はてなキーワード: 職人とは
東京五輪ボランティアに応募したいと思っている。ネットでネガティブキャンペーンをしてる人には信じられないかもしれないが、スポーツボランティアをやりたい人は多い。(先日のラグビーW杯にも応募したが抽選で落選した。)
労働にお金がもらえるのは『やりたくないこと』をやっているからだ。
私たちは、ボランティアで得られる体験に価値を見いだしている。
ラジオが好きな人がラジオ職人としてハガキやメールを送ったり、絵を描くのが好きな人がpixivに絵を載せたり、食べ歩きが好きな人が食べログにコメントしたり、アイドルファンがサイリウムを振るのと同じなのだ。
彼らはお金を貰わずに価値を提供している。むしろお金を払っていることある。
大学の授業を五輪開催期間とずらすように配慮してるのも、ボランティアに参加したい学生が参加しやすくなるためだ。
学徒動員だとか色々言われてるけど、都内の大学生が全員参加したら受け入れができないだろう。
ボランティアと雇用契約を結び労働者として集めたら、お金だけが目的の人が集まり、ボランティアをやりたい人ができなくなる。
有給をとりボランティア参加しようとする会社員・公務員や、扶養内で生活する人にとっては、ボランティアが労働扱いになると参加できなくなるかもしれない。
8万人のボランティアに日給1万払うと10日で80億、給与支払いや雇用に関する手続きが増えることを考えると経費はかなりかかる。
これを0円にできれば、予算が余るので他のことに使えるので有意義だ。
『雇用を作るべきだ』との声もあるが、全国的に労働者は不足しているのだから、無理に雇用を生み出さなくて酔い。
とにかく東京五輪ボランティアのネガティブキャンペーンはやめて欲しい。『こんな条件でボランティアをするやつはバカ』だとか『タダで喜んでボランティアをする人がいるから搾取がおこる』などの書き込みを読むたびに
ボランティアをやっている人は傷つくし、集まるはずのボランティアも集まらなくなる。
東京五輪ボランティアをやりたくない人はやらなければ良いだけ。
ほっといて。
昔のネットはね、完全なアマチュアなのにそれはそれはすごい人達が沢山いたんだ。
本当の本当に無償で、アフィリエイトの1つすら貼らずに凄いソフトとか凄い漫画とか作りまくってた(レンタルサーバーが勝手に貼ってくる鯖代維持用の奴はあったけど)。
AA職人、FLASH職人、エンジニア、ゲームクリエイター、ニュースサイト、各種情報提供者、おもしろブロガー、とんでもない天才たちが皆して広告収入すら得ること無く娯楽を提供していた。
今だってそういう人達が消えたわけじゃないけど割合はずっと少なくなった。
ある一定以上の実力を持っている人の中で、それ相応のお金を稼いでいる人の割合は昔の一体何倍になったのだろう。
そのことに僕は感謝したい。
だってさ、昔はさ、インターネットにいる一平民(いちへいみん)というカーストの中にバケモノがウヨウヨいたんだ。
お金を稼ぐ側とお金を稼ぐ人に広告料を運ぶ側、その違いが結果として僕を救ったんだ。
相手は自分とは住む世界が違う、生活がかかっているから頑張っているんだ、あんなに頑張れるのはきっとアフィリエイトや売名が目当てなんだろう。
そう信じ込む余地が出来た。
救われたよ。
お金を払うという行為で人は救われることがあるというが、お金を誰かが受け取っていると考えることで救われることもあるんだ。
プロのいない世界でクソザコ消費者をするより、ずっと心が楽なんだ。
伝わるだろうか。
わかるだろうか。
「日本すごい」といった日本礼賛TV番組が揶揄されることがある。
その是非はとりあえず置いておいて、そこで取り上げられるのって、
職人が作った包丁だとか、江戸切子だとか、食品サンプルだとか、
すごいのはわかるけど、みんなが使うものじゃないんだよね。
例えるならイームズの椅子のような、そりゃ好きな人は好きかもしれんが、大抵の人にとって身近なのはニトリなんだよ的な。
白物家電が強かった時代の日本企業の製品ってやはり世界中で知られていて、
トーシバだとかヒタチ、パナソニック、ソニーって企業の名前やブランドは知られている。
