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2015-07-10

おおかみこどもの雨と雪』が名作扱いなのがキモチワルイ。

あれは登場人物物語制作者も全て独り善がりなダメ作品だろ。

おおかみこどもの雨と雪

今日地上波でやるじゃん

で、気になるのがカットされるシーンなんだけど、

前と同じでEDの「おかあさんの唄」が思いっきカットされると思うのよ

ワイプ宮崎あおいバケモノの子宣伝するんだろうな

おおかみこどもの一番のクライマックスはおかあさんの唄でしょ・・・

2015-06-29

memo

<金曜ロード SHOW!>「バケモノの子」公開記念で細田守作品を3週連続放送

サマーウォーズ」(2009年公開)は7月3日午後9時~10時54分

おおかみこどもの雨と雪」(12年)は同10日午後9時~11時19分

時をかける少女」(06年)は同17日午後9時~10時54分

2014-12-15

一話で一年すすむ2クールアニメを見てみたい

主人公女の子最初の0話で生まれ(0歳)、最終話の25話(25歳)で結婚するような話(以下、ややこしいので話数は0話始まり、つまり話数が主人公の年齢と同じ数字とかんがえる)。

今まで、同じアニメ内で海に行く話やクリスマスの話など、季節系のネタをやるというのはよくあったけれども、もし一話で一年進むアニメがあるとすると、同じアニメの同じキャラクターによる小中高の入学式修学旅行卒業式、はたまた七五三成人式などの年齢にとらわれる時期ネタというのができる。

さらに、主人公が成長していくという成長アニメはよくあるけれども、もし一話で一年進むアニメがあるとすると主人公内面だけでなく、外見まで成長していくアニメということになる。そんなアニメはなかなかないと思うし、主人公の成長を父性的・母性的な感覚で見守るように見れるアニメになれるのではないかと思う。

「30分アニメで1年を描くということは、2分~2分半で1ヶ月分を描くということか? そんなの無理だ!」と思われそうだけど、そういうわけではなく、1年の中でメインとなる話を2,3抽出してその話を主に描くというイメージ。例えば7話(7歳)なら、小学校入学ネタ七五三ネタの2つをメインにもってきて、他の時期の話は短い時間で簡単に描くという感じ。サザエさんだって30分の間に3話分やってるし、現在放送中のアニメ、『デンキ街の本屋さん』の10話ではバレンタインホワイトデーを両方描き、さらにその前の9話のCパートではクリスマスの話をやっていたので、これだけで30分で数カ月分描けるということが分かる。

それでも、「その話は1話で数ヶ月じゃないか! 1話で1年なんて無理だ!」と思う人もいそうだけど、『琴浦さん』というアニメの1話では最初10分で15年を描いたので、30分で1年ならもっと余裕をもって描けるだろう。他に思いつくのは、映画だけど『おおかみこどもの雨と雪』は2時間で13年間を描いていた。

そもそも、自分がこういうアニメを見てみたいと思ったきっかけは、30秒で60年ほどの年月を描いたディズニーリゾートのCMを見たからであって、30秒で60年が描けるなら30分で1年も十分にできると思う。

さらにいうと、1話で1年進むというのは自分アニメぐらいでしかできないのではないかと思っている。実写ドラマでは無理だ。数年後みたいにいきなり話がとぶのではなく、前回の話の終わりと次回の話の始まりの間隔は数ヶ月しか差がないので、いきなり年齢にあわせて役者を変えるとなると非常に違和感があるだろう。やるとするなら、26年間の撮影必要になり、非現実的だ(ハリウッド映画の『ボーイフッド』という作品は、12年かけて撮影してたというから、もちろんありえなくはないが)。

では、漫画だとどうだろう? 漫画でもできなくはないが、場面転換が少し多くなるので難しいのではないかと思う。4コマ漫画ならできなくはないかもしれないが、個人的シリアスな話も入れて欲しいので4コマ漫画はあわないのではないかと思う(『琴浦さん』を例にあげといてそれはないだろ! とセルフツッコミ)。小説はできるかもしれないが、内面だけではなく外見の成長が大事作品となるのでやっぱりあっていない。

シミュレーションゲームアドベンチャーゲームならできるかもしれないが、操作が面倒だ。

もちろん、だからといってアニメだったら簡単にできるというわけではない。他のアニメ作品と比べると、主人公を演じる声優は0歳から25歳までを演じ分ける必要があり、非常に難しい役どころとなる。主人公女の子と考えたのも、男だと声変わりがあるので無理だと思ったからだ(こんなこと言うと、野沢雅子ならできる! とか、緒方恵美ならできる! 山寺宏一なら! 石田彰なら! とか言われそうだけど)。キャラクターデザインも同じく0歳から25歳で描き分けなければいけないので大変だろう(女の子なので身長だけでなく、胸の大きさも重要になってくる)。作画原画担当としても、主人公が描き慣れるということもないため、他のアニメと比べて難しいだろうと思う。だけど、それでもやっぱりアニメしかできない話だと思うので、やる価値は十分あるだろうと思う。

話の構成としては、0話で誕生し、3話か4話で幼稚園入園はじめてのおつかい、6話で卒園、7話で小学校入学七五三12話で修学旅行小学校卒業、13話で中学校入学、15話で卒業高校受験、16話で高校入学、18話で卒業大学受験、19話で大学入学自動車免許取得、20話で成人式、21話インターンシップ就活、22話で卒論23話で就職、25話で結婚という感じ。

上記で書いてない話は、他のアニメでもよくある水着回温泉回、はたまた季節系イベントクリスマスバレンタイン回をつければいいし、最終話結婚の話なら結婚相手との出会い告白の話も必要になってくるだろう。

シリアスな話を描くなら、ちょっと遠出してみたら迷子になる話、仲の良い友だちの転校、交通事故失恋就職難、それと25年も生きていれば身近な人の誰かは亡くなると思うので、葬式の話をやるのもいいと思う。

