はてなキーワード: バリバリとは
先日、入学以来初の登校をした。コロナで延期されていたのでようやくだ、と嬉しい気持ちでその日を迎えたが結論から言うとげんなりした。
定番の自己紹介が行われる最中、話すのが苦手な子を見てクスクスと笑う女子がまず目についた。大学生にもなって周りの友人と顔を見合わせて嘲笑するような人、ほんとにいるんだな。
そして何よりも自己紹介で好きなものをあげるときに「韓国が好き」という人があまりに多かったのが気になってしまった。
K-POPだったり料理だったりファッションだったり、色んなものを含めて手っ取り早く「韓国が好き」と言っているのだろうが、どうにも引っ掛かる。もちろんジャニオタとかバンド好きとかも沢山いたけど、予想以上に次から次へと韓国好きが多かったのね。
個人的には先入観がバリバリあるので、そのクスクスと嘲笑していた女も韓国が好きです〜!と言っていたのを見て内心溜息をついていた。
自分はこんなとこに書き込んでいるような陰キャだし、韓国好きが陽キャの必須条件みたいな雰囲気がとても気持ち悪い。
あとK-POP盲目信者は人の話聞かないイメージついてるので、早く本格的に大学が始まってその子達の悪い印象を払拭したい。ともに過ごし、彼女らの良いところを発見したい。
俺=世界。
俺は世界そのもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。
例えば雷鳴。
雷が鳴る音を聴くとき、自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。
しかし、と考えてみる。
もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか?
雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか?
さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか?
「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。
ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。
俺にとって、俺以外のすべての人間に自我があるかは証明できない。
周りの人々はすべて俺の作り出した妄想かもしれないし(「水槽の脳」)、もしかしたら、意思のない人形であってもおかしくはない(理屈上、ということで、本当にそうだと思っているわけじゃない)。
「俺」は違う。
他者の場合とは違い、そこに意思があるかどうか証明しようとして失敗するまでもなく、俺は自分に意思があることを理解している。我思う…ってことだ。
そして、そんな俺はなぜか、この時代に日本の男性の体に「生じた」。これが一番わけがわからない。
俺が生まれる前にも宇宙は当然存在していたし(一説には138億年前…)、俺が死んだ後も宇宙は当然続いていくが(こっちは一説には10の100乗年後に「終わる」らしく、厳密に言うと、あらゆる運動がそこで停止するので時間の意味がなくなるらしい)、特別な俺はなぜか、20世紀後半に生まれたいま30過ぎの日本の男性だった。
自分ってものについてラディカルに考えると、要は自分に関するこだわりを強くしていくと、逆説的に、肉体としての自分が何者であるかは価値を失っていく。
俺は別に、10年後にジンバブエの5歳の少女に生まれてもおかしくなかった。
(もしも)自分について俯瞰することさえ可能なら、アマゾンの猿でもよかったのだ。
でも、とにかく俺は日本の俺だった。たぶん理由はないんだろう。にもかかわらず、なぜ? という強烈な驚愕は消え去らない。
俺はこの世界において超超超…と超を100回重ねても足りない究極の特異点だ。
もちろん、俺以外の人たちだって、「彼らの世界」ではそれぞれが唯一無二のポイントになる。
でも俺はそれを、理屈ではなく想像で理解することしかできない。
他者を社会的に尊重することは当然だが、彼らが結局、俺という世界の一部でしかなく、彼らが死のうと俺の世界は終わらないが、俺が死ねば世界そのものが消滅するという事実は、それとはまったく別のことだ(一連のこの辺は、永井均『子どものための〈哲学〉』『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』にくわしい)。
…
そして俺は、ずっと両親との関係で悩んでいる。
こんな観念的で、浮世離れした形而上学に果てしなくぶっ飛ばされたはずなのに、血縁のしがらみに何十年もさいなまれている。
仲が悪いわけじゃない。
ただ俺も、母親も父親も、うまいことお互いへの愛情を示せないでいるフシがある。
