はてなキーワード: 構造主義とは
んっとねー、俺の考えていたのは、「わいせつであれば表現の自由は規制されてよい、なぜならわいせつとはこれこれこういうもので表現の自由より保障されるべきだ」という論を立てられないか、ということだった。
俺の見た論はことごとく「なぜならわいせつとはこれこれこういうもので表現の自由より保障されるべきだ」を説明しなかった。「そんなの当たり前じゃん」で済ませてきた。そのたびに俺は「それじゃ馬鹿じゃん」と思ってきた。
フィーリングとしてはそういいたくなる気持ちは(言語化できないレベルで)分からなくはないが、理論化できないと、立法のレベルではともかく、法学と司法のレベルでは駄目だろう、と。
セクシュアリティを思想・良心の自由にしていいのか迷うが、たとえ他者に働きかける類の能力であっても、それが外面化しない限り、やはり思想・良心の自由の発展系と言うべきか。ならそれでいいです。
プライバシーはねー、構造主義の立場からは「そんな私秘的領域なんてものは実存主義臭すぎる」と言えるのかも知れないけど、やっぱ今も古典的/積極的プライバシー論とか、まだ考えるに値すると思うのよね。
名誉毀損がプライバシーかというと、他人からの評判という概念も入ってくるから違うけど、そっちでも当たってみるか。
ありがとうね。少し頭の方向性が定まった。
つまり、「ヤベェ性癖持った奴も、コッソリその性癖を持ち続ける自由がある」みたいな意味?
誰かに自分の性癖がバレたとしても、「あいつはアナルオナニーするぞー」と触れ回られない自由ってことか。
えーと、それって結局普通の法の範疇じゃないか?「内心の自由」だと思うわ。
その領域に辛うじて近い思想家といえば、ジュディス・バトラーかなぁと思うけど。
あれは「世界の色んなセクシャリティのみんな!自分で「変態」(クィア)という称号を名乗ることで
「変態」(クィア)の意味を無効化しちゃおうぜ!みんなクィアなのさ!」
って理論だし、そもそも性癖のようなものが内心の範疇っていうのは現代法ではむしろ常識の範囲だろうし。
その部分を今更理論付けてる思想家って、ちょっといないと思うなぁ。
そもそも、「プライバシー」って感覚が構造主義以降の思想とはあんまり馴染まないし。
むしろ、「内容が事実であっても名誉毀損が成立する」っていう辺りの普通の判例引っ張った方がいい気がする。
柳美里の判例は、「セクシャリティ」が表現の自由を打ち破ったわけじゃないしね。それはあんまり関係ない。
他人の話をそれが誰か特定できる形で出版して訴えられたら、そりゃ負けるよ。しっかし、柳美里はキチガイ過ぎてどうしようもない。
本は月10冊くらい読む。(もちろん漫画は含まない。好きな作家は、ありがちだけど村上春樹)
残念ながら東大行くような天才ではないが、まあバカではないと自分では思っている。
しかし、ちょっと興味ある分野のコミュニティを覗いてみると、みんなものすごいペースで難解な本を読んでいる。
インターネットで公開された「読んだ本リスト」を見ると、「カントの純粋理性のなんちゃら」「ポスト構造主義のなんちゃら」って本が、2、3日に1冊の勢いで追加されていく。
ツイッターでは、「今日はヘーゲルを読んだけど、この概念って誰の何に似てるよね」といった呟きや議論が毎日のように投稿されている。
自分も興味持って、哲学の本を買ってはみたものの、1カ月かけてやっと「なんとなーく」分かった程度だった。
原著の翻訳なんて、最初の1文からしてもう意味が分からないこともある。
「みんな最低限このくらい読んでるべきだよね?」的な名著が少なく見積もっても100冊はあるみたいだが、1カ月に1冊ペースで読んでも8年かかる。きっと8年の間には、また読むべき本が増えているだろうから、一生追いつかないのが目に見えている。
実は俺はものすごいバカだったんじゃないか、と不安だ。
あんな難しい本を2、3日で読めてしまうのが普通なのか?
それとも、ざっと見てなんとなく全体が分かって、興味ある章を拾い読みする程度だったりするのか? それなら俺も頑張れば3日で出来るかもしれないが、そんな適当な読み方で、身のある知識になるとは思えない。
実際みんな、どの程度理解しているんだろう?
やっぱり俺がバカなだけなのかな?
