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はてなキーワード: 大往生とは

2024-04-23

犬が亡くなった時のこと

偶にではあるが、5年程前に亡くなった実家の犬が亡くなった時のことを考える。

その時の自分感覚が今でもとても不思議だったからだ。

大型犬の14才という大往生で、繊細で優しい紳士ぼくちゃんだった。

オヤツをもらう時や夜のお散歩帰宅中の私と鉢合わせとき等の、優しいビビちゃんならではの、線の細い穏やかなニコニコ顔に今でも救われている。

ぼくちゃんは、私が横にマットを敷いて様子を見つつうたた寝をしている間に静かに亡くなっており、なんなら硬直も少し始まっていた。

今思うと静かに逝きたかったのか、寝ている隙を狙われた気がする。。

そうだったのたら、申し訳ないことをしてしまった。

何にせよその瞬間、大きな何かが底なしの先へ落ち続けていく感覚になり、自分が空洞になったようだった。

今はその時の事を筒か空の容れ物で例えている。

その時の感覚を反芻するうち、何かがなくなったということは、そこにあの子がいたという何よりの証拠じゃないかと思い至った。

悲しい寂しいという気持ちも、それだけあの子自分にとってかけがえの無い存在証明で、それがどれだけ尊いことなのかと。

もにょもにょ考えるうち、この感情もあの子がこの世にいた確かな証だと思うと愛おしく感じ、悲しい気持ちも大切にしようと思った。

飛躍した所もあるが、自分としては綺麗に気持ちの整理ができたというか纏まってくれて、そこに思い至った時に自分でも驚いた。

これも優しいぼくちゃんのお陰でしかない。

今までもこれからも、この感覚大事にして、わたしは大切なもの出会いたいし、それらの容れ物でありたい。

その為に健康に気をつけて長生きをしたい所存です。

ちゃんと寝よ。

2024-04-16

ワイの宗田理、逝く

享年95歳

 

まぁ、大往生やな……

2024-03-30

anond:20240325103626

若い人の死はつらいは同意

昔、90を超えた祖母が亡くなったのでお通夜をして火葬場に行った。

自分も周りの人も、祖母大往生から自然の摂理から仕方のないよね…という雰囲気だった。

そんな我々の一団とすれ違う、号泣する一団

遺影若い男性でした。

祖母の死よりもその男性の死を残念に思った

遺影を持つ若い女性、まわりにいる子供

辛いだろうけど、今後も強く生きて欲しいと思いました

2024-03-14

葬式適齢表

おかし言葉だが、何件も葬式でてると「まぁこれくらいなら死んでも誰も文句いか」みたいな年齢がある。

0~40代 早すぎる

50~60代 少し早い

70代~80代 ご立派な人生でした

90代~ 大往生

みたいな感じだろうか。今の時代なら70代以上ならまぁ普通かなくらいに思っておくといいかも。

2023-11-27

認知症祖母が亡くなった

喪服に腰回りが入るか心配をする季節。祖父三回忌がもうじき行われよう、という頃であった。


祖父を追うようにして、と言うには少し年月が経っていた。そして、三回忌になる祖父の死を、祖母認識できていたかは、はたしてわからない。


介護4。祖母認知症を患ってから、もう20年は経っただろうか。


合掌。


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戦前を知る祖母海外旅行が好きで、アルバムが何冊もある。そのほとんどをめくったことはないし、思い出を尋ねたこともないが…。実に惜しいことをした。


裁縫が得意で、幼少期に好きだったゲームキャラクターぬいぐるみを、ねだって作ってもらったことがある。手作りプレゼント、と思い返すと、今でも気持ちがあたたまる


祖母は長年、自営業だった祖父会社経理を務める傍ら、学童保育なんかの地域活動に勤しんでいた。60歳を過ぎたあたりで、そうした仕事縁が切れてしまったようで、毎日特にすることもなく、会う人もなく、自室に籠りがちになった。


特に具合が悪いとは聞いていないが、時おり部屋を覗きに行くと、散らかり放題。まず、足の踏み場がないくらい服が散乱している。万年床で力なく横たわる祖母の頭上には、布マスクが何枚も干してあり、床には消費期限切れのあんぱんやバナナが、袋に入ったまま潰れている。


当時はげっそりするばかりで、祖母を慮ることができなかったが、おそらく、鬱だったのだと思う。社会に、自分の居場所がなくなってしまったのだ。家族でさえも、居場所を作れなかったのだと思う。


おばあちゃん、なんかヘンだね、と家族話題にあがることもあるが、「しっかりしてよ!」と本人に言うくらいで、解決のしようがわからない。これからしばらく経つと、祖母の口から物や人の名前が出てこなくなり、めっきり口数が減った。


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次いで、認知症らしい症状が出てくる。


自分食事が済んで部屋に戻ったあとで、入れ歯咀嚼時間がかかり、食事の遅い祖父に対して「まだ食べているのか」「洗い物ができない」と小言を言いにくるようになった。…3分おきに。


まりに頻度が過ぎるので、逆に祖母咎められる始末。でもまたすぐに、小言を言いに戻ってくる。まるでコントのようだが、本人の言い方は鬼気迫っている。見方によっては、祖父にだけは強く出られる、…それは愛情だったのかもしれない。


わかった、わかった、と折れるが食事の終わらない祖父。 その後、また小言を言いにくる祖母祖母老人ホームに入るまで、夕飯時はこのシーンが毎日、繰り返されることになる。


**


振り返って、認知症の決め手に思えたのが、「死んじゃいたい」という祖母発言だった。小言を言うようになって1年ほど経った頃に、祖母ふいに口にしたのだった。


なんてことを言うんだ…! …と驚いた。家庭に、希死念慮のある人がいるとは。


「情けないよ、死んじゃいたいよ」


これを何遍も繰り返す。認知症の人は、直近の出来事記憶はなくなっても、腹が立った、哀しかった、恥ずかしかった、という感情は残るのだという。おそらく祖母は、このときには自身認知症をはっきり自覚していて、それに伴う負の感情が、いよいよ堰き止められなくなったのだろう。


