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はてなキーワード: 殖産興業とは

2023-08-01

普通韓国人「うわああああ清国占領されたけど日本に開放してもらい兆円規模の殖産興業してもらった!」

普通韓国人「よし日本政府日本企業賠償請求するぞ!」


これ意味不明だよな

anond:20230801084602

2023-05-03

anond:20230503073219

貧しい国が豊かになっていくには、政府自らが外貨借金を増やして殖産興業をする必要がある。場合によっては戦争のための資金調達必要だ。日本明治維新や、第二次世界大戦後の塵芥からの復活は政府自らの殖産興業によるものだ。

日露戦争日本政府資金調達や、ロシア政府資金調達妨害したこと日本の勝因の決め手になった。当時は金だっただろうけど、今でも必要ならドルの確保が必要だろう。

から、状況によっては外貨借金国債必然的選択肢に入る。

それから政府外貨借金を増やさなくても、産業劣化した状態財政出動金融緩和をすれば輸入が増えて、国内外貨借金が溜まっていく。

MMT自国通貨建て国債による財政破綻が起きないというのは基軸通貨国と経常黒字国のだけの話。先進国であろうと、長い経常赤字を繰り返していたイギリス投機筋にあらがえなくなっているため、単純に景気に応じての財政出動金融緩和をしたらよいという状況ではなくなっている。

anond:20230502210644

国債については自国通貨建て国債無意味かもしれないな。あっても有害といえるほどではないけど。大事なのは外貨借金による財政破綻がない限りは、財政を通じて景気調整しても大丈夫だという話だし。

ただし、明治維新第二次世界大戦後の殖産興業のように政府外国から金を借りて産業を興すことはある。だから外貨建て国債にはなる。外貨建て国債まではなくならないんじゃない?

MMT自国通貨建て国債による財政破綻がないと言えるのは基軸通貨国と経常黒字国だけだ。基軸通貨国以外の経常赤字国は、政府外国から金を借りてるか、民間外国から金を借りてるかの違いはあれど、外貨流出が起きるか、国内外貨借金はたまっていく。

2023-03-04

anond:20230304192236

そうだね。

経常赤字外貨借金がある国は、まずほかの国に物を売って外貨を稼ぐ必要がある。日本明治維新後や第二次大戦後殖産興業が叫ばれ、外貨持ち出し制限があった。

2022-02-25

anond:20220225205755

2.お米が経済を回していた時代江戸時代

現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料税金お金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。

加賀百万石」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。領地経済規模はお米の単位「1石(こく)」(≒150kg)の価値に換算して表されていました。1石は、当時1人が1年間に食べるお米の量とされていました。

また、お米1石が収穫できる田んぼの面積が「1反(たん)」(≒10a(アール))とされていました。1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼ領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります自給率の考えに似ているところがありますね。

江戸時代は、外国との貿易が限られていたのでお米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。1600年頃に1,000~2,000万人だった人口が1720年頃には3,000万人程度まで増えたと言われています(*1)。

一方で、災害異常気象によるお米の不作が原因となって幾度にわたり飢饉が起きた時代でもありました。大飢饉経験を踏まえてお米の備蓄やかんしょ(サツマイモ)の栽培奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものがあります

3. 花形輸出品だったお米 ~明治時代前期~

明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業貿易促進に力を入れていましたが、生糸お茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。お米が最も盛んに輸出されていたのは神戸港で、明治11(1878)年と明治21(1888)年にお茶を抜いてお米が輸出額第1位になっています(*2)。

どのくらいのお米が輸出されていたのでしょうか。当時の政府文書によれば、明治12(1879)年~明治21(1888)年の十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量3,129万石(約470万トン)に対して34万石(約5万トン)が輸出されていました(*3)。

輸出先は、主に英国ドイツフランスイタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。

明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました(*4)。

このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率100%を超えていたのです。

(図1)明治時代のお米の需給と輸出

(図1)明治時代のお米の需要と輸出

4. 輸出国から輸入国へ ~明治時代後期~

お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。

お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました(*5)。米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました(*6)。

(図2)お米の輸入量の推移

(図2)お米の輸入量の推移

明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。

いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています(*7)。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村米食率が上昇するとともに米食中心だった都市人口が増大したことで、お米の消費量わず20年で約1.5倍に増えたのです。

