はてなキーワード: 小プロとは
ここ最近、ChatGPTのプロンプトをひたすら書きまくってるのだが分かってきたことがある
恐らく近い将来ChatGPTによって大半のプログラマーは職を失うことになるだろうし
残されたプログラマーもソースコードを書くのでは無くてプロンプトを書くことの方が増えるだろう
アセンブリ言語を書いてる人はほぼ死滅しているしCやC++ですら書いてる人は少ない
同様にプロンプトを書く人(プロンプター)が重宝されるようになるのだろう(もちろん例外的分野は存在する)
ただ、残念ながらプログラマーや非プログラマーがプロンプターになれるかというとそうではない
プロンプトを書く時に必要なのは、純粋にプログラマーが必要とされている能力の部分だからだ
その言語を知ってるだとかライブラリを知っているといった知識的な能力ではなくて
要件定義の能力や論理演算や集合論みたいな知識だったりオブジェクト指向や関数的な考え方だけが純粋に必要になる
例えば割とダメダメプログラマーは条件が100個あった時に普通にIF文を100個書く
こういうプログラマーはプロンプトを作ることができないし、仮に書いたとしてもまともに動かない
ちゃんとしたプログラマーは条件100個を整理してまず2つの場合に分けてそれぞれで3つに分け・・・みたいなことをする
場合によっては要件定義を鑑みて必要無い条件を削除する(もちろん確認の上で)
そういった整理整頓が出来る人じゃないとプロンプトを書くことは不可能なので
例えばPythonの書き方を知っているだけのプログラマーとかコピペで生きてきたプログラマーは死滅すると思う
彼らはプロンプトを書けないし、書くために学習しようとしてもベースとなっているものが無いのでそこから覚え直すしかない
なのでプログラマーの上位層はプロンプターとして生き残るが下位層は死滅するし、残念ながらプロンプター教室というのもちょっと想像が付かないしたぶん不可能だと思う
宮本フレデリカを見たくもなくなるくらい嫌いになった話、について、
私なりに共感するところがありました。共感した私の気持ちから彼の気持ちを推測しようと思います。
ちなみに私は現役のフレデリカPです。
https://anond.hatelabo.jp/20170914224407
推測をまとめると、彼(記事を書いた本人、性別がわからないので男性として扱います)は宮本フレデリカのことが好きですが、彼は彼自身に嘘をついて、”嫌い”だと思い込んでいます。
引用以外は私個人の共感による意見です。正しい意見ではありません。
>大好きだったはずの宮本フレデリカさんを今は見たくもないくらいに嫌いになってしまった過程の話です。
>言うまでもなく、かつて私はモバマスで宮本フレデリカさんを応援していた弱小プロデューサーのひとりでした。宮本フレデリカさんが来れば微力ながらにガチャを回し、イベントを走っていました。
彼は、宮本フレデリカのことが好きでした。
2.宮本フレデリカから見て数少ないプロデューサーである特別感
>3Dで動く彼女は本当に可愛かったです。贔屓目なしで3Dの出来は初期からトップクラスだったと思います。その出来のおかげか、宮本フレデリカさんのファン、もしくはプロデューサーが、デレステから爆発的に増えたように感じました。それは弱小プロデューサーとしても、とても喜ばしいことでした。心底。
>さらに、速水奏さん、城ヶ崎美嘉さん、塩見周子さん、一ノ瀬志希さんというモバにおける総選挙上位、中位経験者で、集金能力の高いメンバーで構成されたLiPPSというユニットに、モバにおいて総選挙圏外常連(悪意はないです。彼女を好きだったとき、このことで何度も悔しい思いをしました)であった宮本フレデリカさんが加入することで、彼女はデレステでの人気をより明確にしたように感じました。
プロデュースの原動力の1つである恋心は残っているものの、数少ないプロデューサーとしての特別感が薄れています。
>またtulipという名曲も手伝って、更に彼女は注目され、人気はうなぎのぼりだったように思います。
