はてなキーワード: 独自研究とは
https://kai-you.net/article/83849
要約すると「タレントのファンネルになったオタクが記事を荒らしたけど、合意形成を図ったら方向性が一致したのでめでたしめでたし」という話からウィキペディアの既知の欠陥を発見してしまった。ウィキペディアオワタ。という記事。
新規アカウント(※1)で、ろくでもない内容とは言え、出典ある記述(※2)を丸々一節、無言で削除したらこの時点で荒らしと思われてる。差し戻しで妥当。削除は破壊的な行為なので加筆より厳しい目が向けられる。
差し戻されたのを再度編集すれば(編集合戦)、初期状態に差し戻されるのも納得できるはず。
「本人の希望で削除」は通らないので差し戻しされたのは、これはウィキペディアの理屈だから初見でわからなくても仕方ないけど、複数名ないしソックパペットで編集合戦(というか荒らし)を継続したら記事が保護されるのも当たり前。
「『本人の希望』での削除は通りません」という点以外はwikipediaに限らずスプレッドシートでもOSSでも同じだと思う。知らんけど。
初手でノートに投げていれば、通った可能性はあった(※3)でしょう。
繰り返しになるけど、突然削除するな編集合戦するなノートで合意形成しろとかはwikipedia入門編だし、wikipediaでなくても共同作業するなら普通じゃないかね。
逆に「ディストピア」にならないようにルールを排して議論を排して有象無象の書き放題無法地帯の方がいいのか。
違うっしょ。
引用されてる「コミュニティの問題」があるのはみんな知ってて、それでも最善を考えて今はこの形になってるわけでしょ。
この件のように編集に関わった「有象無象の流れ者」から参加者が増えていくことを期待するしかない。
つーかよ、「有象無象の流れ者」が議論に加わってんなら「ウィキホリックのディストピア」とは真逆じゃねーかよ。
それとさ、「ウィキホリックのディストピア」なんて引用元のようには始まらないよ。オタクが集まるところでは特に。
通常荒らしや編集合戦でもなければ制限できないのに少数者しか編集できず死ぬなんてことはない。
こんな普通のアイドルの記事を編集してるの大部分はwikipediaにはたいして興味なくてタレントには興味ある熱心なオタクだよ。見てるのもそう。
履歴調べてないけど「雨女」と書いたのも流れのドルオタでしょうよ。真っ当にwikipeってたらそんなこと書かないし、みかけたら削除を検討するよ(※4)。
日々追加されるタレントのエピソードトークやらなんやらほとんどは雑多で無用な記述・独自研究なんだけど、形だけでも出典があるともともと削除コストの方が高いのにそれが跳ね上がるから面倒なんだよ。これはたまたまご本尊から削除せよと下知があって方向が一致したけど、普通削除しようとすると「特筆すべき雨女なのは事実」「周囲も認めるB型なのは事実」「3回も共演しているのは事実」などと言った挙句「ウィキの理屈なんか知らない(俺の信じる)事実を書かせろ」などと主張する「流れ者」のファンとガチる可能性があるわけ。クソ面倒。
松井玲奈の記事も比較的ましだけどファンの熱意がランダムに書き足されて、松井玲奈が何者か誰かに伝えるような内容じゃないでしょ。
既にwikipediaの記事を書こうという人に比べて、wikipediaでファン活動しようって人・いつまでも「有象無象の流れ者」のままの人が多すぎんだよ。
「たどりうる道筋は二つある」じゃないのよ。流れ者が多すぎてとっくに押しつぶされている。
※その他雑多なツッコミ
「譲歩」じゃなくて無言削除は非推奨だし編集合戦はダメだし本人の意向は削除の理由にならないし記述するようなことでないなら記述しないというだけ。
「両者」の協議というのも変。
議論の容量がすごいみたいに書いてるけど、議論をすれば長くなるの当たり前だし、議論なくて決定だけある方がマシってこたないでしょ。
この件は論点は明確で類似の前例もあるし、さくっと状態確認して合意をとって終わっているので、たいした議論はしてない。
あとさー「Wikipediaの抱える構造的欠陥」とぶちあげてるのに、その構造的欠陥が既知でwikipediaに書いてあってそれを引用してるのは記事としてどうなの。
※1 記憶違いでなければ今はアカウント作ると「いきなりでかい編集するんじゃないよ細部から始めろよノートで合意とれよ」って注意があって投稿時にも言われるはず。