翻って現代のコモディティを考えるとハードだとスマホやPC、ソフト(サービス)だとSNS(Facebook, Twitter, instagram)やWebサービス(Google, Amazon), アプリ(Uber, Airbnb...)といった感じで、日本発のものってコモディティ化すらできてないんだよね。
東京五輪ボランティアに応募したいと思っている。ネットでネガティブキャンペーンをしてる人には信じられないかもしれないが、スポーツボランティアをやりたい人は多い。(先日のラグビーW杯にも応募したが抽選で落選した。)
労働にお金がもらえるのは『やりたくないこと』をやっているからだ。
私たちは、ボランティアで得られる体験に価値を見いだしている。
ラジオが好きな人がラジオ職人としてハガキやメールを送ったり、絵を描くのが好きな人がpixivに絵を載せたり、食べ歩きが好きな人が食べログにコメントしたり、アイドルファンがサイリウムを振るのと同じなのだ。
彼らはお金を貰わずに価値を提供している。むしろお金を払っていることある。
大学の授業を五輪開催期間とずらすように配慮してるのも、ボランティアに参加したい学生が参加しやすくなるためだ。
学徒動員だとか色々言われてるけど、都内の大学生が全員参加したら受け入れができないだろう。
そしてボランティアと雇用契約を結び労働者として集めたら、お金だけが目的の人が集まり、ボランティアをやりたい人ができなくなる。
有給をとりボランティア参加しようとする会社員・公務員や、扶養内で生活する人にとっては、ボランティアが労働扱いになると参加できなくなるかもしれない。
例えば、8万人のボランティアに日給1万払うと10日で80億、給与支払いや雇用に関する手続きが増えることを考えると経費はかなりかかる。
これを0円にできれば、予算が余るので他のことに使えるので有意義だ。
『雇用を作るべきだ』との声もあるが、全国的に労働者は不足しているのだから、無理に雇用を生み出さなくて酔い。
とにかく東京五輪ボランティアのネガティブキャンペーンはやめて欲しい。『こんな条件でボランティアをするやつはバカ』だとか『タダで喜んでボランティアをする人がいるから搾取がおこる』などの書き込みを読むたびに
ボランティアをやっている人は傷つくし、集まるはずのボランティアも集まらなくなる。
東京五輪ボランティアをやりたくない人はやらなければ良いだけ。
ほっといて。
当時中学生は携帯電話なんて持っていないので行方もつかめず大変な騒ぎになったことを覚えている。
しばらくして友人が家出した先の“ある職人”から親に連絡が入り居所が掴めた。
“ある職人”というのは彫り師だった。友人は彫り師になりたくて家出したと後で話してくれた。
本当は学校も辞めて修行してそこ(確か東京だったと思う)で職人になろうと思ったらしい。
でも師匠が親を心配させるな、まずは学校を出てお金を貯めてから来いと言ったみたいだった。
無事に地元に帰ってきたその子とはまた学校で話したり遊んだりした。
少し経って実はあの時刺青を入れたのだと話して見せてくれた。
今でもハッキリ覚えている、小さいが美しい桜の柄だった。繊細に描かれたそれは綺麗で嫌悪感はなかった。
入れる時に痛かったかとかお金はどうしたかとか聞いた気がするがそっちの方はよく覚えていない。
親にはまだバレていないがもし見つかったら縁を切られるかなと言っていた気はする。
その子の家は結構裕福で、スポーツができて、頭も悪くなかったし、だから私にとってはかなり衝撃的だった。
しかし同時に真面目で根暗で親や先生の言うことに従うだけの私には彼女の行動力が輝いて見えた。
絶対真似できないなと思った。この子はいつか私の想像も及ばない世界に行ってしまうのだろうなと。
中学を卒業して、高校に入ってからもその子とは少しだけ交流があった。
クラスは違ったが同じ高校に入ったのだ。球技大会で話したのを覚えている。
しかしそのうち見かけなくなって、卒業したかどうかは分からないままだ。
その子はスポーツ推薦で入ったので、もしかしたらプロになってるのではと名前を検索したこともあるが分からなかった。