明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、明治25(1892)年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています

人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、明治44(1911)年には5,000万人、大正15(1926)年には6,000万人を超え、昭和15(1940)年には7,200万人にまで達したのです(*1)。

5. 輸入に頼らざるを得なかった時代大正時代昭和初期~

お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土朝鮮半島台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インドビルマ)、仏領インドシナタイ)が21%となっていました(*8)。

大正7(1918)年には、二年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました(*8)。

また、昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、昭和18(1943)年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内食糧不足が深刻になりました(*9)。

6. 約70年ぶりの自給の達成 ~昭和中期~

昭和20(1945)年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島台湾からの輸移入に頼っていた需給構造崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは昭和25(1950)年以降でした。タイビルマミャンマー)、米国エジプトからお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。

昭和27(1952)年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、昭和25(1950)年の938万トンから昭和47(1962)年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました(*5)。約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。

7. お米の消費減少と食料自給率低下 ~昭和後期から現在

増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、昭和37(1962)年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。

生産需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、昭和46(1961)年から生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率カロリーベース)は昭和40(1965)年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。

2022-02-24

ようやく力が全てという正しい社会に戻ろうとしている

能力主義とは必然、力こそ全てという社会容認するものであるから

優秀な人間とそうでない人間格差を作る能力主義バンザイな皆様に於かれましては

「よくやったぞプーチン、建前として戦争反対だがお前のやってることは正しい」

というお気持ちをお抱えのことと存じます

しかしこれは葛藤するものではありません

私達は力によるマウントを正しいものとして認めてきているではありませんか

人権

あぁ、人権、ありますね?

ホームレスにもヤクザにも人権ありますよね

人権ホームレスヤクザも救わない、ましてや有事にあって庶民の命を守るものでもありません

守るものは何か?

武力ですよ

金ですよ

力ですよ

さあ明治に立ち返りましょう

富国強兵殖産興業

強いものが弱いもの支配する

だいたい無能配慮する社会がマトモなわけないんだ

使えねー奴は鉄砲玉にして殺す

力あるものの気に食わないならぶん殴られても文句無用

いいことじゃないか

生きるべき人間とそうでない人間がいて

それを決めるのは力だ

力こそが全てだ

さあ来い

中国

次はお前がやってやれ

2021-11-05

anond:20211104203456

そのド田舎薩摩藩が、貿易殖産興業西南雄藩となって、徳川幕府を倒したんだから、なんというか、歴史って面白いよね。

2018-12-26

anond:20180206152647

近畿無尽銀行変遷史データベース https://www.zenginkyo.or.jp/library/hensen/

三木勧業━三木無尽

山陽金融無尽━┳━┻━山陽無尽━┓

淡路無尽━━━┫        ┃

日の丸無尽━━┛        ┃

扇港無尽━━━┳━━━東亜無尽━╋━兵庫無尽兵庫相互銀行━┳━兵庫銀行みどり銀行━┓

兵庫無尽━━━┛        ┃             ┃            ┃

西脇無尽━━━┳━神戸大同無尽┳┛             ┃            ┃

神戸無尽━━━┛       ┃              ┃            ┃

姫路船場無尽━━━━━━━━━┛              ┃            ┃

寿殖産興業━寿殖産無尽━━━━━━━━━━━━高松相互銀行━┛            ┃

七福相互無尽━━━━━━━━━━七福相互銀行阪神相互銀行━━━阪神銀行━━━━━━━┻━みなと銀行━┳━━━━━━━みなと銀行

               北但信用組合━━北兵庫信用組合━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫

               三和信用組合神戸商業信用組合━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

福知山無尽

実業無尽━┻┓

京都産業無尽┻┳昭和産業無尽昭和産業相互銀行京都相互銀行京都共栄銀行

広済無尽━━━┛                             ┃

幸福無尽━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━幸福相互銀行━━━幸福銀行━┻関西さわやか銀行

紀伊無尽━┛                                        ┃

山城無尽━━━━━━━━━━━━━━━━━━━関西相互銀行━━━関西銀行━━━━━━━━━━┻関西アーバン銀行┳━┓

華実無尽━┳━━━━━滋賀無尽━━━━━━━━滋賀相互銀行━━━びわこ銀行━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃

興業無尽━┛                                                   ┃

交野無尽金融━┳━━━━━━┓                                          ┃

大阪産業無尽━┛      ┃                                          ┃

金剛無尽━━━━━━━━━━┫                                          ┃

大阪不動無尽━━━━━━━━╋━近畿無尽━┳━近畿相互銀行━┳━近畿銀行━┳━┓                 ┃

朝日無尽大阪中央無尽━┳━┫      ┃        ┃      ┃ ┃                 ┣関西みらい銀行

大一無尽━━━━━━━━┛ ┃      ┃        ┃      ┃ ┃                 ┃

関西商工無尽━━━━━━━━┛      ┃        ┃      ┃ ┃                 ┃

日本殖産無尽━━━━━━━━━━━━━━━┫        ┃      ┃ ┃                 ┃

高田無尽━━━━━━━━━━━━━━━━━┫        ┃      ┃ ┃                 ┃

三笠無尽━━━━━━━━━━━━━━━━━┫        ┃      ┃ ┃                 ┃

大阪共栄無尽━┓             ┃        ┃      ┃ ┣━━近畿大阪銀行━━┳━━━━━━┛

摂津無尽━━━╋━━━国華無尽━━━━━━┫        ┃      ┃ ┃          ┃

浪花無尽━┳━┛             ┃        ┃      ┃ ┃          ┃

和泉無尽━┛               ┃        ┃      ┃ ┃          ┃

日本共立無尽━┳━━━━━━━━━━━━━┛        ┃      ┃ ┃          ┃

第三無尽━━━┛                      ┃      ┃ ┃          ┃

               扶桑信用組合━━国民信用組合━┛      ┃ ┃          ┃

               大阪復興信用組合━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃          ┃

               大阪不動銀行━━━大阪銀行━━━━━━━━━━━┛          ┃

産業無尽━┳━大阪無尽━┳━━━━━━━━━大阪相互銀行━━━なにわ銀行━┓           ┃

大阪無尽━━┛      ┃                        ┣━━━なみはや銀行━━┫

大阪勧業無尽━━━━━━━┛                        ┃           ┗━大和銀行━━━りそな銀行

福徳殖産━━━福徳殖産無尽━━━━━━━━━━福徳相互銀行━━━福徳銀行━━┛

関西住宅組合関西住宅無尽━━━━━━━━━━大正相互銀行━┳━大正銀行━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

               大阪北信組合━━━━━━━━┛                          ┣徳島大正銀行

富岡無尽━━━━徳島無尽━━━━━━━━━━━徳島相互銀行━━━徳島銀行━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

紀南無尽━┳━┓

新宮無尽━┛ ┣━興紀無尽━━━━━━━━━━興紀相互銀行━━━阪和銀行━×(副頭取が何者かに射殺される)

福徳無尽━━━┛

紀陽貯蓄銀行━━┳━紀陽銀行━━┳━┳━┳━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━━紀陽銀行

和歌山貯蓄銀行━┛       ┃ ┃ ┃ ┃                  ┃   ┃

都銀行━┳━━伊那合同銀行━━┛ ┃ ┃ ┃                  ┃   ┃

那賀銀行━┛            ┃ ┃ ┃                  ┃   ┃

正金貯蓄銀行和歌山銀行━━┳━━━┛ ┃ ┃                  ┃   ┃

丸栖銀行━━━━━━━━━━┛     ┃ ┃                  ┃   ┃

田辺銀行━━┳━━━━━━━━━━━━━┛ ┃                  ┃   ┃

周参見銀行━┛               ┃                  ┃   ┃

野上興業銀行━━━━━━━━━━━━━━━━┛                  ┃   ┃

              西牟婁商工信用協同組合━━和歌山県商工信用組合━┳━━┛   ┃

              和歌山たばこ信用組合━━和歌山富士信用組合━┛      ┃

和歌山無尽━━━━━━━━━━━━━━━━━和歌山相互銀行━━━和歌山銀行━━━━━━━━┛

2018-08-01

anond:20180801184347

イエズス会による侵略を察知した日本鎖国へ向かう。西洋人たちは地球破壊しながら技術力を付け、ついに日本開国させる。日本人の知的水準の高さや、労働者としての素質を知っていた彼らは、植民化する代わりに、富国強兵殖産興業によって日本から利益を得ることを選ぶ(野麦峠蟹工船足尾銅山公害などをもたらしたのは西洋人)。日露戦争勝利もまた国際金融家たちの胸先三寸で決まったこと。支那事変日中戦争)では、国民党資金提供して戦いを長引かせることで利益を得、真珠湾には使い古しの戦艦を再配備してほとんど実質的な損害なしに、日本を叩けという世論を盛り上げる、実際の歴史を知ってみれば、西洋人たちのやり方は、まさに「汚い」の一言。それにも関らず、学校教育マスコミ真実を見えなくさせ、日本人に罪悪感を植え付ける。