※2 削除された部分を見ると、雨エピソード雨女記事が出る度にリンク貼って「~のとき雨が降った」と書き連ねた働き者たちがいる。
※3 俺の松井は特筆すべき雨女だと主張する別のファンがいなければ。そして往々にしてそう言う人はいる。
※4 デスブログの件などを念頭に。今回の件は個人的には雨女言及記事がかなりあるようなのであってもいいように思う、問題化するとwikipediaが原因で記述する価値が大きくなってしまうのでバッサリはあり。
twitter: Geemoku: 誤解とデマと工作と広告とアフィと検閲にまみれて、言葉も文書もつながりを失った。こんな世界に誰がした。
twitter: Geemoku: 2007年も終わりに近付いてきた今になってWWWに欠けているのはハイパーテキストであると思い始めている。
twitter: Geemoku: 「子どもに見せたい○○(漫画とか映画とか)」を語るオタって馬鹿すぎて救えない。どうして人は大人になると、子どもの頃の“ピュアとはかけ離れたドス黒い感情”を忘れてしまうの? 大人が勧めてくるものなんて古臭くて説教臭くてクソつまんないもので、さっさと古本屋に売って金に換えてただろ?
twitter: Geemoku: 僕たちはもう少しハレーズコメットやスクランブルフォーメーションをタイトーシューティングとして丁重に扱うべきだと思うんだ。だけどATOKの野郎が「低調に」と変換しやがるんだ。
twitter: Geemoku: 「ソースは?」「[要出典]」なんてくそくらえ。もっとお前の妄想を見せろ。独自研究を出せ。
twitter: Geemoku: ほとんどゲームだけにオタ人生を費やして来たので、70〜80年代の漫画や映画を見ても懐かしさはなく、純粋に面白く見れてしまう俺は幸せものなのかもしれない。ブックオフの100円コーナーもTSUTAYAの旧作の棚も俺にはすべて新作なのだから。
twitter: Geemoku: 飯野賢治は一時期ゲーム雑誌でやたら連載を持っていた。しかし当初は本人が書いていたコラムも、そのうちワープの広報や嫁が代筆するようになっていた。これが死ぬほどつまんねんだ。ゲームなんか作ってないでゲーム話をしてくれと強く思ったものだった。
twitter: Geemoku: 飯野賢治がどれだけ持ち上げられても(D食~E0)、どれだけ貶されても(リアルサウンド~D食2)、業界からその存在を消していても(ここ数年)、変わらない事実がある。それは、彼のゲーム語りは非常に面白いということ。
twitter: Geemoku: 実名を出して仕事をしている人(作家とか)が、その仕事を叩かれる。ムカついたり凹んだりするだろうけど、でもこれはごく普通にあること。それらの中に、近親者しか知りえない表に出さない情報が混ざっていると、途端に不気味さが増す。
twitter: Geemoku: 実際のところ、掲示板に書かれた情報の信憑性などなきに等しく、読む方もそれなりに「どーせ嘘だろ」と思いながら読んでいるので影響はないが、しかし、本人はどの書き込みが事実か知っているから、事実が書き込まれるほど恐怖は増す。
twitter: Geemoku: 知らないうちに自分の実名が強力なネガティブイメージと共にWebにばらまかれる、しかもそれを実行したのは自分のクラスメイト……なんて状況はほとんどホラーの領域だと思う。悪意が文字になることで形を持ち、形を持った悪意がWebを通じて流通することに比べたら、教室で悪口言われた方がマシ。
twitter: Geemoku: ネットワークビジネスだの情報商材だのに関わる人々は、みんなウンザリするようなことを言う。だけど、一部はそれで本当に儲けている。儲けている人間はその行動・言動・信念・人格……が肯定される。一方、自分に肯定されるようなものは何一つない。
twitter: Geemoku: 彼らはカモを釣るためにどれだけの努力と創意工夫をしているかを、専門用語を駆使しつつも抽象的に語る。それから、何なら君も仲間に加えてやらないこともないが、君にその資質があるかと値踏みしてくる。とてもウンザリする。
twitter: Geemoku: 俺は彼らを論破しようとは決して思わない。彼らは何だかんだでたくさんの知恵をつけている。こちらは専門用語のひとつも知らない。賢くもない頭を使うのも疲れる。とにかく阿呆のように振る舞い話が終わるのを待つしかない。