これはもう家族の手に負えない、と思って診断を受けてもらうと、当時は軽度ではあったが、やはり認知症認定をもらったのだった。遅かった、と悔やむが、早ければどうにかできたのだろうか。接し方くらいは、変わったかもしれない。


買い物は危ない。出先で声をかけられたのか、家族登録済みの生協個人でまた登録してしまったり、フルーツ訪問販売に食べきれないほど買わされそうになったり、人の良さや判断能力の鈍さに"付け込まれる"ことは多々あったが、それでも祖母は、自宅で自分身の回りのことをやれるだけの元気はあった。


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我が家ではねこを飼っている。認知症祖母にとっても、ともに同居する家族にとっても、ねこ存在は救いだったと思う。


相変わらず祖父への小言は絶えなかったが、ねこを愛でるときは、祖母本来の、やさしい気質を感じさせた。


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祖母と過ごした時間は、祖母認知症を患ってからの期間の方が、ずっと長くなった。


もう祖母の思い出というと、例の夕食のシーンがほとんどだったが、あるとき反物をもらったので、これを浴衣にしてほしい、と無茶を頼んだことがある。


「ずいぶん久しぶりだから、どうかしら…」

ちょっと困った顔をしていたが、やるだけやってみる、と十数年ぶりかに、針と糸とを手に取ってくれた。


数日後、ちょっと丈の短い浴衣が完成していた。物が出来上がったこともうれしかったが、大変だったのよ、とこぼす祖母の"小言"にも、うれしさを感じた。


**


それから私は家を出て、LINE家族から近況を伺うか、たまに帰ると名前を忘れられている人になるか、そういう距離感祖母と接していた。


認知症が進み、施設介護必要になってきた。ショートステイから始めて、遂にホームに入居するようになった。相変わらず、祖父食事が遅いが、それを咎められることもなくなり、家は静かになったそうだ。


一方で、祖母ホームではよく食べるようで、自宅にいた頃よりもがっちりとした姿を写真で見せてもらっていた。


**


一昨年、祖父が持病で亡くなった。


"長生き"が目標。90歳を超えて、呼吸や聴力、咀嚼に難はあったが、認知能力問題はなく、足腰は丈夫で、最後まで自分身の回りのことはこなしていた。友人には先立たれ、お金もあまりなかったようだが、酒と煙草はやめられない。…適量でね。カメラ高校野球が好きな、元気な人だった。大往生だろう。


年齢からすると、祖母大往生と言える。ただ、人生の後半20年は、認知症との並走だった。家族も辛かったが、本人も辛かっただろう。どんな心境だったか、皆目検討がつかない。


本人が「情けなくない」と自分安息できた瞬間は、この老後にあっただろうか? ひとつねこを撫でているときは、そうだったかもしれない。


孫の私は30歳を超えて、訃報を聞いたきょうも、だらしなく生きている。もう倍生きると、祖母認知症が始まった歳になる。


「情けないよ、死んじゃいたい」と、私もいずれ、誰かに言うことになるかもしれない。誰に言えるだろうか? そう口にしてから、どう仕切り直していけるのだろうか?

2023-11-12

ポックリ大往生老人の葬式しかたことないか

急に亡くなって大変とか寂しいとかはあってもそんなに悲しくはなかったんよな

でも若くして死んだり、事故とか殺人だと地獄みたいな空気になる感じ?

2023-09-23

結局みんな怖いんだよな

小さい人間だと言うことが怖いし

人生意味がないと言うことが怖い

そして死ぬのが怖い

孫が百人くらいおじいちゃん死なないで!って言ってくれる中死ねたら大往生なんだけどさ

まあそうじゃなくてもなんかあるやろ、きっと

2023-09-13

anond:20230913113803

選挙以外だと家族と話す、子どもと話す、ここで呟く、、くらいだしね…

行動してる人達尊敬します。

デモについては、どんなやり方がいいのかよく考える。

テレビ過激な人を抜いたりするのは本当にやめてほしい。子供がそれを見て顔をしかめる…もちろんそこから話を展開するけど。

あと、政治不信が大きくなって、活動する覚悟ハードルが上がっている気がする。もちろん中国ほどではないけど…

日本まさかこんなこと、みたいなのが発覚するとやはり警戒する。

今は家族大事なので、子供が独り立ちしてからかななどと思っている。


政治活動を「迷惑過激意識高いヤバそうな人」にした責任をとるべき人たちは、大往生勝ち逃げ世代なっちまったから

これを引き継ぐ輩もたくさんいると思うので、どう変えていくか。

anond:20230913112830

反省できてえらいね

簡単でいいのでデモ参加したり、陳情したり、市民運動や啓発をしたり、世界に発信したり、行動を起こした勇気を讃える土台を育ててください

政治活動を「迷惑過激意識高いヤバそうな人」にした責任をとるべき人たちは、大往生勝ち逃げ世代なっちまったから

高い政治リテラシーと、投票率85%をまずは目指そう

市民による草の根民主主義応援してます

2023-09-03

なんの根拠もないことわざが好きなんだが

猿も木から落ちる、みたいな、たしかにそういう現象あるよね、そこから教訓が導き出せるかもね、ってタイプ根拠のあることわざはまあわかるんだが。

可愛い子には旅をさせよ、みたいななんの根拠もないことわざが好きなんだよな。

根拠が無いのにことわざフォーマットを利用してるから説得力だけはあってバグっちゃってる感じが好きなんだわ。

可愛い子を旅に出しても実際は殺されるかもしれないし、家でていねいな教育を施したほうが出世するかもしれないわけじゃん。

チンパンタラコの言い方を借りれば「なんかそういうデータあるんですか」って話だよな。

実際、「可愛い子には旅をさせよ」って思わない人も多いか警句としてそういうことわざがあるわけでしょ?