>そしてその後登場した恒常SSRの衣装の可愛さ。あれは本当に完璧な出来だったと思います。当時まだ宮本フレデリカさんのファンでありプロデューサーであった私は当然課金をしてガチャも回しました。その後のスカチケでも彼女を選びました。宮本フレデリカさんのプロデューサーとして、こんなに素晴らしい出来の絵に3D、なんて恵まれているんだろうと思いました。
宮本フレデリカのことを”嫌い”になる準備が整いました。
>宮本フレデリカさんのプロデューサーとして、こんなに素晴らしい出来の絵に3D、なんて恵まれているんだろうと思いました。
本心ここにあらず、モバマスで応援をしていた彼とは思えないほど他人行儀な表現を用いています。
>しかし、ここで宮本フレデリカさんを見たくもないくらい嫌になる出来事が起こりました。
>それは、LiPPSから宮本フレデリカさんのファンになられた方の、ツイッターを見てしまったことでした。
>その方は有名な実況者さんで、ツイッターのbioにははっきり、フレデリカPと書かれていました。そして
>「貯め続けた無償ジュエルで恒常SSRフレデリカを狙う動画」(タイトルはぼかして書いています)
>をYouTubeとニコニコ動画にアップし、ツイッターのTLに貼り付けていました。
>私はこれを見た瞬間、ああもうフレデリカのプロデューサーをやめよう、と思いました。フレデリカのことは、本当に大好きでした。
>しかし彼と同じ、宮本フレデリカさんのプロデューサーでいることに対しての拒否反応が強く出ててしまい、耐えきれませんでした。
彼は、彼よりも特別感を持つプロデューサを見つけてしまいました。
原動力の片輪が外れ、精神的な支えがなくなり、彼は苦痛を感じています。
苦痛から逃れるためには、好きな彼女から離れる必要がありました。
彼は彼自身に嘘をつき、好きの気持ちを”嫌い”の気持ちで蓋をしました。
宮本フレデリカが”嫌い”な彼は、苦痛から逃れることとなりました。
>その程度でプロデューサーをやめるなんて、と思う方もいるでしょう。けど、声高に無課金宣言して担当アイドル引いておめでとうって、私には本当に意味がわからないんですよ。頭おかしいの?とさえ思う。
>なぜって、まずプロデューサーを名乗るうえで無課金って、なんの意味を為すのでしょうね?
>無償ジュエルは宮本フレデリカさんのためになったりしません。例えどれほどたくさんの無償ジュエルを宮本フレデリカさんのガチャに費やしたところで、彼女の今後の活動に対する応援にはならない。すこしも。
>もちろん課金は強制されるべきでないことは理解しています。無課金という楽しみ方があることも理解できます。
>しかし『無課金』はあくまで、ゲーム性を楽しむ方のものだと私は考えます。アイドルプロデューサーを声高に名乗る方の遊び方とは思いません。
>彼女らアイドルはあくまで集金と人気レースの世界で生きています。ゲームに課金という要素があり、かつ、その課金の結果がアイドルの待遇に反映される。それがなによりの事実です。
>それならば、プロデューサーとして彼女らアイドルを応援するできることのすべてで唯一は、課金ではないかと私は思うのです。
>そしてこの実況者はあろうことかYouTubeに無償ジュエルで宮本フレデリカさんを引いた動画を上げています。ここが一番心に引っかかりました。無償ジュエルで宮本フレデリカさんを引いた動画で金儲けをするのかと。正直名指ししたいくらいですが有名な実況者さんですから、もしこんな記事読んでいる方がいたら、察してくださるでしょう。ぶっちゃけ私怨と思われてもいいと思って書きました。それくらい、ほんっとうに嫌でした。YouTubeのこと。この記事がその実況者まで届けばいいなとすら思います。
>そしてアイドルマスターシンデレラガールズを無課金でお楽しみの、声の大きいみなさん。無課金はアイドルのためには微塵もなりません。声を大きくするくらいなら課金してからにしてください。別にその実況者だけじゃないです。声の大きい無課金って、他の人の課金にあやかった、ただのこじきですよ。たかが数百円、たかがスカチケでも課金だと私は思います。