twitter: Geemoku: 360の実績システムによって、ゲーム購入者の中でクリアまで到達するのはほんのわずかということが明らかになったように、たぶんゲーム雑誌も購入者の数%しか中身を読んでないんじゃないかという気が。特にゲーム批評とか初期の全否定キャッチコピーしか記憶に残ってないんじゃないか。
twitter: Geemoku: ゲーム批評批評が今ひとつ的外れになりがちなのは、初期の全否定キャッチ(「ファンタジーは死んだのか」とか)と、その人の大好きなゲームをけなしたソフト批評文だけが強く印象に残っていて、それを元に雑誌批判を展開するからではないかと思う。かといって全部読んで俯瞰する奴もおるまいよ。
twitter: Geemoku360: 経験を絶対視するなら、死や死後については誰も何も語れないな。経験者はもう喋れないわけだし。
twitter: Geemoku360: つまり完全自殺マニュアルは、ゲームをクリアしてないライターが書いたゲーム攻略本だと。
twitter: Geemoku360: 世界三大RPG:頭脳戦艦ガル、キングスナイト、キャプテンED、アシュギーネ虚空の牙城……あっ、四大シューティングRPGになってしまった。
趣味で女装を嗜んでいる男性だが、女性ものの服を着用する男性は3種類に分けることができる(独自研究である)。
① 女性として生きたい
③ 女性として扱われたい
①は、性別違和や性同一性障害などの性質を有しており、性別適合手術を受けて女性として埋没して生活している人が多い。
②は、ジェンダーレスの流れに乗り、10〜20代前半の若い男性が自己表現の一環として行なっていることが多い。
③は、女性として扱われることで性的な満足感を覚えるタイプの人であり、いわゆる「オートガイネフィリア」と呼ばれる。
しばしば問題となるのは③の人たちであり、女性ものの服を着用することが性的欲求に結びついている。
これらの人たちは、女性ものの服を着用することで性的興奮を覚え、射精すると賢者タイムに入るので脱衣する。
また、過度に女性的な要素を強調するような要素(制服、メイド服、ボディコン等)を好む傾向にあり、年齢や相貌に似つかわしくないメイクや服装をしばしば行う。
はじめは「室内女装」で満足するも、性的欲求はエスカレートする性質があり、次第に女装外出に発展していく。
女装する男性を狙う男性も一定数おり(女性は更に少ないがいるにいる)、女装する男性の一部は褒められ慣れていないことが多く、容易にホテルに連れ込まれたりする。
大抵の男性は数年もしないうちに飽きてしまう、または子育てなどのライフステージの変化により元の生活に戻るのだが、
一部の男性はライフワークのように長年続けたり、高年齢から女装を開始する一部の男性は、色々と人生を割り切っていることが多く、後先を顧みない行動にでがちである。
女装趣味と性的欲求が結びついているのでコントロールが難しく、夫婦関係に暗い影を落とすことがあるようである。
完全にやめることができずに、妻に隠れてこっそり女装を続けている人も多いようである。このような状況で、好き勝手に女装をしている人の情報が入ってくると心中察するところである。
また、知り合いの中だけでも、女装を続けることで夫婦関係の解消に至った例を複数知っている。
性的欲求を満足するために女装を続けている男性を完全に受け入れられるような女性はあまりいないのではないかと思われる。
一方で、女装でしか得られないような類の性的満足があるようであり、中途半端に禁じることで余計に禁断症状が出てしまう可能性がある。
結局のところ、女装趣味を受け入れられない場合、十分な話し合いの上、完全に女装趣味を断絶する(完全に、がポイント)、または夫婦関係を解消する、というのが妥当なところであろう。
ゴーダンナーでそんなロボがいた気がする。
分類はしたが該当するものをまだ見つけていない。
分類はしたが該当するものをまだ見つけていない。
思い出していないだけで絶対あるだろう。
ガーベラストレートとか。 すみません、勘違いしてました。鞘あります。
グレートマジンガーのマジンガーブレードは脚から飛び出るが、あれを鞘とは言わないだろう。
伸縮式指し棒みたいに剣身が伸びるような剣が昔のアニメであったような気がするんだが未確認。
