はてなキーワード: フランクとは
私もあなたと同じく特に拒絶感は沸かないタイプだったし、どういうわけかそのうちの一人と交際して結婚までしたw
私の見解では、多分彼らにとってそれは「シモネタ会話の延長」なんだと思う。
シモネタが1対1で話せるフランクな関係→じゃあ、自慰してますよ~ってアピっても引かれないか!?どうだ!?・・という感じで
よりプライベートなシモネタを赤裸々に見せても引かれないかどうか、あなたとの関係性とか距離感を測っているのではないかな。
記事中の彼は「実はさっき自慰してたんだよね」という微妙に奥ゆかしい言動から「堂々と宣言してから自慰しに行く」というあけすけな態度にエスカレートしているけど
そのようにだんだんエスカレートさせていけば最終的にはあわよくばオナ見せスカイプやセフレ関係になれるかもしれない、と考えているのかもしれないよ。
どうせ毎日着るなら安くかっこよく着たいよね。
システマティックにスーツを揃えたのでそのノウハウを残そうと思います。
長文ごめんなさい。
大体5分くらいで読み終わるかと思います。
対象としているのは20~30代の男性で接客が必要となる職種の人。
ただし、ベースとなる着方なので上の年代の人、他の職種の人でも問題なく利用できます。
正直、初期投資にお金はかかる。10万円は見積もっていてください。
だけど、ランニングコストは無駄がなくなるので安く済むようになります。
ここではスーツ周りをダブりもれなく効率的に抑えていきます。(ほんとに基本の基本です。)
日常ではベースのラインで着回しを行なっていって時折、「遊び」を加えるような着方を提案しています。
なのでシックに行きたい方もフランクに行きたい方も対応している選び方です。(この点については後述)
ここでは扱わないのでぐぐってみてください。
ただ、最近はどちらがどっちともいいがたかったりするらしいです。
真面目に行きたい方は英式を、チャラく行きたい方は仏式で揃えてください。
着回しがヘビーローテションにならないようにもう一着買うことをお勧めします。
茶色のスーツもよく目にしますがこれは偉くなってから着ましょう。おじさん色です。
好きなものを選びましょう。
太いものと細いものがあります。これについては後述のVゾーンで扱います。
ライトは2~6月頃を目安にします。お店には成人式後にラインナップが揃います。
ダークは10~2月頃を目安にします。お店にはクールビズ後にラインナップが揃います。
クールビズをしない古風な会社さんはライトの期間を8月まで伸ばしてください。
好きなのを選びます。柄物とかはおじさん臭くなります。それも好みですが。
ベースの3つ(黒灰赤2紺2の6本)は古くなったら同系統で買い直します。
そしたら流行色や好きな色を買い足します。これは流動的にサイクルさせる層になります。
そうすると10本くらいになるでしょうか。ここらへんがちょうどよく着まわせる本数になります。
襟には長さと開き具合があります。
好きに選びます。
ネクタイとYシャツの組み合わせには終る事無き戦いがあります。
流行によって揺さぶられてしまうので。(店員さんは基本流行で進めてくる。)
この3つができれば十分に思います。
黒(※)と茶があります。
上2つを揃えたら
すこし遊びを加えると良いでしょう。
シューキーパーを買っておきましょう(3000円~)
それといっしょに消臭のおまじないの10円玉をいれておきます。
こういうのって普段教わらないことだなって痛感しました。
一人だけではもったいないので、ぜひますだのみなさまもどうぞ。
番外編もできたら書いてみます。
http://anond.hatelabo.jp/20090614035457
2年前に書いた日記を、見つけた。 そして、そうしてはいけないって、わかっていながら、でも読み返してしまった。
あの夜、二十代後半だと言った俺は、当然ながらあれから二年分だけ歳をとっており、それはつまり三十路を超えたとか超えないとか、まあそんなところなわけだが、結果、そうして歳を重ねた分だけ、あの時誓った「夢」に近づいているのかと言えば、そんなことはまったく無くて、今では、「やっぱり俺の人生はそんな風にできていないんだなあ」、とか、「人生は平和が一番ダヨねえ」、とか、そんな言い訳をするのが精一杯の良い歳こいたおっさんになっている。
へへへ。期待させてごめんね。あのとき熱くなっちゃってごめんね。とか思う。
いや別に誰もあんなの憶えちゃいないんだからいいんだけど。でも、俺が思い出しちゃったから、とりあえず俺はあんときの俺にはちゃんとあやまんないとな、と思って。
ははは、うわあ、カスだなあ俺。すんごい気い使いのカス。謝るって、それはただ「許し」が欲しいだけの今の俺のエゴだろが。ははは、まあ、まあいいや。加害者は俺で、被害者も俺だ。
んで、あれから二年の間だよ、そこで俺が何をしたか。について。だ。
あるいは、あの熱狂タイピングの夜が開けてその朝、俺がまず何をしたか、なんだけど。今さら言い訳しても仕方ないんだけど、もういいや。言うと、こうだ。俺は寝てた。はいはい最悪だなと。
でも、まあ、とにかく、現実は残酷だ。夢は夢だ。期待は裏切られる。想いは通じない。そんな風に考えるんだよ。これが世界のユージュアリー・ストーリーだって。そういうことだよ。みんな。まあ、みんなのことは知らないけどね。
とにかく、人間はそんな簡単には変わらない。ってのが俺の言い訳。それが泥酔した次の日ならなおさらだ。泥酔だったもん、あんとき。いやまじで。
俺は、その朝、一旦は朝の太陽の眩しさに目を覚ましたんだけど、でも駄目だったんです。つまりあまりにも泥酔していた前夜の熱狂のせいで、何もかもが億劫だったんです。夢は?って聞こえてきました。心の奥から、でも、俺は眠いから、仕方なかったんです、「夢は睡眠の中にこそあるもんだ。ファックオフ。寝ろ。どうせみんな死ぬんだ」って、自分と自分の中の修造に言い聞かせて、だから、それでもう一回寝たんです。「無理スンナよ俺。辛いときは休もうぜ。」って。そう俺の中の、修造じゃなくて、なんか気のいい奴っぽい奴、ユースケ・サンタマリアみたいな奴が言ったんです。そういう奴いるよね。なんか優しいのか見下してるのか、人の失態見てほくそ笑んでるのかわかんない奴。まあそれが俺の本質なんだけど。
とにかく、んでもってそんな俺の偽りだかなんだかの優しさみたいなもんに甘えた俺は、会社なんかも華麗に体調不良の有給消化ですわい。ってんで、電話一発休みます、すんませんってことにして、それはまあ別に罪悪感なんかないから、その後普通に昼まで寝て、起きて、うーん。とか思ってたなあ。いや、何か違うだろとか思って。
いや、会社を休んだことなんかは、どうってことないんです、マジで。年に一回、風邪引いたって言って休んで、それで誰かに迷惑かけたり、恨み買ったりするような、そんな半端な仕事も付き合いもしてないし、えっと、ラブ、アンド、ピース?だっけ?当時の俺ww それって要するに真面目にフランクに。なんだけど、まあ、それなりにちゃんと仕事やってたってことなんだけど。まあそんなことで仕事なんてどうでもよくって。