きっと向こうは私のようなモブなんて覚えてもいないだろうけど。
哲学なのか医学なのか、分野はよくわかりませんが昔から「人の心はどこにあるのか」という議題があります。
「心が大事だよ」というジェスチャーをするとき恐らくほとんどの人は、胸を叩いたり、指したりすると思います。でもそこにあるのは心臓で、心はないですよね。
「そんなことは分かってる。皆イメージでやってんだよ!」
ごもっとも。心というのはつまりは感情や意思のことですから、当然脳にあるわけです。でも脳を指してもしっくりこないので、胸に手を当て考えるわけです。
では、魂はどうでしょうか。
そもそも「魂は存在するのか!?」という議論もありますが、ここではその辺はフワッとした概念的な感じで話を進めます。つまり、"職人魂"だとか"魂の一球"みたいな感じの魂です。これも脳にあるのでしょうか...うーん、いまいちしっくりきません。
私が思うに魂とは「そのものをそのもの足らしめている一番重要なもの」なのではないでしょうか。「画竜点睛を欠く」の「点」ですね。...答えは闇の中。
閑話休題。
日本人が生きていれば必ず直面する疑問の一つに、R18の謎モザイクがあります。
誤解を恐れず率直に例をあげるならば、乳首。
地上波のテレビ番組や少年漫画などで女性の上裸が映る時、一体どの部分がハレンチ(死語)なものとして規制され、隠されるかといえば、ヘソでもワキでもなく、チクビです。
ではなぜ規制が入るのか。それは「卑猥だから」に他なりません。なぜ卑猥なものが規制されるかと言えば話は簡単で、見た人が性的な劣情を催すからです。つまり、男性でれば勃起してしまうからです。
女性の方はわからないかも知れませんが、意図しない場面で勃起してしまうととても困ったことになってしまうのです。最悪、捕まります。そういった事件を防ぐため、規制がされているのでしょう。しかし、ここで一つの疑問が生じます。
みなさん、おっぱい好きですよね?興奮しますよね?おそらく程度の違いはあれ人類は皆おっぱいが好きです。大好きだと言っても過言ではありません。生れたばかりの頃などは毎食おっぱいを貪るしまつです。嫌いな人などいるはずがありません。
しかし、現実はそうではありません。例を出すならアニメの水着回やテレビの温泉リポート。それどころか、なんですかマイクロビキニとか貝殻とか、挙げ句の果てには絆創膏!何も隠れていません。胸部の99%が露出しているではありませんか。
では隠れている1%がどこかと言えば、それが乳首です。つまり我々は乳房ではなく乳首におっぱいを感じ、恋い焦がれ、興奮していると。となれば、仮におっぱいから乳首を分離し、乳首だけを皿に盛って「どうぞお納めください」と提供されても興奮できるということです。
.....ダメだ!私には出来ません。どれだけ乳首を山盛りにしてもフルコースにしても興奮できるビジョンが浮かびません。これ、凄く不思議じゃないでしょうか。
規制されている卑猥なものはおっぱい全体ではなく乳首だけなのに、それ単体で提供されても意味がない。だとすれば我々は一体おっぱいのどこに魂を感じているのでしょうか。
画竜点睛の意味で言えばもちろんそれは「乳首」なのでしょう。故事に言う「おっぱい乳首を欠く」ですね。しかしそれだけでは不十分。いくら乳首がたくさんあってもそれがあるべき乳房がなければ意味がありません。つまり乳首が魂の居所ではなく、乳房に乳首が付いて初めて魂となりうるのです。とするならば魂とはどこかにあるものではなく、存在そのものなのです。人であれ、芸術であれ、それを構成する必ものが揃って初めて魂へと昇華するということなのです。
以上のことから、おっぱいの魂は、乳首にも、乳房にも、ましてや脳にあるわけでありません。おっぱいの存在そのものこそが、我々を魅了し、時として争いをも引き起こす至高の果実そのものこそが、魂であるということなのです。
御静読ありがとうござました。
彼女はなにかおもしろいことをするでもなく、おもしろいことを言うでもなく、そこにあるのはただただ「注目が集まってうれしい」以外に何もない。中身がまったく無い虚無の極致。
