はてなキーワード: アリアとは
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.sinseihikikomori.com/2019/02/blog-post_16.html
ただ、その時韓国では入国遅延でリハーサルをキャンセル(リハーサルを特別に見れるイベントとかだったと思う)したりしてめっちゃ叩かれた。
さらに日本には5日間滞在しててその比較でめっちゃ嫌われてる。
日本が目当てで韓国は東南アジアへの経由地なんだろ?(公演の順番が日本→韓国→東南アジアだったかな?)って。
https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=232398
つまり韓国より日本を優遇したので韓国人からわりと恨まれてる。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASM274CV6M27UHBI01Q.html
自虐ネタに走る近藤春菜を気の毒に思い、「あなたは可愛い」と褒めたアリアナ。
アメリカのポリコレの文化盗用の流れも今までと今回の話の構図さえも理解しないで日本人が文化盗用だと騒いでそれに嫌気がさしたんだ日本人は陰湿だからみたいに勝手に思い込んで結論出して確認もせず日本て概念にマウントとってるのそこそこおるのこわすぎやろ
アリアナグランデなんてどうでもよくてほら見ろ自分は違うやれやれって言える場所見つけて飛びついてるだけやんけ病んでるわ
そうじゃないなら認知バイアスってやつで自覚ないの余計にやばいしこわいわ
闇深すぎやろ
アリアナグランデ文化に敬意ない考えなしみたいにやられて叩かれてもういい疲れたこれで満足でしょってっなってんのにそれさえ伝わってなくて同情さえ正しくされずにかわいそ過ぎやんけ
初めに。
この記事はアリアナグランデさんがほんのちょっとだけの馬鹿の書き込みのせいで日本を嫌いになってしまった騒動をみて、書いたものです。
はっきり言おう。日本人論にはエビデンス、つまり証拠や証明がなされているものは皆無であると。
日本人論には「日本人スゴイ」のようなポジティブなものも、「日本人ダメ」のようなネガティブなものもあるが、どれも証拠が出されたことはない。
あるとするなら、日本人論を書く人の身近な経験、ネットの書き込み(※参照)ぐらい。反証可能性はまったくない。
※ネット炎上の研究という本にもあるが、炎上に関わっている人は千人に一人だという。ツイッターで実際書き込んでいる人は全体の四分の1、四千万もある日本語のアカウントのうち一千万しか書き込んでいなく、それの千分の一、つまりたった一万のアカウント、それも統計学的に抽出したのではなく恣意的に出して『日本人は陰湿だ』というのがいかに滑稽かわかるだろう。もちろんたった一人の行動でもって「日本人スゴイ」というのも滑稽極まりないものだ。
話を戻すと、日本人論はまったく証拠がない。だからどの本も読むに値しない。
じゃあどうすればいいのかと言うと、「ありのままの自分を愛せ」としか言いようがない。
日本人論を展開したり信じている人にある傾向に「ありのままの自分を愛していない」ということが挙げられる。
そういうと「お前も証拠のない言説を説いているじゃないか」と思うだろう。
だけど、これは極めて強い傾向だ。「日本人スゴイ」は論じなくてもわかるだろう。
「日本人ダメ」は実は裏テーマに「日本人ダメと説いている自分すごい」がある。
もし純粋に「日本人ダメ」と説いているなら、「じゃあ、どうすれば克服できるか?解決できるか?」ということが書かれているだろう。(超入門 失敗の本質・空気の研究 は見事に筆者が考えた解決策を紹介し、読者に希望を与えている)
しかし、大半の「日本人ダメ」本にはそういうことは書いていない。嘆いておしまい、なのだ。
そうするとなぜこんな本を書くのかという疑問が現れる。
そして僕は考えて一つの答えにたどり着いた。
「日本人ダメ」を書いている人は、その『日本人』に自分が含まれていなくて、「日本人ダメだと気付いて指摘している自分カッコいい」と優越感に浸っているからだ、と。
気づいた瞬間、スッキリするとともにこう感じた。あぁ、あの人たちは自分を愛していないんだな、と。
自分を愛し、信じていないから、日本人すごいに走ったり、少しの知識を使って日本人ダメを論じることで優越感に浸っているんだなと。
今この記事を見ている人(特に日本人云々と言っている人)に言いたい。
そうじゃなくて、自分の幸せを見つけた方がきっと気持ちにも余裕ができて、より客観的に日本人を見ることができますよという意見を述べこの匿名記事を終えたいと思う。
なお、アリアナグランデさんには、是非ともいろんなことを書き込んだバカどもを告訴してほしいと思う。きっとほんの数人しかいないのだから。
http://papapico.hatenablog.com/entry/2018/12/06/125644
このぱぴこさんの記事をはじめとする相席スタート山崎ケイの「ちょうどいいブス」論批判を読んで。
私は批判してる人たちみたいに賢くもタフでも正しくもないのでまとまりないですけど。
「そんなことないよー!」待ちとかじゃなくてさ。
美醜ってそこそこ歴史の積み重ねられてきた強度のある価値観で、資生堂あたりが「美人バランス」に基づいたメーキャップ提案なんかする程度には明確な基準があるわけでしょ?
