はてなキーワード: 被差別階級とは
というのも、80年代か90年代ぐらいまでの思想に基づくリベラルってのは、理性主義に基づいているんだ。
「人間は理性的である」と前提していて、転じて「理性的じゃないやつは人間以下」と思っている。
そう考えているとどうなるかというと、実は貧乏人であったり被差別階級であったりするほど、理性から程遠い人間が増えていくので、なぜかリベラル思想に染まるほど弱者に辛辣に、普段の態度はエスタブリッシュになっていく。
リベラル思想に触れることで、かえって寛容さは失われてしまうんだ。
それが21世紀の今、起きていることだ。
ウヨのほうがコミュニティの仲間限定とはいえ、弱者を救うって態度をはっきりさせてしまうというね。トランプの当選のときにはっきりしたのがそれだった。
アジア人はガチの被差別階級なのでポリコレパワーすら弱い 黒人の方が強い
LGBTの中でも最強の属性 LGBを倒せる稀有な存在 ただトランス女性にするかトランス男性にするかは難しいところ 身体的に女性の方が強そうだからトランス男性ってことにした方が良いか?
本人の性能を落としてしまう諸刃の剣だが、ポリティカル・ストレングスを高めるには必須 アスペルガーとかだと傀儡にするしかなくなりそうなのでADHDあたりが無難か
思考能力に何ら影響を与えずにパワーを強化できるお得な属性 ポリコレ力を極限まで高めるなら全盲+四肢欠損くらいが良いか
上の条件を満たしつつこれになるのはかなり難しそう(四肢欠損者をレイプする鬼畜はそうそういなそう)だが、あると嬉しい属性 身体障害を腕一本くらいに抑えてこっちを取るのもアリか
自分の能力に著しい凸凹があることは、幼い頃から気づいてきた。
親が「みんなそんなものよ」と言うものだから、みんなそうなのだと信じて生きてきた。
物心ついた頃から知能は高かった。しかし勉強という行為は地獄のように退屈だった。
なぜこの教師は1時間も使って足し算を説明しなければならないのか、なぜ周囲はこの程度も理解できていないのか、そして既に理解できている自分がなぜ1時間も退屈に付き合ってやらないといけないのか、ひたすらに理不尽だった。
教室を飛び出したい衝動に常に駆られていたが、飛び出せば落伍者扱いされることは解っていた。だから我慢した。
授業を聞いている振りをして空想に耽ることだけが、唯一の自由だった。
「持たざる者は、持つ者を妬む」と、親がよく口にしていた。
同級生よりも【持っている】と気づいてしまった事柄は、片っ端から隠し倒して、持っていないふりをした。
持たざる者の苦しみを想像し、「私も…」と同調し、仲間としての承認を得てきた。
運動能力や感覚過敏など極度の身体的欠陥と、そしていくつかの規律性の欠如、それらに私は救われた。
「勉強以外は欠陥だらけ」とレッテルを貼られることで、嫉妬のターゲットを回避する絶好のポジションを、コミュニティ内で獲得できた。
とにかく周囲を観察し、人に好かれる態度と嫌われる態度を学習し、目立たず騒がず当たり障りのない人物を演じ続けてきた。
それでも「人並み以下の努力で、人並み以上の成績を維持していること」に気づき、妬み、攻撃してくる者はいた。
この頃から人付き合いに疲れだした。自分と似た性質を持つ者が、およそ存在しないことを悟りはじめた。
人に打ち明ければすぐさま嫌われる類の悩みばかりが増幅した。
外面的な交友は虚しく、内面的な孤独は深まり、学校生活はさらに退屈になった。
学歴なんて何の役にも立たないと言い張る世間の大人たちと、難関大に受からなければ人扱いしない教師たちの顔色を伺いながら、適当に受験し、就職し、いよいよ三十になった。
会社でも学校でも、凸凹を隠して「普通の人」として生きるために必死で擬態を続けてきた。
擬態に疲れ、精神を病んで辿り着いた自助グループでは、いかに正直に凸凹をさらけ出しても「普通の人」と敬遠された。「あなたは大丈夫だから」と、励ます口調で突き放された。
