はてなキーワード: 強者とは
立派な仕事してるのに「自分の仕事なんかしょーもないもんですよ」と謙遜ができる人間が本当に少なくなった。
たいていの人間、勉強仕事がこんなに大変だとか、家事育児が大変だとか言って愚痴ばかり。(そしてそれをこなしている自分凄いでしょ、という心)
自分のやってることなんか誰にでもできますよ、なんてとても言えないだろう。
最近はCMとか見るとどの企業も「社会の誰かの役に立ってる」的な、なんかふわっとした良い感じのポエミーなキャッチフレーズで自社を気持ち悪いくらい賛美してるものが多い。
社長やら実業家やらが驕り高ぶって謙虚さをしばし忘れてしまっているのはまだいいが、水商売やら配達員みたいな連中まで「誰かの役に立つ大事な仕事だ」、とかそりゃ需要があるから金が入るんであって必要不可欠な仕事だし誇りを持っていいことなんかめちゃくちゃ当たり前なのに、自分に自信が持てないでそんなポエムに縋ってる姿が哀れで仕方ない。
そんな薄っぺらな当たり前のことしか言わんポエムがないと自己肯定できんのかと悲しくなる。
一番典型的なのは、昔は芸人とか芸術家なんかはめいめい自分の仕事はしょうもない、俺らは落伍者だ、道化だと自虐していた。学問ばかりをやってる研究者なんかも、自分は社会からはみ出た仙人みたいな存在であること認識していた。
今そいつらに位置するYoutuberやらなんかは完全におごり高ぶってわけわからんポエムを吐いて自分の仕事を神格化している。
研究者や専門家はまるで世界の中心にいるかのような感覚で仙人である自分を自覚せず、机上だけの論理で現実的な生活感覚のないまま好き勝手に本を書いたり、コメンテーターして世の中をかく乱している。
とにかく自分のことを良い感じに見せることしか頭にないやつが多い。
別に「自分はしょうもない人間」でいいじゃないか!そして「しょうもないなりにはそこそこやれてるな」って、内心で思ってればそれでいいじゃないか!
そりゃ誰だって内心自分の仕事を誇りに思ってるし、でもだからってそれを他人にわかってもらおうなんてしなくていいし、自分の仕事が一番偉いと思いながらも、表面上はお互い立てあってたらいいじゃないか。
日本人の謙虚さとかは、それを逃げ道にして臆病なだけの人間が増えたせいでいろいろ言われるが、やはり素晴らしい美徳だと思う。今一度取り戻してほしい。
現代では自分のことを下げて言えるのは強者の特権で、自分なんかしょうもないですって言えるほど余裕のある強者がもういないんだろうか。
等身大の人間を描いたアイドルアニメは「この程度で悩んでんじゃね―よ」「脚本都合の鬱とかいらねーんだよ」と言われてしまう。
もはやアニメのアイドルにウジウジと普通の悩み方をするのなんて許されないんだ。
成長、それも絶対的に肯定するしかない成長の糧とする悩みしか視聴者は求めない。
愚かで人間臭いから悩むのではなく、無限に成長する可能性を秘めた怪物だから、どこまでも高みを目指しそれ故に自分の至らなさと何度でも向き合う、その過程の悩みだけがある。
鬼滅の刃の炭治郎が口にした「強くなるほどに自分の弱さがよく分かる」という号泣。
強者が強者故に壁に当たり、強者であるが故に素早く乗り越えまた強くなる。
その強さだけを見ている。
「努力する姿を見せるのがアイドル」であるとその昔誰かが言っていたが、その努力のレベルが凡人と同じでは許されない。
無限に努力してなお更なる強さを求める姿をオタクはアイドルアニメに求めているんだ。
人生が本当に2周目の超常的存在や、常人なら人生を3周しても得られない精神性を持った小学生のような、絶対的で圧倒的で完璧で究極の存在でなければ「アニメのアイドル」たり得ないわけである。
恐ろしいものだな。
どっかのアニメで「神アイドル」という言葉があり、それが本当に天上の世界に挑む存在になっていたが、まさにそのレベルじゃなければアイドルアニメのアイドルじゃないんだよ。
等身大の人間を描く場所としてもはやアイドルアニメは相応しくない。
っていうかそういうことを言いたいわけじゃなくて、
貧しい人が多いと経済も回らなくなるから、その仕組みがサスティナブルじゃないね、
他にもそういうシステムになってるところあるね、ってこと
なんでお前に余裕がないのかというと、社会が持続可能じゃないからなんだよ
たとえば国民年金は持続可能じゃないから、俺らから大金を徴収してるだろ?