そこに照らし合わせたら、明確に私は美しくないし、ブスなんですよ。客観的な事実として。
30年くらい生きてたらそれはもう揺るぎない事実として理解しますよ。
そこで事実として「ブスなんでね」って話をしてるのに、アリアナグランデに「そんなことない! あなたは可愛いわ!」とか言われたって、いやいや、今そういう話してねえから。
可愛いとかマインドの話じゃなくて物理的な、造形の話をしてるわけだから。
自分のことは好きですよ。でも自分最高!と「私はブスである」という自認は別に普通に両立するじゃないですか。
っていうとまた「自分に呪いをかけるな!」とか言い出す人が現れるんだろうけど。
呪いを解除せよ!って言いまくってる人たちが逆にスピった人とかカルトの人みたいで怖い。押し付けがましい。
ささやかだけど住み慣れた我が家のリビングで寛いでたら知らない人がいきなり「この家は呪われてますよ!!」って上がり込んできた感じ。いや、そういうの興味ないんで…
とか言っても「あなたはまだ洗脳されてるだけ!私も目覚めるまではそうだったの!」みたいな反応されるだけなんだろうな…そういう話の通じない感じまで含めて本当にもううんざり。
つか、「逃げ恥」ってそんな絶賛されるほどの作品か?? 面白かったけどさぁ。
そもそも星野源こそを「ちょうどいいブス」としてサブカル女の皆さんは慰み者として消費してきたわけですよね?
「イケメンすぎるのは無理」「程よくクズの香りがするところがいい」とか言ってさ。
たまたま星野源は音楽の才能もあったけど完全に俳優仕事から人気先行してる以上そこは否定させませんよ。
メイクしたりオシャレしたり自分を肯定するのは楽しい、気分がいい、それはわかるけど「美容によって救われた、自分を肯定できた」「わんわん泣いた」とか言い出してるのもう自己啓発サークルの告白タイムみたいで引く。
そこまで入れ込むか?みたいな、もっと気楽にメイクしておめかしして楽しい、くらいのノリじゃダメなんですか?
モテ至上主義に反対するあまりにモテ意識する人を叩きはじめてるし。
たぶんぱぴこさんはじめ、この「ちょうもいいブス」に怒ってる人って、山崎ケイよりかは「ブスじゃない」んだと思うし、自意識も「いうても私は顔立ち自体は悪くないし、まあ美人寄りだし…」くらいの感じなんだと思うんですよ。
それなのに自分にも「ブス扱い」の火の粉が飛んでくるんじゃないかと思って怒ってるんだと思うんですよ。
でもそれはあなたをブス扱いした人に都度怒ればいい話じゃないすか。
ブスがブスと自認してることにまで怒らないでほしいんですよね…
当時は子供だったから知らないけど、酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」が叩きワードとして使われるようになり、当事者から忌み嫌われたときの流れってこういう感じだったのかなって思う。
ていうか、ぱぴこさんめちゃくちゃパワーカップル側の人間じゃないですか?