後、女の子の成長を描くうえで個人的にかかせないと思うのが初経の話。初経の話といえば、ないしょのつぼみだと思うのだけど、あれが小学校5年生の話なので、11話ぐらいになるだろうと思う。ただ、1クール目の最後の話は12話になるので、12話のほうがいいかもしれない。ただ、そうなると修学旅行卒業の話と12話にいろいろな話を詰め込む必要があるので難しいか。いや、修学旅行の話は前半でさっさと終わらせて、後半で初経と卒業ネタを織り交ぜた話にすれば・・・。少なくとも、2クールではなく、1クールになるようであればそうすべきだろう。

なんてことをよく妄想しているのだけれども、自分には2クールアニメを作れるような金も人脈も能力もないし、将来それらが身につく未来も全くもってイメージできないので、その事実にふと気づくと落胆する。なんとかして実現できる方法はないかなと思って、調べてみると、アイデアをだせばそのアイデアを実現することができるかもしれないクラウドファンディング Dmet idea というサイトを見つけたのだけれども、なんだかこのサイトで求められているアイデアと違う気がしてだしてない。一番可能性がありそうなのが、小説として書いて人気になってアニメ化するという展開になることだけど、先ほども書いたように小説向けではないと思うし、文才もない。何より、自分場合、確実に最後まで書けない。

本当、仕事中にふと、(13話はこういう展開にすると面白いではないか。それと、結婚相手は子どもの時に出会ってたという話にしたら面白い。だから9話はこういう話にして・・・)なんてことが頭に浮かんで困っている。

最後に、自分はそんなにアニメに詳しいわけではないのでもしかしたら知らないだけですでにあるかもしれないので、もしそういうアニメがあるのなら教えてください。

2014/12/16 8:25追記

うそう、一つ書き忘れたことがあった。キャラが歳を取らないサザエさんなんかでは、「いつの間にかカツオより年上になってた」なんて言われることがよくあるが、一話一年アニメとなると、「こないだまで自分より年下だったのに、いつの間にか自分より年上になってた」という逆転現象が起こる。こんなアニメはそうそうないんじゃないかと思う(とはいっても、自分子どもの時は、ドラゴンボール孫悟空がいつの間にか自分より年上になっていたが、それはちょっと違う)。というわけで、例えば『渡る世間は鬼ばかり』は自分の思うイメージと違う。

後、いくつかトラックバックブコメを頂いたのでちょっと返信する

・「主人公の成長を父性的・母性的な感覚で見守るように」と言いながら

女の子なので胸の大きさも重要」だの「水着回温泉回」だのと言ったエロ目線も当たり前のように加わっていて

「父親になったつもりで疑似娘と近親相姦したい」と言う願望丸出しできめえ

確かに、「水着回温泉回」という例をだしたのは少し浅はかだった。個人的にはそういう展開は他のアニメでも求めてないが、ニコニコ動画2ちゃんねるコメントを見てるとよく求められてる印象があったので、例にだした。

ただ、そもそも、『エロ目線』といわれるなら、『初経の話』のほうだと思ったのだけど、そちらのほうに触れられていなくてちょっと驚いている。

結婚女の子人生のゴールみたいな言説は嫌いだよ

こういうこと言われることは考えたけど、ある程度キリよく考えたらそこを最終話にするのがいいと思った(自分だって結婚がゴールと考えてるわけではない)。人生のすべてを描くために80話ぐらいやったら確実に後半マンネリ化するだろうしね。

浦島太郎とか

いや、それは違う。最終話で「数年後」となる話とあまり変わらない。

アニメではないけれど、「ハリーポッターシリーズも1作で1年だった。映画も2年に一度くらいのペースだったので、ハリー役の役者が成長していて時間を感じることができてたなあ。

なるほど。ハリーポッターは確かに近いかもしれない。読んだことないけど。

商業作品ではありませんがコミティアクロニクル第一集に掲載されてるおーみや先生の「余命100コマオススメですよ。

ありがとう。探してみる。

2014/12/17 0:40追記

帰ってきたら100ブクマ超えてた。こういう作品を見てみたい人が多いんだろうな。と思っていいのだろか。ブコメ見てると似たような作品の紹介コメントが多そうだけど。

以下、気になったブコメの返信。

・リチャードリンクレイターの「6歳のボクが大人になるまで」と同じコンセプトですな。

映画だけど、6才のボクが、大人になるまで。面白いんじゃないかな

これは、本文でも言及した、『ボーイフッド』のことですね。見てませんが自分ちょっと気になってます

小学校入学から1クール」ならまだしも、乳幼児期の1話2話を親馬鹿動画じゃなく鑑賞に耐えられる展開にするの

自分イメージでは、最初のうちは、母親がほぼ主役的立場という感じでいいと思ってる。特に0話は特別な数値だし、母親が主役だから『0話』としたといろいろいいわけがつく。

・2クールも要らないよ。5歳から1クールで充分ですよ。

・それだったら小学生以下を無視して13歳~25歳で1クールのほうがよくないか、とも思う。キャラクターデザインも中、高、大、社の4種類以下で済むし。

キャラデザ予算など課題はあるけどアリだと思う。でも小学校入学から高卒までで1クールにした方がいい。赤ちゃん園児時代は回想で充分だし。

1クールだと誕生小学校卒業までだと思ってたけど、そうじゃない案が多いのか。意外。

これなんなんだろ、と思ったら「手軽に「娘の結婚式に出るのお父さん」の気分になりたい」なのか。なるほど。

確かに、そういう感じかもしれない。ブコメの中では一番的を得ているコメントだと思った。

アニメ業界流行り廃りとかテクノロジー進歩歴史になりそうだ。

いや、個人的にはテクノロジー進化は描かなくていいと思ってる。ガラスの仮面名探偵コナンみたいに、作中の時間ではさほど時間がたっていないのに、最初の話では携帯電話なくて、最近の話では携帯電話があるという話があるけど、その逆。近年の0歳~25歳を描くイメージ(できるだけ普遍性はもたしたほうがいいとは思うが)。