論理学にはあまり詳しくないのでなんなのですが、以下のあたりをどうぞ。
->ある事実が真理であることはそのシステム内部では証明できない
ある意味究極の定理です。厳密に証明されていますので数学として「定理」と呼ばれます。まずは「ゲーデルの不完全性定理」で調べて頂ければ資料は大量に出てきます。数学すら穴があることを証明してしまった恐ろしい定理です。
->記号論からイデオロギーが固定された意味を持たない無意味なものと論証
まずは「(ポスト)構造主義」「ソシュール」なんかを調べてから「バルト」を引いてください。「正義」の体系とも言えるイデオロギーが記号論的には無意味な戯言と等価になってしまいました。
「ファイヤーベント」の方法論虚無主義
->合理主義と非合理主義に差異はない、など「何でもあり」を唱えています。証明とは言えませんが、現代思想がどんなものか知るにはいいでしょう。科学の方法論すら恣意性の塊で何ら特権的な方法ではないことになってしまいました。
1970年代に盛んになった脱構築と言われるムーブメントは、画一的構造主義を排し、相対化という理念の元に個性の尊重をもたらした。
1990年以降に急速に発展を遂げたインターネットも、個性の居場所を与えた。
このように見ると、戦後の日本、戦後の世界は、個性の尊重を実現してきた歴史と言うこともできる。
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個性の尊重というと、無条件に素晴らしいことであると錯覚しがちだが、負の側面もあることを忘れてはならない。
例えば、個性を尊重した社会であるためには、人々がより沢山の価値観や文化を学ぶ必要が出てくる。
また、個性の尊重のために、それぞれの人間に適した環境を与える必要があって、実現の困難さに直面することにもなる。
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だが、何よりも心配すべきなのは、個性を尊重すればするほど全体の統制が困難になるということだろう。
価値観の共生というと聞こえは良いが、現実的に考えれば、先に触れたような個々人が行うべき学習や社会が用意すべき環境の必要性が爆発的に高まるという問題がある。
だから、いくら人々が個性を重んじる精神を持っていても、構造的に個性の衝突は避けられなくなってくることは事実なのである。
個性の衝突が発生すれば、当然のことながら全体の統制は困難となる。
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それだけではない。たとえ、個性の衝突があまり無かったとしても、それでも全体の統制が極めてとりにくくなるという点を見落としてはならない。
なぜか?それは、全体を統制しようとした時に、個性からの反発が生まれてくるからである。
というのも、個性の尊重は、相互不可侵の上に成り立つものである。なのに、全体の統制というのは、往々にして個性を侵害してしまう。
だから、個性からの反発が生まれてきて、全体としての身動きが取りにくくなるのである。
しかも、個性が多様になればなるほど、「当たり前」は通用しなくなり、ちょっとした事でも反発が生じてしまう。
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言うまでもなく、全体の統制は、全ての個性または多くの個性にとって有意味であるからそうするのである。
したがって、もし全体の統制が出来なくなったら、個性の発展が停止することになる。非常に恐ろしいことだ。
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今生まれ来る子供達は、これまでの人類史にないくらい多様な個性を身につけ「させられ」ようとしている。
個性の尊重とは名ばかりで、実際には用意された多様な個性の中からどれかを選ばないと社会生活しにくいのが実態だ。
そして、選んだ個性によって行動が規定され、他の個性を攻撃したり、全体の統制に反発したりするようになる。
みんながそういうふうに個性の尊重のために攻撃・反発することで、皮肉にも、互いが互いを縛りあって個性が抑制される結果になる。
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まーそーです。でも我々の場合、民主主義っつっても立憲民主主義なので、憲法の部分でなんか粘らないと、本当にダメな民主主義になってしまいます。
構造主義は内田樹の解説本くらいしか知らないんですよね。構造と(差異で一個一個区別される)要素は一体で切り離せないということと、「作者がどう思ってるかではなく、どう読者に読まれるかが重要だ」という理解しか持ってないのです。
私が読んだことのある哲学者といったらベンサムとミル(功利主義系)とカントとヘーゲル(ドイツ観念論系)とフッサールとハイデガーとレヴィナス(現象学系)で、構造主義とはつながってないんですね。済みません。(そういやこの前大学の頃の『全体性と無限』のメモ書きをはてなダイアリーに要約しました。大変でした)
構造主義に批判されている実存主義もよく分からない世界です。(wikipediaにはハイデガーには実存主義に大きな影響を与えたと書いてあるが、現存在のくだりだろうか)
