はてなキーワード: 祭事とは
私は子供の頃からのクリスチャンで、今も毎週教会に行っています。日本ではクリスチャンが自らそれを公言することってあまりないように思うのだけど、私は知人連中にも職場の同僚にも公言しています。で……あるとき、知り合いの家に行ったら、そこの子供が東京ディズニーランドのディズニー・クリスマスがどうとかいう話をしだしたんですね。で、当然のように聞かれたわけですよ。
「クリスマスってどうしてるの?」
「クリスマスはね、教会に行って、その後は家族で食事しながら色々話をするの。だからディズニーランドとかには行かないなあ」
そう話したら、その子、何て言ったと思います? 私の方に向き直って、こう言ったんですよ。
「かわいそぉ〜」
……私は何か、こう、悲しくなってしまって。別に人がどうクリスマス過ごそうが勝手なのかもしれませんけれど、あるひとつのかたちだけが正しい、って、一体この子どんだけ傲慢なんだろう、そう思ったわけです。この子がどうっていうよりも、そうやってキリスト教の宗教的祭事が商業アイテムにされて、そちらの方が正統扱いされるんじゃたまらないよなあ……って、まあこれは昔っから言われてる話ですけどね。でも、昭和30年代のニュースフィルムで、クリスマスイブの銀座のクラブから三角帽に鼻眼鏡で上機嫌に出てくるオッサンの映像を観ても何とも思わないのに、この子の「かわいそぉ〜」は妙に堪えたんですよね。
いや、何故この時期にそんなこと書くかっていうと、次にやってくるイースターの件です。イエスの復活を祝うこの日、今年は4月21日なんですが、もう早速東と西で手ぐすねひいて待ってるわけなんですね。
東京ディズニーシーと東京ディズニーランドでは、2019年4月4日(木)から6月2日(日)までの60日間、ヘンテコ楽しい春のスペシャルイベント「ディズニー・イースター」を開催します。今年は2年ぶりに2つのパークで、それぞれテーマの異なる「ディズニー・イースター」を開催するほか、ディズニーホテルやディズニーリゾートラインでも心躍るイースターのスペシャルイベントを実施します。
UNIVERSAL EASTER CELEBRATION
こういうのが何年も続くとどうなるのか……おそらくこんな感じでしょう。子供にイースターの話をされて、やれうさぎガー、たまごガー、って言われて、それに対して「イースターは教会に行って、それから卵を貰ったり交換したりして家に帰るの」って返答すると……「かわいそぉ〜」。いや、かわいそうなのアンタラだから、とか言いたくなりますけど、それは我慢しているわけです。でも。宗教的祭事は宗教的祭事なので、あなたたちが馬鹿騒ぎするのを止めはしないけれど、それが「正しい」なんて思うのも、言うのも、お願いだからやめてくれませんか。ずーっとこうやってお祝いしているのに、私達は。
本店販売品、デパート販売品(ブランド名が付いてるが製造は別会社)、アウトレット販売品の3段階がある(もっと多い場合もある)
ちょっと買ってる人からすると、品物を見てそのブランドの中でもどのクラスを持っているか一発で分かるわけだ
当然GODIVAも同様で
専用リーフレットが作られるGODIVAとしての本流ライン(年ごとに出る新製品)
デパートの支店や祭事で売られる、パケだけ変えた中身は定番品のセカンドライン、
そりゃ分かる人にはどのラインだか分かるわけだ
そういう前提も分からない人が、
「GODIVAなんてコンビニでも売ってる」とか言っちゃうのは
ちゃんちゃらおかしいんだよ
しかし、話が難しくなるのは、
GODIVA自身の利益はコンビニブランドとしてはほぼ出ていない
味が分かる人だけに売りたいってのがGODIVAの言いたいことなんだろう
といっても、GODIVAのチョコなんてほとんどが工場生産の輸入品なんだけどな!!
