はてなキーワード: 楽器とは
おっさんになるまであまりゲームしてなかったので、40代からゲーム始めた
名作らしいのが有り過ぎて死ぬまでに消化できなさそう(とりあえずFPSやって、最近は原神やってる)
こっちも時間が足りんわ
20~30代が忙しかったから今こうなってるけど、こういうパターンの人も結構多いんじゃないか?
とりあえず、まわりにはマラソン始める人多いな。俺はやらんけど
Round1みたいな騒がしいところではなくて、昔からあるブームから取り残されたような場所があるとおすすめ。
老眼が始まる年齢なのでパーツの細かいのよりはパーツの大きいようなキットがおすすめ。
塗装を楽しむ感じでどうぞ、ジオラマや電飾までやり始めると時間泥棒になる。
疲れが溜まりやすい年齢なので温泉に通ってリラックスするのも十分な趣味になれる。
近場に温泉や銭湯があるならおすすめ出来る、ヒートショックには注意。
・楽器
自分の動作から即座にフィードバックが得られる楽器は意外にも楽しい。
・カラオケ
喉強いなら、発生はストレス解消にもなる。
・筋トレ
マッチョな身体に憧れるならおすすめ、憧れなくても日々の健康のためには必要なことなのでやっていて損はなし。
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個人的な主観ではあるが、受動的な趣味は感性が衰えてくる老人には楽しむのが難しい部分があるのではないかと考えている。
こんなん何回も言われてることだけど、趣味が楽しめなくなったとか言う奴ってニートとか引きこもりじゃなくて、基本シングルのオッサンオバハンなんだよな。
んで、オタク趣味だろうが本人は普通に働いたりしてて、全体的にはまあ普通の社会人なわけ。
「普通の社会人」なら20代後半くらいまでは学生時代の延長線上で友達付き合いがあったりするもんだが、アラサーにもなれば友達もそれなりに結婚してたりするしアラフォーにもなればもっと結婚しててどうしても友達とちょっと疎遠になりがち。
今時、職場経由でそんなすげえプライベートでも仲良くなれる人なんて滅多にいないしね。
そうすると、それまで友達付き合いで補充していた「他人と接することで得られる刺激や安心感」が不足してくる。
だから趣味が楽しめなくなったとか言う奴ってほぼほぼ一人でできる趣味ばっかいうやん? 他人と接する機会がある趣味がアラサーになって楽しめなくなったとか書いてる増田ほぼおらんやん?
あと家庭持ちで趣味が楽しめなくなったって言うやつもおらんやん?(家事育児で趣味に時間を取れなくなったって嘆いてるやつはよくいるけど、それは悩みのベクトルが違う)
趣味が楽しめなくなったお前らは、実は人間関係に飢えてる可能性をまず疑うべきなんだよ。
だから新たな知り合い・友達を作ってそいつと付き合う時間を作れ、ていうのが答えだよ。
その具体的な手段として他人と接する趣味を始めてみるとか、例えばバーにちょくちょく行って飲み友達作ってみるとか、なんか社会人サークルに入ってみるとか、そういう話。
数か月前にそんな増田を書いた覚えがあるが、個人的にお勧めなのはアマチュアオーケストラだな。
弦楽器はむずいけど、比較的簡単な管楽器(例えばユーフォ、サックス、トランペットあたり。できればフルート。男のフルート吹きは少ないので重宝される)なら半年~1年頑張って練習すればまあ下手なりに参加を許されるくらいにはなる。
んでオケって当たり前だけど最低でも30人~40人くらいは必要なんで、人間関係に飢えることはなくなるぞ(逆に悩まされることもよくあるけどなw)
あと下世話な話として、大人になっても楽器やってるやつって男女問わず実家が割と太かったりするので、中流家庭の上または上流家庭の下くらいのお嬢さんと出会えるチャンスの場だったりもする。
楽器おもろいよな。ウインドオーケストラに入りたい。
この理屈って、極論をいえば「なんで絵が描けないくせに漫画を読んでるの?」と同じだと思うんだが。
「楽器を演奏できない人がなんで音楽聴くの?どうやって楽しんでるのかぜんぜん理解できねーわ」
と言われても、逆に「はあ?」ってならん?
