はてなキーワード: 井上康生とは
子どもの頃から俺はおかしかった。別に、変な子どもとか言われたことはない。むしろ褒められることの方が多かった。学校の成績はイマイチだったが、運動や芸術の成績はよかった。
自己紹介は必要最小限にしたい。今は四年制大学でスポーツを教えてる。幼少期から柔道をやっていた。中学校の全国大会で結果を出して、スポーツの名門高に進学して、同じく名門大学に進学して、卒業後はパチンコ機器のメーカーに入社(スポンサー契約)してプロになった。
※柔道にプロ制度はない。あくまで「それ」で食ってるという意味。
回想を始めたい。パチンコメーカーの次の転職先を主題に据えて話をする。
新卒で入社した、そのパチンコメーカーとの契約期間は3年だった。最終年度になると、次の道を考えないといけない。一応、次期も残れるだけの実績は出したものの、新しい、次のステージに挑戦しようと考えていた。柔道は、野球やサッカーに比べると現役でいられる時間が少ない。体をたくさん動かす分、選手生命が短いのだ……。
当時は、全日本の強化選手(A指定)だった。合宿にはフルで参加していて、オリンピックに出場する連中とも交遊があった。あの頃は、井上康生が全日本の主将を務めていた。彼が不在の時は俺が副として動くこともあった。ウザいかもしれんが、ちょっとくらい自慢させてくれよ。こういう場で文章を書く機会は滅多にないんだから。
※ところで、この日記はとても長い。ゆっくり読まれることを推奨する。
次のステージについて悩んだ結果、選んだのは……学校の先生だった。大学時代に保健体育教諭の免状を取っていた。いざという時に潰しが効くようにと、大学時代のコーチが勧めてくれた。今でも感謝してる。
どこの学校にしようか思案したところ、やはり地元がいいと思った。出身高校の柔道部の監督に相談したところ、広島県の東の端っこにある高等学校が指導者を探しているということだった。
さっそく面談のアポを取り付けてくれて、その高校の現監督と面会すると、すごく驚いてた。まさか強化選手が高校教師に転向するなんて思ってもみなかったんだろう。
トントン拍子に話は進んで、その翌年度から、俺はその高校の保健体育の教諭(兼柔道部顧問)として赴任することになった。
指導者としてのミッションは『古豪復活』だった。その高等学校は、昭和40年代まではすべての体育会部活がインターハイで活躍していた。
だが、『何か』があって進学校路線へと方針転換し、スポーツ推薦枠を徐々に減らしていったところ……平成に入る頃には、ほぼすべての部活が市内大会ですら勝てない状況になっていた。それでいて、進学校路線にも失敗していた(学内の最優秀者の進学先が広島大~関関同立くらい)。
そんな状況で、柔道部を立て直すのが俺に課せられたミッションだった。正直難しいと思われたが、チャレンジする価値はあると思っていた。
とまあ、そんな経過で柔道部顧問としてキャリアスタートを切ったものの、部内はひどい状況だった。柔道部も地区大会止まりとは聞いていたが、冗談抜きでレベルが低かった。心・技・体以前の問題である。
部員の多くが高校から柔道を始めていたし、運動センスが抜群の子はいなかった。そして、柔道の何を教えても、どれだけ丁寧に教えてもダメだった。心構えは、まあいいよ。徐々にハートを鍛えていけばいい。ただまず、基礎体力の時点で問題があった。
例として、ベンチプレスだと80kgを上げられる子が1人しかいなかった(それは乳首が大きい子で、皆からのあだ名は苗字2字分+チクビだった。当時は高二)。ほかの子は概ね40~60kgといったところか。マトモな高校選手であれば、体重70kgくらいの子でも……ベンチ100kgは難しくとも、訓練すれば半年以内に達成できる。
800m走にしてもそうだ。なんと、150秒を切れる子が1人もいなかった。ゼロである(参考までに、当時26だった俺の記録がほぼ130秒。高校の頃は118秒がベスト)。
こんな状況で、この部員達約15名(+女子マネ3人)を、最低でも中国大会まで導かねばならないという……正直、難しかった。柔道のプロとして言わせてもらうと、不可能に近い。