「数少ないプロデューサーとして特別感を感じていた過去」を隠そうとしています。
自分に嘘を付いていることに罪悪感を感じ隠す理由を作り上げています。
>ここまでお読み頂きありがとうございました。タイトル書いてて思ったんだけどやっぱりフレデリカ嫌いって字面胸が痛いな。フレデリカさんをまっとうに応援している方が傷付いたらごめんなさい。終わりです。
ここは本心です。
宮本フレデリカのことを嫌いだとは思っていません。
最後に、間違ってたらごめんなさい。見られたくない気持ちを掘り返してしまったなら申し訳ないです。
でも、この共感が彼と一致しているなら嬉しいです。
https://anond.hatelabo.jp/20170813014010
こちらの記事に影響されて、ずっともやもやしていたものを表に出してしまおうと書き始めました。上記の記事のように理路整然とはしておらず、ただの愚痴です。内容も全然違います。
大好きだったはずの宮本フレデリカさんを今は見たくもないくらいに嫌いになってしまった過程の話です。
言うまでもなく、かつて私はモバマスで宮本フレデリカさんを応援していた弱小プロデューサーのひとりでした。宮本フレデリカさんが来れば微力ながらにガチャを回し、イベントを走っていました。
アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージが始まるまでは。
3Dで動く彼女は本当に可愛かったです。贔屓目なしで3Dの出来は初期からトップクラスだったと思います。その出来のおかげか、宮本フレデリカさんのファン、もしくはプロデューサーが、デレステから爆発的に増えたように感じました。それは弱小プロデューサーとしても、とても喜ばしいことでした。心底。
さらに、速水奏さん、城ヶ崎美嘉さん、塩見周子さん、一ノ瀬志希さんというモバにおける総選挙上位、中位経験者で、集金能力の高いメンバーで構成されたLiPPSというユニットに、モバにおいて総選挙圏外常連(悪意はないです。彼女を好きだったとき、このことで何度も悔しい思いをしました)であった宮本フレデリカさんが加入することで、彼女はデレステでの人気をより明確にしたように感じました。
またtulipという名曲も手伝って、更に彼女は注目され、人気はうなぎのぼりだったように思います。
そしてその後登場した恒常SSRの衣装の可愛さ。あれは本当に完璧な出来だったと思います。当時まだ宮本フレデリカさんのファンでありプロデューサーであった私は当然課金をしてガチャも回しました。その後のスカチケでも彼女を選びました。宮本フレデリカさんのプロデューサーとして、こんなに素晴らしい出来の絵に3D、なんて恵まれているんだろうと思いました。
しかし、ここで宮本フレデリカさんを見たくもないくらい嫌になる出来事が起こりました。
それは、LiPPSから宮本フレデリカさんのファンになられた方の、ツイッターを見てしまったことでした。
その方は有名な実況者さんで、ツイッターのbioにははっきり、フレデリカPと書かれていました。そして
「貯め続けた無償ジュエルで恒常SSRフレデリカを狙う動画」(タイトルはぼかして書いています)
をYouTubeとニコニコ動画にアップし、ツイッターのTLに貼り付けていました。
私はこれを見た瞬間、ああもうフレデリカのプロデューサーをやめよう、と思いました。フレデリカのことは、本当に大好きでした。
しかし彼と同じ、宮本フレデリカさんのプロデューサーでいることに対しての拒否反応が強く出ててしまい、耐えきれませんでした。
その程度でプロデューサーをやめるなんて、と思う方もいるでしょう。けど、声高に無課金宣言して担当アイドル引いておめでとうって、私には本当に意味がわからないんですよ。頭おかしいの?とさえ思う。
なぜって、まずプロデューサーを名乗るうえで無課金って、なんの意味を為すのでしょうね?
