はてなキーワード: 動物園とは
お前の言う反差別批判やってるけど、お前みたいのが一番イラつくわ。
「反差別的コメントを批判するidは差別に対してコメントはほとんどしないので差別にどう思っているのかは分からなかった。」
今回反差別が批判されてるのは「動物園」と呼んで嘲ったり、それを助長するような反応を示したことで、消極的と呼ぶべきではなく明確に差別。
となると
「例えば10ある差別のうち5,6個には明確に反差別を謳い、残りは消極的ではあかんのだろうか?」というのが欺瞞で
「例えば10ある差別のうち5,6個には明確に反差別を謳い、残りは差別的ではあかんのだろうか?」となる。
5,6個反差別で4,5個差別的って何?ただの依怙贔屓じゃねえか。
反差別が批判されているのは正にその判断がガバガバなところで、自分たちが攻めるときは強い言葉を使い
逆に差別性を指摘されたら「すべてに対応するリソースはない」「消極的なだけ」とか言って言い逃れをする性根がイライラする
かばうならせめて
・動物園呼ばわりを遠巻きにしていた
位してたアカウント持ち出せってことだよ
https://anond.hatelabo.jp/20201211083327
なんというか、この増田に対しても「差別する自分を自覚しろ」というブコメが星を集めるあたり、まるで連合赤軍の「総括」のようだなと思ってしまった。
差別に関する話は、突き詰めれば確かに諸個人の不断の内省によって超克されるものなのかも知れないが、実際嘆かわしいほどの差別が存在しているのに、むしろそう認識している筈の者ほど、それが現実問題として解決に貢献しそうにない方法を他人に強要しているように見える。
要は、差別を十把一絡げに話してしまえば、それがかえって差別を温存することに貢献する、ということにならないかと思うのである。
反差別批判なるものをする人は、おそらく差別についてひとしきり考えて一つの考察を得たのだろう。しかしその人が語るのは、解決すべき社会問題としての差別ではなく、決してなくならない差別が存在するこの浮世において清く生きるための方法であるように思える。
ちなみに、出羽守と言われるかも知れないが、英語では差別をもっとわかりやすく捉えようとしている。
差別を表すdiscriminationは、行動を伴うもの。prejudice(偏見)は考えや感情、価値判断を伴うもの。stereotypeは単純化された認識である。
例えば「黒人は腕力が強い」というのはstereotype。「黒人は腕力が強いから怖い・嫌い」というのはprejudice。「黒人の隣には座らない」というのはdiscriminationだ。
もちろん人間の認識に基づく話だからどれも混ざり合っているし、理想を言えばstereotypeをなくせたら最高かも知れないが、まあそれは無理な話だ。でも、その理想が追求できないからといって「しょうがないよね」ってのも違くね?という認識がここにはある。つまり、最低限discriminationをなくしましょうねというコンセンサスを得るために言葉を使い分ける。
最近の増田の例で言うと、「公立中学は荒れている」というのはstereotype。「公立中学は荒れているから動物園みたいなひどい場所だ」と思うのはprejudice。「公立中学校は動物園」とブコメするのはヘイトスピーチに当たると考えればdiscriminationになるだろうか。しかしこの差別の具体的な被害者は誰なのか。
どちらかというと、これを批判する者は、他人のprejudiceに足を突っ込んで叩こうとしているように見える。
今回のように見える形でprejudiceを表明するのはよくないが、表明しなければprejudiceもまた思想信条の自由に守られていたりもする。もちろんprejudiceなんて無い方がいい。しかし、クソ味噌一緒に全部差別で全部悪いとすることも、却ってよくないと思う。
まあ別に英語が優れているという話ではないんですが、いずれにせよ、自分が差別について理解を深め太郎になったところで世の中の差別はなくならないわけで、そういうことについてはどう思うんだろうなとか思っちゃうよね。
動物園エアプが多すぎるよな。猿以外はだいたい静か
ある日転校生がやってくると聞かされて、隣の席のカピバラらと「かわいいリス系の女子だといいな」と盛り上がっていたが実際来たのは図体ばかりデカいアフリカゾウだった。
当時、クラスをシメていたのはアジアゾウで、彼女は自分よりデカいゾウの存在が気に入らなかったらしく、クラスに「おい、あのアフリカ野郎にヤキいれるぞ」と号令をかけた。
インキャ(インドネシア原産の生徒の総称。おれはスマトラトラ)だったおれは当然調子こいているアジアゾウの策謀には乗らない。回ってきたメッセージつきりんごはすべて無視した。
そしてある日、下校しようとしていると屋上への階段の陰でアフリカゾウがめそめそ泣いているのにでくわした。
泣いている理由は訊かずともわかった。
彼女の自慢の牙が折られていたのだ。
「あいつら……”アタシらがおまえの象牙をぴかぴかのハンコに加工してやるよ”って言って……無理やり……」
なんという無法だろう。まさに動物園だ。いや、動物園よりひどい。数百カ国が批准するワシントン条約などこの学校には無に等しいのだ。
最初はアジアゾウにもアフリカゾウにも与する気のなかったおれだったが、アジアゾウの悪行に怒りが湧いた。
あいつらをステゴドン(ゾウの先祖。更新世に絶滅)の時代に戻してやる!