難しいのはそれだけじゃない。どれだけ心構えを説いても伝わらなかった。なんというか、やる気とかいうレベル以前に、人としての器量というか……そういうのが圧倒的に足りてない。
困難な物事でも、ひとまず取り組んでみるとか、目標達成のために努力を積み重ねるとか、そういう志をもって挑んだ経験がないのでは? と感じるような子ばかりだった。
柔道部の子だけじゃない。学校全体でそうだった。本校は、「中高一貫教育により、6年間を通して自ら考え、自ら動き、目標へと達するだけの力を陶冶できる人間を育てる――」と入学パンフレットで謳っていた。そんな生徒は皆無だった。惜しい子はいたのだが。
校則は厳しかった気がする。月イチの全校集会の後、生徒らが体育館前でクラス単位で並ばされて、髪型や制服など、生徒指導担当の教師陣が細かいチェックを行う。俺の出身校も、服装やマナーは厳しい方だったが、ここまでではなかった。
こちらの高等学校の偏差値は、40~45くらいだった。そこまで高い方ではないが、かくいう俺も、中学や高校のテストは平均50点未満しか取れなかった。里香なんかは14点だったこともある。国語濃緑濃緑すら怪しかった……。
柔道に青春を捧げていた。それ以外はどうでもよかった。勉強の成績は最低だったけど、高校も大学も、ほかのスポーツ特待生と一緒に先生方の温情で卒業させてもらった。
でも、確かにバカだったけどさ。当時、柔道関係の書籍は年に五冊以上は読んでたし、毎月発行の『近代柔道』だって、全ページの隅々まで目を通してた。
何が言いたいかというと、向上心である。たとえ下手くそでも、誰かに馬鹿にされようと、負けまくったとしても、そんなの関係ない。もっと上に行きたい、勝ちたいという気持ち。向上心がない若者に未来なんてあるか。
俺は油断していた。百年以上もの伝統がある高等学校だったら、多くの生徒はきっとポテンシャルがあるに違いないと高を括っていた。見通しが甘かった。
それでも一生懸命に教え続けた。暖簾に腕押しだったけど。指導を続けたのだ。怒りを我慢する場面は多くあった。指導者として悔しい思いもした。
当然、結果は出せなかった。他校との合同練習も、ローカル大会・公式大会の結果も散々だった。おおよそ、彼ら柔道部員はこんな調子だった。
・試合の度に勝敗分析シートを作るよう求めたが、半数は作らない
※ベンチプレス80kgのチクビの子。最後は設備の測定限界の160kgまでいった。
俺のストレスは有頂天だった。我慢できないところまで来ていた。
なぜ、こいつらはやる気がないのだろうか。成績がいいとか、地頭があるとか、機転が利くとか、そういう能力の話ではなくて――"生きる力"とでも言えばいいのか。そういうのがなかった。
ストレスを抱えていた折、ついにやってしまった。あれは秋頃だったか。県大会があったのだ。高三が引退した後、最初にある十一月の新人大会だった。
大会は二日間あって、初日は団体戦予選だったと記憶している。当校の成績はひどいものだった。リーグ戦があって、出場校が4校ずつに分かれて戦うのだが、普通に全敗だった。最初に戦った学校は、数年に一度は全国優勝者を出すほどのレベルだった。全員もれなく数十秒以内に瞬殺された。
チクビの子は、四十秒くらいは戦えていた。対戦相手は、彼と同じ高校二年生で、81kg級のスラッとした体形の選手だった。俺の記憶だと、ケンカ四つでガッチリと組み合った後、チクビの子がバタバタと大内刈りをしかけた。全く効いてなかった。
その直後だった、内股で吹っ飛ばされていた。相手の右脚が彼の股下に入ったのを捉えた次の瞬間、その肉体が空中二回転半して畳にめり込んだ。
ほかに戦った2校も、全国レベルに準ずるところだった。そのうち1校は、毎年安定して県内ベスト4に入る伝統校だった。もうひとつは、偏差値70の私立高校で、全国有数の進学校である。なんと、この学校は週に2回しか柔道の練習をしないらしい。それでいて、団体戦も個人戦も、毎年ほぼ県内ベスト8に入る成績だった。
この2校には、当然コテンパンにやられた!……いいところがほとんどなかった。三部トーナメント行き確定である。一日目の全試合が終わった後、怒りの気持ちを我慢しつつ部員全員に静かな檄を飛ばした。惨めな気分だった。