漫画だけに限っても、
「逃げてばかりで戦ったことがないくせになんでバトル漫画好きなの?」
「女子からキモがられてるのにラブコメ漫画を読んだところで、恋人のいるキャラに共感できないでしょ?」
「いじめられっ子が頑張る漫画読んでるけど、お前はイジメられて何もできずに終わった側じゃん」
「車椅子のくせに、なんでリアルじゃなくてスラムダンクの方が好きなの?」
とか、
そういうことだよね?
フィクションなんだから現実と真逆のものを読もうと逃避しようと自由だし、
例えば、
「いい歳したおっさんのくせに、なんで少年漫画を読んでるんですか?」って質問をして、
「現実が惨めで、楽しかった少年時代に逃避するしかないんです」
なんていう、「いかにも」「それっぽい」答えが返ってきたとして、納得するか?
逆にそれっぽい答えの方が、余程信用できない。
好きになる理由など、
漫画以外のすべての人生経験によって左右されるんだから、ただの一般人には答えようもない。
下手したら、妊娠中だったときのオカンがBLを読み耽ってたせいかもしれん。
と、ここまでは「そういう安易な解釈はよくないよね」、という説明だ。
「主人公と同性」のキャラクターは、基本的に「主人公(読者である自分)と同質の存在」
分かりやすいのが、「立ち向かうべき・乗り越えるべき、主人公のよくない一面」を体現したキャラ。
良いか悪いかは別として、「ライバルキャラ」は主人公の分身そのものであることが多い。
好奇心が強く冒険を求める気質で努力を惜しまず、同じようにラピュタを追い同じ女性に恋をする。
「同性で同世代の子供の死」(自分の分身と別れることで成長する)が描かれる。
「主人公と同性のキャラクターは、主人公の分身としての意味を持つ」というのは、
主人公と同性の相手との恋愛はつまり「理想の自分との恋愛」と解釈できるのだ。
読者の「自己愛の強さやナルシシズムを気持ちよく満たしてくれる」要素が強く、それが魅力なのだといえる。
だから作風も耽美系(自己陶酔)や、上下関係(自分という最上位のプライドを甘くくすぐる構造)に寄りがちなのである。
ミニチュアの箱庭のような居心地の良さや安心感が、同性愛ものにはあるのだ。
もちろん「BL・百合好きは幼稚なナルシストだ!」という話ではない。
その単純な理解は、
「少年漫画好きのおっさん=精神が未発達な社会不適合者」と同じだ。
そうでなきゃSNSがこんなに流行るはずがない。みんな承認欲求を満たしたいバケモンなのだ。
むしろ自分が特別でなくなったら、人間はもう生きていられなくなる。
そして、ナルシシズムにも種類がある。
「自分大好き!他のことは知らん!」と自分を持ち上げるタイプと、
「自分以外のものを踏みにじることで、自己愛を満たす」ような自分以外をこき下ろすタイプだ。
どちらが優れているわけでもないし、人はみな両方の要素を持っていて、どちらの要素が強いか、というだけである。
ただ、個人的な印象としては、
異性愛作品の方が「他人をこき下ろす構造の作品」が多いように感じる。
同性愛作品の方が他人にも寛容なことが多い気がして、それもまた人気の一因ではないかと思う。
また、(異性愛者の)「女なのに百合好き」「男なのにBL好き」も、別におかしいことではない。
「裸の付き合い」とかいって温泉にやたら行きたがる男、すぐケツやちんこを叩いてくる男は死ぬほど多いが、同性愛者かと言えばそんなこともない。
「兄貴」キャラとか、シュワちゃんやスタローンなどすぐ裸になりたがる筋肉俳優は、男のファンの方が多い。
そしてそういう作品は、(同性愛的な)男の性的サービスカットが結構多い。(千葉真一の戦国自衛隊とかビックリする)
「同性キャラの性的モチーフ」だからといって、「それを見るなんておかしい!お前さては同性愛者だな!」ということはなく、ぜんぜん普通のことだ。
