はてなキーワード: 謙譲語とは
あくまで私個人の経験に基づくものであり、お前の周りだけだろと言われたらそうかもしれないのだが、とても気になる敬語の間違いがあるので書き記しておく。
それは
「○○さんが△△していただいた」
という言い方である。
こう言われるとき、どうやら大抵は「○○さんが(自分に対して)△△してくれた」という事が言いたいらしい。
でもそれはおかしい。していただくというのは謙譲語であり、謙譲語というのは動作の主体がへりくだっていることを表すものである。
だからこの場合「○○さん」が動作の主体であり受け手が自分であるから「相手をへりくだらせる」という事になる。
「参れ」とか「申せ」って言っている古典の帝とか時代劇の殿様みたいなもので、物凄く尊大な表現になってしまう。
だからそれがおかしいとすると「○○さんが△△していただいた」と聞くと「○○さんが(◇◇さんから)△△してもらった」という意味なのかな、と勘違いする。
例えば「同僚の○○さんが取引さんの◇◇さんに△△していただいた」という文ならば理解できる。話の流れとして(◇◇さんから)という部分がすでに共通認識になっていて省略されたのかな、だとしたら私が聞き逃したのかな、と考える。
しかしその後の話の続きを聞いてみるとどうもそういう事ではなく、結局前述の間違った敬語の使い方になっているだけだったと分かるわけである。
敬語を100%完璧に使いこなすのは相当に難しいし、話している中で言い間違えてしまうことはもちろん私もある。
しかし上記の表現は動作の主体が誰なのかさっぱり分からなくなるという大変危険な間違いにも関わらず、複数の人が使っているのを何度も耳にしている。
これは果たしてどういう理由なのだろうか。主語と述語が一致しない話し方をしてしまう人というのは一定数いるとよく言われるが、そういう人が頑張って敬語を使うとそうなるという事なのだろうか。
→100点を目指してたまにマイナス100点を取るぐらいなら常に60点がいい
→相手の立場に合わせて言葉を変えるとリソースが消費されるので職場では常に丁寧語。
→咄嗟のときにタメ口にならないように独り言も丁寧語にしておくと安心。
目的:アバレージでの生産性を高める。仕事のクオリティに対する信頼度を上げる。
目標:ケアレスミスを減らす。ミスの挽回にかかるコストを逆算し、それより少なければミスを減らすための新たな作業を追加してもトータルの生産性は高まる。
手段:資料作成時の自分と、作成後の自分によるダブルチェックにより、ケアレスレベルのミスだけでも無くす。
・あらゆる入力箇所に対してチェックをする
→誤クリックからの誤入力などがあるので全ての場所に危険が潜んでいる
→空白部分への誤入力も警戒
→修正後にもう一度見比べるのに使用する。修正箇所が2つ以上になった場合全てを覚えていない可能性を常に警戒。
・作業中にミスを発見したら、後でまとめてではなくその都度修正をする
→赤ペンを入れただけで満足する可能性があるので、なるたけ修正は1つずつやっていく。よほど入力に手間がかかる場合は……注意力を高めろとしか言えねえ……すまん。
目標:自分の送受信だけでなく相手の送受信も。また記録を残すことで忘れることと忘れられることの両方を軽減。
手段:音声情報はその場その場で消えてしまうので、なるたけ文字でやり取りする。
・電話や口頭伝達を減らせる機会があったら積極的にメールやチャットを使用
→チャット画面が後から消えてしまう場合、重要箇所はコピーしておくと吉。言質を取るのもあるけど、自分が忘れるのをまずは防ぐためにも。
・資料などに対して口頭で説明をする要素を減らすため、全部資料に書いてしまう
→資料のフォーマットで入力できない部分は付箋を使用する。パワポでの発表時は自分のアドリブ力は信じずカンペを読んでしまえ。
・音声で伝えられた情報は積極的にメモする。相手に伝えるときも相手にメモしてもらう。
→電話口で「これからその人の電話番号をお伝えしますが、メモは大丈夫ですか?」と聞くノリで。その範囲を多めに持っておく。
→「メモするほどじゃないよ」と言われた時ほどメモした方がいい。そういう相手ほどいざこちらが忘れた時に「は?なんで覚えてねえの?キチガイか?舐めてんのか?死ぬか?」みたいなノリで接してくる。
→ぶっちゃけ『俺の説明は完璧だから相手は一発で内容を覚える』とか思い込んでる時点でその人もまたアスペ。それも無自覚なタイプなのでこっちがその分をフォローしてやらんとなのですよ。