それからだ。おれとやつらの戦いが始まったのはーー。
それこそ野獣のわめき声だと思ってスルーされるがよろしい
家が貧乏だったので私立に行く選択肢はありませんでした。公立の高校を卒業してそのまま就職しずっと働いています。
真面目が取り柄で勉強もまあまあ出来た方でした。喫煙も飲酒も万引きもいじめも器物損壊もやりませんでした。
私が知る限りでは、校内暴力や学級崩壊や生徒の妊娠や警察沙汰といった大きな問題は、少なくとも私の在学中には起きていない学校でした。
家の裕福さ成績を鼻にかけて人を中傷する傲慢で陰湿な男子はいました。人を揶揄って相手の反応を楽しむ頭の悪い男子もいました。人に醜悪なあだ名をつけて悪びれもせずそれを呼ぶろくでもない女子の集団もいました。
そうした人間を動物と呼ぶなら私の通う中学は動物園だったのでしょう。
しかし私はそうした人間が私立にいないとはどうしても思えないのです。
私は私立校に通った事がないので本当の事はわかりませんが。
幸い本人が私立に通いたいと言えば何とか行かせられる程度の家計に恵まれています。
もし子供が学問に適性があって、もし本人に通いたい学校があるなら私立も選択肢に入るかも知れない、程度の事しか言えません。
本人に意欲や適性がなければ受験をせず公立の中学へ通う事になると思います。
親御さんや先生方の日頃のご尽力のおかげか、幸い大きな問題も起こる事なく、子供は毎日楽しそうに過ごしています。
以前は何人か危うい素振りのお友達も見受けられましたが、成長につれ落ち着いてそうした事もほとんどなくなりました。
私の目から見てそう見えるだけかもしれませんが、少なくとも私から見て「この子さえいなければ」と思わせる子は誰もいません。
それがいつから、裕福で賢い人達が眉をひそめ、排除して見えなかった事にしたい鼻つまみ者に変わってしまうのでしょう。
確率的にこの子達の半分以上は公立の中学へ行くはずなのですが。
「あなたにもあなたのお子さんにもお子さんのお友達にも悪口は言ってない、私の通った学校は間違いなく動物園だったのだ」とあなたがたは言うでしょう。
「自分が経験した事実を述べただけで差別じゃない」と言うでしょう。
それでも私は傷つきました。
私の過ごした場所、これから子供が行くかも知れない場所を、犯罪と無法の蔓延る動物園だと決めつけられて大変不快でした。
差別でないと言うならそれでも構わないので私に謝ってください。
その動物園で真面目な中学校生活を過ごして来た私と私の同級生たちに謝ってください。
いずれ動物園に通うかも知れない私の子や子供のお友達に謝ってください。
私の子がいじめる側に回るにせよ、いじめられる側に回るにせよ、特に何も起こらず起こさず過ごすにせよ、あなた方はそれを自己責任と呼びました。金と教育を子供に与えなかった自己責任だと。
そういう人間の子供が、親からそうした考えを教えられて育った子供が、私立に行って本当にいじめを起こさずにいられるのですか。
「公立中学校は動物園」でこれだけ燃え上がるってことは、これははてな民の図星を突いたクリティカルヒットってことだな。
以前は単に学校の選択肢が豊富な都市民のナチュラル見下し vs 学校の選択肢がない地方民の怨恨と言った構図だったのが、ここにきて公立中学校を『動物園』と揶揄するのは差別だという視点が持ち込まれて収集がつかなくなってきている。
同じ人物が繰り返してるだけでは?