どこまでいっても異端扱い。
鬱病でも、人格障害でも、社会不安障害でも、発達障害でも、HSPでも、ギフテッドでも、なんでもいい。
どの看板を下げても被差別階級になることは解っている。もうどれでもいい。
対策を示せ。
これ以上待たせるな。
これ以上翻弄するな。
原因がはっきりわかっていないのも、正しく診られる専門家が国内に少ないのも、学術データが揃っていないのも、誤診が起こりうるのも、すべて私のせいではない。
どこまでが普通なのか、障害と呼ぶべきなのかの議論なんて今はどうでもいい。
ただ私が困っている。それが真実ではないのか。
https://togetter.com/li/1369547
http://toianna.hatenablog.com/entry/2019/06/25/205348
この辺読んでいて、そういえば自分はツイフェミだった時期があったなと思い反省文を。
自分がフェミニズムに興味を持ったきっかけというか要因は、人権問題に関心のあるリベラルな学生だったからだろう。私は当時ネット上で左派的な言説の多くを観測しており、その流れでフェミニストたちのアカウントをフォローするようになっていった。
彼らは現代においてなお残っている実に多くの女性差別を暴き、実に多くの不正義を告発している、ように見えた。彼らの主張はおおむね正しいように見えたし、差別によって苦しみ、不利益を被っている女性がいるのなら、この状況は是正されなければならないと思った。また自身(男性である)が無意識に女性差別的な行動を取ってしまっていないか、という点にも大いに過敏になった。
身近に思いっきりセクハラの被害に遭っている女性がいたので尚更こういう話題に関心が出たのかもしれない。フェミニストたちの行動の裡に潜む暗い衝動の存在に私が気付くのは、ずっと先のことである。
といっても、私もフェミニズムに首までどっぷりとは行かなかった。あの界隈には単に男性嫌悪を拗らせただけと見える人も多くいたし、彼らのいくつかの主張(例えば「権力勾配」「まなざし」など)については本当に正しいのか確信が持てなかったので判断を保留していた。
とはいえ、各論においてはともかく、総論においては同意していたのは事実だ。
で、私がフェミニズムという運動そのものに疑問を持ったきっかけだが、それは例の「女だけの街」騒動だった。
あの騒ぎ自体はよくあるしょうもない炎上騒ぎなので、わざわざ論じる価値はない。ネット上でよくある異性叩きコンテンツのいち類型にすぎず、個別に論じる事自体が時間の無駄だと思っている。
ただあの炎上は私にとってひとつ大きな収穫があって、それはフェミニストたちのある姿勢が露わになったことだった。
事の経緯としては、最初にとある女性が書いた「女だけの街があったら夜道で怖い思いをしなくて済むのに」といったようなツイートが発端だったと理解している。これ自体はまあ、政治的に正しいかどうかはともかく、単なる愚痴にすぎないだろう。なのでこれ自体を正しいとか正しくないとか言うつもりはない。人間はたまには正しくない愚痴を吐きたくなるものである。
が、人権という原則に照らし合わせてこの発言が色々とまずいのも事実だ。ヒトラーだって同じことを言っていただろう。「アーリア民族だけの国があったら良いのに」と。「〇〇だけの街(国)」というアイデアは古今東西多くの虐殺を引き起こしてきたのだ。
それなのに、フェミニストたちはこれを「素朴な心情の吐露にすぎない」と擁護していた。
なるほど確かに「素朴な心情の吐露」ではあるかもしれない。だが「素朴な心情の吐露」なら何を言っても良いのだろうか?件の発言が「日本人だけの街」だとしても彼らは同じように擁護しただろうか?「女は男に比べて頭が悪い」と素朴に信じている人間が自身の考えを披露するのもOKだということになるのだろうか?そもそも、そういう「素朴さ」の裏に張り付いた偏見や認知の歪みを告発してきたのがフェミニストではなかっただろうか?