一話一年って縛りだからつのイベント最大20分で決着付けなきゃいけないじゃん。尺とれば面白くできるような話もぶつ切りみたいになって絶対まらないと思う。

そうかな? ドラえもんちびまる子ちゃんだって30分の中で2話やってるけど、面白い話も多いよ。もちろん、自分が考えてるストーリー構成案もある程度話題になるとは思うけど、多くの人に面白いと思ってもらえるかどうかは自信ないけど。

一話ごとに「大の仲良しの○○ちゃん」が入れ替わったりする話に、果たして視聴者がついてこれるのか。

いや、一年で大の仲良しの友だちがそうころころ入れ替わるとも思わないし、入れ替わらない話にすればいいだけだと思う。

今回、いろいろブコメでいろんな作品が紹介されていて、でてくるかな? と思ったけどでてこなかった作品で、小学3年生から小学6年生までを描いた50話で1年進む『おジャ魔女どれみ』という作品が昔あったけど、あれだって友だちは入れ替わるわけじゃなかったし(増えはしたけど)。話それるけど、おジャ魔女どれみの続編(高校生編)のライトノベルは気になってるけどまだ読んでない。

2015/04/05 0:07追記

誰も見てないと思いますが、小説家になろう小説として書き始めることにしました。

一話一年物語

2015/04/11 23:28追記

から気になっていたアニメ制作舞台小説の『ハケンアニメ!』を読んでいると、一話で一年進むというアニメがでてきました。

ハケンアニメ!

まあ、こういうアイデア結構な人が思いつくのかもしれませんね。どこかのアニメ会社が作らないもんだろうか。

2014-01-09

おおかみこどもの雨と雪』の感想

おそばせながら、感想

評判通り、気持ち悪いというかなんというか。

結局、なにを表現したいのかよくわからなかった。

シングルマザーは大変ということを描きたかったわけではなさそうだ。

子育ての大変さにリアリティがない。

田舎暮らしの苦労、田舎の人の優しさについてというのもやっぱり違う。

田舎暮らしイコール自給自足という、あくまでイメージの中の田舎暮らしであって、リアリティが全くない。

生活費等々、お金がかかるところへの説明は

「亡くなった狼男貯金

で押し切る強引さ。

田舎育ちの僕からすると、あの田舎暮らしの描き方がちょっとイラッとさせられるみたいに、子育てをしているママさんたちからすると、やはりあの子育て描写はイラッとさせられるんだろう。

僕は当初、リアル世界ファンタジーの生き物が同居するトトロ世界観を期待していた。

蓋を開けてみると、現実のようで現実でない、ファンタジーの異世界の話だった。

トトロよりは、千と千尋の神隠しに近いくらいに。

シングルマザー田舎暮らしも、狼男も、おおかみこどもも、なにかのメタファーであって、ただの舞台装置

ほかに主題はあるんだろうなと思いながら観た中盤。

ようやく、一番の主題が逆の性格兄弟が別々の人生を歩み出す、ということだということに気付く。

「でもなぁ、それを描くためにおおかみこどもっていう設定いるのか?

ヤンキー兄弟とかにして、片方が普通生き方になって、片方はヤンキー街道まっしぐらとかでいいんじゃないのか?

ヤンキーじゃなくたって、オタク兄弟とか、相撲とか歌舞伎の家に産まれた兄弟とか、そういうのにしたっていいだろうし」

とか考えてラストを予想しながら観た。

僕が考えたラストシーンは、二人ともそれなりにいろいろあって、挫折して戻って、家族の絆を確認しあってハッピーエンド、という感じ。

ところが、読みははずれて、

「姉は人間として生きていくことにしました。弟は狼として生きていくことにしました。二人とも家を出たので、母は一人で暮らしています。」

ということに。

「…、…あ、そう、だから?」

という感想しかでなかった。

だって…、だからなんなんですかね?

なにを感じろと。

遅かれ早かれ、兄弟が別々の生き方をしていくのは、当たり前のことでありまして。

おおかみこどもじゃなくても、たとえ人間だって

からない。

結局、なにを伝えるための作品だったのか。

僕がこの作品から受け取れたメッセージは次のとおり。

・ちゃんと避妊をしよう!(たとえ獣姦でも)学生子供をつくると大変。

しか年子かいくら中出しが好きだってやめとけ。

・とりあえずヘラヘラ愛想を振りまくといろいろ吉。

交通事故は怖いね。人も犬もよくはねられて死ぬ

キジ美味しそう。

2013-12-26

フィクション現実の間

おおかみこどもの雨と雪への憎悪結構すごいっぽい。

恋愛妊娠出産育児生活といった、普通に行われていることが主題で、その表現方法アニメーションなところが問題なのかもしれない。アニメにすると、どうしても大体のキャラがかわいくなってしまうし、生々しさがすっかり消えてしまう気がする。

そもそも、自分現実生活していることを主題にされると、すごく悩んだり、問題の対処に走り回ったりしていることを、とても美しい事のように、表現され、また、すばらしい出会いや別れがあったりして、その生活のものが、なんだかとってもすごいものとして表現される。それ自体自分生活と比べて、悲惨だったり、たいして変わり映えのしない物なら良いが、しがらみや環境によって、自分が断念したものを全て取り込んであり、かつ、その断念したものを、無くしてはならない大切な物として描かれると、とても嫌な気持ちになるだろう。

女手一つで、次の旦那を探したりしないし、山奥の空気きれいなところで子供たちを育てたりするし、子供絵本には、アンパンマンプリキュアが無いし、テレビもないし、ましてやゲームなんかないし。農業やって、村の人ともそれなりに仲良く出来てるし、山奥で娯楽なんかないのに楽しそうに生活してるし。

そりゃさ、理想としてはそんな生活もしてみたくなるさ。でもさ、現実はさ、酒飲みたいとか、他の男と恋愛ちゃうかもだし、子供戦隊もの見たりおもちゃねだったりだし、山奥なんかに暮らしたら、マジ不便ですごい困る。なのに、そんな生活ちゃう

やだよ。そんなの見たくないよ。だってさ、都会で子育てするのだって大変で、片親なんかさらさらに大変で、環境だって良くないし煩悩だらけだし、それでも何とかやっていってるのにさ、そんなキラキラしたもの見せられて、これこそ至高!自然ってすばらしい!みたいにされてもさ、頑張って頑張って、いろんなものを我慢して生活してる自分馬鹿にされてるみたいじゃないか

