はてなキーワード: 車輪の再発明とは
いわゆる「車輪の再発明はしない」っていうことよね。
何者病は、自分は他の誰かしらが知ってることしかしらないことに対する不安や不満に通じるものがあるように感じる。
図書館にある本は一番高度なものでも学部生の教材扱いされるレベルのものしかない。図書館にいくら通い詰めてもせいぜい博士課程終了直後のひよっこ研究者レベルの知見かそれすら得られない。かと言ってネットも、ネットで真実といわれるように図書館以下の情報しかないだろう。
そんな中で大学や機関の研究者以外の人間はどうやって他人の誰もが知らない知識に到達すればいいのか。
もちろんここでいう知識というのは小学生でもできるような新種を発見したとか、どっかの誰かの下着の色みたいな一問一答的な知識事項を言っているのではない。
既存の理論や定理を駆使して相当の知性をもってしなければ発見あるいは証明できないようなことを言っている。
しかし研究者以外の人間がいくら頑張ってあることを新たに示した気になってもすぐ車輪の再発明ではないかと不安に駆られることになるだろう。
学ぶモチベーションとは何かと言えば、誰も知らないかつ半端な知性では辿り着けないような科学的事実に到達することだと思う。そんでもって知ったことを他の研究者のように論文に発表するということはしないことで、知見を独占している優越感、それがアイデンティティにもつながって動機になっていると思う。
どんなに学んでも誰かが知ってることしか知ることしか知らずどまりになるなら、学ぶ意味なんて見出せないのだ。一番とれなきゃアスリートになる意味ないってのと同じ思考と言えばわかりやすいか。学問においてもそうでないと時間を無駄にしてるだけのようで虚しくしか感じない
愚者は経験から〜ってやつがあるけど、どう考えても歴史からも経験からも学ぶ方がいいだろ。すぐ二者択一を迫るのは性格診断テストみたいで嫌いだ。
普遍的な事象と個別的な事情ってもんがそれぞれあるし、むしろ自分の人生を生きるなら後者の方が大事な気すらする。他者の膨大な経験からの最適解をエミュレートするだけの人生の何がおもろいんや。
そりゃあまりに行き詰まった時に投げ出すくらいなら攻略サイトを見るのもやむ無しだけど。色々試行錯誤してみて、例えググれば至上の合理的ルートがあったとしても自分なりに最強ルートを見出すのがゲームの面白さやろ。
まあおれは車輪の再発明は納得を得るための価値ある過程だと思うけど、それを無知がもたらす悲劇だと思う人もおるみたいだし、見解の相違やね。
https://kinoppyd.dev/blog/child-are-half-year/
この記事の「ミルクの量が増えるとそれを飲める温度まで冷ますのが大変なので、熱湯で作って綺麗な水で割るようにした」ってやつ、自分が親になった当時(2015年)はやっていい事か誰も教えてくれず、ネットで検索しても見当たらなくて「書いてないって事はやっちゃいけないのか…? でもこの量のミルクを冷ますまで泣いてるのを放って置けないし…」とビクビクしながらやっていた。誰かに言ったら怒られそうで誰にも言えなかった。
上記と同じような「本当は育児中の親御さんが時短のために密かにやってるが『理想的ではない』ので、積極的に共有されないライフハック」みたいのが育児には結構あるような気がする。
自分の場合に覚えてるのは「1歳過ぎたあたりからの寝かしつけに最も効果的なのは、部屋を真っ暗にして親が隣で寝たふりをする事」とか。
どこの育児ブログを見ても「絵本を読み聞かせてあげましょう🌸」「優しく添い寝してトントンしてあげましょう🌸」みたいな事しか書いていなかったが逆に興奮して寝ず効きやしなかった。当時の保育園の連絡帳に「隣で寝たふりをしたら早く寝ました!!」みたいな事をドヤ顔で書いた記憶があるが、保育士さんも「お前もか。ようやく『気付いた』のか」と思ってたかもしれない。
(あとこれは自分で考えついた事じゃないが「紙おむつを履いた赤ちゃんのおけつをオムツ越しにスパーン!スパーン!と叩くと何故かよく寝る」とか。保育園でご年配の先生がやっていたのを見て少しビビリながら真似をしたら本当に効果があった)
↑このお父さんの増田が少し伸びてきて何よりなので便乗で聞いてみたい。そういう感じの「よそには大きな声で言えないが効果絶大だった邪道(?)な育児の時短ライフハック」って他に何かありますか?