愛情がないのではなく、表現できないのだ。なんとなくだけど、バリバリのビジネスマンだった二人が、乳児のときから長いこと俺の横にいられなかった罪悪感みたいなものが原因っぽい気がする。
俺はもう30過ぎなのに…。
そんなの、もういいだろ…と思いながら、呆れている一方で完全に笑えないのは、たぶん俺もどこかで、彼らを許していないんじゃないか、という気がする。
もういいよ、父さん母さん、と言いたい。
というか、何も言わないでただ抱きしめてあげるのが正しい気もする。一度だけじゃなく、会うたびにそうしてやるのが正しい気がする。
そうしたいができない。俺たちの誰かが死ぬまでに、俺はそうしないといけないと感じる。
その一方で、三人でそろって食事しているとき、不意に、「この人たちはなんなんだろうな?」という気持ちになることがある。
話をしていて、特別難しいことをしゃべっているわけじゃなく、単純に俺と、頭の中を覗いてみるわけにいかない他者の間で、ちゃんと「会話」が成り立つことが奇妙でしかたがなくなる。
例えそれが両親であっても、「こいつらはなんなんだ?」 と思う。
俺の言ってることが、相手の言ってることが、お互いに本当にわかってるのかな? と思う。確かめようがない。なんとなくその場では笑って飯を食ってる。
…
形而上学と家族への愛情と、どっちかがどっちかへの反発なんだろうな、と思っている。
本当は家族の一員の息子としてキレイに収まりたいけど恥じらいと恐怖心で叶わないために、極端な哲学に走ってごまかしている。
あるいは、心の相性としては形而上学の世界の方が向いているが、どっぷり漬かるのが怖いせいで、家族に目を向けたくなる時がある。
若いときから、もう面倒だったから、どっちかに決定的に俺を方向付けてほしかった。
ベタベタしすぎるくらいまともな家族愛に包まれるか、SFチックなぐらい高純度な精神体になってしまいたかった。
どっちかになれると思っていたがどっちにもなれない。たぶんどっちにもなれないんだろうな、というのが、最近薄々わかってもきている気がする。
男性でも持病がある人はいるし、そういう人が軽い仕事にしか就けないのはしょうがないんじゃなかろうか
バリバリ稼いで、誰かを養っていくとしたら
むさ苦しく暴力でこられたら敵わない男じゃなく女が良いな。
そう?接客系やエンジニア・デザイナー等の専門職だと派遣やアルバイトの求人は腐るほどあるけど?
そういうので9時5時とか働いて、後はバリバリ働く夫(妻)を支えればいいんじゃない?
出世能力が高くない人間は、男女問わずそういう暮らしをすればいいと思うし
そういう面で今後も需要あると思う
別に男だとか女だとか切り分けず、向いてるやつは専業になる社会になればいいと思うけどな
社会に生きてると、地味な外見で仕事もパッとしない冴えない下っ端男はそこそこ見かけるが、
そういう男らが清潔感と家事能力を身につけて、良い専業主夫としてバリバリの会社員女とマッチングする流れになったら良さそうと思うけど
週5日会社で仕事してる時と、週5日自宅で仕事してる時と主観的な効率ってそんなに変わらんもんなの????!?自分はどうしても会社にいる時より集中力が切れやすいし、そもそもwi-fiの調子が悪いとか電気のオンオフを自分でしなきゃいけないとか、細かい環境の整備まで自己責任なのが耐えられなくなってきたところ。通勤がなくなって合間時間が増えたでしょと言われたところで、24時間家にいると家事の総量が増えるのでフリーの時間は増えた気がしない。。
つーか明らかに周りの人間もレスが遅くなったし、在宅ワークの効率がいいというよりサボりやすくなっただけじゃないのか???(これは自分の周りの話なのでみんながそうでもないとは思うけどさ)みんなそんなに家でバリバリ仕事してんのか…すごいな…。
というか5chでアンチスレッドに書き込むというのは、自傷行為なんだよな。
「創作者は他者への批判をするな」と言うのは、あれは「自分の言葉は自分に確実に帰ってきて創作意欲を思いっきり削る」んだよ。
他者への批判(特に悪口)は口に出した途端、自分に倍速の刃で襲いかかってくる。「そういうお前はどうなんだ?」と必ず利子を付けて取り立てに来る。
「他者への創作への批判を公言しない」ひとが歳をとった創作者で増えるのは、アレは自分のメンタルがバリバリ削られてダメージのほうがでかくなることを知ってるからなんだよな。
だから「他の人が作ったものの悪口は言うべきではない」のは、べつにいいこぶってるわけではない。
他人への批判は、自分に対して一番影響を与える。だから、創作者は他者作品への批判をネットに書き込むのはやめたほうが良い。
そうしないと創作が嫌になる。
自分も他者創作への批判をやめたほうが圧倒的にモチベーションと生産量が上がった。
アレは本当にやめたほうが良い。
創作したいと憧れを持ってるけれど、それでも批判しかできなかった自分がいた。でも、アレって、「批判したらするほど創作へのハードルがダダ上がりする」んだよね。