第1条
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
2 この条約は、締約国が市民と市民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優先については、適用しない。
3 この条約のいかなる規定も、国籍、市民権又は帰化に関する締約国の法規に何ら影響を及ぼすものと解してはならない。ただし、これらに関する法規は、いかなる特定の民族に対しても差別を設けていないことを条件とする。
4 人権及び基本的自由の平等な享有又は行使を確保するため、保護を必要としている特定の人種若しくは種族の集団又は個人の適切な進歩を確保することのみを目的として、必要に応じてとられる特別措置は、人種差別とみなさない。ただし、この特別措置は、その結果として、異なる人種の集団に対して別個の権利を維持することとなってはならず、また、その目的が達成された後は継続してはならない。
①差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「―意識」
②区別すること。けじめ。「大小の―がある」
12/13追加
投稿から一晩たって想像以上の反応があったので追記を書いた。ブコメやリプライを読んだ上での俺の追加見解である。
https://anond.hatelabo.jp/20201213092307
以前は単に学校の選択肢が豊富な都市民のナチュラル見下し vs 学校の選択肢がない地方民の怨恨と言った構図だったのが、ここにきて公立中学校を『動物園』と揶揄するのは差別だという視点が持ち込まれて収集がつかなくなってきている。
この流れに便乗して、3万人クラスの日本海側の田舎町に生まれて、『動物園』状態(校内暴力、喫煙、窓ガラス等の器物破損、ストーブや理科の実験でのいたずらによるボヤ騒ぎ、教師いじめで学級崩壊レベル)の公立中学校の実態を経験して、地元の公立高校進学コースを経て、地元エリアの政令指定都市の国立大学を卒業して、今は東京区部に住んで外資系で働いている俺の見解を投下したい。
こんな経歴なので地元の公立を出てそのまま田舎に留まった友人もいれば、銀の匙をくわえて生まれてきたような奴も友人にいたりするので、両方の環境を知っている立場ではある。
前置きが長くなったが、この問題に対する俺の見解は動物園問題はゾーニングの問題だと言うことなのだ。
今回の話題は差別感情に結び付けられて炎上しているけれども、はじめに前提として認識しておかなければならないのは世の中には出自に限らず暴力的な奴、反社会的な行動を好むやつが一定数いるということである。昨今の上級国民と揶揄される方々の傍若無人な振る舞いや、マナーの悪い走行をする高級車の存在などを見れば一目瞭然である。逆にいかにも田舎の不良ヤンキーと言った感じの輩が改造マフラーのバイクで暴走行為をしているのもよく見る風景ではある。
で、我々の周りにはガラの悪い人たちが一定数いるのが前提で、我々は意識的、無意識にそういう環境に近寄らないことで危険を避けながら暮らしている。スリルを味わいたい人以外、ヤンチャな上級国民御用達の六本木の怪しいバーには近づかないし、西成区のドヤ街を無意味に歩き回ったりもしない。学校選びでも、当然のように同じような判断基準を適用しているだけなのだ。
ここで、『動物園』と揶揄されるのがもっぱら中学校であることに注意していただきたい。近所の子供で構成される公立小学校でガラの悪いエリアを避けるためには家の立地を気にするし、公立高校は学力に応じた選択肢があって入試で足切りもするので、そもそも問題になりにくいのである。だが、公立中学校はそうではない。
私の地元の話になるが、3万人の町に公立小学校は10校程度で公立中学が3校、公立高校が1校であった。ちなみに私立進学校というものは一つも存在しない。なのである程度教育に関心のある家族は、住むエリアを選択するときに公立小学校の校区を意識して選んでいた。だが、公立中学校は3校どれを選んでも一定数のガラの悪い生徒が混ざることを避けられない状況だった。
そんな環境でも、公立小学校の校区を気にするような家庭は大抵教育熱心なので、公立中学校で酷い目にあったとしても、高校で挽回し都会の大学に入学することが一般的である。そこで初めて地方の『動物園』出身者は中高一貫の私立校出身者と出会い、その恵まれた環境に驚愕し、嫉妬する。公立中学校の『動物園』問題はこういう構図で生まれているのだ。
ではどうすればこの問題を解決できるのだろうか。答えは一つ、ゾーニングしかないのだ。中学校入学時点で問題行動を取るような生徒はせいぜい10人程度なので、その人たちだけ少人数制の特別クラスにぶち込んで隔離するしかないだろう。そんな事をすれば人権問題になるかもしれないが、そもそも彼らは国民の学ぶ権利の敵なのだ。ある程度強権的ではあるが、都市と地方の教育リソースの差は簡単には埋められないので、現状こうでもしなければ私立進学校の選択肢のない地方民は安定した中学校生活を過ごせないのではないかと思う。
一点気になった。
動物園にしても、そう表現はしても公立中やその公立中で動物のように振る舞う人をそのままにしておこうという人はいなくて改善の必要は皆一致してるんだよ。
大元の中学受験増田に対するブックマーク見てもこれやこれに類すること言ってる人ほとんどいなくね?