→アスペ同士の補い合いは社会じゃ結構よく出てくるので、面倒くさくても自覚のある側が多めにコスト払ってあげよう。自分も人にやらせてきた事だからね。
もはや、内情はぐちゃぐちゃである。
そうしている間に、会社は成長はしていた。
そして、成長していくと実際に価値を生み出す製造部門は特に大きくなっていく。そのため、親会社よりも子会社の方が遙かに人数が多くなった。
親会社は、高卒採用などは遙か昔に辞めており、、選ばれた大卒者、特に新入社員で育てていくと言う会社方針の下で行動している。
こうしていくと、当然力関係も変わってくる。親会社の統率もとれなくなってくる。
だから、親会社が指導して、それに従えば良いのだ、と言う様な貴族的な考え方では組織が動かなくなってくる。
昔は、成長を見込めるやりがいのある仕事は親会社社員に、それ以外の仕事は子会社にやらせる、というところがあって、仕事には差があった。そこには責任範囲が違うと言ういいわけもできたことと思う。しかし、企業規模が大きくなってくるとそんなことは言えなくなってくる。
しかし、上意下達、ビジネスパートナーとしてはでは無く、面倒を見る代わりに安く雇われろ、と言う形でしか行動してこない。
安易な経営判断と歪んだ労働組合が生み出したこのどうしようもない企業文化は、二重の意味で会社に問題を引き起こしており
このような状況で、主力としている業界で大きな変革が進み、相対的な競争力が低下。このような手段を使ってまで作り上げた低コストという売りは、全うに業務改善をしている競合他社に対して見劣りをするようになってきた。
さらに、新型コロナウイルス感染症、DXなどの大きな波を被るようになって、経営改革を目指しているようである。が、そんなものは上手く逝くはずは無い。
親会社もようやく問題点に気付いたようだ。しかし。もう遅きに失した。
残業を考慮しないと、年収が倍近く違う。
高卒で採用されが子会社社員が社歴が5年ほど長いにも関わらずだ。ただこれでは家族を養えないので、みなハードな残業をこなしている。36協定は月80時間、960時間である。
やっている仕事も、生産ラインの設計メンテというところでほぼ同じ仕事。親会社社員の方がよりやりがいのある仕事を振られ、子会社社員は親会社社員がやりたがらない仕事や雑用が中心だったが、最近は規模拡大でやってることもほぼ同じになってきた。
その他の待遇も
なお、有給の消化率だけは高い。何故ならば、親会社が休みの日は、親会社の職場が閉鎖されるからだ。親会社の職場に混ざって働く人は多い。そうすると仕事をすることが出来なくなるので、半強制的に有給を取らされることになるからである。
究極的には、ライン立ち上げ寸前など、超繁忙期でも、親会社社員は帰る。
組合が見回りに来るからだ。そしてその時、組合は会社が違うのでといって立ち去る。ぎりぎりになって夜間交代で作業しなければいけないときも「組合が駄目って言うから」という理由で、親会社社員は加わらないのが当たり前である。
そして、もはやここまで待遇に差があると、もはや改善は困難である。
何故ならば、給与を上げると赤字になって競争力を失うからだ。
危機感を持っている人はいる。しかし、費用構造を知ると、もうどうしようもないと考え、何もできずに辞めていく。
競争相手が、借金や設備投資をし、苦しいときには全員の賞与を削減してでも全員の雇用を守って、カイゼン改良を重ねて企業業績を伸ばしている中、ここは、労働組合の誤った動きに乗じ、安易な解決策に走った。
そのようなものは、長続きするはずはないのである。
ただし、 同じ待遇もある。親会社が参加する地域のお祭りの時だけは、親会社社員と一体になるのである。
つまり、親会社社員は馬鹿馬鹿しくて出席しないので、子会社社員を動員するのである。
親会社のロゴのついた特製の法被を着せられて、親会社の名前がついた山車を引っ張るのだ。(強制)この時ばかりは平等である。
こんな会社でも、親会社の名前は、地域の中では一番良い就職先として知られていた。潰れる事も無いだろうとも。だから、いくらでも人を雇えたのである。
前は。以前は。
そして今、何が起こっているかというと、人材の流出である。はっきり転職エージェントの狩り場だ。
子会社側の人材は、転職エージェントから見ると、スキルを持った人間が大バーゲンに見えるらしい。
親会社側も、待遇は非常に良いのでそれが転職のハードルになるようだが、こんな歪んだ環境はその他の色々なことが歪んでおり、堪えられなくて転職するものもどんどん増えている模様。