だったらデータで話をすべきであって、ことわざに頼るべきじゃないよな。

これがことわざなのかはわからないけど「天網恢恢疎にして漏らさず」も好きだなあ。

天の網は抜け穴があるように見えるけど実際は通すべきでないものを通さないようにできている、つまり悪人にはかならず報いがある、みたいな意味だな。

そもそも天網が存在しないわけじゃん。

なのに見てきたかのように「疎にして漏らさず」とか言ってるわけでしょ。空想の二段重ねじゃん。

めっちゃ好きだわ。

まあ天網ってのが比喩なのはわかるんだけど、それにしたって極悪人大往生する例なんていくらでもあるわけで、根拠もなければ事実でもないわけじゃん。

天網恢恢疎にして漏らさず」みたいな思考って公正世界仮説って名前が付いていて、歪んだ思考典型だよな。

老子かい中国の謎のオッサン言葉らしいけど俺からすればワンパンだろwって思うわ。

「二度あることは三度ある」とかな。普通に二度で終わるパターンもあるだろ。

繰り返しになるけど、なんの根拠も無いのにことわざフォーマットを使ってるから説得力だけあってバグっちゃってる感じが好きなんだよな。

そういうのあったらおしえて。

2023-07-26

親戚の葬式に行った。

大往生だったので葬式といってもそれほど暗い雰囲気ではない。

だが、当然ながらお経をあげている最終は皆は神妙な表情をしていた。

私は後ろのほうで座っていたんだが、途中で急にムラムラしてガマンできなくなった。

股間に手を当ててしばらくいじっていると気持ちよくなってしまった。

「あっ、ヤベっ!」と思って慌てて手を止めても後の祭り

そのままイッてしまった。

吹いた潮が近くにいた式場スタッフにかかってしまって平謝りしたのだが、まあ、そんなこともある。 (実はありません。)

2023-07-10

これだけベンチャー社長YouTuber英雄視されならジャニーももっと崇められるべきでは?

俺も巨大アイドル事務所を作って芸能界支配して

タマワンでJCにいたずらしまくって大往生してやるぜ!という野心を持ったやつが出てこいよ

ポリコレに染まってお行儀の良いこと言ってても日本は変わらねえ

2023-07-09

祖父との思い出

祖父は私のことが大好きだった。

小さい頃は近所の公園まで連れて行ってくれて、もう少し歳が大きくなると自転車の後ろに乗せてイオンまで連れて行ってくれたり、お祭りに連れて行ってくれたりしたことをよく覚えている。

夏休みほとんど親の実家に帰る家だったから、子供の頃の夏の思い出は大体がこんな感じだ。

私が20歳くらいの頃だ。

祖母祖父が家に遊びに来ることになった。

祖父祖母父母私で食事に行った。4人乗りの車だったので、私だけ自転車で店まで行き帰りをすることになった。店も自転車20分くらいだし、仕方ないことなので特に何も思わなかったのだが、車で帰ったはずの祖父は私の帰りを道の途中で待っていてくれた。

心配だったのだろうか?まさか待ってくれているとは思わなかった。いいのに、と思うが同時になんて優しいんだろうと感動した。かなり印象深い思い出の一つだ。

そんな祖父も、近年は認知症を患って周りの人間のことを忘れたり、思い出したりしていた。詳しくないが、進行はかなりゆっくりだったのではないかな、と思っている。

私はもうアラサーになっており、さら一人暮らしをしている。なかなか祖父祖母に会いに行くのは難しくなっていたので母が実家に帰ったタイミングビデオ電話で少し話したりしていた。

ある時のビデオ電話だ。

母が祖父に「この人誰だか分かる?」と聞いた。私のことだ。「わからん。綺麗だなあ」と言った。

私のことを忘れていたことが辛かったのもあるが、それでもまだ私を褒めてくれるんだなという思いでグチャグチャになって通話を切ってからおいおい泣いた。

私の名前は覚えているけど…と言っていたところもまた嬉しいような悲しいような気持ちになった。

去年会いにいった時は私のことを時々思い出していて、テレビ電話と実際に会うのでは違ったりするのかな?と思った。よく分からないが、たまにでも思い出してくれてたのは嬉しかった。

そんな祖父が先日亡くなった。私の31歳の誕生日だった。

周りの人のことを忘れたり思い出したりする祖父は、性格こそ穏やかだったし前と変わらなかったように思うが、私と遊んでくれていた頃の前の祖父とは厳密には違う人だったのかもしれない。

でも、あの頃の祖父と会えなくなることと、もう祖父とは会えないことはやはり全く違う。

もう90も近いしかなりの大往生だった。

詳細は聞けてないが、おそらく老衰のような感じなのではないかと思っている。大きな病気はしていなかったはずだ。

それで90近くまで生きられるのはなかなかにすごい事だ。

なので、良かったなあと言う感情で悲しみを和らげることができるのはありがたいことだ。

まだ心の整理はついてないし、ふとした時に祖父との思い出を思い出して涙ぐんでしまう。本当にかわいがってくれていたなあと改めて思う。私も祖父のことが大好きだった。

お葬式には行けなかったが、今祭壇に囲まれ祖父遺影なんて見ようものなら号泣してしまうだろうから行けなくて良かったと言う気持ちが少しある。四十九日には行く。

父方の祖父は私が小さい頃に、祖母中学生の頃に亡くなったので、親族が亡くなるのはかなりひさしぶりのことだった。友人や知人を亡くしたこともない。ペット金魚しか飼ったことがない。それも小学生の時だ。

人と比べたことがないからわからないが、どっちかと言うと死に触れることが少ない人生のような気がする。

私はもういい大人だが、大人になったからと言って辛い事や悲しい事とうまく折り合いがつけられるようにはなってない。

自分自分の地続きでしかないんだなあと強く思った。当然のことなんだろうが、考えたことがなかった。

50になっても80になっても同じように大切な人の死はつらいんだろう。

から毎日大事に生きようとか周りの人を大切にしようとか、やっぱりそう言う結論になるんだけどそれがなかなか。前者は特に仕事をしてたら無感情のまま1日が終わっている。難しいな。

今の気持ちを書き起こしておこうと思ったので、めちゃくちゃだが終わり。

2023-06-23

anond:20230623130237

冒険家大往生と捉えるか、金持ち道楽死と捉えるか。どちらにしても同情するのは違う気がする。

2023-06-19

祖母が死んでいた

間違い電話の折り返しで母と話したとき祖母が数か月前に亡くなっていたと教えられた.