味が分かる君たちは、パティシエールが作った
孝明天皇のころと天皇に持たせる意味あいが違うからそれは解決になってないような
孝明天皇のころの天皇はシンボル・新政府の旗印でそれ以上の意味はなかった
日本に日々信仰する宗教がないせいで他のイスラム教・キリスト教が流行って他国の影響が色濃く出ると困る
だから神道である天皇教を無意識に植え付けるために「正統な血筋である天皇」えー、つまり元・神の子ですと暗に言っている
これをもってしてカリスマの源泉としたいというのが本音でしょう
祭事を執り行うだけならもう坊さんと大して変わらないでしょう
坊さんにカリスマは出ないよ
ローマ法王くらい選出するプロセスがあるならまだしも直系でなくともいいよってアピールするには
宗教色が強い活動をして母体としての神聖さを演出しておく必要がある
でも今の天皇家にそれができるとは思えないし内部自体がそれに一致団結してない以上不可能だと思う
信仰心じゃなくて血をもってして生まれながらにして神聖なのが天皇だから
社会の苦しみというものを教える機会と言うものが実在するらしい。
数少ないこのような機会を持つために、「伝統」「校風」を掲げることがある。某沿岸の高校は長期の航海を通じて人格を育てたり、某県の多くの高校は新入生にバンカラ式応援歌練習で伝統に根ざした自己を確立させたり、はたまた某都市の進学校は新入生の合宿でその高校の校風に染め上げるというように、「伝統」「校風」を盾にグレーゾーンを突っ走っていたりする。このようなある種の人間教育は、世界の不条理さを伝える有用な手段として存在するとは思うのだが、一方で宗教的性格や自我の崩壊の危険性といった世間の批判を浴びてもいる。それぞれの学校も、校風によって執り行われる祭事を時代に合わせて少しづつ変化させているようだ。
一方で、正式な教育、すなわち行政機関が決定した教育方法では、人を教育する上で不条理さ・不便さを生徒に感じさせることを拒んでいる気がする。無駄が多い割に必要なことが省かれている「理系科目の教科書」や、出版社の意志がそのまま内容を歪めかねない「文系科目の教科書」、著者の都合や時代の移り変わりによって無駄に改定される「語学の参考書」などの教育という観点から見たらあまりに合理性に欠ける教材という不便さはある。しかしそういうものではなく、人間関係においてしばしば生ずる特定個人に対する「人格の完全否定」など精神的な問題に出会うことはめったにない(ただしいじめを除く)。
精神的な不条理さを解決して総て人間を尊重できる社会を目指す礎を築かせるという点において、苦しみを体験することによる不条理な世界の理解というものは、地球規模化する社会のリーダーとしての素質を育てるためには必要だ。ところが、その体験が、グローバルとはかけ離れた、「伝統」「校風」という宗教的性格を持ちかねないきわめて異常な手段でしかなされない、という奇妙な問題があるように感じるのは、たぶん私だけだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20150829085753
飲んだり食べたり憎んだり愛したり、そういう人間の営みの中で
「穢れ」を持ち込むのは許されないというのなら
その祭事にかかわるシンボルマークに、「選考の透明性」だの「俺の感覚的にダサい」だの
それが神様ってことでありハレってことだ
そうじゃない、オリンピックは民主的に進行される人としての祭典だというなら
お前らが気に食わないだか世間が許さないだかしらんが「神様」に代弁さすな
「日本人にとってケガレは重要な概念で~」とかいうならば、それが何かくらい分かっとけ
自分の都合のいいように神様切り貼りして、あまつさえ神様のふりをして他人を攻撃すんのが
お前の言う「古きよき日本人」かって話だよ
恥ずかしい、ほんとうに
・
さて、僕の住んでいる集落は山村で、四十戸ほど、統計によれば百人ちょっとの人口を有している。
幼児が二人、小学生が二人、中学生が二人、高校生が二人、二十代が二人とかそんな感じが男女を併せた若者の総数。
三十代は僕を含めて十人弱くらいいるかな。あとは世代が上がるほど人数が増えていく。
はっきり言えば大半が高齢者だ。
狭い集落で人間関係は濃く、僕が住み始めた頃、馴染めずに浮いていた。
・
空気はいいし、牧歌的な風景は広がるが、何をするにも人手が足りないからだ。
都市部にいれば『誰かがする』で済む自治会活動も、ゴミ拾いも、消防団も、葬式の手伝いも、生活道の除草も、神社なんかの祭事も、PTAもぜんぶ『自分』でしなければならない。『誰か』がいないのだ。
だから休みの日には早朝からお寺の掃除や、農道の草刈りにかり出される。
大半は老人だから、昼過ぎには体力が尽きて作業は終わるが、今度は酒宴が始まる。
自治会の総会に参加するのが面倒、とかそういう問題ではないのだ。とにかくいろいろな田舎のイベントが開催されるが、これに当たり前の様に参加できるようになるまで僕も数年かかった。このまま、バックれ続けていると、何とも知れんやつという評価が下る。地区内ではいないものとして扱われてしまう。実際にそういう人間が僕の地区にも数名いる。
