はてなキーワード: 無神論者とは
そうなんだよね。政治運動に心を奪われた人の発言はネットでも見てられない。アーティストでそういうタイプの人が何人もいるけど、残念な感じしかしない。
異なる立場の日本人同士が政治的な話を議論すると建設的にならない事が多いってのも事実だとは思うけど、他の国では政治的立場の違う人同士の議論が広く成立しているとは思えない部分もある。
出羽守的な人の話は、外国でも日本人と仲良くやっていこうという気のある意識高い人としか交流してないことが多いので、あんまり国民全体の傾向とは言えない話が多いと思う。古い話だけど「アメリカで無神論者だって言うと人じゃないみたいに扱われるので面倒だからブッディストだって言ってる」って大島渚も言ってたし。
神道が折衷教だって話もありますけど、キリスト教(と言うかアブラハム系)もそうらしいですしね。
現人神定義と三位一体論に共通点があったり、"神" そのものの定義に矛盾が有るのも "人" が原因だ、とすると解決できる面は多い気がします。
そもそも、唯一という言葉が人の感覚であって、他の方の言うように全能性や量子性を持ち込むと意味のない事かもしれないんですよね。
数の概念を超越していれば "1" であると同時に "0" でも "八百万" でもある神の定義も有り得ますし、全能であるのなら寧ろそれが当然。
全能の神でも持ち上げられない石を云々、もそうですが、人の意思と時制の概念を持ち込むと解決できそうに思います。
「人は自分の意志を持つ」のが神に作られた人の条件であるとすれば、全能であるはずの神は人の意思に介入できないわけです。
持ち上げられない石を出現させろ、も、それを持ち上げろ、も、人の意志であって、同じ石であるのに人の意志の時間的なずれによって前提条件が変わっているから起こる矛盾とも言え、矛盾しているのは人であって神ではないという解釈も可能です。(人と神が同じであればそれにも何も問題はないですが)
もっと言えば意志とは何か、という話もあり、我々が常に意志を持っているかと言えばそうではないわけで、神は存在すると同時に存在しない、と言うような定義も可能かもしれません。時間すら超越するのが神の条件だとすれば、何ら問題はありません。
ですから、神は唯一であってどこにでも存在し、自分と同じであって我々でもあり、同時にどこにも存在せず、全能であると同時に無能であり、全てを知っていながら何も知らない、宇宙の終焉すらも知りながら数秒後に我々が何を考えているかすら知り得ない存在(するかどうかもどーでもいい)である、とw
要は本当に全能なら宗教の定義ごときは超越するのが当たり前で、無神論者すら包摂すべきじゃないか、と。
しかし定義も論も "我々" が決める事なので神(々)ごときが介入する事でもなく――、
話が循環してるのでやめます
→自殺を肯定的に語るフレーズも、断固否定するフレーズも、びっくりするほど画一的ですよね。自分の人生という超個人的な話なのに。
これ、覚えやすくて使いやすいフレーズだから流行ってますけど、根拠がなんにもない上に論理的に破綻してますよね。
いや、文字通りに自殺って人を殺すことですよね、という話ならそのとおりですけど。でもだから他人を殺すのと同様罪深いですよ、って詭弁ですよね。普通に。殺人が罪なのは人が他者の生存権を侵害しているからでしょ。自分の生存権を放棄することでしょ。なんでわざわざ大変な思いしてる人をあえて傷つけるような言葉の暴力振るうんだろう。無神経だな。
これも詭弁ですよね。あなたの家族が死んだ、だからあなたは傷付いた、だから自殺はすべきじゃない。
交通事故でも、他殺でも自殺でも家族の死は悲しい。当たり前です。それなのに自殺のときだけことさらに「だから自殺は良くない」それがどうしてか。他の死因と自殺の差は「自分の命を立つほど思いつめた気持ち」。それが辛いからことさら自殺は辛いというのなら、その辛さのぶんは、本人が生きている間耐えた重みとイコールでしょ。じゃ、その間にできなかったことの方を悲しむべきでは?
死者の家族に文句言ってるわけではもちろんありません。本人を救うことなんてだいたい周囲の人間にできない。でも、死因が自殺であることの辛さイコール死ぬくらいの辛さが死因であること、ということをすっとばしてあっけらかんと「家族はこんなに辛いから自殺するな」って、それ思考停止も甚だしく、まさしく死者を鞭打ってないですか。
○私も昔は死にたかった。けど、年をとったら...
これも、意味がない。自殺の理由は年齢、持って生まれた性質、社会状況によって様々で、私も、十代、二十代、三十代、各タイミングで全く別の質の死ぬしかないという確信を持ってた。
そんなのファッション雑誌の「この服はこのカラーがおすすめ」程度にしか一般性のある話でしかない。いやいや、ひとそれぞれ何色かは違うだろうよ。
本人か周囲が宗教を持ってたらその説明で納得かもしれないけど、無神論者の人がそれ言ってもお笑いです。いやいや、大体の宗教、信者じゃなきゃ救われない、って設定だから、自殺しなくてもあんた自身が地獄行きだよ?人のこと言ってる場合じゃないだろう。
自殺はよくない、を既存の論理で説明するのは無理なので、上記反論をしたとしても、結局「だめなものはだめだ」「そんなの理屈でどうこういう話じゃない」ってセリフになり、しかも言った方が正義。いや、さっきまで理屈で論破しようとうだうだ言ってたの自分でしょうが。なんでこんな時だけ、子供を言いくるめられると信じ込んで無茶な理屈を振りかざすカーチャン状態になるんだ。あなたは普段からそんな失礼な議論をしてるの?仮にも生きるか死ぬかっていう本人にとって一番大事な決断を本気でしようとしてる相手に対して。ちょっと顧みてほしい。でもこんなセリフを厚顔にもいっちゃう人は多分人を自殺に追い込むことに抵抗がない人なんだなとは思うから、自分を顧みてはなんて言ったとて、何言われてるかさっぱりわからないんだろうなとは思う。
世の中にはびっくりするほど、自殺は良くない、この理由からだ、的な議論にあふれていて、それが、しかもでたらめな論理構成なのに、そしてそれを言われてわけもわからず傷つけられている人がたくさんいるのに、ノストラダムスの大予言みたく市民権を得ている。
無謬の大天才は自身の無謬性を証明できるから無謬であり、それができない時点で無謬とは言えない。
思うに、君は宗教の話をしてるようだ。
それなら「理解できない」という心境はわかる。私は無神論者だし、神の教えなどは理解できない。
こういう事だろ?