本当なら、フェミニストたちはこの発言を擁護するべきではなかったのだ。
繰り返すが、人間は時に政治的に正しくない愚痴を吐くものだ。だが炎上してひとつの論点として浮上してしまった以上、擁護するべきではなかった。せめて「気持ちは分かるけどその言い方はまずいよ」と諌めるくらいのことはするべきだった。
なのに彼らはそれをやらなかった。
その時の様子を見て私は愕然としたのを覚えている。単に男性嫌悪をこじらせた似非フェミニストばかりではない。ある程度誠実に、論理的にものを言っている(ように見えた)フェミニストたちも、揃って件の発言を擁護し、食ってかかる人間へ罵倒を浴びせていた。彼らはお定まりのお題目ーー男性社会の犠牲者ーーを大声で唱えた。私たちは被害者だ、奴らが悪いのだ、と。
なんということはない。彼らの行動原理は正義などではなく、結局のところつまらない党派性と暗い攻撃衝動にすぎなかったのだ。ニーチェの言うことろの奴隷道徳というやつだ。
彼らの言葉の底が見えた瞬間だった。
「日本人だけの街」がアウトで「女だけの街」がセーフだと主張するには、おそらく根拠として例の「権力勾配」という概念を持ってくるしかないだろう。
「権力勾配」の扱いは長らく自分のなかで答えが出せていない問題だった。例えば人種隔離政策が実施されていた時代のアメリカで、黒人が白人を殴ることと白人が黒人を殴ることを同列に扱うことはできない、なぜなら黒人は被差別階級だからだ、という主張は、必ずしも狂ったものだとは言えないだろう。
ただ、私としては最終的に、これは否であると判断するに至った。理由は大きく分けてふたつある。
第一に、この主張は結局のところ、「人権の内実はその個人の属性によって変化する」と主張しているに等しいことがある。
人権というのはつまるところ社会的フィクションにすぎないのだが、ここを切り崩すことを許してしまうのはどう考えても悪手だ。女性差別を問題にできるのも、つまるところ「万人が等しく人権を持つ(べきである)」という原則があるからだ。その原則がなければ、性別、民族、性的指向、政治志向、その他あらゆる属性によって、恣意的に個人の権利を制限することができるようになってしまう。これは到底受け入れいることができない。「権力勾配」という概念は人権という原則に照らし合わせて筋が悪いばかりか、フェミニズムが拠って立つ基盤を自分で切り崩していることにもなる。
女性差別の撤廃という正しい目的を達するために、正しくない手段を用いることは正当化できるだろうか。
これは難しいところだ。政治的な目的を達するため不正な手段を用いることが、一時的な戦略として必要であるという考えは理解できる。が、例えば共産主義革命という「正しい」目的を達するためにいかに多くの人が殺されてきたか、ということを考えると、やはり首を縦に振ることはできないだろう、という結論を暫定的にだが出すことになった。
例えばアファーマティブアクション(これは自分は否定的なのだが)なんかは、マクロな不均衡を是正するためにミクロな差別を導入する、という政策だろう。他にも、件の医大入試における女性差別問題なんかでも、一概に「差別だから悪だ」とは言い切れない事情があるのは理解できる。
社会というものは原則どおりには動いてはくれず、難しいものだなと常々思う。
ともかく、あれ以来、フェミニストたちの言説がどういうものだったのかが、なんとなく見えてきた。彼らのやり口はネット右翼よりは洗練されているかもしれないが、その本質においては何も変わるところがないことが分かってきた。
敵を作ることで味方を定義し、団結させる。それは人生に不満を抱えた人間たちを動員する効率の良い手段だ。日曜革命家が効率的に票田を獲得し、鉄砲玉を生産するための手段。こういうメソッドは社会に遍く見られるもので、今日もどこかで誰かが動員されているのだな、とネットで怒っている人を見るたびに思う。
今更気づいたのか、と言われれば返す言葉もないが、当時の私はちょっとばかり難しい本を読んだだけで社会については全く無知な学生だったのだ。ちょっと首を突っ込んだだけの段階でフェミニズムのおかしさに気づき、取り返しがつかなくなる前に抜け出せたのは僥倖だったのではないかとも思う。
昨今、TERF関連でまたフェミニズムが面白いことになっており、トランスジェンダーに対するフェミニストたちの態度を見ていて、あの時フェミニズムから離れた自分の判断が正しかったことを再確認している。そのことにはなんの喜びもないが、少なくとも自分がもう彼らの一員でないことは嬉しく思うし、あの集団的な狂気から一人でも多くが目覚めてくれれば良いと思う。
教訓があるとしたら、人々の情動を喚起して動員する手口を直に学べたことと、原理原則において一貫性を保つことの重要さだろうか。社会運動自体が不要だとは思わないが、少なくとも自分は、正義を叫ぶ人間の言葉を、以前よりずっと注意深く観察するようになった。それとリベラルが必ずしも味方だとは限らないということも学んだ。