で、前に某店長が言ってた、たまこまがつまんないってのも、たぶん店長はなんとかして、近所づきあいをこなしているのに、トラブル喧嘩がいっぱいあるたまこまの世界の近所づきあいが、不自然なまでに上手くいってる感じが気に入らなかったんじゃないかと思うわけです。俺が悩んで、頑張ったり我慢したりやってることを、さも当たり前でもっとキラキラ生活テレビの中に作られているなら、それはやっぱり悲しくなるよなーと。現実生活で、悩んで苦労して我慢して、なんとか保っている中途半端平和フィクションの力で、幸せな方向にかるーく倒してしまうと、その渦中にいる人からは、自分が否定されているように映るんではないかと。

幸せフィクション現実の間に横たわる、不気味の谷ってのがあるんだろうね。不幸なフィクション現実の間には、無いのだろうけど。でも、不幸と現実も色々で、フィクション側が十分に不幸でないと、現実の側が下回ってしまうとそれはやっぱり不気味の谷が発現してしまうんだろうと思う。それは、その渦中にいる人にしかからない。

おおかみこどもの話に戻るけど、この監督の前作品にサマーウォーズってのがあるのね。おおかみこどもにも賛否あるけど、サマーウォーズにも賛否あるわけですよ。おおかみこどもは、出産育児の話なんだけど、サマーウォーズは、大家族の話で、話のキモに、おばあちゃんの権力と、主人公数学の才能ってのが入ってくる。で、サマーウォーズを貶しつつおおかみこどもを絶賛する人ってのもいたんですね。その人はやっぱり、育児とかには全然縁が無くて、そのかわり権力数学のほうに人生生活を注いでいるんだと思う。権力の持ち方、発動方法数学の問題や解く時間、そんなことが不気味の谷となって、「ありえない」という感想を引き出すんだろうと思う。

現実立ち位置は人それぞれで、フィクションが作り上げる場所もそれぞれ。でも、フィクションの方がほんの少し素敵な場合、その近くで生活している人からは、気持ち悪い不気味な谷が見えるんだ、と、思う。

2013-12-25

おおかみこどもの雨と雪」は「アイ アム サム」である

「アイ アム サム」とは知的障害を持つ青年が幼い子供を育てていたが養育能力が無いとみなされ子供を取り上げられそうになる話です。

「おおかみこども」の花は、サムのように知的障害はありませんが社会で生きていくうえにおい

なんらかの障害を抱えていると仮定すると、物語上のいびつなところがきれいにまとまると思います

 花がおおかみおとこと知り合った頃、こんな告白します。

「父親が『つらいときほど笑っていなさい』と言ったので、葬式でも笑っていたら不謹慎だと怒られた」

一見けなげなエピソードに思われますが、高校生にしては幼すぎるのではないでしょうか。

まり花は

言葉を言われたとおりに受け取ってしまう(皮肉行間が分からない)」

「いったんインプットされたことに強くこだわる」

という傾向があると推測されます

 彼女大学で親しい友人がいないこともこれが原因と思われます。こういうタイプ

学校職場など閉じられたコミュニティーならやっていけるのですが、

大学のように自由度の高いコミュニティーでは孤立する傾向が高いのです。

 つまり花はおおかみおとこと同じように生き難さを感じており、

から彼に惹かれたのでしょう。

 また、花は短期的なことは考えられるが中長期的な計画を考えるのは苦手であるようです。

おおかみこどもをどうやって育てるか、病院学校ははどうするのかなど本来なら雪の妊娠から

相談しておくべきことなのに、彼女は本当に問題が差し迫ってこないと考えられないのです。

(雪が赤ん坊の時に何度か熱を出しているはずなのですが、おそらく自宅療養で乗り切ったと思われます

 

そして同時に二つのことに対処できないのかもしれません。雨に比べて雪は放置されがち

(溺れた雨を助けた雪もびしょぬれであえいでいるのにほったらかし、嵐の日雨を追いかけるのに夢中で

学校の雪は待たせたまま)ですが、一つのことで頭がいっぱいになってしまうともう一つのほうは

お留守になってしまうのでしょう。

 そして、おおかみおとこは死んでしまます

 あの時ゴミ収集車の職員がなにか訴える花に取り合わないのはおかしいのですが、

花がうまく説明できなかったと考えれば納得できます

(突然おおかみおとこなどと言われたらとても信じてはもらえないでしょう)

 おおかみおとこを失ってしまったので、今までの生活破綻してしまます

これまでのように親子だけで暮らすことは不可能になってしまったのですが、

花にとってはおおかみおとこの「人目を避けて暮らしてきた」という

やり方がインプットされてしまい変更できないのです。

 普通なら最悪の事態を招くところですが、彼女には一つだけ天から与えられた能力がありました。

それは「短期的な目標を与えられればがむしゃらに頑張れる」というものです。

 たった一人で廃屋を修理し、畑仕事をこなすの超人的な能力ですが、

映画レインマン」でサヴァン症候群の兄が驚異的な記憶力でポーカーに勝つようなものかもしれません。

 周囲の人間もそんな花の能力を認めたからこそ共同体の一員として受け入れることができました。

 うまく行っているように見えた花と子供たちの生活ですが、しかしやはり破綻はきてしまます

 花は生活を回すことは出来ても、社会いかに生きていくかということは教えられないのです。

 自分が上手く出来ないことを子供に教えられるはずがありません。

 「おおかみになってはいけない」としか教えられず、コントロールの仕方は知らない雪は学校で友人を傷つけてしまます

 「他の動物をばかにしてはいけない」と雨は教えられましたが、狼の役目は食物連鎖の頂点で他の動物を捕食することです。

 社会に出たら母親のやり方ではまったく通用しないのです。

 だから雪は母親に無断で信頼できる友人に秘密を打ち明け、雨は自分の力で山の先生を見つけ出しました。

 二人は幼い頃は完璧だと思っていた母親限界を悟ったのです。

 そして花は雨にこう言います

 「あなたにまだなんにもしてあげてないのに!」

 その時おおかみの雨は驚いたようなしぐさをしますが、あれは

 「お母さんは自分能力限界を分かっていたんだ!」

 

 ということではないでしょうか。

 花も自分限界をうすうす気づいていたのかもしれません。

 二人の子供は親離れをしますが、ある意味三人にとって一番いい時期だったのでしょう。

テレビで視聴しただけなので、セリフなどあいまいな箇所があると思います。ご容赦ください)

2013-12-24

おおかみこどもの雨と雪 感想

家族物語は常に未完である

1.本作の主題

 大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊事情母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道家族劇であろう、と私は予想していた。

 しかし実際には、冒頭でおおかみおとこ主人公の花が「哲学」の講義きっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である

2.おとぎ話から現実へ?

