はてなキーワード: 文章読本とは
一文を長くするな、頭痛が痛いみたいな表現を使うなと頷くところもあった。
その一方、「命令を出す→命令をする」というように、「〜する」で表せる表現は全部そうしろという奇妙なものもあった。
こういう指導を見るとイライラしてしまう。実際それやってない奴が100%落ちたのか、ABテストでどっちが印象良いか確かめたのか、といったように、エビデンスを要求したくなる。
唐突だが、子どもの頃、ポケモンで連打すると捕まえやすくなるとかいうエセテクニックが流行ったことがあっただろう。今思えば馬鹿馬鹿しい。
しかし、そんなエセテクニックで話しあえるくらい余裕があったとも言えるのではないか。
なんか今は、著名ストリーマーの正確な分析情報を元にゲームをプレイしてて、身内で曖昧なテクニックを開発する経験が無くなってた。
昔は、正確なもの:経験談レベル:根拠不明の情報がそれぞれ丁度いい割合で入っていて、後者2つにもある程度乗っかってあげることによって緩い空間が成り立っていた気がする。
こうして考えると、あの講師は「俺だけが知ってる(と思いこんでいる)情報」を使ってコミュニケーションを取りたかっただけなのかもしれない。
講師はちょっとおじいちゃんみたいな人で、今のコンプラに反した発言もあった。
直感だが、あの人は時代に淘汰され、コミュニケーション不足に陥る可能性がそこそこある気がする。
せめて、かつて私たちがポケモンの連打でコミュニケーションをしていたように、その人に文章を添削してもらう時くらいはそれに乗ってあげるのも悪くない気がしてきた。
幼い頃から、小説をいつか書きたいと強く願っていて、文章読本や小説講座的な本などを多数読み込んできたけれど、それらが小説に変わることはなかった。
好みの文体やストーリーパターンはわかってきたのだけれど、それらを何らかの社会、何らかの人間関係に落とし込んで書くことができなかったからだ。
つまり、社会の仕組みやわだかまりをどう描いていいかわからなかった、会話や気持ちの移り変わりをどう描いていいかわからなかったのだ。
文章読本などで、文章というガワの部分を学んだとしても、そこに盛り込むものがわからなかった。
ストーリーとして導きたい方向に、社会や人間関係を配置する方法がわからなかったのだ。
増田ではわりと、ブックマークをいただけたりする自分ではあるが、書く文章は常に一人称で、自分の思ったことをエッセイ的にまとめることしかできない。
これを、背景装置としての社会や人間と絡めて、ストーリーとしての段階を踏んで、人々を驚かせる素晴らしい結末につなげる小説として昇華させることができない。
それなりの人気を持つ雑文に仕上げるためのアイデアはたくさんあるのだ。それを、小説として具象化できないだけ。
いや、なんだろう、プログラム的に組み立てることができないといった気分。
そもそもが理系なので、プログラムもそれなりに組んだことがあるのだが、小説としての文章の組み方がわからない。
結末に向かう伏線を社会のどの部分に絡めて描写し、物語の展開をどのキャラクターの変容に仮託するか、みたいなものがよくわからない。
文体やレトリックのような基本文法はわかるのだが、社会や人間を相手にした「組み込み関数」みたいなものが何なのかが見えず、途方にくれてしまう感じだ。
というか、そもそもだが、こんなにダラダラ文章を書く私ではあるのだが、小説は一行たりとも書けたことがない。
だって、結論に至るアイデアが思いつけても、そこに向かう「これは書けるぞ!」というビジョンが見えないので。
この小説ならプログラム的に書けそう、ああなってこうなって結論に至りそう、みたいなものが、私の場合、小説に対して浮かんでこない。
そうそう、プログラムでもそうなんだが、もっと言うなら、数学の入試問題のように、とりあえず三角比を求めるとかベクトル計算するとか、
この「とりあえず○○を書いてみる。そのうち、ストーリーがつながってくる」みたいなのを知りたい。
とりあえず手を動かして、作り出す小説を何らかの方向に進める方法を、まずは身につけていけたらいい。
この文章だって思ったことをズラズラ書いているだけなのだ。ビジョンで書いてない。
って、あっ、それが小説を書く前のキャラクターシート、世界観作成シートみたいなものなのか。
あれも苦手なんだよな。好ましい感情を抱けるキャラクターを造形できないというか。
いや、自分以外のキャラクターが描けない。世界観も、今自分が感じるもの以外組み立てられないし。
結局のところ、私は自分のことしか書けない。自分のことならそれなりに書いて、それなりに注目される文章が書ける。
自分の考え方を、ある社会やある人間関係に落とし込んで、世の中にその素晴らしさを理解してほしいんだ。
