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日本代表戦、私はこう見た 4氏に聞く サッカーW杯(朝日新聞 2014年6月26日付39面)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11209795.html
サッカーファンで知られるコラムニスト・小田嶋隆さん(57)は「サッカーは進歩しているが、メディアが成長していない」と指摘。「テレビ番組は、サッカーと縁の薄いアイドルや芸人を呼んで応援報道を繰り返し、期待感だけをあおるものが多かった。日本サッカーの将来につながる番組づくりを」と求めた。4年間の強化の方向性は間違っていなかったとみる。「短期決戦に運・不運は付きもの。一喜一憂せずに『たかがサッカー』ぐらいに受け止め、粛々と強化を進めることも、サッカー強国への道だ」
小田嶋隆が発する床屋政談・テレビ批評・サッカー論議については低レベルなものが多いが、このコメントも輪にかけて酷い。だいたい、このオッサンが本当にサッカーのことをわかっているのかどうか甚だ疑問だし、そんな小田嶋にW杯の識者コメントを求める朝日新聞もどうかしている。
まず「メディアが成長していない」と書く。まるで『サッカーに無知なマスコミどもはサッカー通の俺様に跪け』と言わんばかりの上から目線である。そもそも、日本サッカー不毛の時代であった1960年代で世間の話題になったのはメキシコ五輪での銅メダルくらいで、海外サッカーの試合もテレビ東京が細々と中継録画で放送してたのだから、そういう時代と比べると新聞やテレビはもちろん、インターネットとかエル・ゴラッソみたいなサッカー専門紙まで創刊したのだから、メディアは少なからず成長しているのがわかる。
だからと言って、サッカーが日本の国民的スポーツになったかといえば、答えはNoだ。プロ野球人気が陰りを見せ始めた1990年代にJリーグが発足しサッカー人気が高まるかと思いきや、テニス、バレーボール、水泳、ラグビーなどそれまでプロ野球の陰に隠れがちだった競技もスター選手の登場で人気に花が咲いた。こうして起こったのが『趣味の細分化』である。もちろん競技人口においてはサッカーのほうに分があるが、これほど趣味が細分化した現在においてサッカーを国民的スポーツと決めつけるのは無理があり過ぎる。ましてや欧州や南米みたいに“文化”としてのサッカーが日本には根付いていないから尚更だ。
ひとつ、例え話をしよう。企業が新商品を世に送り出すとき、如何にして巧妙な宣伝をおこない自分たちの商品を世間に浸透させるのか。最も手っ取り早いのが「有名人の起用」だ。宣伝効果は絶大だし、有名人側も名前は売れてイメージ向上にもつながるから一石二鳥だ。しかもライバル企業も違う有名人を起用して対抗してくるから、宣伝・広告費は各企業において重要な支出のひとつになってくる。これと全く同じことをやっているのが、日本のスポーツ界である。日本のスポーツ中継やスポーツ番組には必ずと言っていいほど有名人やその競技の元スター選手などが解説者として登場して、世間の注目を集めようと努めている。サッカーも例外ではない。世間的に“広く浅い”層にいる人たちは、有名人の出ないスポーツ中継には関心を持たないし見向きもしない。コアなファンたちはとっくの昔にBSやCSの“専門的な”番組に見入っている。答えは明白なのだ。