確かに休日はつぶれるが、それでもまだ呼ばれて参加するだけなら気楽な方だ。
これがやがて、自分で人を呼んで作業するようになると、煩雑なことやストレスが一気に増える。
しかし、同時に地区内での評価が一気に上がる。この辺から、何かあるとかばってくれる人が増え、多少無茶をしても話が通るようになる。
都市部の小学生を呼んで草鞋編み体験でも開催したいと相談すれば、老人が集まってきて指導者を買って出てくれたりする。
作業が減ることはないが、何かやりたいと思えば増やすのは気分次第、ということだ。
そうして僕は休日のたびに何かやっている。平日より休日のほうがよほど疲れ、今の時期だとどんどん日に焼けて黒くなる。
これを老人になっても、死ぬまで続けていかなければならないが、地獄の様と捉えるかやりがい満点ととらえるかは人次第だけど、まあ僕は何とか楽しくやっている。
・
直接を受けてはこれ。
http://fanfiction-novel.com/archives/544
ただし、別に反論とかそーいう代物ではないです。
http://lightnovel.g.hatena.ne.jp/REV/20100128/p2
も参考にしてます。
web小説のVRMMORPG物とかが書籍でまであふれていて、いくつかのそういうラノベの状況への批評を読んで、そういうのに対してもにょもにょとした感覚を持ってたのだが、アウトプットしてないなと。で、アウトプットしたいなという感覚がとっても大きくなってしまったので落書いてます。
で、自分の領域だと ?D も ?H も Tw も読む人が皆無なので、自分のところよりは読む人が多いであろう増田借ります。
結局のところ独りよがりなチラシの裏なので、嫌いな方はページを閉じてください。
また、ねたばれを平気で入れます。
よござんすか?
よござんすね?
そんじゃ、チラシの裏を徒然なるままに。
ぽすてぃぶさんが
としていたのですが、これの SAO を疑問に思いました。
SAO の最初は、ゲームの仮想世界に閉じ込められて、命がけのデスゲームを行うというものです。
そこで、確かに世界の作り方は SF なのですが、では「物語の世界」を考えると、これは「ファンタジー」の方が近いのではないかと考えています。
ぽすてぃぶさんが持ち出した SAO の要素として
とあるのですが、作中でこれらのギミックが「SFとして」活用され始めるのは、少なくともアインクラッドを抜けた後になります。ユイのボディを現実につくるためには?など。
そう考えたとき、少なくとも最初のアインクラッドでは、彼らの世界はファンタジーと同一の代物でしかありません。行き過ぎた科学により魔法と見分けがつかない代物です。そして彼らにとっては、それだけが「世界」です。
ダンジョンの中に閉じ込められ、クリアするまでログアウトできない。ゲーム中の死はそのまま本人の死につながる。
作中のスキルは「ゲーム」という設定なので「SF」ではありますが、キャラクターは世界にとらわれいることから、ゲームの中だけが知覚できる「世界」になっています。そしてその「世界」の中には SF ギミックは問題ではありません。
これらに比べてログホラで違うのは「キャラクターの死」が「プレーヤーの死」と直結していない、というルールが典型でしょうか。
しかし、作中キャラクターにとっての「世界」とは何か?を考えたとき、彼らの世界はもともとの現実と全くつながっていない、「世界」はいま生きているそこだけ、という意味では、同じになります。
このように設定された「世界」であるのではないかと考えています。
となると、これらはすべて「貴種漂流譚」の系譜とみるべきではないかと最初に思いつきます。
しかし貴種漂流譚とした場合、物語の類型としては明らかに違うものがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A
VRMMORPGやMMORPGの場合、主人公は貴種というわけではなく、また、多くの同様の他人と一緒に異界に漂流しています。
これは明らかに貴種漂流譚とは違う特徴です。そもそも貴種漂流譚は神話の類型で、英雄譚のいくつかにみられる特徴なので、そのまま当てはまるものではありません。
となると、他に近い分類を考えると、「行きて帰りし物語」というのが出てきます。
http://hiki.cre.jp/write/?YukiteKaerisiMonogatari
これは乱暴な言い方ですが、貴種漂流譚から「貴種」の特徴をとっぱらったものといえます。
結果残るものは
多くの場合、冒険に駆り出される理由は「日常からの欠落」が起き、「冒険の中でその欠落したもの、あるいは替わるものを見つけ」「日常に帰ってくる」というものです。スターウォーズなんかこれの典型ですね。
ここまで来ると、物語の類型であり、一方で物語論として「読者に受ける物語とは何か」という話にもなってくるのですが、そちらの論は話の方向性が微妙に違うので割愛。
さて、では素直に「行きて帰りし物語」の類型としてまとまるでよいのでしょうか?