確かに一段階奥にある格差構造なんだけどさ。100分de名著ブルデューの文化資本ネタもそうだが、近くの格差について無頓着過ぎね?
例えば福岡市営動植物園は動物の高齢化が進み、サイやゾウが亡くなった後もずっとスペースが空きっぱなしになっている
最近リニューアル工事をしてはいるが未だ「荒れている」と呼びたくなる寂しい様子だと自分は感じている
確かに私立に比べれば施設が荒れていたりするのだが……そんなに悪いものでもない
公立のため予算がおりないのだろう、基本的にどこも古い設備を長年使っている
公立の場合は職員の創意工夫によって差が出てしまう傾向がある……
これも予算が無いせいだが、一度スペースが空いてしまうと動物が補充されることがないことがある
私立の場合だと3000円近くかかることもあり、年間パスポートを購入しようとするとさらに差は大きくなる
公営の動物園によっては無料開園日なんてものがあるところもある
そこでここに行けば間違いないという公立動物園を二か所述べよう
いろんな動物園・水族館でペンギンの散歩・ショーをやっているが旭山動物園のそれが個人的には一番好ましく思える
何故好ましく思うか、それは「芸をさせようとしていない」点だ
例えば長崎ペンギン水族館(ちなみにこれは私立だ)のペンギンショーはキングペンギンに一定の範囲内で散歩をさせるというものだが、ペンギンは基本的に芸を覚えない為気分任せに歩き回るのを見守るというスタイルになってしまっている
一方、旭山動物園では人垣で道を作り、飼育員が先導することでただ散歩をするというスタイルだ(ペンギンは先導者がいればその後をついていく)
無駄がなく合理的なスタイルと言える、あるがままの歩く姿を見るだけでかわいいのだからそれでいいのだ
(ちなみに長崎ペンギン水族館のフンボルトペンギンの展示は素晴らしいものがある。なんと実際に海に放し飼い展示を行っているのだ!一見の価値あり)
サーバルがいることで一部で有名か?けものフレンズ関連でこの動物園を知った人もいるのではないだろうか
オーソドックスな昔ながらの動物園ではあるがなんといってもその敷地面積の広さ
コアラが見やすい位置にいるかどうかは運しだいだ、見やすい場所にいることをお祈りしよう
(完全に余談だが名古屋港水族館のエンペラーペンギンは展示エリアの照明が南極仕様の極夜再現によりとても暗いことがある。写真撮影目的で行く際は注意)
公営私営にかかわらず地元の動物園や水族館、植物園に行ってみてほしい
ペンギンはどこにでもいるフンボルトペンギンしかおらず、柵が太く動物が遠くて見にくく、鳥インフルエンザ対策で鳥コーナーにネットが貼られて見にくかったりしても……行ってみると案外楽しいものだ
お前の差別心が批判されてるんだから反差別批判じゃなくて単なる反差別か差別批判だろ。
お前の望む通り是々非々で明確に反差別を謳ってる状況がこれなのに何が不満なの?
「特定のものについては差別心丸出しだけど、他のところでは反差別してるから批判しないでください!」とか言い出したら誰も何も言えないしお前が反差別で普段批判してる人だってそう思ってるよ。
公立中学のことを「動物園」と呼ぶ増田をよく見ると思ったら、場所によっては相当に悲惨なんだね…
うちんところはほぼ荒れてなかったので助かったけど…
(椅子蹴って威嚇する問題教師も1人ぐらいはいましたけど、あとは概して荒れてはなかった。)