 13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子もの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。

 しか出産子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本アニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのであるしか医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。

 親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産子育て環境リアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在リアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。

3.本作の根底を貫く3つの近代概念:①選択権としての自由観

 社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会から排除である。雨と雪を隠し続け、医者児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画クライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。

 「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマである。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事ものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たち存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。

 いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマ価値あるものとして社会的に承認されることである黒人女性差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である自分の非自発的なアイデンティティ差別迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。

 「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである

4.本作の根底を貫く3つの近代概念:②家族を壊す個人観

 取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである

 家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会国家世界史へと繋がっていく人倫弁証法スタート地点を家族においている。そして王道的な家族物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマ踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族のものを対自化、対象化しなければならないかである毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。

 しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族現実的な絆も、現実的幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語家族ドラマ王道スタイルである弁証法構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語家族弁証法プロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているかである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。

5.本作の根底を貫く3つの近代概念:③価値放棄する平等

 そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまたからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからであるしかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体肯定的表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体重要価値のあることであり、その選択自体尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等である。これも近代以後の社会には欠かせない重要概念である職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズテイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念のものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間生き方には価値序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんもの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方平等価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者生き方も、高名な僧侶生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである

 このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである人間人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみのPermalink | 記事への反応(2) | 08:36

2013-12-23

おおかみこどもの雨と雪』はフェミ寄りの女性から叩かれてるみたいだけど

個人的には「主人公現実離れした理想の母過ぎ」とか「田舎暮らしが上手くいきすぎ」とか

そういうところは別にいいと思うんだよね。

現実と掛け離れた夢を描いたシングルマザーものっていうのは嫌いじゃない(『世界で一番優しい音楽』が好きだったし)。

残念だったのは雨は狼を選んで家出、雪は全寮制の中学に入ったってところで

わず11,12歳かそこらなのに子育て終了にして終わりにしちゃった事だな

その後の花の人生を思うとあまりに寂しい

雨を家出させずに子育てはまだまだ続くってとこで終わらせるか

孫やひ孫に囲まれて花が大往生するまで書けばよかったのに

2013-12-21

おおかみこどもの雨と雪」をオンエア前にレンタルした人(気付いてレンタルした人)が通ります

金曜ロードSHOWが見られないかもしれないので、あらかじめ見ておくと安心(?)

でも、全部の作品でそれをするにはカネがないので一部の作品、話題性があるものなどに限ってます

ヒント:裏番組

http://anond.hatelabo.jp/20131221170535

2013-03-16

おおかみこどもの雨と雪」みたんだけど

面白くないよね?と思って検索したら、駄作だとかクソだとかつまらんという意見もあったけど、

感動したとか泣いたとかい意見の方のほうがたくさんある気がして、ドギマギ

おおかみおとことのセックス、これは別にいかな。おおかみの舌でベロベロしたほうが気持ちよさそうじゃん。

で、避妊なにそれ?で妊娠すんだな。

おおかみチンコにあうコンドームがないのか、知識がないのか、本能のおもむくままなんだろうな。

で、自室で産んで、またすぐ妊娠

え?まじで避妊知らないの?と思ったけど、やったーハッピーみたいな感じだったかおkなんだな。

奨学金バイト大学行くくらいだから、わたしもっと勉強したいのとかはなかったんかな?

父おおかみがあっさり死んで、あっさり処理されて、

みんなもっと「うわっおおかみじゃん!」っつーのは、ないんだね。

都会では暮らしにくくなって山奥に移住して、しばらく貯金でやりくりって結構ため込んでたんだな、やるな。

あのあばら家があそこまで人が住めるようになるには、全部自分でやったとしてもお金かかると思うんです。

田舎の人みんないい人ぽいね、ヨカッタネー。

弟、川に流されたけど「どうせ死なないんだろ」とボワーっとした気持ちで、そのシーンをながめてた。

まだ思ったことあったけど、いいや。

てな感じにいらんこと考えながら映画観たら、あんまり面白くなかったとさ。

2012-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20121121041529

からここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず

キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。

おおかみこどもの雨と雪」をあずまんが絶賛したのは「狂気」は関係ない。彼はあの作品に普遍的なものを見ていた。

私はヱヴァQを見ていて、あ、これは魔法少女まどかマギカに近いテーマ性を持っている、更にその先に行こうとしていると感じた。

というのも、まどかマギカヱヴァQも、善意の結果が悪意と悲劇になるならば、善意の結果が人を苦しめることになるならば、というテーマを扱っているからだ。

ほとんどの創作作品において、善意は報われるということが前提になっている。善意が報われないならば誰も善意をなそうとは思わなくなるからだろう。

だが、その前提に対してまどマギは疑問を呈した。善意の結果が悪意と悲劇になるならばというテーマを立て描こうとしたが、まどマギはそこで止まってしまった。善意が悪意に転じるならばそれは絶望で、せめてそのような悲劇にならないように、という物語が描かれた。

ところがヱヴァQでは、シンジアスカに引っ張られながら、それでも前に進む事を強いられている。生きている以上は歩かねばならない。立ち止まることは死と同義だとでも言うように。