成果があったといえば、上のチクビの子(T君)が1回だけ勝った。体重も相手の方が重かった(T君は当時85kg、相手は100kg級)。人生で初めての指導者としての喜びだった。
彼は寝技が得意だった――厳密には、運動神経が絶望的だったので寝技しか残ってなかった。寝技には運動神経は関係ない。ほぼ努力で上手になる道ができる。相手と密着している分、計算がしやすいのだ。立ち技だと、コンマ数秒の遅れで技の威力に変化が生じる。
毎日の練習では、何度も何度も得意のパターンを繰り返した。俺が何回抑え込んでも、関節を極めても、締め技をかけても、決して諦めなかった。送り襟締めや袖車締めで落とした(※頸動脈の圧迫で意識がなくなる)回数は50回を超えている。
夏場にあった合同合宿だと、T君が他校の選手に寝技で抑え込まれている時、竹刀で背中や太腿を何十発もぶん殴ったっけ……「どうしてそこで力を抜くんやっ!?」と何度も指導した。
T君はそれに応えた。土中から這い出たばかりのカブトムシとか、成虫になろうとして藻掻いているハナムグリの芋虫みたいだった。精いっぱい、本気で動き回っていた。とにかく、妥協だけは絶対しないように教えた。
振り返ってみると、彼に柔道を教えていた期間は一年半もないんだな。たったそれだけである。ヤツは諦めなかった。妥協することはあったけど、俺の指導に最後までついてきた。
そりゃあ、T君が情けない試合をした後だと、ブン殴ったことが何度もあったよ。鈍くさいし、柔道はボテボテしてるし、平々凡々の才能だった。でも、あいつはスゴイ奴だったよ。柔道を選んでなければ、別の道でインターハイに出ていたかもしれない。
さて。県大会一日目が終わって、部員一同は広島市にある古びたホステルに宿泊することになっていた。ただ、女子マネ×3と引率教師である俺は別のホテルになった。
一応は、監督の意見だった。この3人は一年生で、最初の泊まりなので配慮が必要ということだった。最初の宿泊が、あの年季が入ったボロホステルというのは、確かに……と俺も感じた。
女子マネ3人のうち、2人は双子だった。二卵性だから顔はそこまで似てない。お医者さんのご子息と聞いていた。このうち妹の方(マネ子とする)は、相当マジメな子だった。よく気が利くし、頭の回転が早いし、学業成績は最優秀である。学内では清楚キャラで通っていた。実際、練習前には必ずお茶くみをしてくれる。
ほかの2人にしても、こんな弱小柔道部のマネージャーを半年も続けてる時点でひた向きだと思う。普通だったら辞めてるよ。半年間でほとんど勝ててないんだから。県大会の個人戦だって、誰一人として出場できなかった。
責任を感じていた。柔道部が結果を出せない原因は俺にだってある。それが申し訳なかった。それで、姉妹のうち妹の方だけ、俺の宿泊部屋に呼んで話をすることにした。
この不甲斐ない状況について話を聞いてみると、彼女も思うことがあるようだった。会話をしたのは数十分である。
マネ子は、半分涙を流していた。こんな子がマネージャーで本当によかった。
ところで、俺がいた高校の柔道部は、全国でも上から数えた方が早かった。いわゆるガチのところである。女子マネージャーなど存在しようがない。いや、男子校だから本当に存在しようがないのだが。
気が付くと、マネ子の髪を撫でていた。それから何を思ったのだろうか、そのままグイっと彼女の頭を、俺の肩のあたりまで引き寄せた。変な雰囲気になってた。マネ子は無抵抗だった。左手で胸のところまで引き寄せると、暖かい感触があった。
その子の顎を右手の指先で持ち上げるようにして、キスをした。抵抗はなかった。ベッドの上に押し倒して、後は流れだった。体のいろんなところをキスしながら触っていったけど、本当に無抵抗だった。たまに、俺の肩を猫の手でちょんと押すくらいだった。そのままずっと、ペッティングみたいなことを続けた。
このくらいの年齢の子って、あんまり柔らかくはない。女の子はやわらかい、といった世間のイメージは正しくはない。柔らかいのは大人の女性である。未成年はそこまで柔らかくはない。
などと思いながら、ちょっとずつ服を脱がしていった。その時のマネ子は、体操服のような簡素な恰好だったのを覚えている。すぐに脱げた。