それって、インターネットにばら撒かれた広告収入目当ての中身のないゴミ記事群と仕組みとしては何も変わらない。
ネットがゴミだらけの空っぽになって死にかけてるのと同様に、あの何もない彼女にネットや人類のリソースを無駄に消費されるのは害悪でしかない。
彼女の名が入っている中身の何もないゴミ記事にいちいちぶコメを付けるのはやめて欲しい。耐えてくれ。コメ付けたくなるのはわかるけど、そこには何もないんだ。がんばってこらえてスルーしてくれ。
彼女関連の記事にぶコメを付けることは、内容がどうであれゴミをひたすら拡散しているのと同じことだ。
「仲はいいけどみんなのツッコミたい部分を弄ります」みたいなフリして結局はゴミを盛大に拡散してるだけのヨッピーも同じ。ほんとくだらない。
その辺りにおいてはてなは明確にevilであり、システムで対処しようとはしない。いつまでも「包丁職人は悪くない」という詭弁を振りかざすだけでそれらにテクノロジーで対処するようなアイデアも気概も技術も無い。というか炎上してもらわないと儲からない仕組みを分かっていながら放置し続けているevilだから期待などできるわけがない。
だからブクマカが我慢するしかないんだ。ゴミを拡散しないでくれ。数あるゴミの中でも彼女はトップクラスに“何も生まない”ゴミ中のゴミだ。むしろ無駄という害悪でしかないんだ。
1日5回は自分を慰めていると周囲から恐れられた学生時代の友人が、寿司職人の道に進んだらしい。
男子のみならず女子にも情報は筒抜けで、相当下らないあだ名がつけられていた。
今どれくらい慰めているかは知らないが、人間そうそう変わらないだろう。
まあ清潔にさえしてくれていれば、何も言われる筋合いはない。
たとえばC#など.NET系のリファレンスはMSDNで読むことができる。
RubyだってHaskellだってScalaだって、公式サイトにガイドぐらい置いてある。
Oracle、DB2、MySQL、PostgreSQL、SQLite、AccessなどSQLが実装されたDBMSは様々にあるが、どれを取っても仕様が違う。
皆が標準SQLに従っていてその上で適当に増設している程度ならよいが、もはや誰も標準SQLに従う気が無い。
根幹的に必要な機能があったりなかったりするから、あるDBMSで書けるようになったからと言ってSQLを覚えたとは言えない。
これと上記1とのせいで、何かググった時に特定のDBMSでしか解決法にならないものが大量に出てくる。
最近のプログラミング言語は大抵、雑に書いたってコンパイラが適当に最適化してくれる。
同じ結果を生むような二つのコードは、よほど下手くそに書かない限りは同じような実行速度になる。
SQLもオプティマイザが最適化はするが、ほぼ同じような二つのコードで速度が全く変わったりする。
そのため実行計画というオプティマイザの中間言語のようなものを読んであげて、
より速い中間言語が生成されるようSQLをチューニングし直さなければならない。
これでは何をやっているのかわからない。
有名なサイトでは、初心者が必死で書いたような可愛らしいSQLを「それでは遅すぎるんじゃ」とけちょんけちょんにけなし、
なんかシンプルなのだけれどよくわからない文法を一杯使って実行速度を高めたのを「正解」としていたりする。
しかもその文法、ググってもろくな解説が無かったり、特定のDBMSに依存してたりと使えないオチ。
上手い人はSQLを綺麗に書く。だけど、その綺麗さの基準が人によって違う。
エディタが単なるメモ帳でしかないようなDBMSも多いから、インデントの文字数さえ個々人に任される。
インデントは2文字か4文字か。SELECTで改行するかしないか。カンマは列の後ろか、前か。
いろいろなサイトに色々なことが書いてあったけれど、全部違うこと言ってた。
つまり各々綺麗に書ければいいやということであり、読むほうも宗教が違ってもまあ綺麗なら読めるから困りはしない。
何かの解決法をググるたびに違うスタイルだからどう書いていいのかわからない。
結局なんかいろいろな上手い人のスタイルをツギハギした新たなスタイルが世に誕生してしまうのだ。