「私の気持ち」じゃ他人に届かないんだ。客観性というか、作者でない「キャラクターの気持ち」として描写しないと、私ではない誰かに届くことは無いんだ。
だから、ここに書くような、一人称の雑文じゃダメなんだ。物語に仮託しなくちゃダメなんだ。
そういった点では、私は「物語」というものに、論文のようなものを感じているのかもしれない。
つまり、物語の人間関係や世界観という客観性のもとに、自分のアイデアに向かって組み立てた文章を、誰かに対して発露し、評価を得たいのだ。
いや、誰かに届けばいい。個人的なアイデアなり感情なりが、誰かに届けば、無意識的にでも届けば、それで十分なんだと思う。
…などと長々と書いてきて、結局は今回の文章も小説にはなりえなかったわけだけど、まあなんだか、そんな気持ちなのだ。
二つのブックマークコメントを比較してダブスタを示される場合すらある。
cブコメしたとしても、よく知らない話題にはちゃんとわからないと書く
これは、コメントに関連する発想の淵源になった書籍を改めて読んでから投稿しているからだ。
そうすることで、議論に対しての突拍子の無さを軽減することができる。
特にはてなではフェミニズムや社会学に関する話題が豊富で、ともすれば自分の脳内だけでブコメしがちになる。
フェミニズム運動の歴史や個別論点の専論や概説本にざっと触れてからブコメすることで的外れなことにならなくなるだろう。
また書籍に手を伸ばすことで落ち着くことができ、先ほどのブコメ三原則のどこかで立ち止まる落ち着きを持つことができる。
自然、自分の詳しい、コメントできる範囲だけのブコメができ、はてなーが嫌厭するいっちょかみ投稿を控えることができる。
恒星について考えて欲しい。
惑星や衛星はそれらに照らされて夜空にあり、恒星の引力に導かれる。
日常的に出版され続ける文章読本にざっとでも目を通しておく。座右のものなら何度か読み返す。
私は形容詞の掛け方が下手で、手前から奥の言葉を修飾しようとしてしまうことが多い。間に余計な目的語を挟んでしまうのだ。
まずこの主張がたとえ正しかったとしても間違ってたとしても、文章のお約束を習得するのに才能が必要か不要かという話とは独立してるんだよね。
お約束を習得するのに必要な才能の比重が、面白い・人に刺さる内容を書くことよりも相対的に低いということであれば俺も同意するけど、決してそのような譲歩をする気はないんだろう。
いろいろ文章読本とか700ページ以上あるレトリック辞典なんかも熟読したが、俺にはお約束をものにするほどの才能もないから諦めたいというだけの話なのに、それすら認めてくれないのが謎。もちろん面白い文章を書く才能も同様に俺にはないと思ってるよ。比重に関する単純な程度問題なのだから、型を身に着ける才能がない、いわんや面白い文章を書く才能をや、ということは自明に導けることだよね。
数式がひいひいじいちゃんとかの代からあったものだから写経しろってのも意味不明。論理が飛躍してる。
ひいひいじいちゃんとかそれぐらい前の代からあるものなら、写経することで身につくものだ、という論理がただちに成り立つはずないじゃないか。
だってそうやって遥か昔から数式や数学的観念が次世代へ継承されていくために全ての人間が才能を持ってる必要はないわけだから。
一部の才能を持つ人によって数学もまた発展してきただけの話。
たしかにそうやって発展させてきた人には数学書を穴が空くまで読んだり写経のようなことをした人も中にはいるかもしれない。
でもみんながみんな写経することで数式の意味が理解できたりするようになるわけじゃない、ということぐらい考えればわかることじゃないのだろうか。
たとえば方程式を見ても、その答えを出せないという場合は、数式に沿った思考ができていないことを示唆しているだろう。
もちろん答えが当たっていたしても単なるまぐれ当たりかもしれず数式の理解を反映した結果とは限らないし、答えを出せない場合でも数式の意味を部分的には理解できている場合もあるだろう。
とにかく位相幾何学でも微分方程式でもいいけど、そういうものの教科書を写経させればみんながみんなその範囲内で初見の類題を出されても100%解けるようになっているだろうか。バカげている。
ましてやその領域上のことを発展させて新しい数学的概念を発見(発明ともいわれる)、つまりより一般的にいえば言えば今よりも対象化可能な概念、君が言う「中身」というものを増やすことが出来るような人は、さらに根本的に理解を極められたごく一部だろう。写経という努力でなんとかなる?才能など不要?ありえない。