胸は大きくない。でもきれいな形だと思った。お互い、完全に裸になる前に明かりを消した。それから、肢体のいろんなところに触れたり、舐めあったり、くすぐったりした。マネ子は、俺に合わせて動くこともあったし、微動だにしない時もあった。全体的に反応は微かだった。
ひどいことをしている認識はあったが、それでもセックスの相性はよかったと思う。彼女は、最初の方は緊張してたけど、少しずつほぐれてきて、会話をしても大丈夫になった。お互いに唇をすぐ近くまでもってきて、囁くように会話をした。
マネ子は気分が乗ってきたみたいで、行為の最中にいろんなことを言ったり、いろんな体位をやってくれた。最後の方はイチャイチャとしていた。会話を思い出してみる。
「持ってる。財布の中」
「なんで持ってるんですか笑 彼女さんいるんですか?」
「いないよ」
「えー、だってH慣れてるじゃん」
「慣れてないよ。下手くそだろ」
「……ほんとですか?」
「うん、本当」
「うそだー」
「本当だよ」
マネ子にまたキスをすると、態勢を変えて、ベッドの中で真上に乗っかった。
顔を近づけて、両手でマネ子の頬に軽く触れて、しばらくずっと舌を絡め続けていた。舌を抜いた時、彼女がまっすぐ延ばした舌先で唾液がうねるみたいに躍動した。それから、マネ子にまっすぐに乗っかって行為をした。俺はマネ子を知ったのだ。
行為が終わると、この子は暗闇の中で俺の眼をずっと見つめていた。俺はそのままベッドを出て、もう一度、財布のところまで歩いていった……。
次の日の朝、初めてあの子を見たのはホテルの朝食をとるスペースだった。ビジネスホテルよりは少し立派なバイキング方式だったっけ。
マネ子は、別に何でもないって顔をしてた。当時の俺は若かった。罪悪感はそこまでなかった。マネ子は本当に普通の様子で、俺や、マネ子の姉とも普通に会話をしてた。
この子たちとの朝飯を済ませてから、サッとチェックアウトをして、みんなを(広島市内の実家から借りてきた)自家用車に載せて会場に向かった記憶がある。
大会二日目は、これまでの中で最大の成果だった。リーグ戦で全敗した関係で、三部トーナメント行きになったのだが、なんと……ここで優勝してしまったのだ!! 嘘ではない、事実だ。ノーシードからきっちり4回勝って、優勝トロフィーを手にした。
T君が活躍したのもあるが、ほかの選手も本気で頑張っていた。あれだけ練習したというのに、リーグ戦での完全敗北が響いたのだろう。心に火がついたといっていい。三部トーナメントの出場校について、選手の半分ほどが白帯だったのもある。
柔道の場合、一試合の時間が野球やサッカーといった団体スポーツに比べて短い。試合に必要なスペースも100㎡以下である。このように、各校の試合回数をできるだけ多くする配慮ができるのである。
ここでいったん切る。
次です
!注意!最新のトレーニング手法とは著しく異なる可能性があります
15年ほど前、あるスポーツのプロになりたくて、毎日過剰なほど運動してた
どれくらいかというとこれは自慢だけど、普通に働きながら、当時の同スポーツに携わる世界中のプロの平均以上は運動してた(定量的な指標がある)
酷使する部位は毎日必ずアイシングーとか、食事はトレーニング後30分以内にとるーとか、ストレッチ→ウォームアップ兼ねた体操→トレーニング→クールダウン兼ねた体操→ストレッチの順番で運動するーとか、ある部位が疲労骨折寸前って言われたら治るまでその部位にかかる負荷が少ない別のトレーニングを考えるーとか、筋肉の超回復を前提にメリハリつけてトレーニングの内容を組むーとか、日によって負荷の違いはあっても、一日も休まずそんなことばっかり考えながら運動してた
ちょうどその頃は世間がプロテインがーとか体幹がーとか言い出してた頃だった
プロテインは一時期飲んでたけど、俺の体質からかやたら体重増え始めたからやめた
体幹は、井上康生のダチとか自称してた怪しい奴に鍛え方を教えてもらって一時期やってたけど、なんか鍛えられてる感覚が全然なかったからやっぱりやめた
俺のやってたスポーツがそこまで筋肉必要なタイプじゃなかったってのもあるけど、何より筋トレ自体が嫌いだった