高学歴で首都圏で暮らして外資系でバリバリ働いて良きパートナーもいて、そりゃあ自己肯定感もバリバリだし、古臭い日本のお笑い的価値観とかルッキズムとか自虐ブスとかにNo!突きつけられますよ。
でも相席スタートとか「ちょうどいいブス」概念ってそういう層の人向けじゃないからさ、最初っから。
なんでここでは「Not for me」発動されないの??
まぁそういう「古臭いクズの世界」の理屈が通じない書籍出版とかした山崎ケイが浅はかだったって言われたらそうなんだろうけど。
自分の力でそっち側になれなかった人間に対しては「うるせえ!自分の頭で考えてサバイブしろ!」って言い出すんでしょ?
あげく山崎ケイなりにサバイブした形なのにそれすらダメ出しされるって、もうどうすりゃいいんですか。
それこそ「どう転んでも地獄」じゃないですか。
強く正しく賢く誇らしく自分をエンパワメントし続けないといけないの、しんどい。
醜く頭も悪いキモくて金のないオバさんは辛い。
ていうかこの空気にこそ、
「政治的に正しい私たちがこの愚かで無知なブスを啓蒙してやるッ!」
「名誉男性になりたがる、古臭い価値観の馬鹿のくせに生意気にも持論を語り始めたブスを矯正してやる!!」
みたいなノリを感じて、ブス、恐怖ですわ。
始めは研究室内で使うおもちゃだったし、重要なのはハードウェアの挙動であってコマンドはどうでもよかったんだよ
そしたらいつの間にか装置はでっかくなる、町のインフラに使う、しまいには城市全体を注に浮かせる原動力に使うようになったんだけど
本格的に使うようになったタイミングでもう一回設計し直すべきだったと思うよ?
後から作ったコマンドは「リーテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス・バル・ネトリール」みたいに
まあでも起動停止コマンドなんて今更変更したらどこまで影響範囲広がるんだ
安全のため二人同時に手をつなぎながら唱えないと発動しないようにしたから
しばらくこれで運用して
引き継ぎの人がちゃんとしてくれるよたぶん
「同じ程度の障害(才能)を持つ者同士で比べあった時、あなたが他の人よりも劣っていると感じたなら、それは貴方が障害(才能)を言い訳にしてきたせいなのかも知れない。」
唐突にそんな言葉が飛んできて、傷つかないで居られるような人生を生きていけたならそれは幸運な事だよ。
大抵の人間は大なり小なり傷つくと思う。
そして、自分が傷ついた事に傷つくと思う。
SHIRBAKO第20話「がんばりマスタング」なんだよ。
「図星だったんだよね。だから腹を立てた。見当違いのことを言われたんならどうでもいいはずだよ」
「アリアは キャシーの言葉に傷ついて、自分が傷ついた事にショックを受けたんだと思います 」
なんだよ。
とてもストイックだ。
でもそのストイックさを突然向けられた時、受け止めきれない人もいる。
そしてあのポスターは、見た人間にその言葉が自分に向けられたものなのではないかと思わせるような言葉の選び方をしている。
ポスターを作った人は意識してそうすることで、見た人間をハッとさせたかったんだろう。
でもさ、いきなり他人の頭を透明なハンマーでぶっ叩いたら怒る人だって出てくるだろうよ。
・桐崎千棘(ニセコイ)
・澤村英梨々(冴えない彼女の育て方)
・牧瀬紅莉栖(STEINS;GATE)
・アスカ(新世紀エヴァンゲリオン・設定上は金髪らしい)
ここ数年、ストーリー性の薄い雰囲気アニメがすごく良い感じだと思う
雰囲気アニメ? 薄味アニメ? 癒やしアニメ? 難民アニメ? ゆるアニメ? 名前はどれでもいいしどれも違う気がするが
重厚なストーリー、バトル、恋愛、ギャグなんかより場の雰囲気を重視した作品だ
よく引き合いに出されるのはアリアあたりか?ヨコハマ買い出し紀行とかもあがるな
無言で派手な動きもないシーンが10秒続くのが普通に起こり得るような「静」の作品
味の無いガムを噛んでるような感じで、耐え難い苦痛だった
見終わってから「何も起こらなかった」「どこを見ていいかわからなかった」「事件はまだか」「いつ殺人が起こるんだ」という感想を抱いた
何か始まりのイベントが起こるまでは全部退屈なプロローグだと思っていた
明確に何かがオカシイと気づいたのは、ふらいぐうぃっち(2016)あたりだ
開始10分でこりゃダメじゃねーかと思ったんだが、結局最後まで見てとても面白かった
そのあと5周くらいした
あのアニメは恐ろしい
ラブコメがない、強いギャグも強いストーリーもない、百合もない、テコ入れすらない(風呂回水着回がない!)