今更ながら、どうでしょうアフリカ編を最後まで見た。一応最新作ということでいいのかな。もー、これはどうしようもない駄作。全盛期に比べて近年の企画がまぁそんな面白くないというのは感じてたんだけど、今回はそういうレベルじゃなく、もうケタ違いに面白くない。もしかすると信者たちはどうでしょうはゆるさがいいんだからこれはこれでいいんだなんて言うのかもしれないが、ダメだよクソはクソだって言わなきゃ。これはどう考えても普通の、どこの地方局でもある、普通につまらない番組でしょう。初期からずっと見てきた大好きな番組なのに残念すぎる。あまりにつまらなかったんで途中で見るのをやめたかったんだけど、一応最後まで見ないで結論づけるのもどうかなとおもって、何度も興味を失いながらもなんとか最後まで見た。
どうでしょうの面白さの重要な要素の一つにディレクションが素人な点にある。むちゃな企画、スケジュールの詰めの甘さ、普通のスタッフなら行う事前調査やロケハンなどをしないスタイルが行く先々で想定外のトラブルをうみ、それが大泉のぼやきのねたになったり、ケンカのくだりに発展したり、視聴者の予想を超える展開が起こってきた。
ところが今回は、企画やコーディネートをプロが担当した、というか丸投げしたと番組の中で語られている。その理由は不明確だったが、これが本っ当に大失敗だったと思う。プロがしっかり企画しちゃってるんだから当然動物も絶景も見れるし、それによるトラブルやケンカも起こらない。出演陣も見慣れない絶景を見せられてただすげーすげーと連呼するしかない。絶景を前に出演者は感動するものの、相変わらず撮影のテクニックや機材はないもんだから、視聴者にはいつものホームビデオなみの映像をみせていて、これがものすごい温度差。正直言ってアフリカの動物っていうのは生で見るから感動的なんであって、視聴者にとっては他の番組でもっと鮮明な映像たくさん見てるんで散々見飽きてるわけ。この温度差はほんと致命的で、見ていてどんどんしらけていく一方でした。こういうところは2秒くらい使ってばっさり切る、とかさ。そのくらいの初期の編集やってほしい。アフリカ行ったのに動物の映像全くないとかさ。そういうくらいじゃないと。
コーディネータがついた企画は今までもあったと思うんだけど、企画の部分はちゃんと自分たちで考えないと、こういうことになる、ということをご本人たちにわかってほしい。最近のあの4人は、とにかく4人が集まれば、企画が何であろうとなんか面白い方向にころがっていく、と思っているように感じるんだけど、そういうことじゃないということに今回で気づいて欲しい。企画から丸投げするならロビンソンみたいな人にお願いするとかじゃないと。
そんなわけでもー今回は1回1回の30分が本当に長く感じた。これまでのどうでしょうなら「え、もう終わっちゃうの?」「早く続きがみたい!」って思ったものだけど、今回はまだやるの?みたいな感じ。感覚としては友人が作ったホームビデオを延々見せられているような退屈さに近い。ただのアフリカ旅行記。本の宣伝のくだりとか1,2回やれば十分じゃないの。床屋に行くっていう冒頭の展開も意味分かんないままだしさ。こういうのも使うのは2秒だけでいいよ。あーもう細かいこと言うときりがないのでやめる。全編通して俺がちょっとクスッとしたのはミスターがカメレオンを頭にのせたシーンのみでした。
番組内でもう40や50にもなって無茶できない的なことを藤村が何度も言ってたけどさー、はっきりいってそのくらいの年齢でむちゃやって挑戦して面白いもの作り続けてる人はたっくさんいるっつーの。アホか。勝手に老けこんでないで、もう一度面白いもの見せてくださいよ。次つまらなかったら俺はもう見るのやめるよ。
Bまでしかいったことがない童貞だけど、はじめておっぱいを吸うときかなり抵抗感があった。
すごく恥ずかしいんだよ。
一生懸命吸ってる俺を上から生暖かく見守られてると思うと居ても立ってもいられない感じ。
情けないっていうか。
床屋でカミソリ首筋に当てられててヒヤヒヤしてる感じと似てる?