この国民年金みたいな、弱者の犠牲のおかげで成り立つシステムが世の中にたくさんあるわけ
それを「改めようぜ!」っていってるのに、弱者が「はんたーい!」っていうんだから、強者は「にっこり(まだ搾取できる!)」
谷口被告は鹿児島県出身で中学校を卒業し、その後、風俗店で勤務していた。
しかし、仕事が少なかったことから去年の4月、大阪に移り住み風俗店で働くことを決め、
https://news.yahoo.co.jp/articles/55020266643d32383f66aee3e0bbaf2ad693d1e9
弱者男性が子供を作れないまま死ぬのに対して、弱者女性は33歳の時点で13回出産していたりする。
なんだこりゃ、ひでえな、と思うようなブコメを見かけて、そのユーザーのほかのコメントのざっと流し読みしてみたら、障害者だった。
多くのコメントで「自分は障害者だけど云々」みたいなアピールじみた前置きを繰り返していた。たとえそれが不要と思える論旨でも。
普通の人だったら増田で吊るし上げたり同じブクマで当てこすりを書いたりしたいところだったのだが、控えておいた。
健常者・障害者とは関係なく人として無茶苦茶なことを色々書いていたんだが、障害者だと知って責める気持ちが失せてしまった。
きっと楽しいことよりもつらいことのほうが多い人生だっただろう。
そう思うと、その人が頭のおかしい理屈で無差別に毒コメントを攻撃的に吐きまくって周囲にいやな気分を撒き散らしていることを、自分が責めてはいけない気分になった。
自分にこの人を指弾する資格があるのか、気持ちの奥底では自信が持てなかった。
本来、クソなコメントはクソだし、それを書くやつもクソだ。健康上の境遇は関係なく、みんな平等であるはずだし、平等であるべきだ。障害者だからといって大目に見てやる義理はない。それは頭の中ではわかっているけれど、自分が健常者であることの後ろめたさが通せんぼしてくる。
俺に限らず多くの人はそういう感情を抱くだろうし、障害者は社会的にもそう扱われてきたはずだ。
いたわられ、保護され、優遇され、そして、多少のことは大目に見られる。
その結果、厚かましく・尊大になっていってしまう弱者もいるだろう。
社会的弱者であることを笠に着て理不尽な要求を通し、利権を手にする人権団体もある。
社会的強者の抱く後ろめたさにつけこんで大目に見てもらおうという手合いだ。
むかしは同和問題、今は女性問題がそうなりつつあるのかもしれない。
どれほど社会がユニバーサルでバリアフリーになったところで、大元のハンディキャップがなくなるわけではない。ハンディキャップが存在する限り、社会的強者の後ろめたさもまた存在し続ける。
これが解消する日は来ない。
「生まれつき優れている人間が、その優位性を思う存分に発揮することは、他者を傷つける悪しき行いだ。天より強さを与えられたものは、弱者のためにその身を捧げるべきだ。生まれつきの強者に、自分の人生を楽しむ資格なんて無い。なぜならズルいから」
俺はずっとそう思っていた。
でも……間違っていた。
今やっとわかった。
俺が間違っていた。
生まれつき優れている人間は、その力を思う存分発揮して良い。生まれつき優れているままに、幸せになっていいんだ。
俺を苦しめていたのは、この世界に無数にいる生まれつきの強者じゃなかったんだ。
強者はただそこに強くあるだけ。
そして、その強さによって突き進む未知の中で、弱者に豊かさを与えてくれさえもする。
じゃあ、何が俺を苦しめていたんだ
U149を前に強者への嫉妬に生きる道を諭されてから2ヶ月ぐらい考えていた。
答えは得た。
俺の敵は「他の子は出来ているんだから、貴方も頑張りなさい」だったんだ。
俺はずっと比較されることに苦しんでいた。