キャラクターと、背景と、雰囲気と懐かしさと、あと何かよくわからない力で構成されている
あれでだいぶ薄味に慣れてしまったのだと思う
ご注文はうさぎですか?(2014)や、のんのんびより(2013)のように、普通のアニメよりは薄味だけど面白いものが増えたんだ
この4コマゆるゆる漫画アニメの系譜を遡れば、ゆゆ式(2013)、けいおん(2009)、ひだまりスケッチ(2007)、個人的にはその手前にあずまんが大王(2002)を置きたいんだが
どうも年々薄くなっていってる気がしてならない
まるでどこまで薄くできるか試してるみたいだ
おそらくああ言う作品は引き算なんだと思う(※食戟のソーマのパクリ)
強い要素、びっくりする要素を引いていった結果、今まで注目してこなかった味を強烈に放つのだろう
そういう意味ではどこまで引いて面白くできるかというチャレンジなのかもしれない
あと、変な話だが重厚なほど見るのが億劫になるというのもあるかも
刺激が強すぎない分、何度も繰り返し見たくなる
とは言えそういう作品をちゃんと仕上げるのは容易なことではないはず
中の人たちが頑張って、ようやくそういう作品が作れる時代になったのではないかと思う
嬉しいことに、そう言った潮流のいい面を取り込みつつ(?)、ちゃんとストーリーやバトルも組み込んでいる作品も増えている
これはたぶん、原作側が変わったというよりアニメ制作の方が進化したんじゃないかな。15年前じゃ中々実現が難しかった気がする
直近で言えば、宝石の国(2017)、少女終末旅行(2017)、メイドインアビス(2017)などなど
(※ここにけものフレンズを入れたいんだけど、けもフレは更にその上を行く化物フレンズだから別枠かもしれない・・・)
今期も眺めてみると薄いのに面白いのがたくさんある
一番注目してるのはゆるキャン△(2018)だ
あれも薄さがヤバイ
あの薄さはふらいんぐうぃっちに迫る勢いがあるが、やっぱり何故か面白い、何度も見てしまう
キャラクターと一緒に何かするという共感覚が面白いのかもしれない
たぶん実際に一人でキャンプしても楽しくない
最近バーチャルYoutuberなんかも流行りだが、魅力的なキャラクターと一緒に何かするのは楽しいんだ
それがアニメになって面白いのだとしたら、それは新しいストーリーの設計スタイルなのではないかと思う
(とは言っても、友人にこういうアニメを見せると「何、どこを見ればいいの?」って言ってくるから、人は選びそうなんだよね)
追記
薄いというのに語弊があるのは分かってる、けど良い意味で薄いというのは推したい
昔は必須と思われた構成要素や、分かりやすい表現が少ないという意味
難度が高いのは確かだと思う、眉が数ミリ違うだけで意味が変わってしまうのをコントロールしてんだ
間や音楽、光加減、表情、声、色々噛み合って初めてキャラの感情や場の空気が察せる
派手じゃないからこそ察せたときに嬉しいんだと思う(好きになっちゃって、難民化する)
今だからこそできるすごい技だよ、何であんなの作れるのかわからん
バトルあるし、ストーリーも強い
静の作品と同じ魅力を感じたんだ
10年以上前、バトルがあるアニメのバトルがない回で「はずれ回」って言う人が居たんだ
自分はそこまでじゃなかったが、ストーリーに進展がないと「はずれ回」って思ってた
でも、あの頃とは何かが変わったと思う
全シーンが好きなんだよね