すごく無防備なところを掻っ切られそうな感じ。
あとおっぱいって男にはとりわけ性的に気持ちいいもんじゃない。
気持ちよさのベクトルが違って、性的というより坊主頭を撫でる気持ちよさに通じるものがある。
だから、坊主にしたんだー触ってもいい?ってのと同じくらいライトな感じで、胸おっきいねー触ってもいい?って言えるような社会になってほしい。
住む地域が変わったので、新しい床屋か美容院を探さなきゃなと思ってて、偶然車でおしゃれそうな美容院の横を通ったのでいってみた。
仕事で年齢より幼くみられて損する事が多かったので、いっそデキる営業マン風のビジネス向けの髪型にしようと思い、そう伝えたつもりだったのに、なんか今風なのかなんなのか分からんが変な髪型になってしまった。
前髪無いし、頭頂部やや長めで多めにすいた髪がワックスであっち向いたりこっち向いたりしてる。あきらかにビジネス向けじゃないだろこれ。
切ってる途中の美容師さんの会話が、「初めておしゃれしようと思った大学生」に対する感じだったから、大丈夫かなぁとは思ってたんだが…
どう?かっこ良く変われたでしょ? みたいな態度とられても、違うっつーの。
ワックスの使い方とか大体わかってるって!
それから一番の問題は、
これらは、少なくとも作ることにかなり大きなリスクが伴うんだよ。
だから、バカがいきなりテレビ局作ったり週刊誌作って売ったりすることは不可能。
既存のメディアが作るゴミは多いけども、それでもクズが何も考えずにゴミを量産することは出来ない。
一方、ネットではクズが何も考えずにゴミを量産することが出来る。
しかも、法的にも整備がまだ行われてないので、クズみたいな行為もほとんどがやったもん勝ち。
ネットに限らず昔からこういう法整備前のやったもん勝ちみたいな事は行われてきたから、ある意味同じ道といえば同じ道なんだけど、
与沢翼を批判したいのはわかるけど、なんでもかんでも
現実的な話として、与沢翼があの金をホントに自分で稼いで自由に使えてるんだとしたら、
木村飲料にも行けるし甲州街道沿いの床屋で、髪型を3種類から選ぶことも出来る。
一方、フェラーリで六本木ヒルズに通勤するのは普通の人間にはふとやろうとしても不可能。
自分が出来る事の方が幸せで、それは価値観の違いだから、で済ましてしまうのはホントに底辺のすることだからいい加減やめたらいいよ。
何に関しても増田にはそういう話が溢れてるけど。
それで、なかなかにこっ恥ずかしい内容を重大報告としてあげてる。
でもね、ま、そりゃ良いんだよ。本人にとって重大なんだろうし。
Facebookに失恋ポエムをあげるのが女々しいなんてのは、そりゃ性差別だろう。
男だって(男だからこそ?)、彼女との思い出とかいろんなものあげたのに誓い合ったのにとか、グジグジ言うだろう。
それにまあ、「そういう文章」を書いて煽るのが仕事な与沢さんなら、言ってみりゃこれは仕事しながら心落ち付かせてるみたいなモンだ。
そういう意味でこの報告は、結婚間近で手ひどくフラレて「俺は仕事に生きるんだ!」って泣きながら力説してた同僚と、まあ同じだろう。
ただな、
バーキンのローズテリアン、シャングリラの最上級スイート、リッツカールトンレジデンスの居住者パーティ、
きっと、与沢さんが考える「周りに幸せだと思ってもらえる単語」なんだろう。
「コーラってそもそも何味なの?」と、しずおかコーラの木村飲料まで行って話を聞いて面白がる。
各地で話を聞きに行っては変わったおっちゃんに当たってしまう大北さんは、幸せそうに見える。
大北さんがDPZで書く記事には、お金のニオイはあまりしない。
クローブとカルダモンとバニラからは、秒速でいくらか稼げる感じは受けない。
どこかの誰かが決めたみたいな、そんな典型的な「幸せ」に執着する。
ソレが悪いとは言わないし、思えない。
コンナ結婚が、コンナ部屋が、コンナ食事が、コンナ野球観戦が、
どこかで定義された幸せを、自分が幸せだと思い込んでしまうことってのは、間違いなくあるだろう。
そういうものの極北が、きっとフェラーリだとかバーキンだとか、そういう単語に集約される。
そして、自分で何かを見つけ出して面白がれる人が、もっとも「幸せ」に貪欲なんだとも言える。
その差が、きっと「幸せ」をどう感じるかに繋がってると思う。
オレは政治的な意見や姿勢を明確に表明する代わりに、今後はノンポリであると明示することにした。
もうさ、右も左もどっちでもいいって。結局生き抜いていかないといけないわけで。イデオロギーで飯は食えなくね?