エヴァのプログレッシブナイフとかガンダムエクシアの実体剣とかが該当か。
(ナイフを剣に分類するのはなんか違う気もするが)
多分一番このパターンが多い。
剣身出現時に炎エフェクトなどを伴うこともある。
ビームサーベルもここに該当。
柄をどこに格納しているか、剣身はどのように現れるかの深掘りはまた別の独自研究としてやりがいがありそう。
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ここ1年ほどで、インターネットにおけるテキストと動画のマーケティングについて、それぞれ全く別に学ぶ機会を得た。そのどちらも大筋では同じであった。
これがインターネットをクソにしているのだな、と思った。特にGoogleにおけるキーワード選定に対しては、Google自身がキーワードプランナーとして(時として有料で)提供してさえいる。If something is free, you're the product. であるなあと思った。
いわゆる「(今日起きた炎上事件)の(人名)の正体は?彼氏は?調べてみました!その結果……なんと……見つかりませんでした!」というブログはその代表例であるが、それよりもっとまともな顔をして「オウンドメディア」なんて呼ばれているものも、デイトレードと中期投資の違いくらいしかない。
かつて、コンテンツをめぐる状況はそうではなかったはずだ。確かに「流行に乗る」という概念はあった。しかしそれは遙かに移ろいやすいもので、決して月間35000検索で重み付けされたトータルスコアは89/100であるからこの流行に乗ろう、というものではなかった。
あるいは流行は流行であって、「台東区 家賃 見積もり」が流行ったことは未だかつて一度もなかっただろう。しかし、今ではこのワードで検索すれば5件の広告が表示され、その下には「東京都台東区ってどんな街?家賃相場はいくらぐらい?」(本当に原文ママのタイトル)というブログ記事風のサイトが待ち構えている。
台東区の家賃見積もりでさえそうなのだから、我々の行う検索は全て先回りされている。そういえばサジェストや関連キーワードというものが登場したときは、大きなお世話、あるいは気持ち悪いと感じたことを思い出した。先回りは言葉の節々にまで及んでいる。なぜか「台東区 家賃 見積もり」と「台東区 家賃 相場」では検索ボリュームが10倍以上異なる場合があり(このケースが実際そうであるかは知らない)、マーケティングを行う際には間違いなく精査されている。
キーワードを選定したらそのキーワードを含んだコンテンツを外注でもよいのでともかく生成する。その際に重視されるのは、そのコンテンツが実際に価値がある(「情報量」という用語のスラング的な使用法を思い出してもよい)ことではなく、検索エンジンがそれを見てどう思うかである。そのために、見だしやタイトルにキーワードを含まねばならず、また本文や説明文においては適度な分量のキーワードの繰り返しが求められる。
そうして作られたコンテンツが、実際に価値があることはまず、ない。「コンテンツを作る」作業の大半は、コンテンツの中身が他のサイトの寄せ集めを、検索エンジンにそれ(コピペ)とは気づかれないように「コンテンツを歪める」作業でありさえする。
昔はこうではなかった。というか、15年前でさえそうではなかったと思う。あの頃の検索エンジンは今に比べて遙かにゴミであった。しかし今は検索エンジンが進化した代わりに、コンテンツがゴミになった。かつて「見る前に跳べ」という言葉は世界のほぼ全てに当てはまった。今は、跳ぶ前にコスト計算と上司の承認が必要とされる。そこに「独自研究」の余地はない。あるいは、「インターネット上にない情報を書物から持ち込む」という手間さえ惜しまれる。その結果としてこんにち存在するのは、「キーワードプランナーが提案するキーワードのために歪めてコピペした記事を、キーワードプランナーが提案するキーワードのために歪めてコピペした記事を、……」の果てしなき連続によって生み出されるゴミの山である。
この状況に対して、私が出来ることは何もない。あるいは私は私のエゴのためにその状況を助長しさえするだろう。かつてを懐かしむ人間としての私に出来るのは、ゴミの生成過程をコピペではないコンテンツとして、この検索性ほぼゼロのネットの片隅に放つことぐらいしかない。