ついでにいえば、法による支配は、国際金融家たちの都合に合わせてできている。そのせいで、私たち私たち土地を守ることを違法とされ、(外資系企業による開発活動を否応なく受け入れさせられている。そんな世界に順応させるのが、このスレ学校のような場所なのだ

2016-07-07

銀行はなぜ合併しなければならなかったのか

江戸時代日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。

明治政府戊辰戦争後、

などといった問題対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度

というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で

といった状態で、日本近代金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本国立銀行への転換が進んでいった。

しか殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。

結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。

このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦関東大震災突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後景気後退震災によって銀行には不良債権が蓄積された。

上記のように各地に雑多に存在する金融資本江戸時代のそれを引きずっていたため近代銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。

その状態さらに 1929 年 1024 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。

かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。

こうした集権的かつ計画的経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後日本の内政を主導した。

全然関係ない話だが、社会主義国家主義反自由主義という思想セットは革新官僚リーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。

戦後岸が政界進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義廃止され、戦後資金流通の円滑化のために戦後地銀いくら設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。

このような情勢のなかで、戦後日本金融当局==大蔵省銀行に対して

  • とにかく安定して資金供給を行うこと
  • 間違っても競争などしないこと

を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。

これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合兵庫銀行倒産するに至った。

また長らくの護送船団によって日本金融システム陳腐化は著しく国際社会において東京金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。

これらの問題対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由サービス投資を行えるようになった。

ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣バブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。

そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行山一證券破綻、翌 98 年には橋本内閣総辞職現在まで続く長い長い不景気が始まった。

しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。

結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己立場防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか

そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。

僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほ現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。

2012-07-04

http://anond.hatelabo.jp/20120703092709

琉球沖縄)にとっても中国にとってもメリットのある提案になると思うのだが。

中国にしてみれば第一・第二列島線が即座に完成するし、太平洋への最高の玄関口になるし、

日本シーレーンを好き勝手に断ち切れるし、おまけに台湾も挟撃できる。

琉球にしてみても、米軍基地を追い出したところに中国資本を入れて殖産興業できる。

チベットみたいになる懸念があるけど、一応先進国の一部だったという出自もあるし、

中国東南アジアとかで強面な分、恭順を示す琉球には甘くなってくれるに違いない。

平和憲法を制定した上で中国安保条約を結んで、港湾空港適当に共用させれば十分だろう。

それだけでも中国側のメリットは計り知れない。

それに、琉球人にしてみれば、米国日本もかつて虐殺を行った鬼畜だけど、

中国とは今のところそんな歴史がない(と思う)ので、

鬼畜米日の属国でいるより父なる中華圏に属した方がよほど真っ当ではないか

……といった事を盛り上げて基地問題の交渉カードに使ったりすれば良いのにな、といつも思う。

2011-11-27

http://anond.hatelabo.jp/20111127230321

日本の近現代政治史自体がポピュリズム歴史しかないってのは事実でしょ?

結局は言われたとおりに動いてくれる兵隊が欲しかった殖産興業政策時代からなんら変わっちゃいないし。

高等教育になって初めて政治だの哲学だの法学だの、知恵の実はエリートしか食わせないではじめて、戦後一般人に知恵の実を食わせてみようとしてみたら知恵の実は腐っておりました今に至る。

2010-01-23

Re: 搾取を語るなら論文を読め

http://anond.hatelabo.jp/20100119124726

どうもはじめましてid:flurryです。

挙げられた論文のうち、Cumings(1984)を少し読んでみたのですが、疑問が出てきましたので匿名ダイアリーに書かせていただきました。

英語があまり得意ではないこともあり、読み間違いなども多いかと思いますが、遠慮なく指摘していただけると幸いです。

 

本題。元増田さん(こういう言い方でいいんでしたっけ?)の主な主張は、

日本韓国統治が善政だったかどうかはともかく、「その植民地政策が、他の帝国主義国家の政策とは明らかに異なる、有益なものであった」ことについては、学者の間である程度のコンセンサスがある

とのことですが、例として挙げられているCumingsの文章を読んでみても、そのようなことが書いてあるようには読み取れませんでした。

(一応の確認ですが、この元増田さんの主張って「日本植民地主義が他の帝国主義国家のそれよりも、被支配者にとって有益であった」ってことですよね?)