で、どうするか。
ことが論理となるとこれを多少なりとも解しないというのは別の生命体みたいだ。
感情は共有できるものでない以上、それしか物差しを持たないものは他者と関わることが出来ないだろ?
それは上とか下とかでは無いんだよ。
試しにググったら2秒ででたで
https://wezz-y.com/archives/53921/2
ドーキンスも性差別的発言をしばしば批判されています。2011年に女性無神論者レベッカ・ワトソンが、エレベータで不躾なナンパを受けたことをこぼすビデオを作ったところ、ドーキンスがそれに対して、抑圧に苦しむイスラームの女性に比べればどうでもいいことに不平を言っているというような意味の諷刺的なコメントをしました。このコメントは他の無神論者からも強く批判されました。ドーキンスはその後態度を変え、2014年にフェミニストの無神論者オフィーリア・ベンソンと共同でハラスメントに反対する声明を出し、新無神論活動内での性差別に取り組む姿勢を見せました。
ところが、直後にドーキンスは上にあげたハリスに対する批判を炎上狙いの個人攻撃だと見なし、さらに性暴力の被害者がお酒を飲んでいたらその証言は信用できないと述べ、性差別的だという批判を再び受けました。2016年には、ヘイトスピーチで有名なYouTuberが、オンラインハラスメントを受けているフェミニストの女性を中傷するために作成したビデオを、ドーキンスがツイッターでリツイートし、フェミニズムを貶めるばかりか実在の人物の名誉を毀損しているとして強い批判を受けました。このため、アメリカ北東科学懐疑大会(NECSS)でのドーキンスの講演が中止になりました。
生まれてから今まで目にしたものが、おなじみの葬式仏教と、正月しか行かない神社と、なんか怪しいキリスト教と、
そいつらより明らかに怪しい有象無象の新興宗教しかないのが悪いのかもしれないけど。
いやそうは言うけどね、何かあった時に頼りたくなるんだよ、という感覚もよくわからない。
だってさ、あいつらは人に救いの手を差し伸べる体で、結局はただ搾取してくるだけの存在なわけじゃん?
別に神も仏も具体的に自分に向かって手を差し伸べてくれるわけじゃないじゃん?
そいつらに感化された奴らが何かすることはあっても、結局はそいつ本人の意志でしかないんじゃないか?
そりゃまあこっちだって別に、私は無神論者というか不可知論者です、みたいな態度は別に取ったりしないよ?
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/15/egyptian-jail-atheist-on-facebook_n_6483578.html
「エジプトの憲法は、信仰と表現の自由を表向きは保証しているが、実際には、無神論者はエジプトで最も保護されていないマイノリティのひとつだ」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチで中東および北アフリカ地域責任者を務めるサラ・リア・ウィットソン氏は述べている。「エジプト当局は、憲法に従い、無神論者という理由で人々を迫害するのをやめる必要がある」
エジプトの学生たちも当然、ダーウィンの進化論もビッグバンも学ぶだろうし、これからの若い人たちがそれとどう折り合いをつけていくのかは難しいんだろうなっては思う。
キモくて金のないオッサンが日本のどっかに居ることはもちろん疑ってないんだが、それが社会として解決しなればならない、解決できる問題だという実感がないんだよ。黒人差別も、黒人がひどい扱いを受けているのはみんなが知ってても、「それはそういうもんだから仕方がない」とみんなが思っている内は前に進まなかったと思うんだ。
俺は普通に暮らしていく金には困っていないがコミュ障でオタクのキモいオッサンなんだが、基本的に社会にはほっといて欲しい。たまに寂しいとは思うけど、結婚とか友だちづきあいとか面倒くさくて無理だし。キモい状態を放置してくれるのであれば、他に社会的な要求がない。
金のないという部分はもちろん改善する必要がある。俺は生活保護を誰でも気楽に受け取れるような制度にして、BIに近づけるような形が良いと思う。
もちろんみんな俺のような考え方をしろとは言わないけれど、キモいオッサンが社会に何かを求めたり、逆に社会がキモいオッサンに何かをしなければならないのかというと、ちょっとよく分からない。
考えてみれば、そこら辺に理論を与えるイデオローグがまず必要なのかな。告発者や文学はその後に一般化する役割だろうし。
俺は無神論者なんで、信仰の自由に配慮して留置所とかがハラル用意しなきゃいけないとか絶対に間違ってると思うんだが、実際には配慮されてる。だからどうにか理屈を付けて共感されれば、キモいオッサンをどうにかせねばならぬという風潮になること自体は、そんなに無理のあることではないとも思うんだよ。