余談ですが最近の抱っこ紐って赤ちゃんが親御さんと同じ方向向いてるやつが多くて、赤ちゃんもなにやら興味津々な様子で可愛くていいですね。
あれも自分の頃には「赤ちゃんを外向きにすると受ける情報量が多くなるのでよくない(?)」みたいな理由から推奨されてなかったと思う。「親の顔しか見えなくて窮屈だしつまんなくねえのかな」って、抱っこ紐使いながら当時は思ってた。
ググっても見つからなかった。小泉政権の話だから、相当古いヤツなのかしら
(うんこみたいな自称政治活動がTwitterでは毎日繰り広げられてるよな・・・)
民主主義の根本は公共的なコミュニケーションにあるのは、『それはそう』だけど、
まずは自分の感情や考えや問題を言葉で表現する訓練、言語化する能力を鍛えるが先決だと思う。この力が弱い人があまりにも多い
ネット上に無限にいる生きづらいちゃん・くんたちだけでなく、リアル(現実の社会)を支えている"まともで良心的な人たち"もかなり弱い
次に、全ての人が心からの考えを述べる場があっても、何かに役立てる事は難しいと思う
なぜなら、立場や価値観以前に、持っている知識(主に情報)によって、答えが変わってしまうからだ
数学の問題を解くのは公式を知っていないと難しいし、解けたとしても車輪の再発明をすることになってしまうので極めて非効率だ
特に何もしないで、ただいろんな人の意見を並べておくこと自体は意味は確かにある。ただ、それをすべて受け入れられるほど社会は人は成熟しているかは疑問だよね?
匿名な増田は、ただいろんな人の意見を並べておくことが可能なプラットフォームだが、いつもワンパなブクマ狙いの創作が溢れているよね?
あと、少なくともワイは、間違ったことを想像で書いてる増田エントリー、単純に心の健康を害しているだけでは?って増田エントリー、児童虐待では?っていう増田エントリーには、ツッコミ入れてるし
美術系の大学に通ってるんだけど、サブカル系の講義で諸星大二郎が絶賛されていた。世界的評価が高く、今の漫画やアニメに多大な影響を与えていると。
名前も聞いたことがなかったので、大学の友達と一緒に『マッドメン』やら『暗黒神話』やら『妖怪ハンター』やら読んでみた。
オカルトや文化人類学、SF要素があって、内容的には面白そうというか、好きなタイプの話だ。五十嵐大介は好きだし、文化人類学の書籍を趣味で読んだりもするし。
でも、なんか乗れない。
読み進めていくほどの力が感じられない。
自分がわからないだけかと思って、他の友達にも聞いてみたが、皆いまいちな反応。
アイデアが面白い話はあるけれど、それを活かしきれてないというか…。
こういうこと言ったら失礼かもしれないけど、諸星大二郎って絵があまり上手くない。昔はこれぐらいの漫画家が標準だったのかもしれないけど、今、巨匠という意識で読むにはちょっとしんどい。線が多くて、悪夢性というか独特な凄みはあるんだけど、リーダビリティが低くて、読んでて疲れてしまう。先へ進んでいけない。
絵の密度が高くても水木しげるは圧倒的に上手いと思うし、上手くなくても手塚治虫はリーダビリティが非常に高いと思う。重厚長大な火の鳥とかでも、どんどん読み進めていけるし。
ストーリーテリングの部分でも、あまり上手いとは言えないというか、昔の漫画家でももっと上手い人たくさんいるのでは…?と思う。
描かれるイメージも、シュルレアリスムのアウトサイダーによる再生産(車輪の再発明的な?)みたいに感じてしまうし。
諸星大二郎、宮崎駿とか庵野秀明とか大御所が影響を受けた超大御所って感じなのに、何がいいのかわからなくて辛い。自分に才能がなくて分からないんじゃないかという不安がぬぐえない。
こういうのって、結構辛くないですか。
真面目な話をできる場所が無くて寂しい。
私自身は別に真面目というか単に興味のある事について語り合いたいだけなのど、一般的にはマジメで退屈、拗らせてるとか一蹴されてあまり興味を持たれないような話。