だからその日、俺が感じた違和感は、それじゃなくて、つまりは昨日のアレのことなんです。「夢」です。。俺の夢。きゃー、ああ、俺、言いたいこと言っちゃったなあ、ついに。言葉にしちゃったって思いました。まじで。どうなのよ俺。とか。
昼に近くの定食屋でミンチカツ定食(チョーうまい定食屋なんだなこれが)大盛り食べながら、真面目にそのことについて思いました。
でも、なんか駄目でした。もうこの先の思考書くのめんどくさくなっちゃったから結果だけ言うけど。
駄目でした。俺、駄目みたいです。なんかいろいろあって、あるいは何にも出来なくて、駄目でした。俺は俺を世界に認めさせることは出来ないんだって、思い知りました。はあ。だけど、でもちょっとは頑張ったんですけどね。でも結局、どっかで諦めちゃったんです。今思えばたった二年間だったのに、それなのに諦めちゃったんだなあって思います。でもそれが俺だったんです。ああ、なんか泣けるな。って、しっかり泣いたけどね。ちゃんと、かっこ悪く。ダサい感じに。
夢って、やりたいことやってくのって、それってまあぶっちゃけ才能だけど、
それにプラスして、本当に諦めないことだな、って。どこまでも意志だな、って。夢って結果だなって、行動だなって。はい。まあ当たり前なんだけどね。
でもまあ、なんか切ないです。だってあの日の夢を忘れたあと、あのエントリを読み返してしまうまでの、昨日までの俺の夢は、「明日の宝塚記念の三連複とること。」
ですから。なんすかそれ。平和にも程がありますよ俺。どうなんですか、ブエナですかルーラーですか。どっちなんですか。なんだかんだでドリーム→ハートビートとかなんじゃないですかって。そんなこと思ってましたよ。ああ、すげえ楽しいです。
なんて俺、だけど、だからって、あれから毎日、あきらめて、とか、いいかげんにとか、そういう風にしてたわけじゃないなって、思うんです。ちゃんとやってね、んで諦めたんです。
だからまあ、いいんじゃないかなって。これでやっと、諦められたんだ、ってね、逆に。
そのことを、ちゃんと諦められる程度には、お前頑張ったねって、言えるくらいはやったね。って思うから。
だから俺、あんときの俺、許してね、お前、才能はちょっとだけあったよ。だけど、やっぱりちょっとだけだったから。ちょっとだけの才能は、異常な努力を必要とするから。だから無理だわ。うん、まあ、だから、ごめん怒らないで。俺もできるだけやったんだから。まあ、風邪引いたら寝てたし、睡眠時間は最低6時間はとか、その程度の我侭言って、それを超える努力はしなかったけど、でも、それってお前もそうだよ。おまえは俺だし、まあいいじゃん。でもちゃんと今も生きてるよ。サラリーマンとしての俺は、お前は、来る日も来る日も万事好調だよ。だから、大丈夫だよ。でも、ごめんね。本当にごめん。
ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
追記。2011.6.26 18:32
阪神競馬場、第52回宝塚記念、芝2200m。午後3時40分、俺は阪神競馬場メインステージ中央にいて、気だるい雨上がりの湿気と、会場の熱気の中で汗だらだら流しながらファンファーレを聞いていた。
3-7-8。俺の夢。ブエナが絡んでくることはわかっていたんだ。それからパドックですんげえいい感じだったハートビート。直前に雨が降って、うーん、こりゃどうなんだろ。ってなってから、まあいいや、わかんないからルーラーシップ。これだなと。
ものすごいハイペースでレースが立ち上がって、1,2がさらに3コーナーまでビュンビュン行ってた。会場が沸いた。中間タイムが表示されて、会場がさらに沸いた。早すぎる、なんだよこれ。こんなペースで持つわけないぜって、先頭集団は死んだなと思って、うへへ、俺はほくそえんだ。
どこにいるのかよくわかんないハートビート。だからこそいい。うしろでためとけ。まちがいない。とか思ってたんです。
直線に入って1番が終わった。会場から唸り声が聞こえた。だけど、アーネストリーがぜんぜん落ちない。すんげえの、ぜんぜん走るの。圧倒的だった、こんなの勝てない。6番人気ぐらいだったくせに。終わってみたらレコード叩き出しやがってんの。なんだよ、そんでブエナ。ちゃっかり2位だし。どうでもいいわい。
まったく駄目だな。
そのあとパドックで眞鍋かをりの全力疾走を見て、おいおい、がんばってんな同世代よ。とか思って、そんで悲しくなって帰った。
追記2。2011.6.27 18:46
くどいようだが、最期に一つだけ言わせてくれ。いや教えてくれ。誰でもいいから、正直に真実を教えて欲しい。
それは、「あの時、俺達の前を、谷間をぶるぶる揺らせながら駆け抜けた眞鍋かをりは、本当にノーブラだったのか?」
ということについてだ。
非常に重要な問題だ。俺は三階フロアから眺めていたからよく解らなかったんだ。たしかに谷間ははっきり見えた、
そして、それはまるでワガママに揺れていた。
だけど、それがノーブラなのか否か、それを見抜く術は俺には無かった。
ブログでは、たしかにローズキングダムが来たらその時はノーブラになる、という風にも読めるし、
あるいは、それとは別に、私今日のレース回顧はノーブラで出るわ!というワンダフルな告知ともとれる。
なあ、どっちなんだ。
気になって自分の夢に集中できない。
少々前の記事だが、、
【ひろゆき氏「無職でリスクなく犯行予告する"無敵の人"が社会に影響力…3回で死刑とか、ルールない限り対処困難かも」】
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51323231.html
「犯行予告をする無敵の人」というより、犯行予告をして脅かすこと自体も犯罪だし、明らかに風評被害などの実害を出してる中傷犯達はいつまでも絶えることがない。
手が付けられない、関わりたくない、という意味では、南米の麻薬組織とか西部劇の盗賊団と近しいものがある。
日本のこの「無敵の人」達も麻薬組織やヤクザと同じく「文句があるなら、それ以上の制裁・報復をしてやる」という気分満々だろう。というか、少しでも刃向かえば際限なく卑劣な行動(匿名複アカ・自作自演や捏造)を繰り返す様はヤクザよりタチが悪い。
しかし、敢えてそうした、誰もが触れたくないモノに触れざるを得ない、改善をしようという声をあげざるを得ない、そういう気分になった。
この記事は長いし、同意ではない部分もあるかも知れない。しかし、なにかの議論の際に思い出されるようになればと願う。
20数万人が避難生活、数万人が死亡、数十兆円の被災額、全国民で数年、数十年背負わなければならないような事件が起き、連日、義援金や協力を呼びかけるテレビ報道やCMばかり流れ、町中の電灯が節電で消され、個人的にも義援金を送ったり、節電その他で生活の変化を余儀なくされているし、切実な話に立ちあう機会も多い。
直接の被災者の方々以外も、大なり小なり、震災の影響を誰もが被っているであろうし、そうした中、悪党が消えるわけではないだろうが、少なくともネットで中傷といった全く利にならないことも少しは減るのでは、というか、実際に目に見るまでは、そんなことをする人がいること自体、想像もしてなかった。