だから、創作したい人は自分への無駄なメンタルへのハードルを下げるために作品批判をとりあえず封印してみたら良いと思う。
ものを作ってる人間は、創作への不建設な悪口(批判とごっちゃにするなというのはわかるがまあそういうもの)を控えたほうが良い。これは真理だと思う。
バリバリうまくやってるように見える同期がある日いきなりバーンアウトしたりすることもあるし
今はうまくできなくても教えた分だけ多くコミュニケーション取ってるお前を先輩や上司はかわいいと思ってるかもしれん
つらい。
新卒。
同期はバリバリやってるなか、おれはつまずいてる。
だからすげー質問とか行くし、そこで一回は解決できるけど、身についてる感覚がない。
ただ日々のノルマをこなして、残業して、わかるまでやって、家帰ったら疲れて寝る。もう平日は寝るだけ。
趣味やる気力もない。
昨日から寝付きが悪い。眠れない。
身体は寝不足を自覚してるみたいで調子悪いけど、今も別に眠気がない。
つらい。
でも本心。
全部自己責任なのもわかってる。
おれが、ただわからないおれが悪いだけ。
辞めたい。
でもこのご時世で、辞めた後の展望もわからないし、まだ経験ないし。
つらい。
戦争を起こさないためにも軍事力を上げるべきだとか、「あの時やった戦争は正しかった」だとかはもっとえらい人が考えるとして。
全人類、せめて日本にいる人くらいは全員「色々事情はあるけどもう二度と戦争したくない」って気持ちになってないの本当悲しいな。
戦争世代からしたらバリバリの若造だけど、戦争体験の話や映像見るだけでホント戦争はよくないなと思ったのに。
今のネットは「正しさによる炎上」が流行していて、俺はキレイごとを理解しきれない部分もある。
子供の頃から何ひとつ秀でたところがなく、自分に自信が持てなかった。容姿は平凡で、人前で話すのも苦手だし、勉強が得意なわけでもなくて、もちろん芸術的な才能もなかった。だから、将来の夢を聞かれると困った。何もできる気がしなかった。ぼんやりと浮かんでいたのはお母さんだ。自分自身の母親のように、おやつを手作りするお母さん。そういう大人になれたらいいなとなんとなく思っていた。
地元の中学から普通科の高校に進み、普通に普通の大学に入った。普通に就職して、得た職は普通の事務。電話応対、伝票管理、簡単な書類作成が主な仕事で、昇給もないが残業もない。ちなみに制服はあった。そこで3年務めた後、同期の営業マンと結婚した。妊娠を機に退職し、以降は専業主婦をしている。
30歳を過ぎ、独身を謳歌していた友人たちの結婚・妊娠ラッシュが来た。大企業勤務や公務員はまず出産退職なんて考えたこともないみたいで、産休育休後の復帰が前提。資格持ちの子はスッパリ辞めたが、次の職場は見つかるだろう。子供を産んでも正社員の座から降りない、降りないことを許されたママたち。小さな会社で激務をこなしていた子だけが唯一退職したものの、ベンチャー企業でフル在宅での仕事が決まったのだと言う。無能なママには決してないルート。今もっとも求められる『有能なママ』枠だ。
子供といるのは幸せだ。でも、旦那は決して高収入ではない。材料にこだわった無添加おやつをつくっている場合じゃなかった。教育や習い事の費用を考えると、お金はあるにこしたことはない。私は今後、パートという形でしか家計に貢献できないだろう。正社員の道はほぼ閉ざされている。
有能なママが活躍の手を差し伸べられるのは正しいと思う。だけど、【女性活躍】と声高に叫ぶ社会に手を差し伸べられたと思ったら「あ〜……あなたは活躍厳しいっすねwww大丈夫です、近所のスーパーでレジでも打ったら?」と言われてるような気分になる。その隣で有能なママには、「出産前までは編集者!?営業!?エンジニア!?デザイナー!?はい、みなさーん!このように子持ちの女性もバリバリ働けるんです!!」ってスポットライトばーんってやってるから、影から見てると虚しくなるよ。まあでもわかる。自分が経営者なら無能な子持ちは絶対雇わない。でも有能なママなら雇いたい。無能のフルタイムよりよっぽどいい。柔軟な姿勢もアピールできるしね。
あとやっぱり、仕事のできるママたちは賢い。ネットの情報を取捨選択できる。でも無能なママはまともな職につけないからリテラシーの高い人間関係をつくれない。だから、一度間違ってトンデモ科学とかに興味を持つと、正してもらえずに突き進むことになってしまう。そしてまた、バカにされる。バカにされるから意地になり、そうなるとさらにバカにされる。一時期義理の姉に自然派育児を進められ、ハマるところだった。
今の日本は(別に日本しか知らないんだけど)で正社員を降りて休む(育児、介護、病気、その他)ができるのは、有能な人たちだけだと思う。無能な人に残されたのは、我慢して休まず働き続ける道だけだったと、最近になって実感した。無能が貧乏になるのは自己責任なんだろうけど、なんだかとても、今はしんどい。