祖父はかなり前に他界している.祖母一人暮らし痴呆症も進行し,介護施設に預けてから大分経っていた.

最期は呼吸が困難になり苦痛でのたうち回った.母は何度も病院に呼び出され最終的に看取りはしたが,火葬などの手続きは叔母に任せたそうだ.

年齢的には大往生と言ってよいのだろう.祖母には末っ子一人っ子として幼少の頃は大分可愛がられた.

から伝え聞いた話によると医者を志していた才女だったようだが,時代親族がそれを許さなかったそうだ.

おぼろげながら思い出せる会話から教養の片鱗は覗かせていた.

2DKの狭い実家にほぼ毎年帰省してはいたが,親子間の関係はかなり冷え切っていたように思える.

理由ははっきりしていて,母は幼いころ大叔父レイプされたそうだ.

母は我慢強い性質ではあるものの,全てを隠しとおせるほど強靭ではない.

当時も周囲に告発したものの,祖母,つまり実の母には「お前が股を開いたんだろ」と言い捨てられたらしい.

そのときの母の絶望想像に難くないが,当然ながらそのやり取りは姉弟にも知られ,親子関係破滅した.

私はその経緯を学生の頃,母から涙ながらに電話で教わる.まさに青天の霹靂だった.

因果関係不明だが,母は障碍者手帳を持つ程度には重度の双極性障害で,私は虐待を受けていた.

短気で仕事に没頭しがちだった父と母は相性が悪く,離婚していないことが不思議なくらい夫婦仲はよろしくない.

小学生の頃,母に連れられ不倫相手の家に泊まったこともある.当時はポケモンカードを買ってもらい口封じされる程度には単純だった.

いつしかその行為も終わったが当時専業主婦だった母は精神病み,私を風呂場に閉じ込め,叩き,包丁お気に入り自転車サドルをめった刺しにした.

私は逃げるように県外に進学した.小中高大院と全て国公立だったが塾に行かせ,学費負担してくれる程度には父は稼いでいた.

勉強研究は楽しかった.指導教員にも恵まれJASSO奨学金も返済免除となる程度には業績も評価された.そこに件の電話が来た.

私は病んだ.祖母憎悪し,母を憎み,父を恨んだ.祖母に無邪気に懐いていた自身も悍ましく思った.

ほどなくして不登校となり,カフェインLD50を調べエスタロンモカをがぶ飲みした.ブルーシートを敷きドアノブを使って首を括ったが死ねなかった.

幸い研究業績は積み上げていたため,職にありつくことはできた.毎日リーマスやラミクタールを飲むことでどうにか生きている.

祖母が亡くなったと聞き,帰省の際時折見せていた物憂げな表情を思い出す.

2023-06-08

anond:20230606163132

コピペなのはさておき

「この三人で京都旅行

和歌山みたいな鄙」(鄙というあまり一般的に使わない言葉

「ドドンビキ(ドン引きの意味だろうが、湧水から引く水の溜まり場の意味もある」

「ドドンビキ大往生」(ケイブゲーム

天一本店はけっこう聖地

「2600円のランチプレート」

と妙に言葉セレクトハイコンテクスト(いろいろ元ネタ理解必要)だな。

そこまでそろっているのにストーリー的にはそのあたりを活用できてる裏のオチが感じられず、内容が罵倒芸なのが残念だが。

2023-06-06

派遣おっさん京都旅行でお昼に天下一品が食べたいと言い出す…旅行にまで行ってチェーン店行くか??

日曜日派遣おっさんとお姉さん先輩(48)と京都旅行に行って

八坂神社に行ったんだよね

軽く周りをブラブラして、じゃあ昼飯でもするかって話になってせっかく京都に来たんだから町屋で飯でもするかって話になったんだわ

すると派遣おっさんが「天一で食べたい」って言い出した

曰く天下一品本店には限定メニューがあるそうなんだ

 

俺とお姉さん先輩はドドンビキ

天下一品なら和歌山みたいな鄙にもあるし

わざわざ京都旅行してまで行くところか?って聞いた

派遣おっさん不貞腐れた顔してドドンビキ大往生した

 

結局町屋カフェランチプレート2600円を食べたけど

 

なんで派遣とか非正規のやつってチェーン店飲食店が好きなんだ???