そうした実例を晒すべきかどうか悩んだが、話が進まないので晒す。
http://nosoftbankno.blog84.fc2.com/
いわゆるネガキャンサイトだが、知ったきっかけは興味深いtweetを聞かせてくれる、日本で最もフォロワーの多いmasason氏はどれほど多くの人から声をかけられてるか、、を見てみたところ、一際目立って話しかけてる(とどのつまり嫌がらせだが)no_softbankさんという方がいて、(真偽はわからぬが)発言も目があてられない程酷いが、プロフィールからリンクされてるこのサイトはもっと酷い。
このサイトを見ると、softbankがとても酷い会社に思えてきてならないのだが、元のmasason氏の発言や「できました」を見ると、書いてあることが本当かどうかより、せっかくの復興努力にただただ水を差すだけのモノということに、とにもかくも泣けてくる。
驚くべき事に、no_softbank氏にも3000を越えるフォロワーがいるので、こうした発言を実際に見てる人もいることになるし、その実害は俺が義援金として送った額を遙かに超えるのではと思うともっと泣けてくるし、一瞬、本当に心が暗闇に落ちてく思いすらした。
彼のネガキャンがなく、その被害額が抑えられれば、その分、被災者にまわり、窮地を脱する人が増える、とまで短絡的に言わないが、Softbankも被災をし、多額の復興予算を捻出し早期復旧に努めている中、こうした不安分子に脅やかされる関係者を思うと気が気じゃない。
こういうとno_softbank氏を攻撃することになるし、真偽は慎重に考えた上で発言すべきことだが、氏のような人は誰かが見かけ次第警察に通報され、即日逮捕に向かわれるべきだと思う。
この人も南米の麻薬組織同様、今は逮捕されることなど夢にも思ってないか、逮捕されてもまた出所して次の憂さ晴らしを始める、まさに無敵の人なのであろう。
とにかく「なぜ?」と思わざるを得ない。残念ながら、こうした人は一人ではないし、なぜ、彼らはこうした行動をするのか、理解ができない。
しかし、何事も理解する努力が大切だ。実際に彼らが起こす実害を減らせば、日本の復興も早まるのは間違いない。というかこの際、撲滅すべきだろう。
そして、これから書くことは、ネガキャンに明け暮れる無敵の人にも、あわよくば、救いになればと思う意見だ。
まず、個人的推察だが、こうしたネガキャンの温床はニートの童貞が主体なのだろう。
馬鹿にしてるわけではないのだが、誰にも知られぬ匿名で卑劣なことを繰り返せる人間が童貞じゃないわけがない。どんな女がそんな人間に好意を寄せ、受け入れてくれるのか。まずあり得ない。
もちろんSEXの処理はオナニーだろう、ネットにネタはいくらでもあるし、ネットができるiPhoneもタダ同然で手に入る。ニートには心強い味方だろう(これは日本だけの特権だ。他の国なら平均月収の半額近いこともままある)
そして、あきれかえる程の投稿回数や時間からも、どう考えても社会人や学生であることもない。
学校の教室や、会社の片隅でカタカタとネガキャン記事を日中から書ける剛胆さがあるなら、ここまで卑劣に徹することもないと思われる。
浮かび上がる実像としては、ニートで引きこもってエロゲーやエロサイトでオナニーばかりしてる童貞がエロゲーやAVのおかげで尊大な気持ちになって、なにかでかい存在を困らせてやろうと曲がった活動にはまってしまった、という風に思える。
当事者の人には貧弱な推察に思われるかも知れないし、こういうと馬鹿にしてるようにも聞こえるかもだが、本題はこれからだ。
次の「なぜ?」はどうして社会に出ずニートで、永遠の童貞のままでいられるか、だ。
ここで一ついっておくが、これは今、童貞の人の話ではない、「永遠の童貞」でネガキャンにあけくれる人、だ。
ネガキャンも出来るし、脱・童貞の人もいたとしたら、俺の想像の範疇を超えている。(繰り返すが、ここまで匿名・捏造に明け暮れる人間がリアルな人間を受け入れ、受け入れられるというのは考えられない)
そもそも、この記事の題名「無敵の人はいつ死ぬのか」は「永遠の童貞」という言葉がオチだったりする。
種の保存の法則でいえば、「永遠の童貞」は種を残せず、100年、200年の目線で見れば「受け入れられない」種は絶滅していく。
少なくとも、今彼らがしてるレベルの犯罪を考えると種を残すことは相当に難しいと思う。西部劇の野良盗賊団の子孫が今残ってるかと言えば、ほとんど残ってないであろう(どこかで撃ち殺されたか家族などもてずに終生を終えるのがほとんどだろう)。
そうした野良盗賊団と今の「永遠の童貞」の共通項が「受け入れらる」という種として大事な機能が欠落してる点だ。
もともとは親には「人に受け入れられる」才能があり、かつ、相手が見つかったから種が残ったのであり、その子供が童貞だったとしても「受け入れられる」才能がないわけではなく、相手が見つからないだけの期間から始まるのだが、、この「永遠の童貞」は、相手が見つからない期間、ではなく「受け入れられる」才能を真っ向から捨てている。
DNA的に欠損してたか、成長の過程で消えた可能性も考えられる。重要なのは、今後「受け入れられる」才能が再び芽生えるのかどうかだ。
DNAというと大げさかも知れないかだが、種を残すために異性を求心する活動作用を及ぼすホルモン等はDNAに依存するし、そのホルモンの分泌レベルが引きこもってオナニーするだけで済むレベルにとどまる上に、いわゆるリアルすら求心しなくなったのが先ほど上げた
「ニートで引きこもってエロゲーやエロサイトでオナニーばかりしてる童貞がエロゲーやAVのおかげで尊大な気持ちになって、なにかでかい存在を困らせてやろうと曲がった活動にはまった」というモデルの根拠だ。
彼らが突然変異的に「永遠の童貞」として種の保存に興味を無くし、そうした活動にはまってしまったのは、ネットから得る情報で仮想的に性を満たし、ネガキャンをすることで自尊心を満たし続けること、即ち、永遠の童貞になったのだと思う。
親の代までは作用した種の保存への意欲が、その代で終わってしまうことで、将来的には結局「受け入れられる」人だけで形成された社会が後生に残る。
これはアメリカの銃犯罪の発生率の低下と近しく思える。かつて、銃が一般的に入手しやすくなった時代、強盗やギャングの多発があったが、そうした武器を手にして傍若無人を振る舞う人はやはり「社会的に受け入れられない」の法則で種として減っていった。19世紀から20世紀、21世紀へと、圧倒的に銃による犯罪が減少している。
つまり21世紀でネットという武器が誕生し、使い方を間違って捏造などの中傷犯罪に明け暮れた人は種が残らず、22世紀には同様の犯罪は激減するとは思う。「無敵の人」は種として滅亡はしていく。
しかし、ココまで話といてなんだが、そんなのは他力本願過ぎるよな。
盗賊に家族を殺され家を焼かれて「犯人はいずれ死ぬから大丈夫」と言う人間はいないよな。
もっと言えば、自分の代でなにも出来ず、そのまま自然に死ぬまでを許したいか?