僕は法の人ではなく、テクスト論の人でこの分野に関しては専門じゃないから
すごーくいい加減な理解でなんか書かせてもらいます、ごめんなさい。
ただ、戦略としては「ブン殴られる」とか「殺される」とか「奪われる」のような
「客観的危害」(だれがどー見ても危害加えてますよね?)というようなものに「危害」を留めず
「主観的危害」(見てるだけで不快だ、チンコ出すんじゃねえ!)に拡張する論調がメインじゃなかろーか。
これが行き過ぎた例が楳図かずお自宅騒動で、「不快原理」なんて言葉が使われたりもする。
「わいせつ」を規制する論理基盤はこの辺りだったおぼろげな記憶。
そして、「麻薬」だけれども。
ミルの流れを真っ直ぐに受け継いでいる一派、要するにリバタリアンと呼ばれる人々は
個人の使用に限って(麻薬の使用が「個人の使用」という限定された根拠で語れるか否かは別の論点)
麻薬を解禁すべき、という主張をしている。また同様に「売春」なんかもそうだよね。
この論点は「麻薬は社会にとって色々マズイ」とか「売春自由化するとエイズがマジヤベー」とか
その辺をぶっ飛ばしてはいるけれど、自由主義者の根底としては「麻薬はアリ」のはず。
ただし、社会の上で公共の福祉にどこをどーやっても引っかかってくるからやっぱり規制はしゃーねえか、
みたいなのが「自由主義者と麻薬」の間の関係で、麻薬に関しては例えば「アヘン戦争」を見てもわかるとおり
「公共の福祉」が規制の論理基盤に成り得ているんじゃないかと思う。
むしろ、この議論の場合中心的なイシューは「自殺」になるんじゃないかな。
すげえ自信ないんで誰かクリティックしてくれ。
そして、「他者の介在しない個人や、他者を越えた社会や集団・組織を対象にする倫理や法」
というものは、僕の知る限りカントが最後だった気がする。現在は構造主義以後の世界なので、
この手の「根本原理」とか「正義規則」みたいなものについては、「無い」と答えるのがわりと普通。
実在論としての法とか実存的法理論、みたいなものを研究してる人が全くいないわけじゃないと思うけれど。
とりあえず、現在の研究者は「人権」っつーものを横目にチロチロ見ながら、「文化は相対的ですよ、善悪なんかないですよ、ぼくにゃーなーんにもわかりゃしねーんですよ」とビール飲みながら学生に愚痴るのがデフォかなーと。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
まだ、資本主義と共産主義が対立概念としてあった頃、構造主義っていうのは相当愉快な発明だったんだろうな。
アタマの宜しい人々が、その新発明を使って「あんなことも考えられる、こんなことも考える材料になる!」
とかやってたんだろうと推察され、樹様と同じく、うらやましいと感じる。
別に共産主義的なるものが良いとか悪いとか、資本主義は悪魔だ、とか、そういうことではなく、
私達は今「お金」にまつわる世界の動き方(≒資本主義)に対して、
持ち重りのするような、面白そうな対立軸を立てることが出来ていないのかなと。
別に、対立させなくても良いといえばいいんだけど、資本主義の方も、一人ぼっちじゃ詰まらないだろうし。
エコとかとか言っても、”対立”している風はあんまり無さそうだ。
”資本主義的なるもの”が高度に発達して、というかその本領を発揮して、
『全てが経済価値に換算できる』=すなわち、全ての事象は資本主義(市場原理主義というか)の名の下に抽象化される。
ということは、お金以外の抽象物を発明しなくちゃいけないってことかしら。
神様とかは出来れば勘弁してもらいたいところだしなぁ。
久しぶりにちょっと考えたら、もともと足りない脳みそが追いつかないのでそろそろ止めるけど。
なんとなく、経済価値に換算すると納得できてしまう、ということが多すぎるので、ちょっと不満なのだ。
だれか、面白いこと発明してくれないかな。
その昔「ニューアカデミズム」というのがあってだな、まあ簡単に言えば学問ごとに閉じこもるのやめて他のもの(他の学問だけじゃなく社会も含む)と混ざっていきましょうって考えだったんだが、いつのまにかなかったことになってしまったな。
「リベラルアーツ」なんてのにちょっとだけ残ってるくらいだけど。でも実際に今リベラルアーツやってるのなんてFランクばっかりだけどな。
http://blog.goo.ne.jp/268tkfpp5znlw/e/7f09e7dd47904e1657d5784ddcc4f6f2
↑この辺が分かりやすい。
ブルース・リーなんかは哲学専攻でその辺ちゃんとふまえてたから、格闘技の中(外)ですんごく高レベルな一種のリベラルアーツをやってるね。
ドゥルーズのリゾームなんかと並走してたんだろうな。この辺の人らはソーカルにボコボコにされたけど、内容はともかくソーカルが来たってだけである種の目標達成でもあるからねえ。
さらに言えば構造主義ベースでリゾームなんかがあるとすれば、その前段階には実存主義があったわけだけど、その教義(?)の一つとして「アンガジェマン」ってのがあって、文学者の社会参加とかそういう訳し方されてるけど、その辺が回り回ってリゾームのルーツなわけだ。で、実存主義全盛時代、左翼運動の中心には文学者であるサルトルがいて、そういうのの影響をもろに受けてるから石原慎太郎は政治家やってるわけだね。
そのレベルだと、学ぶ事そのものが不可能じゃないのかね?
