はてなキーワード: 無神論者とは
試しにググったら2秒ででたで
https://wezz-y.com/archives/53921/2
ドーキンスも性差別的発言をしばしば批判されています。2011年に女性無神論者レベッカ・ワトソンが、エレベータで不躾なナンパを受けたことをこぼすビデオを作ったところ、ドーキンスがそれに対して、抑圧に苦しむイスラームの女性に比べればどうでもいいことに不平を言っているというような意味の諷刺的なコメントをしました。このコメントは他の無神論者からも強く批判されました。ドーキンスはその後態度を変え、2014年にフェミニストの無神論者オフィーリア・ベンソンと共同でハラスメントに反対する声明を出し、新無神論活動内での性差別に取り組む姿勢を見せました。
ところが、直後にドーキンスは上にあげたハリスに対する批判を炎上狙いの個人攻撃だと見なし、さらに性暴力の被害者がお酒を飲んでいたらその証言は信用できないと述べ、性差別的だという批判を再び受けました。2016年には、ヘイトスピーチで有名なYouTuberが、オンラインハラスメントを受けているフェミニストの女性を中傷するために作成したビデオを、ドーキンスがツイッターでリツイートし、フェミニズムを貶めるばかりか実在の人物の名誉を毀損しているとして強い批判を受けました。このため、アメリカ北東科学懐疑大会(NECSS)でのドーキンスの講演が中止になりました。
生まれてから今まで目にしたものが、おなじみの葬式仏教と、正月しか行かない神社と、なんか怪しいキリスト教と、
そいつらより明らかに怪しい有象無象の新興宗教しかないのが悪いのかもしれないけど。
いやそうは言うけどね、何かあった時に頼りたくなるんだよ、という感覚もよくわからない。
だってさ、あいつらは人に救いの手を差し伸べる体で、結局はただ搾取してくるだけの存在なわけじゃん?
別に神も仏も具体的に自分に向かって手を差し伸べてくれるわけじゃないじゃん?
そいつらに感化された奴らが何かすることはあっても、結局はそいつ本人の意志でしかないんじゃないか?
そりゃまあこっちだって別に、私は無神論者というか不可知論者です、みたいな態度は別に取ったりしないよ?
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/15/egyptian-jail-atheist-on-facebook_n_6483578.html
「エジプトの憲法は、信仰と表現の自由を表向きは保証しているが、実際には、無神論者はエジプトで最も保護されていないマイノリティのひとつだ」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチで中東および北アフリカ地域責任者を務めるサラ・リア・ウィットソン氏は述べている。「エジプト当局は、憲法に従い、無神論者という理由で人々を迫害するのをやめる必要がある」
エジプトの学生たちも当然、ダーウィンの進化論もビッグバンも学ぶだろうし、これからの若い人たちがそれとどう折り合いをつけていくのかは難しいんだろうなっては思う。
キモくて金のないオッサンが日本のどっかに居ることはもちろん疑ってないんだが、それが社会として解決しなればならない、解決できる問題だという実感がないんだよ。黒人差別も、黒人がひどい扱いを受けているのはみんなが知ってても、「それはそういうもんだから仕方がない」とみんなが思っている内は前に進まなかったと思うんだ。
俺は普通に暮らしていく金には困っていないがコミュ障でオタクのキモいオッサンなんだが、基本的に社会にはほっといて欲しい。たまに寂しいとは思うけど、結婚とか友だちづきあいとか面倒くさくて無理だし。キモい状態を放置してくれるのであれば、他に社会的な要求がない。
金のないという部分はもちろん改善する必要がある。俺は生活保護を誰でも気楽に受け取れるような制度にして、BIに近づけるような形が良いと思う。
もちろんみんな俺のような考え方をしろとは言わないけれど、キモいオッサンが社会に何かを求めたり、逆に社会がキモいオッサンに何かをしなければならないのかというと、ちょっとよく分からない。
考えてみれば、そこら辺に理論を与えるイデオローグがまず必要なのかな。告発者や文学はその後に一般化する役割だろうし。
俺は無神論者なんで、信仰の自由に配慮して留置所とかがハラル用意しなきゃいけないとか絶対に間違ってると思うんだが、実際には配慮されてる。だからどうにか理屈を付けて共感されれば、キモいオッサンをどうにかせねばならぬという風潮になること自体は、そんなに無理のあることではないとも思うんだよ。
「キリスト教入門」としてこういう聖書のエピソードを並べるのは間違ってる(誤解される)と思うんだよな。この科学の時代にこんな神話めいた話されてもこの増田みたいな反応されるのがオチでしょ。
大事なのは、このエピソードを受け入れたとすると、生き方・世界観がどう変わるかってところだと思うんだよね。その辺が分からないと、アメリカで貧困層を中心に福音派がガンガン勢力を伸ばしてる理由とか、ニュートン・パスカル・ドストエフスキー・トルストイみたいな大天才が何でキリスト教を信仰していたのかとか、欧米で無神論者はちょっと・・・ってなる理由とか、全然分からないんじゃねぇかな。
Should be thankful that there was no damage.