「なんで他の奴は出来ているのにお前は出来ないんだ」といつも比較されていた。
生まれつきチビで親譲りの運動神経の鈍さに悩む俺は、体育の授業では教師からも学友からもボロクソに「舐めとるんか?」と人格を疑われ続けていた。
勉強でも得意科目と苦手かもを比較されて「なんでこんなに差があるんだ?されはやる気がないんだろう」と貶されたこともある。
他人や、得意なことをしているときの自分を使って、自分が自分なりに真剣にやって結果が出なかったことを否定されると、本当に心底辛かったんだ。
生まれつき太りやすい人は「食べても痩せない」という言葉に傷つくらしい。
でも本当にその人を傷つけているのは「どうせ影で沢山食べているんでしょ?そうじゃなきゃそんなにデブじゃないよ」といった言葉を思い出してしまったことなんじゃないだろうか?
俺はやっとその事がわかってきた。
U149を見る前の俺は、すげー奴らを見ると、心のなかに「コイツら基準で比較されたら、俺はいよいよコテンパンにされてしまうだろう。どう頑張ってもこんな事できないのに、やる気を出せ嘘つきは死ねと言われるんだろう」という恐怖が湧き上がっていた。
そして、その恐怖の原因はすげー奴らがすげーことをしているせいなんだと勘違いしてた。
違うんだよ。
憎むべきは叩き棒にされた側じゃない!
叩いてくるやつなんだ!
俺はやっとわかった。
本当の敵が見えた。
ウクライナでは体操着のことをСпортивний купальникと呼ぶ。ウクライナ語のкупальникはロシア語のКупальникと同じく、水着も意味する言葉だ。ロシア語とスペルは同じ。Спортивнийとはスポーツを意味する。
19世紀には、レオタードは、体操選手、強者、曲芸師などのサーカスでのみ使用されていました。原則として、その上にショートパンツまたはスカートが着用された(たとえば、パブロ・ピカソの絵画「舞踏会の少女」)
伸縮性のある生地がなかったソ連で、最初にニットレオタードで練習やリハーサルを始めたのはバレリーナのマヤ・プリセツカヤ。海外ツアー中に自分用に購入した。彼女は、 1973年にフランスの振付師ローラン・プティ(衣装デザイナーのイヴ・サンローラン)によって彼女のために上演されたバレエ「薔薇の死」で、伸縮性のあるレオタードをベースにした衣装を着てソビエトのバレエの舞台に初めて登場したそうである。
マヤ・プリセツカヤは先日の亜留間次郎さん(@aruma_zirou)に言及した記事で、レオタードを特注していた人のことだ。
一応通販でブルマを見つけたが、訳語の関係上ブルマか水着かはわからない。
(купальник、burumaで検索)
https://shafa.ua/women/nizhnee-bele-i-kupalniki/kupalniki/125510273-plavki-zhinochi-kupalni
https://shafa.ua/women/nizhnee-bele-i-kupalniki/kupalniki/125446756-trusiki-vid-kupalnika-batal
また、ソ連時代のものを画像検索しても、ロシアのものと資料が混ざっている。
所でグーグル検索って、言語設定を変えると検索結果が若干ぶれる。どういうアルゴリズムなのだろう?
今度はもう少しウクライナのブルマについて調べるか、エアロビの衣装についてかな。
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D1%83%D0%BF%D0%B0%D0%BB%D1%8C%D0%BD%D0%B8%D0%BA_(%D1%81%D0%BF%D0%BE%D1%80%D1%82%D0%B8%D0%B2%D0%BD%D1%8B%D0%B9)