Professor Eto remarks that Japan's vices were no different than those of European colonists. This may be true, but its virtues were quite different. There was no legitimizing myth that the Japanese could make stick. They were not good tutors to teach their subjects how to achieve the goal of independence, as at least some Filipinos thought was true of American colonialism. They were not good exemplars of liberal democracy, as at least some thought that the British were in India. The virtues that the Japanese shared were hard to justify philosophically, but easy to adopt practically: military success, the uses of a strong state, rapid economic development, modern industrial structure. Thus Koreans greeted liberation in 1945 with a profound rejection of Japanese colonialism, yet have never been able to rid themselves of its Janus-faced influence.

元増田さんの訳)

エトウ教授日本の悪徳はヨーロッパの植民者のそれと何ら変わるところがなかった、と述べている。それは正しいのかもしれないが、一方でその美徳はヨーロッパ人のそれとは全く異なっていた。日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。少なくとも何人かのフィリピン人は、アメリカ植民地主義独立というゴールへと至るための良き教師であると信じていたが、日本は良き教師ではなかった。少なくとも幾人かはイギリスインドにとって自由民主主義の良き模範であったと信じているが、日本は良き模範でもなかった。日本がもたらした美徳の数々は、倫理的には(philosophically)正当化するのは難しいが、実際的には(practically)容易に受け入れられるものだ:軍事的成功、強力な国権の運用、急速な経済発展、そして近代的な工業セクター。それゆえ、1945年韓国人達は日本植民地主義に対する全面的な拒絶を唱えて解放を謳歌したが、その一方で日本がもたらした様々な影響からは抜け出すことが出来ないという、二律背反に直面することになったのである。

1) ここでCumingsが書いているのは、「日本のviceはヨーロッパ帝国主義国家と似ている(かもしれない)けど、virtueは全然似ていないよ」程度のことであって、「日本植民地主義ヨーロッパのそれよりも有益であった」なんてことは言っていないように思われます。

2) で、virtue=美徳ですが、一般的には「あのひとは勤勉だ/勇敢だ」のように、人間が持つ性質や姿勢のことを指すと思います。

"The virtues that the Japanese shared"を元増田さんは「軍事的な成功、急速な経済発展などの、日本がもたらした美徳の数々」と訳して、日本朝鮮半島にいいことをした!と主張されていると思うのですが、実際はこれ「軍事的な成功、急速な経済発展といった、日本人が持っていた優れた点」ぐらいの意味じゃないでしょうか。

(「日本朝鮮に軍事的成功をもたらした」って、なんか変ですよね?)

つまりこの部分は、「戦後韓国北朝鮮日本のやり方(富国強兵殖産興業国家権力の強化)を『隠れた』ロールモデル=お手本とした/せざるをえなかった」と読むべきではないでしょうか。

あと、もう一つ。

3) 論文冒頭(479ページ)でCumingsは、

アメリカ朝鮮半島に深く関わるようになって長い時間日本の侵略期間と同じくらい)が経つのに、自由選挙・自由民主主義基本的人権の尊重といったことが根付かないのは、日本の侵略の影響がいまだ継続している、つまり、日本の侵略の影響が、大戦後の韓国北朝鮮両国家をさまざまな方法で形作っていったからなのだ」

と書いています。「Cumingsが日本植民地政策を有益だと評価している」というのは気のせいではないでしょうか。

2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081208192755

それだと中東日本以上に男尊女卑なのに欧米に負けたのが説明つかないだろ。

そもそも明治維新のころは女性社会進出してたから。

当時多数派の農家とかは共働きが当たり前。殖産興業女工が支えてた。

専業主婦が普及するのはある程度経済発展してからホワイトカラーとかが多くなってから。

 
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