2023-06-03

犬が亡くなった日の日記

家族として暮らしていた柴犬が死んだ。

17歳と8ヶ月の犬生は大往生と言えると思う。

一昨日に体調を崩して、昨日は少し持ち直した。

今朝、母に抱かれて外の空気を吸い、多分そのまま旅立ったのだと思う。

家に戻ってきて様子を見たらもう呼吸も心臓も止まっていたらしい。

私は実家から1時間弱の場所暮らしていて、弟から死んじゃったみたい、と連絡を受けた。

本当は昨晩実家に帰るつもりだった。大雨で帰るのは今日に延期した。

犬と最後にふれあったのはゴールデンウィークが明ける前の土曜日だった。

犬は1年前くらいから歩くのが下手になり、半年はひとりで立ち上がることもできない状態だった。

でも噛む力だけは衰えず、老衰で力加減を忘れた分、若いときよりずっと危険だと家族と笑いあった。

いつだかシルバーバングルに不意に噛み付いて、傷を付けていた。

外につれていくと歩こうと前脚を動かすので、四足歩行体制になるように支えて歩かせた。

人間の方がよほど疲れると母と笑いあった。

犬は数年前に腫瘍が見つかっていて、視覚嗅覚は衰えていた。

それでも老犬なりに動けないなりに、それなりに元気な老後だったと思う。

とにかく牛乳が好きな犬だった。

犬に牛乳はあまりよくないというのを知った頃には牛乳が大好きな犬になっていた。

老いからは犬用の粉ミルクに切り替えていたけれど、それまで我が家冷蔵庫牛乳を消費しているのはほぼ犬だった。

煮干しの頭が嫌いだった。

頭だけ器用に残して食べていたので、一時期我が家リビングには煮干しの頭が転がっていた。

鮎を貰って大喜びしていた。

近所のおじさんに冷凍した小さな鮎をよく貰って、人間より良いものを食べているなと笑った。

さつま芋が好きだった。

人間食べ物にあまり興味を示さなかったが、焼き芋干し芋だけは盛んにアピールをして食べていた。

抱っこが嫌いだった。

抱き上げると器用に身をよじり、脱出する様子はうなぎのようだった。

個人主義者だった、と思う。

我が家人間はそれぞれ好きなことを自分のスペースでやるタイプで、犬もそんな感じだった。

好きにしていて、人間が集まったタイミングで犬も参加してきた。

甘噛が直らなかった。

さなかった。塩対応の犬だったが、人間帰宅した時は甘噛で出迎えた。それがうれしかった。

お手とおかわりと両手タッチと待てはできた。伏せはおぼえなかった。

テレビの前の机の下が定位置だった。

老いからはよく母の後をついてまわっていた。

目がよく見えなくなったとき家中の隙間や椅子に挟まって助けを呼んでいた。

風呂場や台所玄関で寝こけていた。

夏の暑い日は、縁側の下に潜り込んで寝ていた。

雷や花火の音に怯えて家中をウロウロしていた。

シャンプー大嫌いで普段はあまり鳴かないのに大鳴きしていた。

よく額の毛に指を突っ込まれて穴模様を作られていた。

ブラッシングも嫌いで特に後ろ脚はよく怒っていた。

換毛期に顔に謎の模様が浮き上がることがあった。

はっきり模様が出たときは、近所の住民にこどものイタズラでペンで書いたものだと思われていたらしい。

キツネみたいな顔だった。

たまに顔がまんまるになっていた。

濃茶色の毛並みなのに、背中は焦げたみたいに毛の先端が黒かった。

しっぽの先端も黒かった。

額と耳の、濃茶色の短い毛がいちばんやわらかくてふわふわの毛並みだった。

から腹は白い長めの毛で、綿花みたいだった。

散歩に行くとたまに雑草をかじっていた。

犬に会うと尻の匂いを嗅ぎに行くのに嗅がれるのは嫌がって飛び退いていた。

犬よりも人間のほうが好きみたいだった。

亀に恐る恐るちょっかいを出し、猫には負けていたがよく猫を探していた。

そういえば散歩中、我が家の犬と同名の犬に会ったのを思い出した。

黒と茶色マーブルの同じくらいの体格の犬。まだ元気かな。

歩くのが下手になってからはよく側溝に落ちかけていた。

散歩で遠くまで歩けなくなっても、家の周りのパトロールは入念に行っていた。

近所の仲の良かった犬たちの中では最も長生きをした。

しばらく前に亡くなったボクサー犬の飼い主が、お供えと言っておやつを持ってきてくれた。

祖父祖母も顔を見に来てくれていた。

今日は犬の思い出を探して、家族みんな写真グループラインで共有していた。

古いカメラ携帯を引っ張り出してデータサルベージしては、思い出を語り合った。

家族は、午前のうちに気持ちを整理したようだった。さっぱりと涙を流して、

写真を見て笑い合って、腐敗を遅らせるために保冷剤を添えた犬に声を掛け、やっぱりたまに泣いた。

今、リビングに安置されている犬のそばにいるのではなく、日記を書いているのは、

犬がまだこの家にいるうちに自分記憶を書き出さないと駄目な気がしたからだ。

犬は明日には灰なって、もうこの家には帰ってこない。

冷たい犬の額を撫でるたび、その事実が脳に布を掛けるような涙になる。

私は犬のいる家が好きだった。

母と父がリビングで寛いでいて、二人の弟はそれぞれの部屋で遊んでいて、たまに降りてきて会話を交わす。

そして犬は定位置か母の近くで寝ていて、起きたときには、チャカチャカとフローリングを爪ではじく軽快な音を響かせる。

この光景永遠になれと願った。この家族の揃った家が私の永遠だった。

もう犬の魂はこの家を離れて、明日には身体も無くなってしまう。

今朝、犬は母に連れられて雨上がりの空気を吸い、少し地面に触れて、再び母に抱えられた。

そうして自分の足が動くことに気が付いて、母の腕を離れ、軽快に力いっぱい走って、虹の橋を渡っていったのだと夢想する。

自由に走ることができて大喜びだっただろう。遊びに誘うような笑顔で振り向いてくれただろうか。

犬の友達は向こうにいるし、もとよりひとりでいても困らない性格から心配はいらない。

不自由な肉体から解放された犬を明るい顔で見送る家族

私も、この別れは限りなく良いかたちだと思っている。

それでも私は、もっとこの家にいてほしかった。ずっといてほしかった。

家族はもう気持ちを整理できたようだった。水をさしたくないので、

この日記を書きながらひとり部屋で泣いている。私の永遠が終わってしまった。

ずっといてほしかった。ずっと5人と1匹の家族でいたかった。

別れたくないのに引き留められる場所にはもういない。いたって私には手段がない。

納得しているのに受け入れがたい。

去らないでほしい。ずっとリビングにいて、家族みんなに呼びかけられていてほしい。

犬が夜鳴きして、私ひとりが起きてきた夜のことを思い出す。

ずっと記憶にある思い出。

玄関腰掛けふたりで月を見た夜。

あの月を見たときは、犬と会話ができていたような気がしている。

意思の疎通ではなくて、おもいをひとつにするとか、そういう感じの。

もういない。

2023-05-02

フォロワー2桁から始めるド底辺同人活動

当方男性、R18オリジナル活動中。

イラスト垢のTwitter歴はもう10年近くになる。

これで現在が万フォロワーの神絵師だったらアツい少年漫画なのだが、まっっったくそんなことはないことを先に断っておく。

ちなみに現在フォロワー数は500以上1000以下とだけ明記しよう。

これで読む気を失くした人は実に正しい。回れ右してもっと為になる記事を読んだ方がはるかに良い。

それでも読み進める酔狂紳士淑女たちはしばしお付き合いを願いたい。

(なお活動の内容はTwitterに絞り、pixivやskebについて言及しない。)