実際、誰もが疑問に思う事は徐々に社会的に効率よくフィルターされるようになってゆくとは思う。いずれは飲酒運転の取り締まり+刑罰くらいスムーズなシステム化が早く実現されるよう願ってやまない。違反が発覚、切符を切られて、半年免許停止、もしくは免許失効などしない限り、「仮想的に性を満たし、ネガキャンをすることで自尊心を満たし続ける」ループは終わらないんじゃないかな。
だけど、この震災後の処理にてんやわんやの中、こんなレベルの話で社会的に議論するのも、実害はともかく対象がくだらなすぎて不謹慎な気もするし、飲酒運転くらい犯罪件数が減るような行政レベルは当分ないだろう。
仮に十年後に行政改革されて、「仮想的に性を満たし、ネガキャンをすることで自尊心を満たし続ける」ループが突然終わったら、永遠の童貞達はどうなるんだろうか。
オナニーは続けられても、自尊心が満たされず、寂しくなって歳だけとって種の保存の意欲が突然起き出した頃には絶望して死んじゃったりするんじゃないのか。まぁ、正直知ったことではないし、いずれにせよ種も残さないだろうしむしろ早く死んだ方がいいという気持ちではある。
でも、そうした国の取り締まりは未来にあるだろうという願望で、今、効果的な対処方法が欲しいのだ。
この震災の最中、足を引っ張る分子を撲滅できないか、と言うのが、この記事を書いた根源なので、絵空事じゃなくて、なにかを提案したかったので、そろそろ提案の結論を言います。
有効・無効・賛成・異論いろいろあると思うが、いつの世も同じ事で、「手が付けられない、関わりたくない、」という考え方のままじゃいつまでたっても、こうした盗賊やらヤクザやら無敵童貞やらは消えないということで、追い払うには大勢で「受け入れない」意志を伝えなきゃいけないんだと思う。
遠回りに言ってきたけど、さっきのno_softbankというサイトもちょっとやそっとで意見したら、中の人がどんな報復感情を持つのか考えるだけでも恐ろしいが、それを越える大勢が疑問をぶつければ、この手の人は炎上状態を嫌って撤退すると思うのと。
彼らも「童貞故のアホ」と大勢に言われ続けたらリアルに悔しいと思ったり、その悔しさでリアルな女に意欲を持って、少しずつでもまっとうにならねばと興味を持ってくれないかな、と。
短絡的な話、no_softbankみたいなサイトを見つけたら、毛嫌いせずに「まず童貞捨てろ」と皆が助言をしてあげるような社会にとりあえずなれば、いつまでもくだらないことをしないで、種を残せるくらいの人間になろうとするんじゃないかな、と。
また、種の保存の法則でいえば、強い種ほど子が少なくなる、つまり「無敵の人」のままでは種は残せない。
等身大で弱い自分から始めたほうが、母性の刺激も手伝って、リアルに種を残す機会が増えるもんだと思いますぞ。
今こういうと不謹慎かもだが、虚構・捏造で下らないネガキャンにはまってリアル童貞を一生続けるってのはDNAが壊れた馬鹿だと思うし、そんなもんに執着しててもしょうがない。一刻も早く、誰かの被害になることを繰り返すのは辞めたほうがいい。
最後に無敵童貞の人を擁護すると、世間は世知辛いし、なかなか受け入れてもらえない中、エロゲの中の人とかは受け入れてくれてはまって尊大になって俺も世の中にもの申すぜ!と思っていろいろ間違った若者、か、そのまま歳とっちゃったおっきな若者なのかもだけど、なにをやってもすぐに「死ね」って言われすぎて、「死ね」というのがとてもフランクな挨拶に勘違いしてる状態の人を作ったのも社会構造の膿みと思えなくもない。
今の俺の結論では、no_softbankのような糞虚構童貞匿名アカウントはどんどん晒して「役に立たないネガキャンやめろ。生涯童貞でいいのか」と炎上するほど多くの人からの忠告が続けば腐った自尊心も意味をなくして撤退するんじゃないかと思うし、もし身近にno_softbankの本体がいたとしたら優しく向き合い、リアルで生きようと思わせるような世の中が今はいいと思う。
長かったがそれが言いたかった。
の4つである。
尚、ここで挙げる4つの思考は殆どがマイナス思考の一部と思ってもらっていい。
1つずつ説明していこう。
これはあらゆることを必要以上に深読みしてしまう思考のことである。
「相手がこのように言ってきた。率直に意味を汲み取るとAという解釈が出来るがもしかしたらBということを伝えたかったのかもしれない。」
これがプラス的なことだったらいいかもしれないが、マイナス的に深読みしてしまった場合、精神的に来てしまう。
極端な例を挙げる。
これが深読み思考である。以前の私はこの傾向が顕著であった。
これは精神病の原因にもなりかねないので出来るだけ早く修正するべきである。
修正方法としては「そんなことはない」「気にしすぎだ」と割り切ることである。
ある程度の反省思考は自分の行動を矯正し、より良い人生を送ることができるが、ここで挙げる極度の反省思考はそうはいかない。
Aに仕事を頼まれた。「はい」と言って受け取ったがあそこは「分かった~」とフランクに返した方が良かった。
これはそこまで害は無いにしても直した方がいい。
「過ぎてしまったことはしょうがない」と割り切ろう。
普通の人ならすぐに実行してしまうが、この思考は何かをしようとしたときに色々思いを巡らせて、開始が遅れたり、最悪の場合中止してしまったりする。
Aに仕事を頼もうかな。でも無理すれば自分で出来るけど、時間的に厳しいな……どうしよう……頼むのは止めよう
上が例である。
良く言えば「じっくりと考える」と言えよう。
判断基準を設けたりして、フィルタリングして決定していこう。
これが出来る様になったら普通の人と同様にすぐ実行できるよう努めよう。
能動的でなく、誰かにアクションを起こしてもらうのを望む思考である。
この仕事一人じゃできないなぁ。でも頼みづらいし……忙しそうにして向こうから手伝ってくれるよう仕向けよう。
上が例である。この思考は非常によくない。
まず貴方の印象が悪くなるし活動の開始が遅れる。
この思考は優先的に直すべきである。
解決方法は能動的になる、だけである。
ヨーロッパ中世とはどんな時代だったのかを、独自性と一般性を交えて、絶妙なバランスでまとめている。
本書の主要な記述の中で、特に気になったところだけ簡単にメモ。
・封建制度が成立するまで
→ローマ帝国崩壊後、ゲルマンによるヨーロッパ治世は次々に短命に終わった。(東ゴート、フランク、西ゴート、ヴァンダル王国)。背景にはゲルマンが信仰するアリウス派とローマ人が信仰するカトリックという宗教面の対立があった。上手く国がまとまらないままに、9世紀頃からノルマン人の侵入が始まる→略奪による領土の荒廃→国防は機能せず、地場の権力者が城壁を作ってごく小さなテリトリーの防衛を行う→そこを中心に農民があつまり、商人があつまり、騎士が集まる。自治の中心が地場の領主にシフト(国王の形骸化)。
→ヨーロッパの騎士はドライな権力関係で主君とつながる。日本の武士は忠義で主君に仕える。従って「二君に仕えず」が絶対だった日本とちがって、ヨーロッパは一人の騎士が複数の主君と契約を交わすのはざらだった。戦争の時でも、ヨーロッパの騎士は「●日間まで出陣する」と契約書に書いていれば、たとえ戦闘は継続していても、途中で帰ってしまった。
→地中海商業は破壊されずに維持された。一方で、話し言葉としてのラテン語は、人々にリテラシーを身につけるボトルネックとなった。
→皇帝の方が一段上。皇帝はキリスト教の神に認められた支配者。
「騎士道」の盛衰
→封建制の発達とともに、先頭の仕事が少なくなった兵士たちの間に生まれた。騎士が時代遅れになるのは、1400年頃の100年戦争期あたりから弓矢や大砲の技術が発達しすぎて、鎧の防御では間に合わなくなったためだ。彼らはぜいたくを美徳とした点において日本の「武士」とは違う。また、騎士は無学だった。文字が読める人間はほとんどいなかった。
「十字軍」の疑問。なんで、400年以上も前から取られてたエルサレムをとつぜん取り返そうとしたのか。
→背景にはヨーロッパ全土へのキリスト今日のて。土着の神々をキリスト教の「聖者」として吸収(例えば、サンタクロース)。
十字軍の帰結。
→封建領主に対する王権の強化。代わりに法王の権力は結局十字軍が失敗したことから凋落。
なぜその後イギリス、フランスがまとまってきたのに、ドイツはまとまらなかったのか。
→ドイツの皇帝は海外侵略に熱心で、内政をおろそかにしていたから(特に地中海遠征。たとえばフリードリヒ一世(1152-90)のシチリア遠征)
追加ですけど
雑談の中なかでのアドバイスや、業務への周辺知識をフランクに話すような場面で
最悪相槌さえ打たないこともある。
とありますが・・・これ私も上司と相談したことがありますが・・・
業務への周辺知識をフランクに話す のは 常識なんでしょうか? と。フランクに話すのは一部の会社の常識ということは理解しますが
『とりあえず』相づちを打つことが常識だ(マナーだとは別)と言われても困ることが・・・私の解釈的には、納得出来ていないことに相槌を打たれて、あとから、違う意見だったと分かることほど、失礼なことはないので、 同意しないなら相槌をうたないでくれ、と思うので。
言い方を変えると、心のなかではどうかなぁ?と思っているのに。学生ノリというか、なんというかで、とりあえず相槌打たれて嬉しいですか?
