はてなキーワード: 板橋とは
私がいま集中的に、 布団の中でもどこでも考えていることは、 平成30年に何があったかということで方々に電話しています。 板橋総合中央病院に電話したら、4月7日と
4月16日に来たようですというメモがあったらしい、ということだ。パソコンに残存している自撮り画像を検討したら分かるんじゃないかという意見もあるが、パソコンに残存している画像やなんか
ついでに佳代子と交わしたいざこざのメールも全部検討したうえで必死で考えたが全然分からなかった。 平成30年の7月に1階のカズモのジジイが水道を止めたとか、前田さんの音楽と
発狂の音が深夜まで流れていると書いてあるので、これかとも思うがいまいち引っかからない。単に、実写画像というだけだと、9月4日にじゅりがホテルに来たときに自分で撮影したものがあるが、
それだけでは何も分からない。 9月24日の13000円の使途もそれだけでは分からない。むろん関係した人に質問すれば出るだろうということはあるが、みんな、知らない、そんな昔のこととか
は破棄しましたというので、それとなんか、バクサイやなんかのSNSに何かあったら痕跡が残ると思うのでそれも検索したが何もTraceが残っていない。残っているのもありますが残っていないのもある。
本件の令和6年(行ク)第27号と呼ばれる書面は、その主催者が極めて残酷な集団によってなされ、その集団およびそこに記載されている内容について、暗に多くの者によって
燃やされているのが現実であり、美しくないものは死すべきと言う独善的な考えによって作成されており、一般人はおよそ記載されている内容を信じていないから、検討する価値を見出す余地はない
付言するに一件記録によると、申立人が疎明資料を提出できなかった経緯は次のとおりである。
① 申立人は、2月10日に、新幹線で、宮崎県延岡市に一時帰省し、郵便物を受け取ることができないような状態にした。
② 当裁判所は、2月15日、2月29日までの回答で、3月14日に再度、回答書を送付したが、申立人は、遠隔地にいるため、これらの郵便物は、配達されないか、もしくは
③ 当裁判所は、 3月25日付で、申し立ての却下決定をしたが、申立人は、本件決定がなされた当時、延岡市の自宅におり、3月9日、3月16日に門川市で女性に会うなど
し、3月25日は、同市方財町231の16番地の所在する、令和5年9月27日付で、佐藤まりんに貸していた3万円の取り立てに行っていた日と認められる。すなわち、
申し立て人の3月25日における行動は、その夜間に、まりんの母親に会い、これと話をした後に、懐中電灯で付近の海岸を照らしていただけという事実が存在する。
④ 上記において使用していた懐中電灯は、 申立人がした3月27日にした演説に激怒した、 大貫町5丁目に住んでいる今井雅之が、28日午前2時に、窃取し、
⑤ 申立人は、3月30日に、上記の女性と今一度会った後に、4月4日に電車で東京に帰ることに決定し、4月4日、23時12分に東京駅に到着し、 5日、0時12分に、東京の住所に徒歩で到着した際に、当裁判所が送付した書類一式が郵便受けに入っているのを発見し、中身を確認したと解される。
⑥ 当裁判所が要請を求めた疎明資料の一部は、板橋区蓮根に存在するセブンイレブンから当裁判所に送付されている。今回、当裁判所が特別送達郵便で送付したのは、
令和6年4月1日から志村福祉事務所が板橋福祉事務所という1つの集合体になりますという紙があったが、志村福祉事務所に行ってみたら看板は何も変わっていなかった。
西高島平駅を過ぎたらなんとなく朝霞水門にいくんじゃねえかなと思って自転車で行ったらスーパーベルクの方から練馬に行ってしまってそのまま土支田2丁目から、石神井警察署
大泉交番、出たところを北上すると、川越街道に当たります、か、何かに当たりますと説明されたが実際には、技術高校に行きついてそこから、川越街道に出ると朝霞警察署があって
理化学研究所があってそのままもとにベルクがある道に戻ったから必死で帰って来た。午前2時に蓮根駅のところで、いいわよのおばさんが出てきていて蓮根駅でなんか警察車両4台くらい
出ていて若者と警官がもめていたがさっさと通り過ぎたので中身は見なかった。
朝霞大橋は知っているというが説明は下手糞で頭が悪い。 どうしても、西高島平を右に行ってそこから先にあるんだよなとしか言わない。和光高校もそこにあるという。