美とはなんぞやとか、美味しいメシを定義できるのかとか、世界平和は果たして実現できるのかとか。
古代ギリシャ人が暇すぎて哲学を始めたように、暇な時にふと考えるような素朴な疑問みたいな事について話し合いたい。
日常生活で周りの人間に真面目な顔してそんな事を言い出したら、雑に流されるかキチガイと思われて終わり。
だからネットとかで気楽にやれたらいいなって思う。私に近い内向的な人も多いはずだし。
しかし色んなサイトはあるけれど、どうにも喧嘩腰な人が多い。5chの哲学板は(5ch自体)過疎らしいし。
一面的な正論や、正論ですらないリリックを並べ立てて正論感を競い合いたい訳ではない。なにか正しい感のある事、雑な一般論風の言葉でそれっぽくまとめてもらいたい訳ではない。
これはどういう事なのか、なぜそうなのか、世の中に出回るこの考えは果たして妥当なものなのか。
事実と規範の混同に、論理の飛躍に気を付けながら、とある疑問に対して「それはなぜ?」を繰り返す、要は哲学がしたいのかもしれない。
そこらの人が思いつく疑問なんて昔から議論されてるだろうし、哲学書を読むのも悪くはない。
でも私は車輪の再発明が無駄だとは一切思わない。書いてある事を読んで、へーそうなんだで終われば必ずしも納得は伴わない。
私はこれまでの人生でニーチェやハイデガーの陰気ながらも前向きな思想に近い価値観を形成してきたけれど、思春期に彼らの著書を読んでも多分何言ってんだコイツとしか感じなかったと思う。
他人と話し合う事で互いに自分では気づかなかった視点を得て、自分一人じゃ足踏みするばかりの疑問を吟味したい。
時に理屈から離れて互いの実感を伴った価値観を交えて、永遠に答えなんか出ないだろう疑問について、それでも誠実に考えを深めたいな。
いい加減生き甲斐を決めたい。
生きるとはなんぞやと言う事を思春期の頃にずっと考えていた。勉強より遊びより人付き合いより、何より大事な問題だった。
50周ほどして結局生きる意味などない、自分で作らねばならないという結論に至った。
納得だ。「納得」は全てに優先するぜッ
人は理屈で喜び、理屈で苦しみを感じる訳ではない。いつだって感情が先だ。感情が論理に先立つ事はない。
いつかは人の頭が解き開かれ、全ての規範は記述に塗り潰されるかもしれない。でもそれは今じゃない。「今」は今考えられる事が全てだ。
何を拠り所にするのか。他者からの承認か、存在も確かめられない神様を信じるのか。
どれも腹落ちしない。内から発せられる心の底からの確信、納得でなければ。
どれだけ強固に思えた確信でも揺らがないとは限らない。年老いるごとに考えが変わってしまった、今までの人生とは何だったのかとこぼす者も少なくない。肩肘張ったって幸せになどなれない、気楽に生きようと言う人もいる。
私の軟弱な心とて、価値ある人生を追い求める疲れに耐え切る保証などどこにもない。結局私も同じ結論に至れば、車輪の再発明だと笑われるかもしれない。
しかし彼らの結論は彼ら自身の経験を踏まえてのものだ。彼らには納得を与えても、私にはそうでない。私の人生の当事者は私だけだ。
こんな事を真面目な顔で人に語れば、ナイーブすぎるんじゃないと引き気味に諭されるだろう。それはきっと間違いない。だからどうしたというのだ。
価値ある人生などという幻想を捨て、凡庸な人生しか送れない事を受け入れる。諦める。それを、折り合いをつけ大人になった事だと言い聞かせる。
それはきっと賢い生き方だ。
しかしその口ぶりはまるで、禁煙した人間がタバコを執拗に非難するかのようではないか。
生き甲斐などという考えは毒なんだろう。少量の毒が薬になるだとか、そんなレトリックはいらない。心の蓋を抑え続けた方が楽に生きられるだろう。
しかしそこから溢れ出続ける一抹の迷いから目を背けて、納得ある生き方をできるだろうか。
今際の際に、生きていて良かったと思えるだろうか。