数式以外の自然言語についても写経で哲学者並みに概念を扱ったりできるとは限らない。前にも書いたように「論語読みの論語知らず(現代風にいうならいわゆるチャットbotのようなものでしかない)」になってしまうことがありえるわけだよ。偉人の言葉いくら覚えても丸暗記の域を出なけりゃ間違った文脈(見当違いな場面で)でそういった言葉を引用しかねないしその言葉が言わんとすることをさらに発展させること(たとえば素朴な記号論から生成文法へと発展させるようなことなど)は出来ない。
なのにそういうことわざを挙げてる箇所には言及してくれない。結局なんというか都合の悪い部分を意図的にスルーして同じことをずっと強弁してる感じなんだよね。
数分経って追記しはじめたことだから読んでないのかもしれないけど
幼児は語彙が足らないから自分が置かれた状況を正しく表現できず虐待があっても見過ごされてしまうということがある。
その段階を越えるとまあ生存に必要な意思は伝えられるようになるよね。
それでもより高度な思考を持ったり発表したりしたいということになるとむしろ語彙そのものの豊富さよりは語彙を整理したり統合する能力の重点の方が大きくなると思う。これはもう地頭であり才能次第なところがあるよね。俺みたいな馬鹿はそもそも高度な問題をもやもやしたとして一時的に抱えることはあっても的確に対象化したりすることはできない(ので思考として固定化されない(一時的⇔固定化の対比))。こればっかりは文章読本やらボキャブラリー集や役に立たなかったわって話。
そして考えるということには結局言語が必要で切っても切り離せないものだからね。
生きる力には才能とは無関係なのもあるかもしれないけど少なくとも考えを言語を使って統合する力は地頭依存なんじゃないかね。
そうだと知らずに勝手に、言葉にできない場面に遭遇する機会が目に見えて減った感じしなくて報われないなーってなってただけと気づたってのが元増田の話。本も言語能力のない人間に頼られていい迷惑だったよね。
俺は単純に感情を吐露するのではなくもっと人間的な、といえば語弊があるとすればホモサピエンス的な大脳皮質があるから初めて可能になっているような思考をしたり発表したりしたいものだけどないものねだりだよなーって。
というかそういう問題じゃなくてね。たとえば同じ意味を表す数式でも同値変形によっていろんな形式があるでしょ。
そのうちのより難解な数式どころか一番すっきりした形の数式も浮かんでこない状態に憂いているんだよね。
不定形のもやもやっとしたものを一番簡単な言い方ですら言語化できない。
幼児は語彙が足らないから自分が置かれた状況を正しく表現できず虐待があっても見過ごされてしまうということがある。
その段階を越えるとまあ生存に必要な意思は伝えられるようになるよね。
それでもより高度な思考を持ったり発表したりしたいということになるとむしろ語彙そのものの豊富さよりは語彙を整理したり統合する能力の重点の方が大きくなると思う。これはもう地頭であり才能次第なところがあるよね。俺みたいな馬鹿はそもそも高度な問題をもやもやしたとして一時的に抱えることはあっても的確に対象化したりすることはできない。こればっかりは文章読本やらボキャブラリー集や役に立たなかったわって話。
ひいては高度な思想を持てない高度な自己実現ができないってことにもつながってると思うわ。増田で一家言戦わせてる人たちみてるとそう感じる。
確かにあの人達の言語能力やそれに付随するもろもろは俺の一段も二段も上を言ってる。「そういうことはそうやって言えばいいのか」と伝える技術に目から鱗が落ちる。
なんだけど俺の「そのとき」言いたいことはその人たちとは当然違うわけだし直接どころか間接的にも参考にはならないんだよね…。逆に同じだったら既に代弁者がいるんだから別に署名活動みたいに声(人数)がでかい方が有利みたいなことをしてるわけじゃないんだし俺が改めてネットに書き込むまでもない。
実際何か言おうとするときって文章読本も大人のための語彙辞典みたいなの読んだ経験も無力なんだよね。
あれって簡単なことをより難しく言う技術は多少なりとも培われるけど、言語に絶するとか筆舌に尽くしがたいとか書いて済ましてきたものが表現できるようになるわけじゃない。表現の幅は広がるけど表現できる領域は広がらない。
小説とかも一見参考になりそうだけど書き手の表現に対して自分が想像してることと書き手の意図が一致している保証はないから、事実を書こうというときには読書経験も全然役に立たない。自分自身が意味を誤解してる可能性がある表現を使っても自己満足の伝言ゲームにしかならない。
実際は多少言葉にできることが増えてるかもしれないけど表現対象は無限で、その無限のパターンのなかではうまいこと知識等がはまる場面っていうのは確率的にもほぼ遭遇しないのは明らかなわけで、自分の表現力に成長を実感する機会はない。
