まずこの主張がたとえ正しかったとしても間違ってたとしても、文章のお約束を習得するのに才能が必要か不要かという話とは独立してるんだよね。
お約束を習得するのに必要な才能の比重が、面白い・人に刺さる内容を書くことよりも相対的に低いということであれば俺も同意するけど、決してそのような譲歩をする気はないんだろう。
いろいろ文章読本とか700ページ以上あるレトリック辞典なんかも熟読したが、俺にはお約束をものにするほどの才能もないから諦めたいというだけの話なのに、それすら認めてくれないのが謎。もちろん面白い文章を書く才能も同様に俺にはないと思ってるよ。比重に関する単純な程度問題なのだから、型を身に着ける才能がない、いわんや面白い文章を書く才能をや、ということは自明に導けることだよね。
数式がひいひいじいちゃんとかの代からあったものだから写経しろってのも意味不明。論理が飛躍してる。
ひいひいじいちゃんとかそれぐらい前の代からあるものなら、写経することで身につくものだ、という論理がただちに成り立つはずないじゃないか。
だってそうやって遥か昔から数式や数学的観念が次世代へ継承されていくために全ての人間が才能を持ってる必要はないわけだから。
一部の才能を持つ人によって数学もまた発展してきただけの話。
たしかにそうやって発展させてきた人には数学書を穴が空くまで読んだり写経のようなことをした人も中にはいるかもしれない。
でもみんながみんな写経することで数式の意味が理解できたりするようになるわけじゃない、ということぐらい考えればわかることじゃないのだろうか。
たとえば方程式を見ても、その答えを出せないという場合は、数式に沿った思考ができていないことを示唆しているだろう。
もちろん答えが当たっていたしても単なるまぐれ当たりかもしれず数式の理解を反映した結果とは限らないし、答えを出せない場合でも数式の意味を部分的には理解できている場合もあるだろう。
とにかく位相幾何学でも微分方程式でもいいけど、そういうものの教科書を写経させればみんながみんなその範囲内で初見の類題を出されても100%解けるようになっているだろうか。バカげている。
ましてやその領域上のことを発展させて新しい数学的概念を発見(発明ともいわれる)、つまりより一般的にいえば言えば今よりも対象化可能な概念、君が言う「中身」というものを増やすことが出来るような人は、さらに根本的に理解を極められたごく一部だろう。写経という努力でなんとかなる?才能など不要?ありえない。
数式以外の自然言語についても写経で哲学者並みに概念を扱ったりできるとは限らない。前にも書いたように「論語読みの論語知らず(現代風にいうならいわゆるチャットbotのようなものでしかない)」になってしまうことがありえるわけだよ。偉人の言葉いくら覚えても丸暗記の域を出なけりゃ間違った文脈(見当違いな場面で)でそういった言葉を引用しかねないしその言葉が言わんとすることをさらに発展させること(たとえば素朴な記号論から生成文法へと発展させるようなことなど)は出来ない。
なのにそういうことわざを挙げてる箇所には言及してくれない。結局なんというか都合の悪い部分を意図的にスルーして同じことをずっと強弁してる感じなんだよね。
君の言ってることをさらにまとめれば、そこらへんの木っ端ライターとしての仕事さえもらえないのは媒体に合った作文のお作法(ライティング技術)が未だ「身になってない」からで、分...
面白い・人に刺さる内容は才能の比重が高い まずこの主張がたとえ正しかったとしても間違ってたとしても、文章のお約束を習得するのに才能が必要か不要かという話とは独立してる...