聡明なるみなさんはこの文章が高名な哲学者p j フランクファートの評論からとられたものだとおわかりだと思う。
だけどこの文章は別にウンコな議論に関する再確認を求めようとは思わないし、その翻訳者たる山形浩生の著作についても、彼の翻訳した1984年について語ろうとするものでもない。
あらゆる間違った教育は、顧客本位ではない。だからといって、教授本位というわけでもない。ただ、試験に向けて最適化されているのだ。
物理学では相対性理論さえ避けられる。最も興味深い現象である量子力学に踏み込むことは避けられる。
僕は常々疑問を持ってきた。学校の授業って本当に効率良いやり方なのか?
ずいぶん不恰好じゃないか。進みは遅いし、何しろ起きているのが難儀だ。
そして教科書がクソなんだ。別に分厚さの問題じゃないよ、教科書は先生の助けを得ないと使いものにならないようになっているんだ。
クソ退屈な授業とゴミみたいな教科書を組み合わせても、優れた教科書、参考書には全然及ばないんだ。残念ながら。
だけどいろいろな理由をつけてそういう本、教えてくれないんだな。
時々優れた先生がいる。尊敬できる人もいるし、その人の授業を受けてよかったなって思うこともある。
だけどそういうものは、少ない。本当に少ない。少なくとも学校教育であの先生は素晴らしかったといえる人は、5本の指で数えられる。
そしてその先生方が素晴らしい所以は、つまり結局は自分でやるしかないということを教えてくれたからだ。
実験や実践を除けば、講義によって得られるものなど、殆ど存在しない。
文学の授業を受けるならドストエフスキー読んでたほうがいいし、教授お手製の教科書を読むくらいなら、もっと読むべきたくさんの本がある。
進級できないとか、単位がとれない、以外の理由。
教養を深めたいというモチベーションで学ぶには、教養はあまりにも薄くて、退屈だ。
退屈に耐えて学ぶことが大事だとして、人生がクソの山だということを学ぶとして、もしそうなら、ヴォネガットやフランツ・カフカを読めばいい話だ。
僕が習った国語の先生は、僕が手にとったフランツ・カフカの審判を見て、こう言った
彼から教わるべきことが果たしてあるんだろうか?
これは一つの例だ。ただ、彼らを見ててわかるのは、こうやってると理解出来ないままだ、ということだ。権威を一旦ないものにしてしまうと、世の中はずいぶんおかしなことになっているように思える。噛み合ってないジグソーパズルみたいなんだ。全然適正のない人が、不思議な力で無理やり位置取っているような・・・。
夏になるとオフ会に参加したくなる、今年の夏は特に暑いので開放的な気分で何回か参加した。
mixiのオフ会は平均以上のルックスとコミュ力・トーク力のある人間にとってはイージーすぎる狩り場である。
オフ会に来る人は8割9割、致命的な欠陥品なのである、性別ごとにポイントを並べるとこうなる。
・地味メガネ=女性が好きなメガネ系男子って、理系コミ貧の事じゃねーから!モテナイ理系男子はオフ会でも決してモテません。オフ会男子の6割?
毒にも薬にもならず、刺身のツマのような存在です、せいぜい引き立て役。
・わりとイケメンだが遊び人丸出し=ダメですね、あからさまに遊んでそうな人は敬遠されがち。DQN丸出しだとあからさまなビッチしか吊れませんよ。
・変人、宇宙人=最も迷惑なパターン、空気読めない人、自分の話しかしなかったり、つまらない冗談を連発。
コミュ力以前に、それ自体困難なレベルの人。それでも地味メガネよりは有効に使えます。
・わるとフツメンだが身体的欠陥=いわゆる○ブ、チ○、ハ○これはー、、、、本当お気の毒ですね。
・バランスの取れたフツメン以上=1割いるかいないか、次回以降会ったときや、別口で飲み会を開いたりする要員にもなるので、必ず友達になっておきましょう。
・自覚は無いがビッチ(尻軽)=恋愛経験少ない若いコがほぼこのタイプ、最もイージーで即日テイクアウトできるが、人としてまだまだなので魅力も無い
厳密にはビッチではないんですがね、楽しくお酒を飲んでから誘われると、すぐ落ちるから。
・遊び好きな真性ビッチ=けっこういるけど、病気持ってそうで怖いし、平たく言うと頭悪そうな人ってメリット無いんですよね、よほど可愛くない限りはスルー
・転勤女子=オフ会女子で最も高位に位置すると勝手に思っています。友達の少なさ等からオフ会に来る理由も、本人に起因しないので。綺麗な人も多いし、性格も良い確率が高い!