水からの伝言とか、嘘しか書いてない本も有るし、その辺はどうやって調べるの?
最新の情報に触れたりした日には、1年後には、書いてる事が嘘だったって判明する事もあるし
「水からの伝言」を読んでいないのですが、偽科学問題についてなんですね。自分は現代の最大の宗教は‘科学’だと思っています。宗教の信仰は自由ですよね。多くの人によって‘おそらく’正しいだろうと判断されたものでしかないですから。ですが嘘でも‘良い嘘’と‘悪い嘘’がありますよね。嘘でも人を救えるのであれば、それは価値のあることなんです。後から嘘だとわかっても笑えるくらいならいいじゃないか。そんなスタンスです。
結局出来る事ってのは、暗記するんじゃなくて、理解するようにする
理解するのが苦手ですね。この文章の構造はどうなっているのか、ベターな構造のために追加したらいいもの、削除すべきものまで頭が回らない。構造主義を実践している人はすごい!
ただ、学び始めたときは何もわからないわけですから、まずは信じるしかないですよね。そして自分の目で見始めたときにバーッと今までのことに対して疑問が沸いてくる。
ホントにホントか分からない情報でかつあまり論理的に調べる気にもなれなくて、さらに、それがどうしても必要なんて状況有るか?
3つもANDが取られていて、そういった状況があるのかわからない、というのが正直なところですね。ですが必要なら嫌でも調べますし、調べ方がわからなかったら人に聞くでしょう。問題の提起の仕方が悪いのか、前提条件が間違っているからダメなのか、論理が飛躍しているのか、ジレンマに陥るような問題なのか、そういった判断をすると思います。
学ぶということから、情報の判断に話がずれてしまっていますがご了承をください。
むしろ、文学の危機にあるのは英語です。標準ツール化され、微妙なニュアンスはどんどん失われていきます。NHKアナの標準語だけで小説を書けといわれたら困りますよね。
仕事において、形式知を伝達するためのツールとしての英語はどんどん重要になります。出来る限り勉強はすべきです。ただ、文学的な英語までマスターする必要はないでしょう。シンプルに、過不足なく伝える英語が大事になります。
「日本語は亡びぬ、何度でもよみがえるさ!」
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20081221#p1
これを読んでいて安部公房の事を思い出した。
安部公房は徹底して簡潔な表現で文章を削り込んで小説を書く事にかなりの労力を注いだ作家で、自身の執筆を「消しゴムで書く」などと表現していた。
語彙なども極力簡単なものを使おうと「小学校五年生ぐらいの言葉ですましたい(*1)」と言っているくらいだ。
「ぼくが問題にするのは、〈正確な文章〉だ。複雑なものをどれだけ正確に伝えられるかということ。文章に対しては、いい文章かわるい文章かであって、〈美しい文章〉というのはおかしい。フローベールが六法全書のような文章を書きたいと言ったのはよくわかる。つまり表現の、内容と形式がどこまで一致するか、という問題だ。(*2)」
誤解を恐れずシンプルに言うと、まさに「NHKアナの標準語だけで小説を書」く事を目指していた作家だと思う。
さらに安部公房は徹底した「反伝統」指向の文化論の持ち主で、その辺りの思想も面白いのですが、それについてはまた稿を改めて。
出典
*1「構造主義的な思考形式」(1978.1.16)
まあその後の流れを言うとフランス2月革命大失敗で反抗ブーム終了、レビストロースさん(文化人類学者の人ね。未開の部族とかにつきっきりで研究したりする人)がソシュールさん(言語学を変えちゃった人ね。それまでの言語学ってどこの言語がどこへ伝わってこうなったとかだったんだけど、そういうの全然をやらないで、どの言語にも当てはまる構造を考えた人ね)を発見して自分の学問に当てはまるのなんのって、みんな「おれのも当てはまる」「おれのも」「おれのも」で構造主義ブーム到来。そうこうしているうちにもっと複雑にアレンジできんじゃんとドゥルーズさんはリゾーム作っちゃうしデリダさんはディコンストラクション(文章Aがあった時、それがAかは意味としては決めつけできないけど、少なくともBじゃない、Cでもないとは言える、って具合に文章を読む読み方ね)だバルトさんは記号で日本もディコンストラクションしちゃうよでもう大騒ぎしてるところにソーカルさんていう量子論の学者の人が「お前ら自然科学の用語とかそれっぽく使ってるけどメチャクチャじゃんかいいかげんにしろ」と言い出してシュン。←いまここみたいな。感じでしょ。ソーカルショック恐〜。
こういうのっておもしろくないんだよね。日常の行動に当てはめられにくいっていうかさ。
「この世界全部ウソ。俺の意識だけ本物」とか言うやつに「あ、それプラトン」とか言いたいわけさ。
ちょっと変えてみた。まだわかりにくいかな。
いや、なんだ、その
増田の言うことはわかるんだ
広義に文学を捉えたら、そりゃ、俺にも面白さはわかる。
現代の「文学」観と言うのには興味が持てる
しかし、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」と言うのが文学で学べるかというと、それはないんじゃないかなと思う。
学べたつもりにはなれるので娯楽としては成立するがね。
「異質な他者・異文化との出会い」に触れる経験なら実際に異文化に触れた方が早い。旅行に行ってもいいし、自分と違う階層の友達を作っても良い。
「自分を遥かに超える思想体系」がどう言ったものを指すのかは微妙だが、知りたいなら数学を勉強すればよい。数学以外でも技術や物理でも良い。