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これはノートシャーペンで描いた絵を写メでパシャってた頃から今に至るまでの、大して伸びてない俺の、しかし愛と劣等感承認欲求と生きがいにまみれた記録である

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かれこれ×年前、新卒で入った会社での馬車馬労働も落ち着いた頃。

「忙しくて絵描くヒマなんか無くなっちゃったよ〜☆」というまともな人のレールに乗りかけていた自分気づき、ゾッとなって作ったのが現在の主戦場イラストである

絵を描くのは物心いたこから大好きだ。中学ではお絵かき仲間と自作漫画()のノートを見せ合い、高校では漫研に入って己の井の中の蛙感を思い知らされ、美大にこそ進まなかったものの、大学でもなんやかや作ったり描いたりは続けていた。

それがなんだ、社会人になった途端に魔法が解けたようにぱったり辞めてしまうのか?ありえないだろう!気を確かに持て!!

ということでTwitterイラスト専用垢を作り、ノートに描いたオリジナル絵(この頃は全年齢)を写メで撮って画質調整すらせず手元の影が映り込んだような状態でアップする日々が始まった。

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なんか最初気合入れて初任給で買ったコピックを使ってカラー絵なんかも上げてたが、「1日1枚更新、かつツイート数=アップした絵の枚数だったらカッコよくね?」という中学生の妄想じみたイキリで運用していたため数日で挫折上記の通り「とりまなんか描いて上げる」感じになった。

当時は「ハッシュタグ馴れ合い」というクソダサ固定観念があったため、ただひたすら黙々と上げていればそのうち報われる的なシンデレラストーリーを思い描いていた。

そして絵を数十枚上げた頃、ようやく気付く。

「このままじゃTwitter孤独死する」

当然である。当時はフォロワー数2桁、20くらい…?(お絵描き垢ということだけでフォロバしてくれた心優しい人々)だったうえ、絵もヘタクソでアナログであるイイネRTもある訳がなく、ただ孤独感ばかりが募っていった。

そこでいくつかハッシュタグを使うようになる。ワンドロ(1 drawing=特定のお題に沿って1時間で絵を仕上げてUPする企画)という存在を知ったので、好きな作品のワンドロを見つけてはこれまたドヘタクソな版権絵で参加しだす。ワンドロ公式から必ず1つはイイネRTを貰えるので、それを心の糧にしていた。

というかこの時期、アナログ民でも参加できる懐の深いワンドロに出会えていたことがマジで幸運だった。

フォロー祭り的な拡散系のタグは使わなかった。何も起きなくて落ち込むのは俺なのでね!

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ともかくモチベーションが出来たことでまた同人誌作ろうかなーと思い始め、学生の頃2〜3回参加したことのあるコミティアに出ることに。この頃はまだストーリーもの4コマ?みたいなやつとか描いてた。

いっっっっや社畜やりながら本出すの無理ゲーじゃね?????

衣食住ぜんぶ自分で面倒見ながら可処分時間睡眠時間全ツッパして命からがら仕上げる、宝物のような24ページの本…!!!

そういう本が、1冊も売れないのがコミティアだよねー。

うーわしんどいな、これキッツイな……と痛感しながら座る長机(半分)で、それでも撤収する頃には「またここ座ろ☆」と思いなおす狂った思考回路と仲良ししながら活動を続けた。

社畜との両輪で参加したコミティアは2〜3回、頒布数は平均3冊くらいだったろうか。

一度だけドハマりした作品版権モノのオンリーイベントに参加したが、ここでの頒布数は1だった。

というかその直前のコミティア頒布数0をやらかしていたので、心機一転での二次創作だった。なのに開場から3時間経ってもガチマジで0冊。泣かないように奥歯を噛み締めながら、列のできる両隣のサークルの合間でモーゼ状態を耐え抜いた時のことは昨日のことのように思い出せるし、こん時に比べれば大抵のことは頑張れる俺である

でもね、閉会間際で1冊だけ売れたんだよ。

無配ペーパーを持ってってくれてたらしき人がたまたま再度通りかかり、「あ ここだ」と呟いて立ち読みし、悩んだ末に買ってくれた。

小さいオンリーイベントだったから起きた奇跡だ。

この1冊がなければ完全に心が折れて描くのを辞めてたかもしんない。

あのとき買って行ってくれた人、心より御礼申し上げますあなたがいなければド底辺絵師が一人消えてました。(キモい)

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こうして3年ほど経った頃……

「伸びねーーーー増えねーーー」

と思っていた。

当然である

絵の読み込みにスキャナーを使うようになった程度で、別に大して上手くならない画力(描けてれば幸せ♡だったのであん練習とかしない民)に流行りでもなんでもない変な絵である特定性癖があるわけでもなく、今をときめく版権絵でもない。

伸びるワケがない。

「描けてれば幸せ♡なら伸びなくてもいいのでは…」と思われる諸氏。

無理やぞ???

ここTwitterやぞ?????

たまーにいるけどね、そういう良い意味無敵の人。ああなれたらマジで強いしカッコいいと思う。

けどな、俺ザコキャラから!!!絵上手くないくせに承認欲求人一倍から!!!豆腐メンタル麻婆豆腐から!!!