それよりはストレッチとか、縄跳びとか鉄棒とか、両腕使って石の遠投とか水切りとか、技自体はしょぼくても倒立とか左右の側転とか跳ね起きをどれだけ綺麗にやれるかとか、別のスポーツでいうと90分ジョグ後の100m3本(全力の6割、7割、8割くらいのイメージでやると慣らしてるつもりでもものすごく速さを感じるので全能感がやばい)とか、プールでクロールするときの息継ぎを左右逆にしてみるとか、バドでラケットを左右逆にしてみるとか、そういう「やってて気持ち良いこととか楽しいこと」を優先してた
(腹筋ローラーは友達に借りて面白かったからたまにやったけど、直立(直立じゃないや、前屈?)↔伏せのやつは腰から肩にかけての筋肉が足りなくてできるようにはならなかった)
ここまで読んでなんとなく分かったかもしれないけど、なんか左右どっちも均等に使えるようにしたいみたいな感覚が俺の中にあった
てかそれは今もある
まあ結局のところ、「やってて気持ち良くて楽しいこと」を優先してたのも、プロになれなかった要因の一つなのかもしれない(当然才能もあると思う)
途中で何のためにこのスポーツやってるのか分からなくなって、だんだん運動しなくなってった
かといってその頃のことを後悔してるかっていうとそんなことはなくて、たまに仕事場でストレッチする(最近のオフィスってなんかヨギボーとか置いてイキってるスペース多いじゃん、あそこでやる)と、太ったおっさんの股間の可動域が思いの外広くて物珍しいのか色んな人がひと声かけてくれる
何が何に活きるかなんて分からんし、楽しけりゃいいのさ
だって、リオ見てたら、すごいじゃん。感動するじゃん。
柔道なんか、前回ボロボロだったけど、今回はメダルたくさんとってる。
アタシのまわりはみんなベイカー茉秋くんがかっこいいっていうし、アタシもそう思うけど
でもアタシは大野将平くんの、いかにも「柔道家」って感じも、ちょっとステキだと思っちゃった。
二人とも、東京オリンピックで二連覇とかできそうだし。
かっこいいよね、康生監督。
水泳もさ、荻野くんと瀬戸くんのライバル関係って、すごくまぶしくない?
小学校のときから荻野くんは天才で、でも中学のときに瀬戸くんが初めて勝って、
それからずっとライバルで、オリンピックでは金メダルと銅メダルって、なんかドラマみたい。
大好きな入江くんがメダル取れなかったのは残念だけど、また次の世代の選手がどんどん活躍してるのがうれしい!
女子では、池江璃花子さんだっけ? メダルはとってないけど、まだ高校生でしょ?
すごいなあ。これからどんどん強くなるのかなあ。
そうそう、ハネタクさんだっけ? あの、マツコの番組で取り上げてたの。
カヌーなんてよくわかんないし、中継も見てないけど、ちゃんとメダルとっててびっくりした。
でも、卓球やってるときは、めちゃカッコいい! で、ネットで見たけど、けっこう脱ぐといい体なんだよね。
水谷さんは、東京もでて中国倒すんだ、みたいなこといってたから、また丹羽くんとチーム組むのかな?
愛ちゃんが団体のメダルとって泣いているのみたら、アタシも泣いちゃった。
愛ちゃんってさ、シングルスで勢いのってるときはいいんだけど、調子崩しだすと、なんっていうか
見てるこっちが心配になっちゃうくらい、不安そうな顔してこっちがどきどきしちゃうのよね。
だけどさ、団体で美誠ちゃんと組んでるときは、なんか、一生懸命、美誠ちゃんをフォローしてるのよ。
「年上なんだからしっかりしなきゃ!」って感じで。ああ、本当に優しい人なんだなあって思う。
試合のときは、すんごい厳しい顔してるのに、勝った瞬間に笑う顔がすっごくカワイイの。
美誠ちゃんは、ステキなお姉さん二人に守られて、天真爛漫好き放題にやってる感じだよね。
まだ15歳なのに、あんまりプレッシャーとか感じてなさそうで、すごいなあと思う。
そしたら佳純ちゃんがキャプテンで、美誠ちゃんと、また新しい子がでてくるのかなあ? これも楽しみ。
だって、高校の先輩・後輩で、10年も一緒にやってて、とうとう金メダルでしょ?
高松さんって、正直言って美人ってわけじゃないけどw なんか頼りがいあるセンパイって感じであこがれる。
そういえば、バトミントンってむかし「オグシオ」とかいう人たちがチヤホヤされてたじゃん?