ジョジョ読んでる奴はオカマとか、そういう時代じゃないんだから。(いたんだよ昔は)
まああくまで、「そういう傾向があるというだけ」の話なのは、理解してほしい。
会社所属の、プロのイラストレーターです。イラストの外注も業務としてやってています。
「こういうかんじのものを、こういうテイストで描いてください」と「条件の羅列」「必須要素の指定」「相手に伝わる表現」を整えて、お願いして
「ちょっと違うな」と思ったら修正をお願いしたり、こちらで手直しをする作業を発注と呼んでいるのですが
制作依頼段階の資料では、有名・人気なクリエイターさんの絵を貼り付けることもあります。(多分AI絵では学習にあたると思います)
発注のディレクションは、立派なスキルであり、世の中に必要な仕事です。
やっていて思うのは、事務寄りの行為だなということ。だって絵が描けない同僚も発注はできますから。
というわけで、この2つを混ぜずに、AI頼りの人間から、クリエイターのニュアンスを除去したい。
「他人にお金を払わないと絵が生産できないこと」だと思います。
彼らは、毎月、AIサービスへの支払いをしなければ、絵を手に入れられません。
同じ絵柄、同じキャラクターの、ちょっと違う向きを、毎月の支払いをやめたら、自力ではどう頑張っても用意できません。
もし私が何年も作画を担当しているキャラクターを、私が退職後にも欲しいとなったら、きっと依頼がくると思います。
もしくは絵柄寄せをできるクリエイターや、私の絵を食べさせたAIにそのように発注すると思います。
特徴の二番目としては
紙、ペン、イラストソフト、楽器などではできる買い切りを、AIはできません。
どこかの誰かが金の対価に維持・提供してるだけで、所有権や管理権はくれないからです。
子供の頃から死ぬのは苦しそうだという恐怖がパラノイアのようにまとわりついていた。ある時気絶を経験してみて、死なんて案外こんなものなのかもしれないと思った。睡眠は死のイトコとはよく言ったものだ。身体的な苦痛に対する恐怖は薄れていった。恐怖は抽象的なものへスライドしていった。
「無」になることが怖くなった。
意識の断絶。経験したことのない状態。体験した者は一人残らず口が聞けなくなっている。これはどういう思考の過程で恐怖が薄れたのか忘れてしまった。どう足掻いた所で避けようもない。火の鳥や吸血鬼はきっと存在しない。ならば不安になったって仕方がない。考えるのをやめることでいつしか怖くなくなっていたのかもしれない。
存在を忘れられることが怖くなった。
無になっても、他人を介して自分に存在を繋ぐことが出来るのではないかと考えるようになった。それが成し遂げられないことへの不安だった。
大抵の人がそうであるように、自分という存在もまた忘れられれば初めから無かったかのようになってしまう。結婚して子供を残せば自分の存在を残せるかもしれない。でも4代5代も先になれば、誰も読みやしない墓石に刻まれた文字だけの存在になるだけだ。遺伝子を残した所で、それが自分のアイデンティティを為すものだとはどうしても思えなかった。それはただのモノだ。いつか朽ち果てる墓の中の骨と変わらない。そこに自分の考えや言葉や性格は何もない。そもそも血が途中で絶えない保証なんてどこにもない。
思春期の自己実現への焦燥感や全能感と合流して、偉大な存在になれば望みは果たされるだろうと思うようになった。教科書に乗るような存在になれば永遠になれる。誰も自分を忘れない。
しかし自分が大それた存在ではない事を薄々受け入れていく内に、この望みも薄れていった。ビートルズだって数百年先も人々の記憶に残っている保証はない。バッハだってカエサルだって仏陀だって、いつかは忘れられるかもしれない。