美容院でやってみろよ。隣のやつがこの夏流行るおしゃれボウズ100選とか読んでる空間で原発は今後どうあるべきかなんて言えるわけない。
放射能もさ、もうしょうがないでしょ。東北地方の人アンラッキーだったね。でも補助金やら雇用やら他の地域よりたくさんあげるから何とかやってよ。
東京の人もいつ直下型地震が来るかわからないから、来たらそれは受け入れて何とか復興するしかないって腹くくるからさ。
特定秘密保護とかもさ、法律で書いてある範囲でしか判断つかないでしょ今は。どんなに議論したって為政者次第だろうなと思う。解釈なんてどうにでもなるよ。
未来の子どもたちのため!言論の自由を!なんてほんとに考えてるの?自分のイデオロギーの充足のためじゃん。
日本のどんな極端な意見でもまったり薄味にする力をなめちゃいかんよ。35歳より下の不況しか知らない奴はほどほどのバランスとるようになってるから大丈夫だよ。
改憲とか本気でするつもり?軍隊持つの?自衛隊でいいでしょ。矛盾があるけどまあいいじゃん。外国からどっちかにせーよ!って言われてんの?
自衛隊が海外でそこまでしてやる必要なくね?てか自衛隊への志願者減るだけじゃね?オレの子供には自衛隊は偉いけどメリット少ないよとしか言えないぜ。
国を愛するとか、自分で決めた法律が必要とか、なんか変に熱くて濃くてやなんだよ。別に今のをちょこちょこ変えれればいいんだと思うよ。
韓国とか中国とか好きじゃないけど、どうしようもないでしょ。うわーないわーって内心思って距離置けばいいじゃん。
Facebookもさ、みんなで子供の成長写真とか同窓会の写真アップしてる横で、デモへの参加とか政府の横暴を許すなとか呼びかけられても引くだけだって。そういう場所じゃないよ。自分の良い面を抽出して表現し合う場所で、なんで意見言わないとイカンのか?デメリットしかない。超浮くわ。
ネット上で自由にイデオロギーの意見交換ができるような時代がくればいいですねって言ってる人、そんな場所、こういう匿名でしかありえないよ。
実際に知ってる奴がネットで熱く意見を述べてるのを見るだけでかなりゾッとする。今言う必要なくね?それ言うことで半分は味方になるかもしれないけど半分は敵になるんだよって思う。なんでわざわざそんなことするの?自分の意見を述べることってそこまで優先順位が高いことなの?
まああれだ。オレの言いたいのは、なるようにしかならないし現状でうまく適応するしかないんだから政治的な意見なんて意味ないぜってことだよ。
髪が眼鏡のつるにかかって煩わしくなってきたので、
「...ぼぅずでお願いします(二日ぶりに発声して声が出ない)」
「...え、何ですか?」
「ぼうずでお願いします!(後ろの方の語調が少し強くなって落ち込む)」
「長さはどうしますか?」
「...(何で3の倍数なんだろうな、と5秒くらい)...6mmで」
「わかりました、6mmで」
••• (沈黙) •••
「よく坊主にされるのですか」
「...(以前刈り上げたのいつだっけ、と5秒くらいry)...久しぶりですね」
そりゃフケ顔だし、おでこのラインが88歳の祖父と同じ位置だけど、もう若くないんだな)
SE職なので」
••• (沈黙) •••
「1200円です」
「(渡しながら)ありがとうございました」
俺の床屋談義は多分、短い。
1)使用言語を日本語に入れ替えて、国籍居留地を日本に入れ替えた、インド国立大学教授経験者の(=その能力を持つ)Aさんが日本で就職した場合その年収はいくらであるべきか?