しかも、オフ会開催地でのネットワークがまだ希薄なので、トラブルなどの時にも安心ですね。だから春と夏のオフ会は良いです。
20代中盤、わりと高身長、わりとトークできる、わりとフツメンな自分の考える理想的な立ち振る舞い
・オフ会男子の「変人・宇宙人」タイプを嫌み無くネタにする=これは経験上とても有効、リアルタイムの共通の話題なので。あくまで嫌み無くね。
・自分の話3割、周りの人の話7割ぐらいの気持ちで、周りから話題を引き出す=これがとても大切。グループでのトークをさりげなく誘導できるだけで、一対一で話そうとする人と圧倒的差が生まれます。
・目標は自分の中で絞って表面に出さない=フランクに仲良くなる事が大切、一人に絞って良いことなんて全然ないですからね。後日目星をつけた数人に爽やかにメッセージするわけです。
オフ会女子のあたりから、だんだん面倒になってきたのか、簡素になってきてる(笑)
異性よりも同性に思う事が多いというか、ちょっと体育会系なので「お前ら、やる気あんのか?微妙な下心しか伝わって来るものがねーぞ?」と説教したくなるのです、特に地味メガネには
地味というか、マグロですね彼らは。非モテを脱出したかったらオフ会来るよりも、スポーツの趣味でも見つけて覇気を養ったほうが良いかもしれませんね、今回はここらへんで。
いつだって「男友達」を好きになってしまう。
いつも仲良くなりすぎてしまう。
フランクに話せて、軽いノリで飲んだり遊んだり出来るそういう関係が好きで、
いつもそういう関係に持っていってた。
友達を経ないと好きになれない。当然のことだと思う。
でも男の子からしたらそんなことないんだよね。
「なんでも話せる女友達」なんかいらないんだろうな。
そんなの同性の友達で間に合わせられる。
それが恋愛対象になることなんか尚更ない。
いつだって好かれるのは「ニコニコしてるだけの女の子」なんだよね。
何を話したらいいか解らないような子。
そんな子と話して楽しいのかなあ、と思ってしまうのは、妬みがあるからだろう。
私みたいな子には需要がない。
最近しみじみ思う。
こういう卑屈なところもにじみ出てるのかもしれない。でも本当に思う。
でも結婚みたいにずーっと一緒にいる関係なら絶対に私みたいな子のほうが楽なはずだ。
著者はドイツ系アメリカ人。原著の刊行は1998年で、世界中の専門家の間に論争を巻き起こした。
本書におけるメッセージは、冒頭書き出しの1文に凝縮されている。
本書において私は、既存のヨーロッパ中心的な歴史叙述および社会理論をグローバル学的パースペクティブを用いて転覆しようと思う
「西欧=先進国、アジア=発展途上国」という、我々が慣れ親しんだ世界の図式は、たかだかここ200年程度のことに過ぎない。西欧諸国はむしろほとんどの期間を通じて世界の傍流にあった。本書において、著者はこのことを繰り返し強調する。
フランクは、まず1400~1800年の交易データを検討し、次のようなことをインプリケーションとして述べている(2章)。
最大の経済大国は中国だった。中国は絹織物、陶磁器、水銀、茶の生産などで圧倒的な輸出競争力を誇っていた(全地域に対して貿易黒字)。インドも負けてはおらず、綿織物という輸出産業があった。東南アジアも同様、香料や胡椒があった。一方で、ヨーロッパはアジアに対してほとんど何一つ輸出競争力を誇る製品をもち得なかった状態で、一貫して貿易赤字を計上していた。その結果、欧州から中国などアジア諸国への銀(貨幣)の流出が常態化していた。しかもこの銀も、もともとはアメリカ産のものを奴隷貿易でぶんどってきた物だから(当時、銀の主要産地といえばアメリカ大陸と日本ぐらいしかない)、ヨーロッパ自体は、実は世界交易について何ら価値創出に寄与しなかったともいえる。
また、大航海時代以降、海上ルートがユーラシア大陸の隊商交易にすぐさまとってかわられたという主張も、誤りとして退けられる。アフリカ周航のルートは陸上輸送とくらべて決してコストが安かったわけではなく、ポルトガルの喜望峰周りの交易も短期間しか続かなかった。(223p)
定量的には複数の歴史家の推計を引き合いに、アジア諸国の生産性の高さにも言及する。曰く「アジアは1750年において、依然として世界人口の66%未満であったが、世界総生産の80%を生産していた。つまりアジアは欧州、アフリカ、アメリカよりも生産性が高かったことが示唆される」(p305)
科学技術についても、近世以降は西欧がアジアを優越していたという”常識”を西欧中心主義の誤謬だと批判する。例えば、当時の「ハイテク産業」でもあった造船業。中国の船は、ヨーロッパよりずっと数が多く、かつ大規模で、長期り輸送が可能な代物だった(342p)。印刷業も、中国は世界のどこよりも早く木版印刷を開始し、1500年代の早くには5色刷りの技術が存在し、日本や朝鮮に技術を輸出していた。
そうにもかかわらず、「世界経済の中心国が16世紀はポルトガルで17世紀にオランダに移り18世紀にイギリスに映った」などという、まるでヨーロッパ人によって一貫して支配されていたかのような馬鹿な議論(ウォーラーステインの「近代世界システム論」])がまかり通っている。しかし「1688年に、アジア間の交易のボリュームは、いつかのインドの港からだけでも、すべてのヨーロッパ交易を合算した交易よりも10倍も大きかったのである」(p320)
であるならば、なぜ近代以降の世界経済をの主役はアジアではなくヨーロッパだったのか。この点についてフランクは6章で100ページにわたる議論を展開しているが、正直ピンとこなかった。その骨子は「アジアの景気循環的な衰退期がたまたま西欧の勃興期と重なった」というもの。まさかここで「コンドラチェフの波」を引き合いに出すとは思わなかった。これはひどい
その他、素人目に見て反射的に気になったのは4つ。
1.「一人当たり生産性が近代までアジア>西欧だった」という記述について。これの反証となるようなデータは俺でもすぐ見つかる(例えばアンガス・マディソンの推計「The World Economy」)。むしろ地域間の一人当たり生産性は、まだ優劣に決着がついていないとするのがおそらく妥当なところではないか。
2.貿易収支の考察について。1400~1800年までの2章の部分、「中国はどの国に対しても貿易黒字だった。その背景には圧倒的な輸出競争力があった」と著者は言い切っているが、ここもまた留保が必要だろう。中国の貿易保護策の影響はどうだったのか。そもそも、中国がそれだけ例外的な貿易黒字を確保していたのならば、中国のマクロ的な貯蓄率はかなり高かったといえるだろうが、その辺は、当時の中国史の中で言及はされているのだろうか。
3.フランクはまた「アメリカの豊富な銀資源を搾取してアジア世界の交易に割り込んだだけ。ヨーロッパ人自体に富の増大をもたらすようなものは何もなかった」と強調する。これも逆差別の感がある。資源や強力な輸出産業はなくてもヨーロッパ人は知恵を絞って自分のところに富を惹き寄せた、という解釈もできる。「ビジネスの仕組み」を考案した彼らの力については、それ自体十分競争優位になっている気がするがどうだろうか。
4・「オリエント」地域にあるヨーロッパの支配地域(インドにあるイギリスの所領など)を考慮にいれても2章の結果はロバストか。
5. では、近代以前のヨーロッパにおいて、オリエントに(経済力、軍事力、知識等で)負けているという認識はどれほどあったのか。NOならばそれはなぜ?YESならば、彼らはその状況をどういった風に克服しようとしたのだろうか。
会社にもよるけど、IT業界ってしょせんITなんていう新興業界ですから、大企業の割にはフランクな会社が多いと思いますんで、そんなにマナーとかうるさくないと思います。若い社員が多いので、N○TデータやN○Cのシステム部門みたいな古い会社すら割と上下は厳しくないです。お茶くみ机ふきみたいな文化はあり得ないんじゃないかな。
個人的に「ありがたいなー」と思った派遣の方は、
・あっという間に職場メンバーの名前を覚えて、電話の取り次ぎ、メモ残しを積極的にやってくれた方。
・社内の事務処理ルール、システム(大手はたいていこの辺がすごく複雑です・・・)を積極的に覚えて活用してくれた方。
