのめされたものでした。中高一貫の学校出身の人々に囲まれて、私が初めからこういう場所で育ったならどうなっていたかなと考えましたし、今でも考えます。奨学金の残りの返済額に憂鬱になることもしょっちゅうで、そういう心配がない人はいいなと思います。進学してから変な経歴を笑われたこともありましたし、ロンダだと陰口を言われたこともあって、そうした時は悲しくなりました。
でも、いつからか、自分で自分の人生をある程度コントロールできているのだという充足感があって、これは昔にはなかったものでした。ただ、これは、大学受験を乗り越えて「分断」を渡った(かもしれない)ことだけが原因ではないように思えます。
何かがあって落ち込んだり、何かなくてもふと悲しくなったとき、あるいはただ呆けているだけのときに、あの夏の病院で出会った包帯の人との出来事が、鮮やかな紫色の美しい花のイメージとともに浮かび上がることがあります。普段は忘れていて、そのとき見たものや匂いや状況などがトリガーになって出てくるのでしょう。この情景はとても印象的ではあるのですが、別に感動的ではないし、大きく感情を動かされることもなく、さして貴重な体験だったという訳でもないように思えます。
ただ、思い出したときに何となく心が凪いで、これは私だけが持っているものだと言う気持ちになります。多分ですが、自分にとって大事なものであるような気がするのです。そう思うと、タマル氏が言っていたことが理解できるような気がしました。
「俺が言いたいことのひとつは、今でもよくそいつのことを思い出すってことだよ」とタマルは言った。「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。べつに会いたくなんかないさ。今さら会っても話すことなんてないしな。ただね、そいつが脇目わきめもふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」