これは直訳すると、
となる。
しかし、正確には
と翻訳する方がよいのだろうか?
文中には神という対象が明示されてないから、翻訳にわざわざそのニュアンスを入れるのは違和感がある。
ここで感謝を向けるべき対象は、せいぜい「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」ではないか。
オスプレイ事故でデマ、「朝日新聞が意図的な誤訳」にソースなし 米軍司令官「感謝されるべき」発言
https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/osprey-crash-in-okinawa-debunking
追記
今回のオスプレイ事故で、米軍の司令官の発言とされた"should be thankful that there was no damage"にはソースがなかった。Calci氏は一応謝罪ツイートを出していたが、デマを飛ばした動機・経緯を全く説明していないから、いろいろと謎が残る。
今回彼がおかした問題行動は、ソースがない英文を事実だと偽って流布したというだけではない。この英文を翻訳するときに「神に感謝」というニュアンスが正しいと主張したのである。しかもそのことについて、"ネイティブの翻訳チーム"に確認を取ったとも主張していた。
そうというわけなので、ここではただ純粋に、"should be thankful that there was no damage"という英語を読解していきたい。ネイティブがこの言い回しをつかった場合、神に感謝というニュアンスは自明なのかどうか。
追記2
キリスト教的な価値観に従えば、すべての幸運・結果は神のおかげということになるかもしれない。
そういう意味では、アメリカ人が「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」に感謝するというのは、結局は神への感謝ということにつながっているのだろう。
とはいえ、もし「神への感謝」というニュアンスが明確なのだとすれば、これはすごく宗教的で信仰のための言葉だということになる。
アメリカの無神論者や異教徒たちは、この言葉をわざわざ避けたりしているのか。ポリコレ的な問題にもなったりしているんだろうか。
前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。
が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)
一方で「民法研究とキリスト教は無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学の研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。
ぜんぜん関係も文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。
どういうことかというと、民法はちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業をします。
(1) 事案をよく見る。
(2) 適用条文を探す。
(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。
(4) 過去の判例・裁判例から重要と思しき事実をピックアップしてマトリクスを作る。
(5) マトリクスを作る過程で過去の裁判所の判断を分けた重要な事実が炙り出される。
(6) 本件に戻ってその重要な事実の有無・相違を確かめる(自然と結論も出る)。
(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。
ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。
(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去の判例・裁判例の結論と平仄を合わせるものでしかありません。
また、こうして出された結論が「国民の常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者で資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります。
他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察の捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます。
たとえば警察に捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意の認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。
他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います。
真理というものが普遍的なものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。
そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中で受刑者が思うことの多くは安部譲二『塀の中の懲りない面々』や堀江貴文『刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。
そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。
◇ 『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和夫の本がなぜか図書館にあって、面白くて読みふけってしまった。
曰く、『仁義なき戦い』のテーマの1つは、日本は戦争に負け、経済戦争にも負けたのに、またカネを巡って同じことをやっている。アホばっかりだ。ばーかばーか。ということだと。
時代は違うが内村鑑三も似たようなことを言っていて、曰く、日本は戦争向きの国ではないし、文化もモノマネしかできない。経済もそんな強くない。と。
じゃあどうすればいいかというと、内村は「日本の目指す道は宗教しかない」と言う。
ぜったい無理だけど、そうなったらいいなぁとは思う。
◇ キリスト教関連のエッセイに「フォイエルバッハはいいぞ」みたいなことが書いてあったので入門書を買ってきた。
めっちゃむずかしい。なんだこれ。
入門書の筆者曰く「フォイエルバッハはその主張から無神論者だと思われがちだけど、実はそうでもないよ」とのことなのだが、完全にキリスト教徒を殺しにかかってて笑える。痛いところ突かれまくり。だがそれがいい。
てかマルクスの思想の元ネタの1つがフォイエルバッハらしく、時折マルクスっぽいことを言うのでおおっ!てなる。
これ理解出来たらキリスト教とマルクス主義が頭の中できれいに整理されるんだけどなぁ。なんかもう1冊買うか。
内村鑑三の注釈は聖書の部分によって明らかに筆のノリが違っていて、自身の実生活で慰めを得たところだと熱くなる。
具体的には、貧乏生活を慰める規定や、人を裁くことを諫める規定は熱い。熱すぎる。
たまらずコレヘトの言葉に移ると、地上の快楽を追及するのは虚しいだけだよ、みたいな話なので熱気がすごい。おもしろい。
作者がソロモン(と言われているが実際には違う)ってのもロマンを感じる。
とりとめないが以上