本当はもっといろんなことに思うところがあるからそれも増田に投稿したいんだけどなあ。どう書けば伝わるのか分からないから諦めるってことが多い。
今は流行りではないかもしれないが、文章の書き方を示すいわゆる文章読本というジャンルがあった。
図書館でそういったものを漁っても80年代とかのが主になってしまっているから廃れているのだろう。
それらをひもといてみると、「一文が長すぎる」とか「助詞の使い方が間違っている」「主語と述語の間でねじれが起こっている」みたいな文例がてんこもりに載せられている。
(もちろん誤字脱字みたいなのはちょくちょく見るが、知識不足によるミスは少ないと思う)
こういう本の文例は昔隆盛だったカルチャースクールとか文章教室みたいなところの中高年の生徒から採られる。
今ネットに書き込んでいるような人間との相違点は、文章をカルチャースクールで教わる気があるような世代ではない、当時中高年だった人間ではない、ということだろう。
昔は大学進学率が低かったことと関係するのだろうか。今ネットに書くような人間は大学で最低限の作文のリテラシーを身に着けてしまっている人が多いのかもしれない。
またカルチャースクールでは「最近感じた季節の変化について雑感を書け」「身近で見つけた人の優しさについて書け」みたいなお題に沿って文章が「生産」されるものだが、ネットではそんなものはない。
背伸びする意思もなく肩肘張るつもりもなくただ書きたいことを話すように書き捨てるだけだ。
そういう態度で書かれた文には、文芸的に書こうと意気込まれた文と違って文法や、読みやすさへの配慮に関する理解不足が顕在化しないのかもしれない。話すように書いてるだけだから。くっちゃべってるときに助詞を間違える日本人なんていないでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223(最初のトラバ先)
http://anond.hatelabo.jp/20130831142238(自分の記事)
元増田の人が2nd Seasonを書いてくれたので、こういった若い人たちに役立ちそうな知識をさらに追記してみたい。
(実は若くなかったら申し訳ない)
念のために書いておくけれど、僕は最近のラノベ専門学校の実態は知らないし、体験入学に行ってみて入らないというのは、優れた判断だと思う。
実際に教師の質をどう担保しているのか不透明だし、やはり意識の低い学生も多い。(自分の時は、おおよそ2割=10人は中退した)
教師は別に仕事を持つ社会人が多く、どちらかというと偏った業界の偏った人格の人達で、しかも扱う分野が本来主観的なものであって、生徒への評価も心情的になりやすい。
それに、最近のラノベブームで、雨後のタケノコのように学校が開かれているのかもしれない。
そういったところはやはりノウハウも無いだろうし、授業の質も低いだろう。
(余談だが、僕が通学していた当時は、まさかこれほどラノベが流行するとは正直誰も思っていなかった。ただ、先生は「これからミステリー小説のように定番ジャンル化するだろう」と予言していた。涼宮ハルヒも出ていない頃だ)
だから、専門学校に通わないというのは、比較的低リスク・低コストで賢明な判断だと言える。
しかしながら、元増田が挙げてくれた問題について、それを断定のまま終わらせてしまうのはもったいない。
特に3番目の問題、
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
元増田が残念なのは、この深い疑問を、専門学校の体験入学ごときで解決してしまった気分になっていることだ。
僕自身、先生に教わったり罵倒を受けたりしながらも、この疑問に突き当たった。
そして、学校の内側と外側の両方で、この問題について世の中の頭の良い人達がどのように携わってきたか、それなりに気にしてきた。
おそらく、以下の参考資料を全部精読し、実習を行い、誰か信頼できる人からの客観的な添削を受け、頭だけではなく全身に技術をしみ込ませることができれば、決して取り戻せない数百万円と数年を賭して専門学校に行く必要など、皆無だろう。
また、下記ばかりでなく、もっと体系的でしっかりした知識が学べる大学なり海外大学なりケンブリッジやオックスフォードもあるかもしれない。
そういったものがあると分かったら、単純にそこへ行くべきだ。
文芸的な文章を除く基本的なライティングについては、古典的な書籍がたくさんある。
下記2冊は、ここで紹介するのが恥ずかしいくらい基本的な書籍だ。
さて、上記のような確立した情報伝達技術ではなく、独自の表現をしてみたり、人を感動させる文章を書きたい場合、そういった技術は教える・教わることができるのか?