情報通信機器メーカが国内回帰ということで近くに工場を建てたのだが、その際に二十人以上が辞めた。他にもよい会社があると言うことにみな気付いている。
リファラル採用というなの退職ドミノ倒しは、まだ止まっていない。
流石に危機感を持ち始めたようだが、もはや無駄である。
そして、人材も激しく偏る。
親会社には現在、東京に出て行く勇気も無く、大卒で安定志向だけを求めて地元に帰ってきて、とりあえず地元で最も名前の知れた会社に入ろう、と言う人材だけが集まっている。社会をよくしてやろうとか、成り上がってやろうとか、そう言う人は入社しない。当然それ以外にも美辞麗句に誘われて来る奴がいるが、そう言う人は、歪みの多いJTCに飽き飽きしてさっといなくなる。ただし、地方としては破格の待遇のため、我慢しているやつもいるが、彼らもにらまれたくないので歪んでいる。
そして、優秀な人もいるにはいる。なんでこんな所にいるのだろうと思うと、親会社、子会社双方に、家庭の事情(実家で介護がいるとか)で離れられないことが多いのだ。そして、彼らは、その対象がなくなると(つまり、介護していた親が死んだりすると)、音もなくさっといなくなる。優秀で要になっていた様な人が多い。そんな彼らが、晴れ晴れしく、音もなく、さっといなくなる。そうして、大混乱することも多い。
大変笑える話だったと思う。さあみんなで笑え
https://togetter.com/li/1844786
この記事のブコメを一通り読んでなんとなくわかったんだけど、「でしょ」のイメージについては東西の認識ってそんなに異なってはいないんじゃない?
元のtogetterには「でしょう」すらタメ口と言っている人もいたけど、ブコメでは少なくとも「でしょう」は丁寧語という意見が並んでおり、それに対する反論も特にない。
これについて意見の相違はないと見える。
注目したいのが、「でしょ」を丁寧語と言っている人でも、「くだけている」ことは認めているということだ。
つまり、「でしょは丁寧語派」の中では、「くだけた丁寧語」という概念が成立している。
一方で、「でしょはタメ口派」は、くだけたら丁寧語ではないという前提が暗に陽に存在している。
これらを見るに、「でしょう」の省略である「でしょ」は、「くだけているだけで丁寧語の範疇である」VS「丁寧な言い方でないので、丁寧語ではない」の戦いといえる。
おそらく「でしょ」という表現は文法的に丁寧語にあたることと、丁寧ではないことを同時に満たしているのだろう。
ただ、肝心のその「でしょ」の中身について、両者はそれほど異なったイメージを持っていないのでは?と感じる。
だとすれば割れているのはむしろ「丁寧語」の定義のほうではないのか。
敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種があると言われている。
ゆえに「でしょ」がもし「くだけた丁寧語」と認められるのであれば、「くだけた敬語」であるということになり。「敬語である」と言える。
これに加えてさらに「タメ口」を「敬語ではないこと」と定義するならば、でしょはタメ口ではないということになる。
しかしブコメでは、タメ口と敬語には重なりがある(タメ口かつ敬語である表現が存在する)という受け入れ方をしている人が多いように見えた。
それが「でしょ」や「あざす」なのだろう。だとすると「でしょは敬語」「でしょはタメ口」は同時に成立しうる。
自分は今大阪に住んでいるが、大阪では「ちょうどよい敬語を使うべき」という文化があると感じている。
尊敬の度合いが低すぎるともちろんいけないが、高すぎても、「なんでそんなに恐縮してんの?」「ちょっと固すぎ」みたいな苦言を頂戴する。
したがって相手との関係性によって「でしょ」「あざす」のような「くだけた丁寧語」表現を必要不可欠としているところがあると思う。
他の地域にもそういった文化があるのかどうなのかがわからないのだが、これに関係して一つ思いつくのは、東京の人のいう「同期」という考え方に自分は非常に違和感がある。
「同期なのに、なんで敬語?タメ語使ってよ!」みたいな。初対面なのにね。
それなのに、ほんのわずかに先輩後輩という間柄になった途端に、togetterの元ツイの先輩のように、きっぱり上下関係の話し方をしないと許せなかったりするわけだ。まるで線を引くように。
でも『借りる』の謙譲語は『お借りする』らしいよ