2)使用言語をヒンディー語に入れ替えて、国籍居留地をインドに入れ替えた、日本ではコンビにバイトだった(=その能力を持つ)Bさんがインドで就職した場合その年収はいくらであるべきか?
もし1において生活レベルが上昇したのなら「国際労働市場において先進国は途上国を搾取していた」ってことだし、
もし2において生活レベルが低下したのならば「Bさんは日本の制度に保護されてたけれど過剰な報酬を得ていた」ってことでしょ、という話。
そうかぁ?そんな単純な話かね。
国の状況や文化によってどんな種類の能力が重要視されるかが違うってことは十分ありうるんじゃねーの?
たとえば、発展過程の建築ラッシュで有能な建築士がすげー高待遇になる国があったとしてさ、それで2の比較でそっち行った方が生活レベル上昇したからって
髪を切る習慣のない国がアフリカかどっかにあったとして、その国に行った床屋が食えなくなるのが「制度に保護されて過剰な報酬を得ていた」ことになるかい?
その比較で「先進国が搾取」だの「過剰な報酬」だのって言えるためには、同じ職能がどの国の社会にも同じ価値として受容されるっていう前提が必要だと思うけど
現実問題成り立たなくねーか。そんな前提。
http://anond.hatelabo.jp/20121209000955
自分がネットを始めたのは1999年で小3からだったけど、あの頃は自然の中で秘密基地を漁ってるような感覚だった。
個人サイトは、その個人がネットという世界で表現したいリビドーが詰まっていたように見えた。
整理されていない雑多なサイト構成や、稚拙に濫用されたTABLEタグも、材木や廃品を用いたDIYによって作られたアジトみたいで楽しかった。
サイトを漁る時にはロボット検索エンジンは利用していたようにも思うが、登録型検索エンジンや、個人サイト同士のリンクから辿るのが主であり、それは草木の中で目当ての物を探す、面白い場所を求める冒険のようだった。
でも、気が付いたら、それまでとは異質で、均質な形をもった、ブログが目立つようになっていた。
いつの間にかGoogleは、検索単語をダブルクオーテーションで囲まなければ、まともに使えなくなっていた。
Web2.0(死語)の頃から、どんどん都市開発の波が押し寄せて、区画整理がはじまり、個人サイトは廃墟と化し、Infoseekは楽天都市開発に買収されたまま打ち捨てられてしまった。
DIVタグにより整備されたサイト構成は、その見た目も、どこか没個性的で無味乾燥としたものを感じるようになったと思う。
残ったのは画一的な建造物ばかりが建て並ぶソーシャルサイトやブログ、WIKIの都市圏で、そこではWeb1.0の頃よりも人間個人がクローズアップされるようになったけども、個人サイトは消滅した。自分は個人のウェブサイトとして作られ、サイト同士が繋がるネット上の表現物が好きだった。
あれだけ雑多で手作りな感覚があった個人サイトは消えてしまったのに、個人サイト周りに巣食っていた、対人関係を消費するネットウォッチャーや、揉め事と言う名の床屋談義は、未だに息衝いているどころか、情報の流通・蓄積を効率化していく流れに乗って、TogetterやSBM、まとめサイトを牙城に、ネットの娯楽として定着し、規模を肥大させたきらいすらある。
ネットにワクワクしないなら自分で面白いのを探せ、作れ、本を読め、リアルに出ろ他のものに目を向けろ、というブコメ/TBが付いているけども、それは違う。
ネット以外でワクワクしても、ネットでワクワクしたかった感情とは関係がない。
教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書とかで語られるテキストサイト文化圏付近の諸処ではなく、それらについてはどうでもよく、全く無関係に、自分が見ていて、自分が好きだったインターネットの楽しさについて。
自分が見ていたインターネットの楽しさも、総体すればテキストサイト文化圏をも内包した2000年代前半の日本語圏インターネットとして言えると思うけども、今は時代によるサイト構造の発展と、均質性の中に取り込まれて、消えてしまった。