ニヒリズムなど拗らせるものではないという反省は、人生を使った経験で納得を得るまで何の実感も伴わない。そんな考えは後回しにすればよい。
では、私の心は何を囁くのか。具体的に何をしたらよいのか。
根拠などない。凡庸な発想だ、くりえーたーになってチヤホヤされたいというだけかもしれない。
答えは知らぬ。時間もない。そのどれもが誤りかも知れぬのだ。後悔は死んでからすればよい。
生活の気晴らしの趣味は持っている。しかしそれは、生き甲斐と呼ぶにはあまりに心許ない。
生き甲斐なくして生きる価値などない。とはいえいくら生き甲斐が全てに優先すると言っても、目の前の生活をこなさなければそれもままならない。
趣味に没頭したいが、いつもそれらが頭を過ぎって水を差してきた。いずれは結婚を焦る事もあるかもしれない。
常に先を考えろという父の教えがなければ今はもっと惨めな生活を送っていたかもしれない。しかし、生き甲斐に殉じようという確信にブレーキをかけてくる。何をするにも、こんな事をしている場合だろうか?と。
楽器をいくつかやってみた事もあった。中級者の壁を超えられるかどうかという境界を彷徨っていたが、超える事なく人生のイベントを機に中断してしまった。
小説でも書いてみようかと思ったが、これも結局最後まで形になることはなかった。
色んな映画や本に触れてきた。色んな事を思った。そうやって感情を揺らし続けるだけでも人生は満たされるかもしれない。でももう一歩、まだ何か足りない。確信と納得には届かない。
世の優れた表現者達は、きっとこんな人生論をこねくり回す暇があれば手を動かしている、動かさずにはいられないのだろう。純粋な喜び、人生の焦り、衝動、憧れ、何かの感情に突き動かされて。
たった一度限りの人生だ、何かが欲しい。しかしこれきりの人生で何かを捨てるのも嫌だ。大切にしたいからこそ、中途半端な事もしたくない。
自分の可能性を疑うのも嫌だが、しかし私はきっとダ・ヴィンチのような万能人ではない。なにか一つに人生を丸ごと捧げて、ようやく自分一人を納得させられる域に至れるかどうか。それだって分からない。
アンビバレンスに挟まれ、決断しかねて長い時間が経った。10代の頃、価値あるものだと確信できる生き方を決意し、もう10年近くの時が経っている。モラトリアムの終わりも近いが、未だ私には何もない。慰めの趣味だけだ。
絵を描くだっていい。物語を書くでも、楽器を弾くでも、曲を作るでもいい。
後世に名を残す傑作など目指さなくていい。ただ、人生これで良かったと確信できるだけの自己満足であればいい。
選ばなければ始まらないが、捨てなければ選べない。あるかも分からないちっぽけな可能性だって、私にとっては大事なものだ。
しかしいつまでも迷ってはいられない。今の時点で納得ある決断をする事は出来ない。納得できるかできないか、それは後からついてくる。決断しない事には何も始まらない。
しまいにはタイムリミットになるかもしれない。ネットに掃いて捨てるほどいる、何者にもなれかったディレッタント崩れになってしまう。既に片足を突っ込んでいるのかもしれない。
自分には何もなく、評論家を気取って批判にもなっていない難癖をネットの方々に書きこむようになってしまうかもしれない。
でないとオレは「前」に進めねえッ!「どこへ」も!「未来への道」も!探す事は出来ねえッ!!
「納得」は必要だッ!
『納得』は『誇り』なんだ!
実際温水プール(水着着用)と温泉が一緒になってる温泉施設はすでに国内にけっこうたくさんあるんだよ
うちゆや家族風呂(プライバシーが守れる)と大浴場が選べるとこならもうビジネスホテル以外ほぼ全部だろう
ただ虹色の人(口だけ出す無責任な子供)がネット界隈に多すぎるだけ
あいてにしなきゃいいんだがなんかうれしそうに小銭稼ぎのネタにするインチキなネット文化人が多いだけだ
あたりまえのことをくりかえし当たり前のように言い続ける消耗戦につかれて
教師もまともな社会人もつぶれそうになってるのがこの国の病気だよな