それを体系的に扱うことは確かに難しい。そもそも人の感情であったり、表現から受け取る印象が非体系的だからだ。
だからといって、先人がそれを教育の世界で取り扱おうと努力してこなかったわけではない。
どうしても総論ではなく各論になってしまうが、それでも個人的に見て良書は多い。
「文章作法を学校教育のように教えられない」結論に至るのは自由だが、下記書籍を全部読んでから至っても決して遅くない。
「作文」の価値を捉え直した、文章表現の入門書。作品でも製品でもなく、純粋な「作文」そのものの価値を再発見している。
大学の講義をまとめた本。固いタイトルに反して、極めて柔らかい語り口で柔らかい内容を講義してくれている。
だけど、書くことの意味について、「美」について、とても鋭い視点であふれている。
前の文章でちょっとだけ出した。レトリック、つまり、文章で人の心を動かすための体系的知識(!)を取り扱っている名著。
レトリックは長らく馬鹿にされていたらしい(結局、ただの言葉のあやではないか?)が、それを感覚論・認識論・記号論の観点から再評価した名著。
なぜ直喩が隠喩より優れた修辞技法になり得るのか? といったことが詳しく書いてある。
大江健三郎による文学論。そもそも小説や文芸作品とは何を目指すものなのか? といったことを明確に書いてくれている。
それは同時に、読者としての私たちが誠実な文芸作品の中に何を求めるべきなのか? ということでもある。
文章読本は色々あるが、その中でももっとも実践的と言われる丸谷才一の本だ。
歴史的仮名遣いで読みにくく感じるかもしれないが、内容そのものは平明だったと思う。
(しかし、いまなぜか手許に無いので詳しいことは書けない。「ちょっと気取って書け」くらいしか思い出せない)
E.M.フォースターによる文学理論。Amazonで8000円くらい。僕はカチグミなので古書店で1000円で入手できた。
「ストーリーはあまり美しい要素ではありません」という衝撃的な宣言が印象に残っている。
小説というものを本来どう味わうべきか? どう書かれるべきか? という熱のこもった講義録だ。
新装版が出るんだ……。
芥川賞を最年少(23歳)で受賞しながら、文壇に属せず、独りストイックに小説を書き続けている作家の文学指南書。
テクニックの本ではないが、ここで明らかにされている執筆姿勢には衝撃を受ける。
ホームレスをしていた25歳のコリン・ウィルソンが大英博物館で一気呵成に書き上げた文芸評論書。
「アウトサイダー」というキーワードのもと、文学・美術・舞踏・哲学などなどを横断的に眺め渡した名著。
本気で読むと人生が狂う。
先の記事で書いた。全日本人が読むべき。
なんだかこういう本のことを書けるのが嬉しくて、ついかっとなってリストアップしてしまった。今は反省している。
偉そうに書いたけれど、結局は僕も文学界新人賞で名前が小さく載ったくらいの実績しかない人間で、そんなには当てにはならないだろう。
しかし、僕自身が当てにならなくても、何が当てになりそうかの感性は結構あるつもりだ。
教育における教師とはそういうもので、自分ができなくても人の作品を見て添削できたりはする。
失敗している人からだって、むしろ失敗している人だからこそ学べることもある。
そういった人達の行く末をよく見て、やはりラノベなんかやめて、楽しくOS・エディタ・コンパイラでも作ろうと思って欲しいのだ。