「芸術」と言う観点から見れば、音楽、絵画、スポーツほどのインパクトを精神に与えることも難しい。
学べたつもりでいる文学屋は何人も見たことがあるが、一様に狭量で知識にひどい偏りがある。
現実経験の足り無さを言葉を装飾することでごまかすタイプばかりで、重傷のアニメオタクとの違いはせいぜい女性経験の有無くらいだ。
空想が空想だとわかっているだけにアニメオタクの方がマシとも言える。
それと話しが分散するが
「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ
「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える
残念ながら、その全てが出来ていないのが現在の国語という科目だ
知は基礎となる「論理的思考力」とそれを他人に広げる「情報伝達」に支えられているが
「論理的思考力」は数学の領分で国語科に係わる人々はそれが病的なまでに欠けている。
その為に国語科で教えられる内容はその基礎を欠き、うわっつらの印象だけが空回りし、詭弁が跋扈し、授業は思考停止の場に成り下がっている。
一方、「情報伝達」に関してはまさに国語科が担うべき内容であると考えられるが、現実的にはほとんど教えられていない。
論説文を読んで理解するという所で止まっている。
だから国語の授業はもっぱら「他者に正確に情報伝達」を行う技術の習得に集中した方がよいのではないのかと思う。
これですら、多くの文学屋は他分野の専門家に大きく劣るのが現実ではある。
文学屋の論説文は論説文の体裁を為していない
論説の最中で情緒に流され余情な装飾が混じり、語彙力をひけらかしたいのか用語も統一されていない。
概要、前提、議論及び証拠、結論の順で書かないといけないのに
論説文まで起承「転」結で書かれていたりもする。
また、図表記号を用いればよいのにことばのみで表現しようと迂遠な表現になっている。
結果、曖昧で冗長な文章ができあがる。
その上で増田がことばが好きなのだから
(すでに習得済みかも知れないし、これらも文学に含めてみても良いかもしれない)
なんか色々同情するな。
SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人”ブラッドベリや、”哲学者”フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。
…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。
「歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義は正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育の本質的な価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。
再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学の文学部文学科の適当な研究室に電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去の歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観を押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。
その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディアと情報・文化論・芸術論・経済・教育・日本論・近代主義・心理学・倫理学・宗教・歴史学・国民国家・テロ・文明の衝突・ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーなテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄・差別・風景論・都市論・スポーツ・時間論・労働・高齢化社会…etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校の教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説のテーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語(現代文)」の仕事なのだな。
それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語や文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌の編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ。その意味での「文学」教育というのは、メディアリテラシーの教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要な資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。
まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。
どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。
そうだよねー。便利かどうかは知らないけど面白いよねー。