はてなキーワード: イスラームとは
以前増田に「新興宗教がいかがわしいのは個人崇拝の色が残っているから」的な投稿がありました。
自分も同じ考えで、歴史の浅い宗教だと、とにかく教祖や何代目かが言うことは絶対になりがちです。
これの何が問題かというと、外から見た場合、向こうがどういう基準で動くかわからない、
なんせ上にいるやつの気分次第だから、これが実に厄介なわけです。
こういうことを考えるのは、そもそも自分が人間不信気味だからかもしれませんが、
人間のそれも感情に依存するシステムというのは、それだけでクソの極みだと思うのです。
名君というのは、どうにでも悪用できるシステムをうまく運用しただけで、
名君がいたからといって、システムまでいいということにはなりません。
そいつの息子がアホということも割とあるし、気まぐれで重税だの処刑だのやられちゃかなわん。
例えば自分は、同じ人の権利を抑えようとする勢力でも、今の日本でポリコレうるさい人に比べれば、
キリスト教保守とかイスラームとかの人らの方がまだマシだと思っています。
なぜかというと、少なくとも彼らには聖典というバックボーンがあって、
いざとなればそれをあたれば門外漢でも彼らの考えが少しは理解できるし、
もし言ってることと書いてることが食い違うようなら「お前それは違うだろ」と指摘もできる。
生物を作ったのは神で、進化論を否定しているから、ポケモンもダメということになる。
その結果は受け入れられないけど、そこに至る理屈はわからんでもない、となるわけです。
もちろん神学論争があるように、解釈を巡る争いがないわけがないのですが、
少なくともブラックボックスをブラックボックスのままブン回してくるよりはマシなわけです。
逆に言うと、ジャパニーズポリコレフリークの皆様のいかがわしさがどこにあるかというと、
とにかくそのバックボーンがふにゃふにゃであるという点に尽きます。
まず宗教がない。よその受け売りでしかない。元が感情で動いてるから理屈が毎回変わる。
http://anond.hatelabo.jp/20170606174324
『原発は安全』な神話も御用学者によって"作られ"てきた。そして事実は暴かれた。メルトダウンによって。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E5%AD%A6%E8%80%85
現代における用法を定義することは難しいが、学術的な調査を改竄ないしは恣意的に解釈し、権力者や統治者、ないしは依頼者に都合の良い結果を導き出す者がこう呼ばれる。一方で、権力者などへの批判側が恣意的な解釈に基づき自らに都合の良い結果を導き出していることを指摘・批判する学者に対して、反権力側がレッテル張りとして用いる場合もある。
現代日本においては水俣病の例が嚆矢である。1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた[1]。
詳細はナイロンザイル事件を参照のこと。1955年(昭和30年)、日本の登山者がナイロン製のクライミングロープ(以降ロープと記述する)を原因として死亡した。ナイロンは引張りについては従来の麻のロープよりも遥かに丈夫だが、鋭利な岩角などに擦れた場合には容易に切断される。これはすぐに明らかになったが、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治は、事前の実験でザイルが容易に切れることを確認した上で、公開実験ではあらかじめザイルが接触するコンクリート製のかどにヤスリがけをして十分な丸みをつけた状態で、作為的な実験を新聞記者等の前でデモンストレーションしてみせ、ロープメーカーの東京製綱および日本山岳会と共謀して、犠牲者に対する誹謗中傷運動を山岳雑誌・化学学会誌などで長期にわたって続けた。法改正で安全規格が定められ交付されたのは1975年(昭和50年)、最初の事故以降に確認されているロープの欠陥による死者(通産省の調査した範囲内での数字)は、20人を越えるとされる。なお、偽装実験をマスコミの前で実行した篠田軍治は、日本山岳会の名誉会員推薦により、1989年(平成元年)に評議委員会の全会一致で同会の名誉会員になっている。
哲学者の山脇直司東京大学教授は、安保理決議のないままブッシュ政権主導で2003年3月イラク戦争が始められたことへの日本政府の対応について、「アカデミシャンとしての私が今一番一番懸念していることは、アメリカを無邪気に支持し、フランスなどを非協力と言って批判する小泉首相や川口外相のお粗末きわまりない答弁の背後にいる『外務省お抱えの御用学者』の存在です。」「外務省お抱えの『御用学者の知的退廃』を暴く必要を今痛感しています。」[2]と書いている。また、2003年12月からの自衛隊イラク派遣を決定する過程について、政治学者でイスラーム教シーア派に詳しい松永泰行日本大学助教授は「私の知る限り、政府は研究者の実力よりも、政治家や官僚の都合で彼らが望むことを言ってくれる御用学者を起用している」と述べた[3]。