ところがここでも問題が、行きて帰りし物語の場合、冒険に投げ出されるのは「主人公」とかその周辺がせいぜいです。
また、「日常に帰ってくる」というのも重要になります。ログホラの場合、ゲーム中に行われている冒険では「日常に帰ってくる」のですが、「現実世界」の意味では帰ってきていません。
では、さらに共通項をと考えた時に残ってくるのが「集団漂流物」というジャンルになります。
個人的に思い出すのは、空飛ぶ!竜峰学園(ラノベ)とか、勇者110番(NG97)とか、かなりマイナーどころになるわけですが。
ということでもう一度元に戻り、SAO、ログホラ、.hack で考えてみた場合
という分類になるのではないか……と考えたのであります。
なお SAO ですが、実際には細かく変わっていて
異界へのギミックや、異界で使う技術は「ゲーム」がベースであるため、一見 SF なのですが、実際なところはあれらは「魔法」と物語上ほぼ変わらないものがほとんどです。
となると、物語の類型を見る場合にはもっと重要なギミックがあるのではないか?ということで、このような分類を夢想しています。
ここで気になったのが、では「ゲームという題材が特殊なのか?」ということです。
で、最初の方に戻る。
web 小説や、そこから現実の書籍になったものが、いろいろと「似通ってるな」という印象は、はたして「本当なのか?」。そして「似通ってるな」と思ったものは「何か?」。
個人的に多くなったなと感じているのに、確かに VRMMORPG に取り込まれるってのがあります。そして俺TUEEEEE。
しかし同様に、異界漂流物も多くなってるなとも思うわけです。ファンタジー世界で「生まれ変わる」とか「召喚された」とか。そして俺TUEEEE。
で、これらを考えた時、ある意味昔っから変わってないのではないかと思うわけです。ファンタジー世界に行って無双っての。ゲートも戦国自衛隊をファンタジーにしただけだ、と乱暴に切り取ってみたり。
結局「無双の理由づけ」に何を使っているのかという部分で、VRMMORPG というのが身近になったのかなと。
そもそも「コンピュータを用いたゲーム的異世界」で冒険というのであれば、いろいろと話は出てきます。
それこそ、最初は「ジャックイン」でしょうか。ニューロマンサー('84)。これのジャンルだと SF のサイバーパンクですね。この場合、マトリクスは現実世界の裏にある(人工)異世界という視点で見れば、ファンタジーの一種とみることも不可能ではありません。
同じくサイバーパンクで電脳世界があるもので、漫画で有名になったのがサイレントメビウス('88)でしょうか。
他、こちらはハビタットのような電脳街という感じの世界ですが、BOOMTOWN('92)という漫画もあります。AI が住み、自己増殖する電脳の世界に入り込み、バグ退治を行います。表現は SF 側です。
そして、ゲームといっても電源不要で東京N◎VA('93)なんかが思い浮かびます。サイバーパンクなTRPG。
一方、完全にゲームの味付けでは、クリス・クロスが '94、クラインの壺だと'89ですね。
そしてこの「ゲームな味付け」で「異世界」となると、コンピュータを捨ててファンタジーにぐっと寄ったものとして思い出せるのが遥かなる異郷ガーディアン('90)。死亡無し、バイト感覚でファンタジー世界で魔王を倒そう!という話です。あるいは、日帰りクエスト('93)なんかも近い代物でしょうか。これらは日常の延長として異世界でちょっと冒険してくる代物ですね。
これらと .hack が似てると思ってて、ギミックに「異世界」が絡む程度なんですよね。物語世界の構築法の話であって、物語としてはその異世界は重要なのですが。
そして、完全にファンタジーに話を持って行ってしまえば、作品は一気に広がります。
個人的には魔法使いになる方法(ダイアン・デュアン著)を持ってきたいです。翻訳がまた止まった……。こちらは、現実世界の「裏」にある世界なので、ナルニアのように現実の世界の「隣」にあるのとは違っていますが。
ここで VRMMO を題材に使っているのを考えてみますと。
VRMMO は現実世界の「隣」にしかなれません。アクセルワールドのように現実世界を模した世界であっても、現実世界に影響は与えていません。
その中で主人公やプレーヤー集団が「命」であったり「記憶」であったり「思考」であったりの影響を受けるという、世界以外が対象になります。
となるとこれは別にゲームではなくファンタジーであっても同じなので、ここの類型からは考慮しないでも済みます。
一方、魔法使いになる方法では、魔法使いだけに見える世界というのは、現実の世界と表裏一体です。魔法世界で変化があれば、それは現実世界にも影響を及ぼします。
これは電脳世界を用いた場合でも同じギミックがあるように作ることもできます。
このような違いを見るに、ようするに「VRMMO などに見えるゲーム世界・異世界」というのは「現実に影響を与えない箱庭」という概念でくくれるように見えます。
異世界漂流のファンタジーもその多くは「現実に影響を与えない箱庭」的世界です。
このように、完全に切り離されている異世界かどうかというのが重要なポイントなのかもしれません。
「無双の理由づけ」です。
VRMMO 、あるいは「ゲーム的ルールがある異世界」を用いた場合、「俺 TUEEEE」に対してこじつけが作りやすいのが、この分野が氾濫している理由なのかなと思ってみたりしてます。
どういうことか?