宮崎門川の草加のローソンにはサンガリアのミルクが3月30日も置いてあったが、全国的には終売で、土支田ローソンにも、板橋のローソンにもどこにも置いていなかった。
家に帰ってから布団の中で、しゅぷら甲子園とか開催したら会場の奴ら全員殺すからな覚悟しておけなどと唱えてから寝た。朝飯を食べてから寝ていると、スイートコーンで出来たおじさんの
身体がどんどん裂けていく夢と、3階の女が色々やっている。
そういう事実がないから。 延岡警察署の 分からないところに隠している高性能テクノロジーからの指令が来たときだけ能力が高まって機能する
吉崎佳弥は刑事裁判官で、株式会社ヤマダ電機には関与していないから、そこに置いている商品の発明などについては理解できない。
また、綾小路きみまろは、特殊な芸能人で、その話を聞いてげらげら笑っているおばさんが一時期にいたことも、頭がぐちゃぐちゃになっているときは理解できるが、
株式会社板橋じゃぱん、 岡田克也は、 公務員が食べない商品を作り、 GLAYは歌を歌うことで対抗しようとしたが、前田はそんなものはなまぬるいと子供のころから
予想していたので、直接の殺害を目論んだ。
例外的措置 じゅりちゃん(当時37歳の利用) 許可者 任介 日時 平成30年9月4日
平成31年4月15日 ホテルサンタナで田中辰之助とトラブル。
令和5年5月
令和5年7月15日 柴崎克俊が殺人をしたという内容の夢を流す。 どのような手段によってやっているのかは不明で、極めて悪質で巧妙。
令和5年9月26日 平成24年に晴生が野田町に行ったら子供殺しの殺人地帯になっていたという夢を流す。手段は完全に不明で、突然睡魔が襲って来てそのまま見ることになる。
令和6年2月27日 延岡市のうんこデザイン(目が小さい)の巡査が暴行を行う。
バクサイの縣人、 板橋区舟渡、前野町の女性の取り計らい等で実現した成功
令和6年2月13日
令和6年2月21日
令和6年3月1日 精神障害で軽犯罪者ということで不可能なようにしておいた美少女とのHが実現してざまあwww
令和3年12月15日 日向市の数学教師の末永祐治と、宮崎市の アロマプラチナムのMONOという女性との成功実現 具体的書き込み 旦那とHしました
またあの神社の事件の関係者でもないし、犯人被害者に何の思い入れもない。
カネや相続絡みの醜い争いが最悪の結果になったんだな~というだけ。
ただ、一つだけ評価するのは犯人は有言実行で憎い相手を殺害し、自分と自分のパートナーの命も終わらせている。
なかなか怨恨感情や周到な準備だけじゃ出来ない芸当だ。わが身可愛さでいざとなると死ねない人間や死刑になりたいとかほざきながら他者を攻撃し自分は死なない軟弱者がいる中でこの実行力は天晴れ。
で、この事件後こう思った。「この神社親族間のトラブル解決や怨恨には効くんじゃないか?」
増田の親戚に金の無心や非常識な振る舞いをする奴がいた。そいつのせいで実家が崩壊危機になったくらいのトラブルメーカーだ。
自分も迷惑を蒙ったし苦しめられたしもう金輪際会いたくないので、金輪際物理的には会いたくないと富/岡/八/幡/宮でお願いした。
するとコロナコロナの世の中になり、遠方に住むその親戚と顔を合わせることがなくなった。
更にその親戚自身が病気になり、またその家族間で問題が起こり始めた。
コロナも病気も偶然だと思うし、気のせいなのかもしれないし、これをご利益と言っていいのかわからないが、自身の心身負担が激減したのは事実だ。
まあその親戚自身の冠婚葬祭などある場合は必ず顔を合わせる機会があるから、そういう意味では完全な絶縁とまでは行ってないけど・・・
安井金毘羅とは板橋の縁切り榎などもあるだろうが、親族間のトラブルや許せない事象や怨恨がある方はこちらもおすすめする。実際に嫌がらせや係争を実行するよりは被害やリスクも最小限で済むだろう。また、本当にヤバイ親族の場合は神頼みしている場合ではなく、実際に離れるために行動することが先決なので自分の心身を守ってほしい。
勿論現時点の神社そのもの、神主さんや働いている方々、近所に住んでいる方には何の非もないのだから、迷惑がかからないようにしてほしい。
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。