日本たばこ産業に研究費を支援してもらうかわりに、タバコを擁護する発言を行うなど、消費者の健康よりも特定企業の利益を優先するような行為をしている学者を指して使われた事例がある。[4] また、メーカーから多額の研究費を受け取っていたために、タバコと乳幼児突然死症候群との関係があるという論文が、根拠が乏しいというように書き換えられてしまったとの指摘が存在する[5]。 タバコ産業等からの研究助成については学界において問題視されており[6][7]、2003年10月22日に日本公衆衛生学会は学会員に対し「たばこ産業及びその関連機関との共同研究、及び同産業等から研究費等の助成を受けた研究を行わない。」との行動宣言を発している[8]。また、国際的にもたばこ産業による研究助成等について全面規制を求めるたばこ規制枠組条約のガイドラインが追加採択されている[9]。
今日の現実の社会の中では、例えば有力な学者が政府の公共事業などの施策に対して、自己の信念に基づく意見、思想を審議会などの場で反映させる為に、そうした機関に呼ばれる立場を確保するべく、ある種の手練手管として、権力へのおもねりと自己の真の主張を両天秤にかけながら駆け引きをする場合がある[10]。そのため御用学者か否かの線引きは困難な側面を有する。駆け引きに失敗して結果として権力へのおもねりの手練手管を権力に利用されるだけの結果となったときには、結果として御用学者呼ばわりされてやむを得ない側面がある一方、駆け引きに成功して自己の信念を政策に反映させることに成功した場合には、反骨の策士と評価される場合もありうる。また原子力発電の分野では、研究に多額の費用がかかることから権力におもねり、「安全神話」のお墨付きを与えることで電力会社等の支援[11]を受ける例があり、このもたれあいの関係を「原子力村」[12]と評される。
つ「日本国憲法」
第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何が「特権」なのかはよくわかんないけど、公有地をタダで借りた町内会が私費で祠や鳥居を建設すると神道に特権を与えたことになるらしいから(砂川政教分離訴訟)、公費で「ムスリムによって聖句を唱えながら屠殺された肉をムスリム専用の調理器具を用意して調理して公立学校の給食に出す」ってのはイスラームに特権を与えたことになるんじゃない?
ハラール食って、要するに
それで改めて思ったのは、宗教というのは、本当に当初の原型なんかねえなということである。
キリスト教にしても、イエス自身はせいぜいユダヤ教の改革派ぐらいの立ち位置だったのが、
パウロが世界宗教への道を開いた結果、今のようになったらしい。
自分は、特に宗教心もないが、たぶん統計の上では大乗仏教の信者ということになっている、
どこにでもいる平均的な日本人だ。
上座部仏教については、「あ、東南アジアあたりでメジャーなやつでしょ」ぐらいの印象しかない。
しかし、どちらが当初の精神を引き継いでいるか考えてみると、もう明らかにあっちだと思う。
確かに、ブッダは王族で、当時としては恵まれていたし、妻も子もいたらしいが、
あんな思い悩んでばかりいたんでは、俗世で生きてて幸せなわけがない。どちらかと言えば我々サイドだ。
きっと、人付き合いも何もかもが煩わしいと感じるタイプだ。
どうやら、宗教というのは、仮に個人の救いという小さな問題から始まったものだとしても、
どこかの段階で「勢力拡大」というものが、教えのうちに組み込まれるものらしい。
誤解を恐れず言うならば、それはリア充に乗っ取られるということである。
他者を救わねば自らの救いもない、とか細かい理屈はあるが、要は群れたがる人間が主流派となり、
そうでない人間はそこから追いやられたと考えるのが自然だろう。
おそらくキリスト教もまた、リア充のパウロに乗っ取られてしまった結果が今なのだ。
イスラームはちょっと別だ。あれは最初からリア充サイドだったとしか思えない。
ムハンマドは商人・軍人としても有能だったらしいし、自らジハードなんて言っちゃってる。
そしてなにより、幼妻である。リア充でなくてなんだというのか。
自分は社会性がないので、リア充のいるところでは幸せに暮らせないと思っている。
そもそも、他人との交流が苦痛だ。人に好感を持ってもらえるような容姿もなく、話せば人を不愉快にする。
だから、自分を救うものがあるとすれば、それは趣味以外にないと思っていた。
確かに、その辺を歩いている人の真似をするよりは、二次元にはまっていた方が気が紛れた。
しかし、その趣味もまた、自己完結する世界ではなかったのである。
だが、この世界にもリア充が侵入し、そして幅を利かせている今、自分は肩身の狭さを感じつつある。
ライブに通い、SNSで他者と絡む。そういう人間が、やがてここでも正統派となり、
どうやら、宗教も二次元も、もちろんインターネットも、安住の地にはなりそうもない。
自分はどこに行けばいいのだろう。