でも、あの人たちって、ちょっと美人でスタイルいいからって、おじさんたちがチヤホヤしてる感じで、あんまり好きになれなかったのよね。
メダルとかもとってないでしょ? タカマツのほうが全然上じゃん。
で、銀メダルなのに、ワンワン泣いちゃって、一番悔しいのは自分だろうに、なんか「主将なのに金メダルとれなくてすみません」って謝ってばっかで。
でも、なんか吉田沙保里さんにも負けることがあるなんて、正直思ってなかった。
で、周りのそういう期待が、すごいプレッシャーだったんだろうなあ。
みんなが吉田さんに注目してる間に、淡々と伊調さんが4回目の金メダルとっちゃった感じ。
でも、吉田さん倒した相手のアメリカ人も、あと日本人の若手の選手も、みんな吉田選手にあこがれてレスリングやってたみたいじゃん?
本当、すごい人なんだなあって。
ほら、あのコーチのおばちゃん、一時期中国にいって、そうしたら日本がメダルとれなくなったけど、戻ってきたら、やっぱり日本がメダルとるようになるのね。
あの人の指導ってすごい厳しいらしいじゃん。
でもペアでメダルとった選手が「地獄みたいな練習したけど、先生についていってよかった」みたいなこといってたのね。
ああ、そんな怖いコーチなのに、選手に信頼されているってすごいなあって。
なのに決勝進出ってすごい!
とにかく、オリンピック面白かった!(まだ終わってないけどw)
ほんと、東京オリンピックが楽しみになったよ!
なんか前の都知事? 前の前の都知事? が「招致運動」やってたときは、なんで東京でオリンピックなんかやんの?って思ってたけど、
今は、やっぱり招致してくれてよかった!と思う。
だって、今テレビでやってるみたいなのが、東京でナマで見られるかもしれないんだよ!
チケットって高いのかなあ? 倍率すごいの? とにかく今から楽しみ!
・・・みたいなことを「はてな」で言ってると、「意識が高い」人たちに怒られちゃうのかしら?
なにせ、ここは政治とか経済とか思想とかの難しい話をしながら、「東京オリンピックなんて、今からでもやめちまえ」って人がいっぱいいるから。
1月に柔道家、井上康生氏(30)と結婚したタレント、東原亜希(26)が10日、都内で行われたプレイステーション3専用ソフトウエア「白騎士物語??古の鼓動」(25日発売、6980円)のPRイベントに出席。格闘家の桜庭和志(39)と同作に初挑戦し、「映像がキレイだし、動きもリアルですね」とアピールした。
この日にはSRS格闘ビジュアルクイーンの先輩女優、長谷川京子(30)の妊娠が発表された。自身も妊娠5カ月目に入っているだけに、「お互いに元気な子を産みましょうね」とメッセージ。今後は仕事を続けながら、年明けに井上康生氏のロンドン留学に同行する予定。
東原亜希サゲマン伝説に新たな一ページ!ハセキョーに悪いフラグが立った可能性があります!流産フラグなのか、未熟児出産フラグなのか、知的障害児出産フラグなのか分かりませんが。伝説を知ってる人が長谷川京子の身内にいたら気が気じゃないよね。胎教にも良くないので早く発言の撤回を求めた方がいい。
東原亜希は意図の有無にかかわらず物事を悪い方向に持っていく才能を持っていることを自覚して、発言に気を使った方がいいと思うんだ。ちょっとした仲間意識なんだろうけど、デスノートの対象になった側はたまったもんじゃないですよ!
北島とかが辞めるとか言ってるのを見ると、スラムダンクでジジイの監督が
「優勝したら次は連覇や。ジジイはいささか疲れたわ」
っていうセリフを思い出してしまう。
40代で銀メダル3つ取った水泳選手もいれば、30代でマラソンの金メダル取ったり、
選手生命って割と精神的なものに左右されるように思うんだよなぁ。そりゃ限界はあるだろうけど。
だから一度王座から退いてもまだまだ現役でやっていけるってのに、どうも世論的には
「はい、もう終わり」
みたいな印象を持ってるんだよなぁ。
日本人は他のスポーツもそんな目で見ているんじゃないだろうか。知らないうちに。
井上康生だって鈴木桂治だって、本当はもっとできるんじゃないのかなぁ。
本当の柔道って「道」が付いてるだけあって、半分以上は経験なんだろうし。知らんけど。
まぁ、続けるのは大変だろうけどねぇ。