2023-06-30

障害者ブクマカへの遠慮

なんだこりゃ、ひでえな、と思うようなブコメを見かけて、そのユーザーのほかのコメントざっと流し読みしてみたら、障害者だった。

多くのコメントで「自分障害者だけど云々」みたいなアピールじみた前置きを繰り返していた。たとえそれが不要と思える論旨でも。

普通の人だったら増田で吊るし上げたり同じブクマで当てこすりを書いたりしたいところだったのだが、控えておいた。

健常者・障害者とは関係なく人として無茶苦茶なことを色々書いていたんだが、障害者だと知って責める気持ちが失せてしまった。

きっと楽しいことよりもつらいことのほうが多い人生だっただろう。

その結果、世を拗ね、人格ねじくれてしまったんだろう。

そう思うと、その人が頭のおかし理屈無差別に毒コメント攻撃的に吐きまくって周囲にいやな気分を撒き散らしていることを、自分が責めてはいけない気分になった。

自分にこの人を指弾する資格があるのか、気持ちの奥底では自信が持てなかった。

本来、クソなコメントはクソだし、それを書くやつもクソだ。健康上の境遇関係なく、みんな平等であるはずだし、平等であるべきだ。障害者からといって大目に見てやる義理はない。それは頭の中ではわかっているけれど、自分が健常者であることの後ろめたさが通せんぼしてくる。

俺に限らず多くの人はそういう感情を抱くだろうし、障害者社会的にもそう扱われてきたはずだ。

いたわられ、保護され、優遇され、そして、多少のことは大目に見られる。

その結果、厚かましく・尊大になっていってしま弱者もいるだろう。

社会的弱者であることを笠に着て理不尽要求を通し、利権を手にする人権団体もある。

社会的強者の抱く後ろめたさにつけこんで大目に見てもらおうという手合いだ。

むかしは同和問題、今は女性問題がそうなりつつあるのかもしれない。

どれほど社会ユニバーサルバリアフリーになったところで、大元ハンディキャップがなくなるわけではない。ハンディキャップ存在する限り、社会的強者の後ろめたさもまた存在し続ける。

これが解消する日は来ない。

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