ですね。後者なんかでは、数十に及ぶ社内システムの操作を覚えて、おじさま方のその手の処理(旅費精算とか決済とか・・・)をいつのまにか一手に引き受けて、偉い人達に寵愛され、今や若手の誰よりも発言力のある派遣の方とかいます・・・
それが誠実さってことだと思う。
だけどそれがbullshitの引き金になったりして。
最初はこの文章、さよならディスコミュニケーション、さよならフランクファート
そして、こんにちわ「人それぞれ」
そう書きだしてみるつもりだった。
だけどちょっと気が変わった。フランクファート読んだことなかったから読んでみることにした。
いくら衒学趣味でもちょっとくらいは真面目なところを見せたのだ。
フランクファートはアメリカの道徳哲学やってる人なんだけど、日本語訳されてるのは、on bullshitって本だけ。
邦訳は、ウンコな議論。
これは僕の独断。本文中では、おためごかしって言葉が使われてたりするけど、これはちょっと一般的じゃないだろう。
翻訳者の山形浩生は、ウンコな議論の具体例として、小泉元首相の、「人生いろいろ」という発言を例にあげている。
ウンコな議論は嘘を言っているわけじゃない。
ここで最初に戻るんだけど、「人それぞれ」もそうなんだ。
嘘を言っているわけじゃない。確かに人それぞれだ。
だけどそれは解答の放棄だ。
正解が何種類あるかはわからないにしても、全ての人が正しいってことはないだろう。
相対主義(つまり、人それぞれってこと)は何も生み出さない。
衝突も、議論も、止揚も、向上も、疑問さえも。
勿論それは日常生活をスムーズに送る上では必要なことなんだけど。
だけどその考えがウンコな議論を必要としない場にも入り込んでくるんだ。それはよくない。
言語は思考を規定する。それがビッグ・ブラザーがニュースピークを作った理由だ。
つまり、自由と言う概念が存在しなければ、人は自由について考えることをしない。
もし仮に誰かが自由について話したとしても、他の人はそれを理解できない。
ウンコな議論だってそうなんだ。ウンコな議論と真の議論を見分けられなければ、ある出来事に対して適切な理解をすることが難しくなるんだ。
ウンコな議論に慣れ過ぎていると、真の議論は乱暴で粗野なものに見えてしまうんだ。
大事なことは二つ。ウンコな議論かどうかを見分けること。
夜と霧
ヴィクトール・E・フランクル
収容所で集団を対象に精神的ケアをほどこす可能性はきわめて限られていた。これには言葉よりも効果のあるものがあった。模範だ。たとえば居住棟の班長の中に公正な人物がいたが、その毅然とした、見ているだけでも勇気づけられる存在は、ことあるごとに彼の統率下の被収容者に深く広く影響をおよぼしていた。存在、それも模範的存在の直接の影響は、言葉よりも大きいものだ。だが、なんらかの外的根拠を挙げて内的な共感をよびさますときには、言葉も有効だった。わたしは集団に話をし、外的状況を伝えて一居住棟のすべての被収容者に心の準備をさせ、精神的なケアに役立てたことがある。
あれは最悪の日だった。今しがたの点呼で、古い毛布を帯状に切り取ることも(即座にゲートルを作るのによく使った手口だ)、ほんのささいな「窃盗」も、今後すべてサボタージュと見なし、即刻、絞首刑をもって罰せられる、という布告がなされた。さて数日前、飢えかけた被収容者がじゃがいも倉庫に忍びこみ、数キロのジャガイモを盗むという事件が起こった。浸入は露見し、被収容者たちは、「侵入者」が誰か、知っていた。収容所当局は、このことをどこかから聞きおよび、違反者の引渡しを要求してきた。これを拒めば、収容所の全員に一日の絶食を課すという。もちろん、二千五百名の仲間は、ひとりを絞首台にゆだねるよりは断食のほうがましだと判断した。
この断食日の夕方、わたしたちはむき出しの土の床の居住棟にごろごろしていた。気分は最悪だった。ほとんど口をきく者もいない。なにか聞こえるとすれば、とげとげしい言葉だった。そこへ、停電が追い討ちをかけた。悪い雰囲気はここに極まった。居住棟の班長は賢明な男だったが、全員が耳をそばだてるような短い話をした。ここ数日に病死したり自殺したりした仲間のことを語ったのだ。そして、死因はさまざまでも、彼らの死のほんとうの原因は自己放棄だと言い、これについて、そしてどうしたら精神的な崩壊でつぎの犠牲者が出ることを未然に防げるか、少しばかり解説してもらいたいのだが、といって私を指名したのだ。
私は、心理学の視点から解説をしたり、居住棟の仲間に精神医として話をして、いわば医者としての立場から魂を教導するなどとんでもないという気分だった。寒さに凍え、空腹で、ぐったりとし、またいらいらしていた。だが、わたしは力をふりしぼって立ち上がり、このまたとない機会を利用した。なぜなら、今話をすることは、かつてないほど必要だったからだ。
医師、魂を教導する
こうして、わたしは語りはじめた。まず、とらわれのない目には、お先まっ暗だと移ってもしかたない、と言った。また、わたしたちはそれぞれに、自分が生き延びる蓋然性はきわめて低いと予測しているだろう、ともつけ加えた。収容所にはまだ発疹チフスはひろまっていなかったが、生存率は五パーセントと見積もっていた。そして、そのことを人々に告げた。わたしは、にもかかわらずわたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない、とも言った。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、つぎの瞬間自分になにが起こるかさえわからないからだ。そして、たとえあしたにも劇的な戦況の展開が起こるとは期待できないとしても、収容所での経験から、すくなくとも個人のレベルでは大きなチャンスは前触れもなくやってくることを、わたしたちはよく知っている。たとえば、とびきり労働条件のいい特別中隊への小規模な移送団に思いがけなく編入されるとか、同じような羨望の的の、被収容者を「幸福」で舞い上がらせるようなことは、いつも突然起こるのだ。
わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去で<ある>ことも、一種の<ある>ことであり、おそらくはもっとも確実な<ある>ことなのだ。
そしてわたしは最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。わたしは仲間たちに語った。横たわる仲間たちはひっそりと静まり返り、ほとんどぴくりとも動かさなかった。せいぜい、時折かすかにそれとわかるため息が聞こえるだけだった。人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、とわたしは語った。そしてこの真っ暗な居住棟でわたしの話に耳をすましている哀れな人々に、ものごとを、わたしたちの状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい、と言った。わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、とわたしは語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ、と。
そしてしめくくりとして、犠牲としてのわたしたちについて語った。いずれにしても、そのことに意味はあるのだ、と。犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある、と。もちろん、わたしたちのなかの信仰をもっているものには、それは自明のことだろうし、わたしもそのひとりだ、と。
わたしは、ひとりの仲間について語った。彼は収容所に入ってまもないころ、点と契約を結んだ。つまり、自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。わたしたちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことは欲しない。この究極の意味をここ、この居住棟で、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ、とわたしは語り納めた。