あれから14年経ったのだ。

おおかみこどもの雨と雪」は見ての通りの物語で、ぶっちゃければ何もない、人々に感動を与えるためだけに作られた物語。そして東はこれに感動したのだという。

もちろんおおかみこどもとヱヴァQでは扱おうとしているテーマがまるで違うから、前者に感動して後者に感動しないというのは当然なのだが、ことさらヱヴァQを詰まらないというのは、単に14年分の変化が東自身にあったというだけではないのか?

http://anond.hatelabo.jp/20121120232557

なんかあずまんにつぶやかれたしQ見て良かったわ。

https://twitter.com/hazuma/status/270937897249693696

https://twitter.com/hazuma/status/270943010051719169

それはさておき、庵野はひどい。

ヱヴァQは間違いなく凄い、主人公をどうしようもない加害者に叩き落としたという点でどうしようもなく凄い映画だと断言できる。

ひどいのであって、凄いのかどうかは判断が別れる所だと思う。

座談会でも言われていたけど、なんの理由があってシンジにこれだけのものを背負わさせるか…

共同戦線はっていたはずのミサトやアスカ勝手に成長して実年齢的に大人になってしまうし。(アスカ精神だけだけど、それがまたキツい。グロい。

90~00年代セカイ系覇者であるエヴァがこれだけまっすぐに残酷セカイ系いじめシンジ押し付けるというのは、ある意味では圧倒的に正解。

「君を失いたくない、そのためにセカイが滅びてもかまわない!」という無茶な行動に普通セカイ系作品ならハッピーエンドで答える。

破で新鮮だったのは「それをあのエヴァがやるなんて…」という意外性に尽きる。その意外性に大して庵野がどう答えるか?これはもうわからんね→といった所でこの裏切り。また旧エヴァかよ!この構造はたしかにシビれる。坂上がシビれるのもわかる。圧倒的な新規切り捨て、古参いじり。

さておき、ヱヴァQおよび庵野が凄いorひどいのはセカイを代償にレイを救わせようとしておいてセカイもだめになっちゃったレイも違うレイなっちゃったしと、ALL代償をシンジ押し付けたその点に尽きる。このひどい代償、並のアニメがやっていたら一笑に付されて終わりだろう。そんな壮大なおしつけ成立するはずないだろ!と。だがエヴァ場合これが成立する。なんといってもセカイ系覇者なのだから、これくらいの壮大さじゃないとむしろ釣り合わないくらいだ。

そう考えると、「庵野監督が旧エヴァ狂気に対抗するために理詰めで導き出した回答」という点はかなり納得が行く。庵野さんは狂気理論を同等に扱うことができる天才なのだろう。

からここで俺が気になるのは、あずまんがシビれるくらいの解答というのはどういうものなのか、に尽きる。他は正直どうでもいいのであしからず

キーワードとなるのは「狂気」や「世界(セカイではない)」だと思われる。あとおそらく「狂気」は必要条件であって十分条件ではない。

おおかみこどもの雨と雪」をあずまんが絶賛したのは「狂気」は関係ない。彼はあの作品に普遍的なものを見ていた。

普遍的なものとはつまり、親であるかそうでないかなどに関わらずすごいと感じられる作品だ。

おおかみこどもの雨と雪」は一見すると親である人間のほうが多くの感動を得られるが、そうではない。

では何が良かったのか。人間自然関係か。はたまたジブリ的な「生きる」ことの素晴らしさか。

俺はそれらのどれでもないように感じた。あくまであずまんツイートからだが。

おおかみこどもの何が良かったのか、ヱヴァQには何が足りなかったのか。言葉にするとそれは普遍性、または世界に通用する何かなのだろうけど、あずまんの口からそれはまだ具体的に語られていないように思う。ていうか正直よくわからないのでゲンロンカフェとかで語ってくれたら嬉しいです。

2012-08-28

主婦の私が「おおかみこどもの雨と雪」にもにょる理由

主婦の私が「おおかみこどもの雨と雪」にずっともにょってた理由がなんとなくわかった。

女性から見たら化物としか思えない「花」が、子供男性理想像である事が気持ち悪からだ。

別にファンタジーなんだから理想スーパー素敵な母親像を描いてもいいじゃないか」と言われればそう思う。

そう思うけど気持ち悪いのは、現実創作を混同する輩が世の中には多々いて、「花」みたいな理想像を描かれると、被害を受けるのは女性であり母親であり主婦だったりするからだ。

んなアホなーと言われても、2ちゃんねる育児板とか家庭板とか鬼女板とか、はたまた同人板とかハンドクラフト板とか、さらには大手小町なんか見てると毎日のようにドラマアニメ人間像を押し付けられて大トラブルになってる話を聞くので、アホみたいなスーパー素敵な母親像を褒められる対象みたいに、かつ、サラっと常識みたいに描かれると気持ち悪くてたまらないんだよね。

かくいう私も洋裁がヘタの横好きと知られたばかりに、あまり親しくもない知人から大人サイズコスプレドレスを3日で作れと言われたことがある。理由が某漫画だとウエディングドレスを1週間で作っていたから、簡単なドレスなら3日もあればできるでしょ? だそうだ。

逃げるのが大変だった大変だった。なにせ相手は現実漫画世界の違いがわかってないんだから

旦那オオカミだろうが虎だろうが馬並だろうがスベスベマンジュウガニだろうがかまいませんからベースになる現実部分にはもうちょっとリアリティを付けて下さい、迷惑する人が出るんで。

ホント頼みます

2012-08-16

おおかみこどもの雨と雪面白くなかった件

お盆休みも終盤の昼間の新宿家族連れに囲まれて観ていていたたまれなくなったので書く。

出てくるキャラクターがどうも好きになれない。顔の描き方も好みじゃないし、それ以上に主役の宮崎あおいちゃん演じる花(以下あおいちゃん)が何考えてんのかわかんない。キャラクターとしての魅力、リアリティーがなさすぎて。

