https://togetter.com/li/1844786
この記事のブコメを一通り読んでなんとなくわかったんだけど、「でしょ」のイメージについては東西の認識ってそんなに異なってはいないんじゃない?
元のtogetterには「でしょう」すらタメ口と言っている人もいたけど、ブコメでは少なくとも「でしょう」は丁寧語という意見が並んでおり、それに対する反論も特にない。
これについて意見の相違はないと見える。
注目したいのが、「でしょ」を丁寧語と言っている人でも、「くだけている」ことは認めているということだ。
つまり、「でしょは丁寧語派」の中では、「くだけた丁寧語」という概念が成立している。
一方で、「でしょはタメ口派」は、くだけたら丁寧語ではないという前提が暗に陽に存在している。
これらを見るに、「でしょう」の省略である「でしょ」は、「くだけているだけで丁寧語の範疇である」VS「丁寧な言い方でないので、丁寧語ではない」の戦いといえる。
おそらく「でしょ」という表現は文法的に丁寧語にあたることと、丁寧ではないことを同時に満たしているのだろう。
ただ、肝心のその「でしょ」の中身について、両者はそれほど異なったイメージを持っていないのでは?と感じる。
だとすれば割れているのはむしろ「丁寧語」の定義のほうではないのか。
敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種があると言われている。
ゆえに「でしょ」がもし「くだけた丁寧語」と認められるのであれば、「くだけた敬語」であるということになり。「敬語である」と言える。
これに加えてさらに「タメ口」を「敬語ではないこと」と定義するならば、でしょはタメ口ではないということになる。
しかしブコメでは、タメ口と敬語には重なりがある(タメ口かつ敬語である表現が存在する)という受け入れ方をしている人が多いように見えた。
それが「でしょ」や「あざす」なのだろう。だとすると「でしょは敬語」「でしょはタメ口」は同時に成立しうる。
自分は今大阪に住んでいるが、大阪では「ちょうどよい敬語を使うべき」という文化があると感じている。
尊敬の度合いが低すぎるともちろんいけないが、高すぎても、「なんでそんなに恐縮してんの?」「ちょっと固すぎ」みたいな苦言を頂戴する。
したがって相手との関係性によって「でしょ」「あざす」のような「くだけた丁寧語」表現を必要不可欠としているところがあると思う。
他の地域にもそういった文化があるのかどうなのかがわからないのだが、これに関係して一つ思いつくのは、東京の人のいう「同期」という考え方に自分は非常に違和感がある。
「同期なのに、なんで敬語?タメ語使ってよ!」みたいな。初対面なのにね。
それなのに、ほんのわずかに先輩後輩という間柄になった途端に、togetterの元ツイの先輩のように、きっぱり上下関係の話し方をしないと許せなかったりするわけだ。まるで線を引くように。