とはいえなんか絵の練習はせねば、まずは気軽にできるやつ…と超絶便利サイトポーズマニアックスを選び、1日8ポーズ10分足らずの練習を2ヶ月ほど続けてみた(結果的にこれはやってよかった)。

けっこう思い通りの線引けてるんだけどな、やっぱ根本的にド下手なんだよな……というモヤモヤした感覚を抱きつつ活動を続ける日々を送っていた。

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そんな中、「これフルアナログなのが原因では……??」と思い始める(気づくのが遅すぎるネ☆)。

俺は「誰か父さんのメールアドレス知らない?」と聞いてくる父と「ケータイインターネットに繋いだら絶対

高額請求が来る」と信じて疑わない母からまれ生粋デジタル音痴であるアナログ民を脱することなど夢のまた夢だと思っていた。

ヨドバシカメラペンタブレットを触ってみても、「手元のペンと目の前の画面」の違和感がハンパなくて踏み切れなかった。

かといって液タブとかいう神のツール10フォロワー越えの神々が使うものだと考えていたので、実力的にも金銭的にも雲の上の存在だった。

かつて「描線デジタル化するボールペン」とかいう謎な商品に目が眩み、コツコツ溜めた3万(くらい…?)で買ったことがある。

もともと速記用のペンイラスト向けに改良したとかなんとかで「俺の求めていたものはコレだ!」と息巻いたが、レビュー全然見当たらん。なんか変だな…?と思いつつも意気揚々と購入したが、案の定まともに使えるようなものではなかった。当時の俺のPCは聞いたことねえメーカーのノパソだったため、なんかもうあらゆる意味ダメだったんだと思う。このへんの身の振り方がデジタル音痴たるゆえんである

これに懲りて俺は素直にデッサン教室に通いだした。

絵が上手くならない理由は「物を見る目があまりに歪んでいる」といまさら気づいた俺は、社畜の合間を縫ってデッサン教室の夜間クラスを探した。

死んだように寝て過ごす休日のうち気力で3時間を振り絞り、電車に乗って教室に通う。

ここで想定していたのは美大受験みたいな切磋琢磨の場だったのだが、俺が受講したのは社会人向けである

初心者の俺が「お上手ですね〜〜」と言われるぬる〜い空間だった。

当然である

周りは良き趣味のおばさまがた、ここは「継続的に金を落としてくださる生徒さん」の集まる場所だったのである

もどかしさを抱えつつ、それでも評価の中に混じる「ここはもうすこーしこうした方が…」という言葉金言のごとく握りしめ、反芻しながら目の前のモチーフを描いた。

が、爆睡家事で精一杯だった休日のうち、この習い事というミッションはかなりハードルが高かった。

そして疲弊の色が濃くなり、仕事の繁忙期と重なって半月ほど足が遠のいていたタイミングコロナ禍が始まった。

実は数年前にも断続的にクロッキー会に通っていた時期はあるんだが(この時は教室の遠さと値段の高さで数ヶ月で断念した)、コロナで「ぬる〜い場所」にすら集まれなくなったのは痛手だった。

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一方Twitterでの活動は、そんな七転八倒をしながらもワンドロだけはコツコツ参加し続け(版権のワンドロはどれも垢が消えたのでオリジナルだけになっていた)、「いつもなんかいる人」という枠でフォローしてくれる人たちに支えられていた。

ワンドロ以外での反応は閑古鳥だが、もはやそれが普通であると納得してすっかり馴染んでいた。

UPした絵が100枚を越えたのを機に、アナログ絵をまとめた本を作った。

そしてイベントで売るついでにおっかなびっくり書店委託申請をしてみたことがある。

規定通りに虎の子の1冊を現本として送ったが、お祈りどころか受け取りの連絡すら来なかった。

問い合わせる勇気もなく、実力の無さと壁の高さを改めて感じた。

5年以上の活動期間でフォロワー数もやっとこさ100に到達したものの、しかし現状はさほど変わらず。

がむしゃらにやってきていた俺は次第に病んでいった。

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少し距離をおこうと思って活動停止。

……が、余計に病んだ。

しかも「何も描かない人生なんて……俺……生きてて意味あんのか……?」と真剣に悩むレベルで、「別にTwitterに入り浸らなくても平気なんだな」と分かった一方で、「絵を描かない自分」にだけは耐えられなかった。かといって何か描いてしまえばまたムクムクと承認欲求が湧いてくるので、「俺から絵を取ったら何が残るのか」というif論の世界線にいるつもりで意識的に描くのをやめていた。

自分の手で何かを生み出さなくなった時間がヒマでヒマで仕方なく、かといって本を読むとか建設的な情報摂取もできなくて、大好きな漫画への興味もそれなりになっちゃって、虚な瞳で哲学ニュースとカラパイアを行き来する地獄の様な日々を送っていた。

(ちなみにこの期間、無意識に熱意を注ぐようになっていた料理スキルのおかげで自炊がだいぶラクになった)

ストレスが極まって真夜中にひたすら川沿いを歩き続けたりもした。

なんとなくチャリで長旅行きてえな(学生の頃はちょいちょいやってた)などと考えていたが、やはりその場合でも気づけば「旅先で撮った写真をいい感じに分類してアップするサイト作ってみたい」とかい思考がスッと出てきたのでもうダメだと思った。

なんか作ってないと死ぬヤツって天才とかだけだと思ってたんだけど、大して努力もできないような凡人の中にもいるんだな、そしてそれはなんだか残酷だなあと身をもって知った。

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進むも地獄、戻るも地獄精神状態半年近く続き、同じ地獄 -hell- なら踊らにゃソンソン…?と思い始めたある日、ネットで調べ物をしている最中とあるバズツイを目にする。

お絵描き民にとってiPadはマジ神」みたいなやつである

さいわい俺はオタ活もソシャゲもしないぼっち根暗オタク社畜なので、好きにできる貯金くらいはある。

知り合いも「液タブに手が出ないならあいぱっよ」的なこと言ってたなーと思い出し、思い切って導入することに。

お絵描きソフトはいくつか試した末にProcreateを選んだ。クリスタの多機能さ()についていけなかった俺は、UI直感的でツールアイコンを極限まで絞ったプロクリがスッと手に馴染んだ。