この映画の問題はあおいちゃんが健気で善良でどんな困難にも立ち向かえる女の子という設定に頼りすぎていている所にあると思う。

客観的にみれば人知れず自宅で出産した外に出せない子どもを2人抱えつつ、近所から通報されて児童相談所の人が来て死んだフリーター旦那が貯めた貯金だけを持って山奥へ逃げ出すという、なんとも独りよがりな状況であるのに、周囲との接触を自分から取ろうとせずに健気に田舎暮らしを始めたらなんとなく上手いこと手助けしてくれる人達が現れてうまく生活しているし、移住することに決めた廃屋の近所にはたまたま勝手に見守ってくれる菅原文太がいる。芋のおすそ分けから村の互助社会に参加するくだりでは、人里離れて暮らすことを目的として村との交流をする覚悟のないあおいちゃんが健気な姿をみせることだけを頼りに菅原文太に認められて話が進んでいく。この辺りはあおいちゃん自身にはなんの変化も無いのに、事は順調に進んでいくわけでどうにもこうにも都合が良すぎると思う。もしあおいちゃんの意思で周囲と交流して生活を営んでいく話にしたいのなら、健気さだけでなくそれまでの孤立主義を改心して自発的に関わっていくエピソードや身を削っていくエピソードが欲しいし、受動的に関わるのなら田舎ではもっと厄介なことを抱え込むのが常だと思う。独身男がつきまとってくるとか、村に居つかせることを前提に勝手見合いさせられたりとか。

で、あと他にも問題だと思うのは、子育ての大変さがちゃんと描かれてないんじゃないかというところ。一連の子育て描写では誰にも頼れずに2人のこどもを保護して養っていく苦労や重圧はあおいちゃん1人にかかっているはずなのに、オオカミであることの苦労は描いてもシングルマザーである事の苦労は描かれない。動物園の檻のオオカミ相談したりはするものの、あおいちゃんはなぜかずっとニコニコしながら良き母としての態度を崩さない。たった1人で子育てをしているのに、その大変さや葛藤が単なる健気さに覆い隠れてしまっていて、子育て重要な側面がみえないので、感情移入できないわ。その辺りのシングルマザーの苦労の描写でいえば、最近だと塚本晋也KOTOKOが良かった。孤立して育児をしていくことでノイローゼ精神的におかしくなっていくcoccoのように、右手に焼け焦げる中華鍋と左手に泣き叫ぶ赤ん坊を抱えて途方もなく泣き崩れてしまう。そこまで追い込まれるまではいかないとしても、そんな医学的にも何者か分からないこどもを抱える不安、そんなシーンがこの映画にも欲しかった。

あとおおかみ男と結ばれたくだりは少女漫画も真っ青な純愛物語風になっているけれど、オオカミ男には社会的ケアを一切受けずに2人の子どもを設けて養っていく覚悟があったとは思えなくてなんだかなあって思う。もしオオカミ男にその覚悟があったとするならば、どうして本能を抑えずに街中で狩りをして川で死ぬことを選んだのだろうか。大学講義に潜ってソクラテスがどうとか勉強するよりも、自分本能との付き合い方を学ぶべきでしょうが

この無責任のしわ寄せが結果的にすべて母になったあおいちゃんに行ってしまっていて、あおいちゃんは不憫でならないはずなのに、2人の関係が単なる美談になっているのが腑に落ちない。

あとは音楽の使い方も好きじゃない。美化された田舎自然にさわやかオーガニックでダイナミックな音楽を乗せればさも感動的なシーンになると思っている。この久石譲風の高木正勝がこの映画のなんとなく感動的な雰囲気に盛り上げる主因だと思う。

以上、長文になったけど、俺が一番言いたいのはこれ。

オオカミフリーターのくせにあおいちゃんに中出ししやがって!!しかも1人ならまだしも2人目も作る所なんてまるで無反省

俺は高岡蒼甫を許さない!

2012-07-26

おおかみこどもの雨と雪を観てきた

これほどつまらない作品も久々に観た。

ネタバレ

序盤。ヒロインの花と狼男出会い

何の障害も挫折もない二人の馴れ初めは退屈でしかない。

狼男が、自分の正体を曝け出すシーンは、あくまでも神秘的に演出されており、汚らわしくないものとして描かれている。

当然、花は彼を受け入れる。

ベッドシーン

メロドラマが長い。感情移入も糞もない展開。

しかし、逐一「成長した二人の娘」の声でナレーションが挿入されるので、

これはあくまでプロローグであり、本編まで暫くかかるな、と視聴者にもわかる。

さっさと始まらねぇかな。

ちょっとの辛抱だ。

結論から言うと、最後まで、始まることはなかった。

一人目の子供が産まれる。雪。

この時、花は病院出産することを恐れ、自然出産を選ぶ。

ん? ってなる。

例えば……この過程をすっ飛ばし場合、観終わってから

「そういえば、出産の時、狼の姿で産まれてたら、どうしたろうね」

っていう、クソどうでもいい突っ込みを、敢えて先回りして予防されたような、

なんとも腑に落ちない感じがした。

このシーン、要るのか?

つまんねぇし、長いんだよ。

イヤ~な予感は募るばかり。

翌年に二人目、雨を授かり、狼男死ぬ

シングルマザーとなった花の生活が始まる……。

バイト大学も辞めて貯金で暮らすぎりぎりの暮らし

(いや、保険くらい入っとけよ。とか、そもそも在学中に産むなよ、などと思ったりしたが、何でそんな野暮なツッコミ入れたくなるかと言うと、無駄に説明ばかりの作品の癖に、肝心な部分でリアリティが掻き消されているからにほかならない)

夜泣する子供に切れる隣人。

虐待の疑いがあるとして詰め寄る児童相談所

遂に大宅から立ち退きを促される花は、田舎に引っ越すことを決める。

ジブリ空気感』を出したいのは十分わかったから、

冗長をどうにかしてくれ。サクッといってくれ。

ボロ屋に引っ越す。廃屋同然の木造住宅テンションうなぎ登りの雪。

何を見ても大声で笑い、走り回り、また笑い転げる……。

どっかでみたぞ。

トトロじゃん。

なんて言うと、したり顔で見下されるんだろうが、何度でも言うよ。

トトロじゃねーか。

ところで、この幼少期の雪、まじで声を当ててる子役が、上手い。

笑い方、ぐずり方、ヒスの起こし方、走ってる時のブレス、どれをとっても、リアル子供だ。

よって、宮崎あおい演じる花の棒っぷりが完全に浮いてくる。

ジブリも、富野由悠季もそうだけど、

中途半端リアルを求めて、「声優の演技を身に着けてしまった人は使いたくない」とか嘯いて、

こーいうところで露骨なギャップを作られると、ちぐはぐで、いらつくんだよ。

耳悪いんじゃねえの?