わたしの努力が報われたことを知ったのは、それからほどなくのことだった。居住棟の梁に電球がひとつともった。そしてわたしは、涙を浮かべてわたしのほうへ、礼を言おうとよろめき寄ってくるぼろぼろの仲間の姿の見たのだ。しかし、この夜のように、苦しみをともにする仲間の心の奥底に触れようとふるい立つだけの精神力をもてたのはごくまれなことで、こうした機会はいくらでもあったのにそれを利用しなかったことを、わたしはここで告白しなければならない。
p.135
成績のいいやつとか、文章が書けるやつが、賢いわけではない。DQN でもヤンキーでも賢いやつはいる。私は大学の教員で、入試の偏差値の低い集団と高い集団を教えてるが、偏差値が高い集団の教えるほうが苦痛だ。個人的な趣味の問題も大きいけど、学校でイイ子ちゃんできる奴の一部はアホであるからイイ子ちゃんできている部分があるように感じる。ようするに鈍感なゆえにイイ子ちゃんだったりする気がする。もちろん、アホだからDQNやっているやつもいるだろう。要は成績がいいとか、文章がかけるとか、そんなもんはアホかどうかの、すくなくとも厳密な指標にはならんだろう。(私もアホなんで、アホの定義なしに、アホについての話をしているわけだが)
私は大学の教員なんかやっていて、偏差値の低い連中にはとっても頭のいい人間と思われているようだが、実は自分の頭の出来についてはコンプレックスの塊だ。私は小学校ではおちこぼれで、中学、高校、大学、大学院のいづれでも、優等生の経験なしに、大学の教員になってしまった。今でも落ちこぼれの研究者だ。教員になれたのは、実績がないのに、なぜかひいきしてくれるエラい人たちにめぐまれたからなのだが、気持としては、教室でイイ子ちゃんしている奴より、DQN のほうに親近感を感じる。
私のように自分の中に DQN を感じているタイプの大学教員はべつに少数でなく、ただ、それのために余計 DQN にきびしくなる人もいたりして、あと、私の場合は、DQN への親近感が逆にDQN的な学生への対応をまずくしている点があったりする。だから、DQN的な学生からはきっと嫌われてんだろうなと思う。
いいたいことは、DQNからみて、「頭のいい人」に見えている人間が、全員あんたらを差別しようとしているわけではなく、なおかつ、うまくやっていこうとしても、うまくやれないことに悩んでたりすることはちょっと知っていてくれるとうれしい。それに免じて、普段、傷つけていることを許してもらえたらとか、甘えたことを思ったりする。
http://anond.hatelabo.jp/20100106225709
>あと、大学って研究機関でもあるんだろうけど、教育機関なんだから、バカを落とすなよ、と、最後に低偏差値低学歴低IQのマスダは思います。
基本的にバカを落すのは本来、バカを賢くするためのものだ。本当にバカなら、落して、もう一度勉強させて、賢くするのが愛情だろう。本音をいえば、もっともっとバカを落したい。
でもそれができないのは、成績バカが人間としてのバカのレッテルになってしまうことだ。勉強ができないことが、納豆が食べられない程度のこととして、社会がうけとめれくれるのなら(実際、その程度のもんだ。勉強なんて)、もっと学生ともフランクに勉強のことが話せるし、純粋に勉強の出来、不出来で成績をつけれる。だが、学生のプライドとか、進路のこととか、気にして成績をつけざるをえない。
世間がDQN をバカにするのは、私にも、元増田にもどうしようもないことだが、お互いに偏差値なんて、本来、人間の価値とは関係ないのだというあたりまえのことをふまえて、つきあえれば、DQN と「頭のいい」人達ももっとうまくつきあえるんじゃないかと、偏差値コンプレックスの大学教員は思うのだ。
主義主張を文章にまとめている途中で、その文面に表れている内容と私とが乖離していくような感覚を、最近何度も経験している。
何これ。よく分からん。
要は、書きたかった主義主張が適切な形になるまでまとまっていなかったわけなんだろうけれど、それにしても困ったもんだと思う。なんたって時間の無駄遣いになっているから。『おおっ、このもやもやした考えを発言しよう』と意気込んで三十分。『なんか違う』と全てを削除してしまう。馬鹿なの? 死ぬの? 先走るから悪いのだけれど、何度経験しつつも学習しない自分に腹が立ってきた。しかもこれって論理的じゃないってことなんじゃないのかな。理論的じゃないってことなのかな。【論理的】と【理論的】はどこがどう違うのかな。
話が逸れた。集中力がないのだろうか。今までにも度々あったような気がするし、今もそうだ。考えていることが次から次へと飛躍していってしまう。だから書きたいと思っていたひとつのことが書き切れない。中途半端。尻切れ蜻蛉にもならずに全削除されてしまう。しかしながら、この飛躍する考え方は変な風に帰着することもある。例えば【論理的】だか【理論的】だか分からない考え方が A→A´→a→a´→A というように、大筋が見て取れる関連性のあるものだとするのならば、私の考え方は A→Y→n→p→A のように脈絡がないのだ。これって、かなり大問題のような気がする。少なくとも、会話をするとき、相手に不必要なストレスを与えるのではないのだろうか。
困ったな。もちろん誰それ構わずにこの方法を取るわけではないのだけれど、フランクに話している内によくこうなってしまう。会話と主義主張とはまた領域が違うから一緒くたにできないか。でも、それでも面倒だよなあ。それとも、諦めずに書いてみればいいのだろうか。
で、こんなことを書いて、私は何がしたいんだろうか。分からん。無意味に思えてきたぞ。うん、そうだった。この無意味に思えてくるというのも大敵だった。私が全削除を実行する二大要因のひとつだ。いやいや、そのほうがいいのかもしれん。なんか文末まで変わってきたぞ。そんなに変わってはいないか。なんだろう、こういう文章って、人の内面を表すのだなあって今更ながらに思った。だから多分、私にはこういう文章は合わないんだろう。苦手なんだ。どうしても駄目なんだな。段々私じゃなくて、他の誰かが書いているような気になってくる。ネット上の架空人格とでも言えばいいのか。おそらく違うけれど、その人格と私が乖離していく。そうじゃないと書けない。でもそうすると私の意見じゃなくなってしまう。表層に上ってきた架空の人格が騙ってしまう。短い文ならこういうこともないのだけれどなあ。
そしていきなり人格がどうのこうのって言うもの見当違いな気がしてきた。早いな。こういうことは書く必要がないんじゃないだろうか。無駄だろうに。消せよ。削除だよ。また全削除だよバーカ。反応が欲しいわけじゃないんだよなあ。表現したいんだ。けれど、それはものすごく恥ずかしいんだ。そしてそうすることの意味を考えてしまうと虚しくなるんだ。
何この文。きもちわるい。オナニーはティッシュに包んで捨てろよ。本当に死ねばいいのに。何が言いたいのかさっぱど分からん。馬鹿じゃないの? もうやだ。
というか、増田でも何でも推敲ってするもんなの?2ちゃんでも必要なんだろうか。私はしてしまうのだけど。読まれるものだからね。だから、素早く長文が書ける人が羨ましくもある。それでも、やっぱり、表に出すにあたって、何かしらのフィルターを通して出しか意見って出せないのかな。偏った思考を垣間見せる書き方とか、一定のキャラクターとか。そうじゃないと書けないような気がする。会話にしても、場の空気っていうフィルターが存在するんじゃないかな。ディスカッションも立場ってのがあって、だからしっかりと立脚するんだろうな。
で、私にはそれがないと。うーん、そのとおりだ。どこにも属せていない。属したくない。いろんな主義主張、立場を理解したい気がするから。そうじゃないと、問題は総見できないんじゃないの? するとだけれども、私が意見を発するためには私というバックグラウンドを確立しなければならないわけだ。面倒くさいなあ……。だって、一人でグループと対峙するわけでしょう? 馬鹿馬鹿しいね。そして、そんな奴の意見なんて聴かれないだろうし、効力がないよ。
冒頭に帰依するかと思って続けたけど、どんどんどツボに嵌っていったよ。どっぴんしゃんだよ。抜けたらどんどこしょ。俵の鼠はどうしてチューなんて鳴いたんだろう。誰がお茶碗割ったんだ。
もう止めよう。意味が分からん。