ペーパーライクフィルムなるものを貼り、紙のザラザラ感を脳内で補完しながらApple Pencilで線を引く日々が始まった。

フルアナログ底辺野郎が、板切れ一枚でフルデジタル貴族に転生したのである

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それが×年前のこと。

ここからオリジナル絵はもともと伸びにくいけど、ちょっとエッチだと訴求力が上がる」という観測結果をもとにR18に手を出す。

といっても乳首解禁程度で可愛いもんだが、方向性が定まったことで不安が少し減った。

フルデジタルで久しぶりにいつものワンドロに参加すると、反応が違う。イイネRTが3割増しといったところだろうか。(※ここでの3割増しとは3RT→4RTのような血で血を洗う話である)

デジタルバケツ塗りになったことで、アナログだった頃の癖の強さが軽減されたのかもしれない。

やっっっっっっと俎上に登れた、と思った。

いつでもどこででも描けるiPad社畜の俺にはピッタリで、しんどくて布団から出られない時でも通勤電車の中でも四六時中描けるようになった。

デジタル作画ワンタッチ消しゴムが使えるので描くこと自体ハードルが下がり(筆圧鬼強野郎なので消しゴムけが大変だった)、本を買って絵の勉強を始めた。まずは骨格と筋肉から!と、教本の図解をじっくり模写する方法自分なりに学ぼうとした。

だがデジタル音痴な上に加減も融通も効かない俺である。両手両足をやり切ったところで一度息切れしてしまった(でもこれはやってよかったと今でも思う)。

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数ヶ月後、それらの勢いでオリジナル同人誌を1冊出す。そしてサイコパスな神絵師の友人の甘言に乗って再び「書店委託」なるものに挑戦(ふつーフォロワー100人前後人間にそういう話するか?)。

実力的には最低レベルにも達していない自覚があったので、何度もお断りされるなかでいつかOKもらえたらなーという気持ち申請

が、思ったよりあっさり通った。

同じような画力の低さでも、版権作品ではなく「オリジナルエロ」という切り口だけで「まぁ…いっすよ」と言ってもらえたのかもしれない。

やるなら徹底的に!と思い、紙の本を3社に委託そもそも30部とかしか刷ってない本を5部とか10部でも受け付けてくれるプロ仕事ぶりに、尊敬畏敬の念しかない。

ついでに大手電子書籍にも登録

みんながわいわいしている端っこに自分の席を置いてもらえたことで、ずっと憧れていた「輪の中に入る」ことがちょびっとだけできた気がしてめちゃめちゃ嬉しかった。

そもそも底辺自分がなぜ身分不相応にも書店委託電子販売なんぞを活発にやりはじめたのかといえば、

「そこでの売上が決して0冊ではない」

という確固たる事実である

作品作家も、露出しなければこの世に存在しえない。フォロワー数2桁でのたうち回っていた俺のつらさは「この世に認知されない」ことだった。

コミュ力さえあれば自力で輪を広げることも可能だが、そんな能力あったら初めからこんな苦労してねーよという話である

ならば厚顔無恥だろうとおこがましかろうと、一方的に「俺ココにいるよ!こんな本描いたんだよ!」と嬉しそうに手を振る方が100倍マシじゃねーか。

そんで委託した本を買ってくれた誰かが、「このページのこのコマのこの乳だけはイイな」とさえ思ってくれれば俺は大往生である

しかも誰かがその本のために払ってくれた数百円は、汗水垂らして働いたお金だったり数少ないお小遣いだったりするわけだ。

それと俺のエロ本を交換してくれるってコトである

そんな嬉しいことある

紆余曲折を経て、そういう肝の座り方と考え方を得られたのは一番の収穫だった。

とはいえピコ手ピコ手なので、委託先の売上振込最低金額に達するまでに長ーい年月を要するRTAに強制参加となる。そりゃ売上¥300だろうと申請すれば振り込んでもらえるんだが、それじゃロマンねーじゃん?

とあるサイトの最低金額¥5000に届くまでにマジで2年半かかったし、達成した時は三ツ矢サイダーで祝杯あげたよ(下戸)。

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フルデジタルに移行したことで、イベントでの頒布数もギリギリ10冊を越えるようになる。

頒布数1も0も経験した身からすると、もはや恐いモノなんてないのだ。

1冊でも売れれば、それはすべて神の起こしてくれた奇跡なのである

普段活動ではオリジナルでとにかく節操なくいろいろなものを描き、月に1人とか2人とかじわじわフォロワーを増やしていった。

ごくまれに描いた絵がなんらかの界隈のハブになっているアカウントの目に留まりRTしてもらえることも出てきた。

その時のフォロワーの伸び率はびっくりするほどだったので、そのたびに「存在を知ってもらう」ことの生命線っぷりを痛感した。

まあとはいえタグなしの絵にはやっぱり無反応だけど、それが俺の平常運転である

「こいつ今日も描いてんなー」と読み流してくれる誰かがそこにいるってだけで嬉しかった。

UPした絵は、300枚を越えたあたりから数えるのをやめた。

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そして20××年末コミケである

コミティアしか知らない門外漢の俺はドキドキだったが、入場者数の制限もあって全体的にまったりムードだった。

開場して1020分、宝の地図を手に通路を行き交っていたうちの一人が立ち止まり、俺のスペースに近付いて

新刊1冊ください」

と言い放った。

新刊1冊ください…

しんかんいっさつください…?

シンカンイッサツクダサイ…!?

げんしけんで見たアレだ!!!(うろ覚え)

それって、なんらかのルートで俺のこと知って、新刊あるっぽいって分かって、サークル配置を事前にチェックして、宝の地図に印つけて、「あっココだ」って気付いて来てくれたってこと?!?!?

マ?!!?!?!???!!?!?

つーか開場20分とかそこらだよ??あなた一般参加じゃなくてサークル参加なんじゃねーの??

シャッターサークルとか企業ブースの先頭にだって並べるはずなんじゃねーの???

それを俺のところに???こんな弱小サークルが出したエロ本買いに来てくれたの?????

マ?!!?!?!???!!?!??(2回目)

文字数制限引っかかったぽいから続く

anond:20230502230901

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