床を掃除して、洗い場を掃除して、雨漏りも修繕して、住めるようになる。

綺麗にしてみると、実はガラスの模様が可愛かったりして。

素敵な一戸建てに生まれ変わる廃屋。(また無粋いうけど、そうはいかねーだろ)

日暮しのために自家栽培を始める。

何度植えても病気で枯れる野菜達。

もうダメか……そこで農家ジジイが登場!

ようやくか!

と思った。そーいうアニメかと思ってたからだ。

ジジイは無愛想ながらも的確に指示を飛ばし

結果、作物は育つ。

案の定、活躍している。いいぞ。

遠巻きに見ていた村人たちも、徐々に花と交流していく。

それも、全てはジジイの差金だ。いいジジイ過ぎるな。

何の、代償もなく。頑張ってたから、助けたのだな。

しかしだよ。だがしかしよ。

野菜が採れて、村人とお裾分けしあって、

協力して、この田舎でも、生きていける。

ということが、説明された途端、もう出てこないんだよ。

まじでもう活躍なかったよ、ジジイも村人も。

説明の材料に使われただけ。

「このようにして生活していけてますから大丈夫です!」

って予防線を張られただけ。伏線もクソもない。

何の障害もなくなったわけ。花たちも、脚本も。

冬が来る。降り積もった雪山を転がって、走り抜ける。

はっきり言って、「生の躍動感」の押し付けなんて、見飽きてる。

一緒に見に行った友達は、ここが一番良かったって言ってたが。

まぁ、視覚的に面白かったら、それで良いんだろうな。

そして順調に子供が成長して、小学校に入って、

ようやくナレーションの年齢まで育って、

この時すでに一時間は経ってたんじゃないか

狼として生きるか、人間として生きるか、選びなさい。

人間としての自我が育った雪と、

狼として山を愛する雨。

姉弟の喧嘩のシーンなんかは、

つの間にか力関係が前後していたり、

腕白だった雪が風呂場で泣いちゃったり、

よくできてた。

それにしても雨は十歳で声変わり半端ねぇな。

で、嵐が来る。

唐突クライマックス。そりゃ尺たりねーよ。

無駄が多すぎるもん。

もうね、頭の中では、ストーリーの結末が、

俺がこうあって欲しいという道筋が、全部出来てて、

狼がネコバスみたく活躍して嵐の中、人間を救う、

CGも使いまくって視覚的に盛り上がりまくって、

前半のグダグダを全部ふっ飛ばしてくれるような、

スカッとする展開を望んでたんだけど。

雪は、誰も残ってない学校教室で、

初恋男の子と二人っきり。

自分が狼の混血であることを告白して、終わり。

花は、嵐の中山へ入っていった雨を追って、

転落して意識を失う(あれは全身骨折だと思うが、つうか死ぬと思うが。御都合主義が過ぎる。その辺の説明も是非ききたい)。

三途の川ライクな場所で夫に慰められて(本当にありがちという言葉を使うのも恥ずかしいくらいクソ演出)、

目覚めたら、雨に運ばれて駐車場放置プレイ

自分の道は自分で決めなさいと言った手前で、

行かないで~と泣く花。

母の強さ? そんなテーマ

なんつうの。女の……何なのお前? っていう矛盾

で、結局、雨は独り立ちしてしまう。

ところでお前は嵐の中、山で何やってたの? 見せ場ねぇー。

というか……

盛り上がる場所、ねぇー。

延々と説明。説明。説明の使い捨て

エンターテインメントが、そんなに嫌いなら、大衆映画やめろって思うんだけど。

ポストジブリ狙ってるなら尚更。

「しっかり生きなさい」とか言われても、失笑もののけ姫キャッチコピー

ED曲のアカペラ部分で、残っている精気を限界まで吸われた。

なんだ、この、げっそりする感覚は。

「浅いよ」と言われようが、

「わかってねー奴」と罵られようが、

ジブリパクるだけパクっと食って、

盛大にゲロをぶち撒けたような作品だった。俺にはそう思えた。

2012-07-25

【若干ネタバレおおかみこどもの雨と雪を観た

先日話題になってる細田守監督おおかみこどもの雨と雪を観た。

この作品は「すべての年代女性に向けて」と雑誌であおられていたので、そこまで期待せずにみた。

途中まで、「あ、ここ一橋大だ」とか、「ケモナーかい!」と心の中で突っ込みながら見ていたんだけど、雨と雪が生まれて、おおかみおとこが死んだあたりからとてつもなく感情輸入してしまった。

まず家族構成が自分酷似しているのだ。自分には姉がいて、両親は離婚している。しかも、雨の性格自分そっくりだ。小さいころは姉の影にかくれておどおどし、母に甘えてばかり。おまけに小学校にはなじめない。

なじめなかった後は雨のような才能は自分にはなかったため私は凡人のコースを歩むことになるが、見事に「一姫二太郎」の家庭を描いてるなあ、と感じた。

もっと人間の家庭に近づけるなら、雪が嫉妬して若干グレるところもあってもいいかもしれない(笑)いや、「早く大人になりたい」というせりふで描かれているか

私いま22歳で、雨から12年遅れて親元を発とうとしている(今も一応、一人暮らしだが)。彼のように思い切って広い世界にいってみたい。

散見される「母の強さ」とかはあまり感じなかった、というか、あの家を一人で修繕したのは無理があると思った(笑)

とにかく、自分の家庭を第三者目線で見たらこんな感じだったのか、と感慨深くなった。

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