多くの場合、対象となる異世界は、技術的文化水準が現代より低いです。
FPSやSLをベースにした場合は逆もありますが、氾濫しているのは多くが「ファンタジー世界」として「中世西洋」がベースです。
そこで俺TUEEEとして従来のファンタジー・神話や伝説、英雄譚、ファンタジー小説などがとった手法が「貴種」です。
これは現実にも祭事が政であった時代に、「神の信託を授かる巫女」(卑弥呼など)とか「神(竜)の血統」(中国皇帝や日本の天皇)とか「神に認められた」(キリスト教や同影響下の国々の王など)が用いた手法で、何か特殊な存在が力を認めているから「偉い」という考えから来ている物と思われます。精霊信仰や祖霊信仰なども同様なので、世界中で行われた、あるいは現在進行形の考え方ですね。
そして、漫画やアニメやラノベでもこの手法はいくらでも使われています。作品は割愛。
では、一般人ではダメなのかってところから始まったのが、異界に行った時に「異物」なので強くなったというものです。この場合だと貴種である必要性がなくなります。
この場合重要になるのが、多くは「機転」や「思考」だったりします。その世界にない視点で物事を考えることで、打開するなどもありますね。
VRMMO の場合、この後者の考え方を用いて俺TUEEEをするというのが基本ですね。
ログホラがわかりやすいですが、異世界にはないけど現実世界にあったものを再現することで、異世界でのアドバンテージを得る。蒸気機関はこのギミック。
この手の異世界で発想で先手を取るってのが、他だとアウトブレイク・カンパニーであったり。あるいはくじびき勇者さまを思い出してみる。他にも新書であったような記憶があるのに、題名が全然出てこない。
まおゆうも「その世界になかった概念を持ち込む」事で「世界に影響を与える」という部分で、ログホラとそっくりなことを味付け変えてやってます。
てなところで、俺TUEEEの源泉をあれこれいじってきてるのは増えてきてはいるなとは思った。
続きも別に考えてないで投げっぱなし。
★天皇陵の話題が出てる/
雑誌「選択」によれば、天皇陵造営と言えども、都市計画法規上は「開発行為」に該当し、
★何でも宮中祭事の関係で、「崩御後1ヶ月半の間に天皇陵を用意する必要がある」、
つまり「天皇陵造営に許される時間は1ヶ月半」だけらしいが、開発行為手続期間に日数取られてしまい、
突貫工事で作らざるを得ない。昭和天皇陵の造営はギリギリだったらしい
★昭和天皇大葬の際は、まだ宮大工が数多くいたから、突貫造営が可能だった。
今では「崩御1ヶ月半後迄に開発手続き完了させて、陵の造営まで終了させるのは不可能」の声もある。宮大工がいなくなった
★私見だが、昭和天皇大葬時よりも、開発行為手続きが強化され、コンプライアンスもうるさくなった。
「天皇陵造営に必要な開発行政手続」そのものが1ヶ月半以上かかってしまう可能性も
★例えば、昭和天皇陵の時なら「工事を間に合わせる為に、労働基準法違反の残業させ」られたのが、
今じゃコンプライアンス的にNGだったり、とか
1.正規の開発手続きを破る(超法規措置)、
3.不敬ながら、「存命中に天皇陵造営に着手する」、の3つしか選択肢がない。
この流れは選択肢3か?