生きている間だけ存在し続けるのも、死後せいぜい数十年、数百年、数千年の間人々の記憶に留まるのも、永遠に比べたら誤差のようなものだ。それに身も蓋もない話をすれば地球だってどうせいつかは爆発するらしい。他人を介した方法でも、永遠の存在になろうとすることは諦めた。今思えば、地球がなくなっても宇宙へ住処を広げない可能性がないとも言い切れないけれど。
これらはすべて理屈の問題というよりは納得、受容の問題だった。
後悔を抱いて死ぬことが怖くなった。今に至るまでこれだけが怖い。
死は避けようもないが、しかしたった一度きりの生があるのもまた事実だ。
生きる意味などどこまで考えても見つからなかった。理詰めで問うていけばどれもこれも絶対的な地盤などなく、あやふやなものの上に成り立っていた。宗教というものの意義が肌感覚で理解できた。しかし自分なりに意義を見出す事は出来るはずだ。ならば心からの納得が欲しい。
死ぬ間際に人生こんなんで良かったのかという思いが頭を過る事に対して、強迫的な焦燥感を抱くようになった。
映画を見漁っても、友達付き合いをしていても、方々を歩き回ってみても、楽器を弾いてみても、曲を書いてみても、心からの納得は得られない。
それを振り切れるほどの情熱もないままに、存在の不条理なんていう目を向けてはいけないものを凝視し続けて頭がおかしくなってしまった。
情熱を持って生きるか、それが出来ないならせめて日々の気晴らしにかまけて人間存在の不条理など忘れ去ってしまった方がいい。
くだらない考えもほどほどに目の前の生活を淡々と送る。それが地に足のついた人生であり、そういうバランス感を模索していく事が人生の中で生き甲斐を見逃さないための誠実な生き方というものなのかもしれない。
そう頭で思っていても、情熱の燃料にもならない湿った焦燥感がどうしても捨てられず、後生大事に抱えている。これを捨てたら比喩ではなく石ころと同じ存在になってしまうように思えてならない。石ころと同じ存在になってしまうのはとても恐ろしい。仏教はそれを肯定しているらしいが、何をやっても納得してくれない心がそれだけは強く否定している。
思えば初めからそうだったのかもしれない。子供の頃から、普通に楽しく生きていれば、生きている実感を見逃さなければ死になんて目も向かなかったかもしれない。鬱病の素質があっただけかもしれない。
世の中の人間は意識的にでも無意識にでもこんな事は踏まえた上で、バランスよく自分なりの賢い生き方をしているのだろうか。まあ他人のことはどうだっていい。
といったような考えに10代の大半と20代の少しを費やしたが、同じような内容が大学の哲学系の講義でサラッと語られていた。
読書をしていればこんな考えに時間を浪費する事もなかった。車輪の再発明だ。無学の悲劇だ、と笑われそうだが、自分はそう思わない。そこには単に理屈だけではない実感が乗っている。価値観のDIYのようなものだ。拙くとも自分で辿り着いた事に意義がある。今更のポジショントークなのかもしれないし、それのせいでバカみたいに勝手に苦しんでるんですけど。
今Xのギター系隈で話題になってる件でHISの対応に疑問がある。
ことの顛末は
・ギタリストY氏がギター教室の生徒や知人を集めて、ロンドンで楽器屋等をめぐるツアーを計画し、10月上旬に実施された
・ツアーのお粗末な内容や、参加キャンセル分の返金がなかったことをXに投稿し、話題になる
・ツアーを主催した、Y氏の知人の会社P社にツアー料金を振り込んだが領収書が発行されなかったため、参加者が主催者側に領収書の発行を請求
・請求から20日ほどたったあとに、HIS名義の領収書が各参加者に発行される。発行日はツアー終了後の日付
・HISから参加者に、領収書に誤りがあり領収書の返却を求める旨の連絡
領収書の返却後、P社から正しい領収書が発行されるとのこと ←今ここ
HISとして本来発行するはずのない領収書を発行してその返却を求めてるというところ、普通の企業であればありえない対応だと思う。