無償ジュエルは宮本フレデリカさんのためになったりしません。例えどれほどたくさんの無償ジュエルを宮本フレデリカさんのガチャに費やしたところで、彼女の今後の活動に対する応援にはならない。すこしも。
もちろん課金は強制されるべきでないことは理解しています。無課金という楽しみ方があることも理解できます。
しかし『無課金』はあくまで、ゲーム性を楽しむ方のものだと私は考えます。アイドルプロデューサーを声高に名乗る方の遊び方とは思いません。
彼女らアイドルはあくまで集金と人気レースの世界で生きています。ゲームに課金という要素があり、かつ、その課金の結果がアイドルの待遇に反映される。それがなによりの事実です。
それならば、プロデューサーとして彼女らアイドルを応援するできることのすべてで唯一は、課金ではないかと私は思うのです。
正直名指ししたいくらいですが有名な実況者さんですから、もしこんな記事読んでいる方がいたら、察してくださるでしょう。ぶっちゃけ私怨と思われてもいいと思って書きました。それくらい、ほんっとうに嫌でした。YouTubeでのこと。この記事がその実況者まで届けばいいなとすら思います。
そしてアイドルマスターシンデレラガールズを無課金でお楽しみの、声の大きいみなさん。無課金はアイドルのためには微塵もなりません。声を大きくするくらいなら課金してからにしてください。別にその実況者だけじゃないです。声の大きい無課金って、他の人の課金にあやかった、ただのこじきですよ。たかが数百円、たかがスカチケでも課金だと私は思います。
ここまでお読み頂きありがとうございました。タイトル書いてて思ったんだけどやっぱりフレデリカ嫌いって字面胸が痛いな。フレデリカさんをまっとうに応援している方が傷付いたらごめんなさい。終わりです。
追記
久々に覗いてみたらこの記事について様々なご意見を頂いていたようで驚きました。
まず、某実況者がガチャ動画を上げたことによりYouTubeとの間で金銭が発生した、という虚偽の表現(恐らくです。指摘をされたのでとりあえず。私自身はユーチューバー様の内情についてはよく存じ上げません)については申し訳なく思います。その部分については削除させて頂きました。重ねてではございますが、大変申し訳ございませんでした。そして、某実況者が完全無課金である、と発言したつもりはございません。あくまで担当である宮本フレデリカに対して、あの動画時点で無課金であったということが言いたかっただけで、他のアイドルに課金していた云々のご意見に関しては話の論点がずれているとしか言えません。
また、様々なご意見を頂き拝見しましたが、最初に書いたようにこれはただの、理路整然としない愚痴です。なんの影響力もない一個人としての愚痴。いくら整然とせず、読み手にとっては意味不明でも、私がフレデリカを見たくもなくなるくらい嫌いになった理由はこれなんです。
ファンのあまりの気持ち悪さにベイスターズが嫌いになるようなもんやろ
また誤解を解かせて頂きますと、後出しですが私はデレステにおいて有償石だけでなく無償石でもフレデリカさんを引いていおりますので、無課金で引かれたからという嫉妬は全くございません。また、端々に言葉足らずな部分があり真意が伝わっていないように思われることは確かですが、いまらさ事細かに訂正、弁解するほどの気持ちは今の私にはないですし、言い訳はここで終わりたいと思います。本当にただの走り書きに対して沢山のご意見をありがとうございました。この滅裂な愚痴をあえて公開したのは私ですので、今後も好きに読み取って、好きに書いて頂いて構いませんし、記事を削除する予定もございません。もう読んでる人もいないでしょうし。
これで本当に終わりです。お疲れさまでした。
元々は化学科の大学を卒業して、ゴム部品製造をしている会社で図面を書いていた。
ある時、設計から管理に移動して、CADのアドインを自前で作るようになり、プログラミングっておもしろいじゃん!と思い
転職を考えるようになったが、そんなアクティブに転職をすすめるようなことはしなかった。
結婚し、子供が生まれ、家を買い、まぁこのまま製造業していくんだろうなと思っていた矢先、会社の経営が傾き希望退職者の募集が始まった。
会社からは残ってほしいと言われたが、千載一遇のチャンスだと思い、割増退職金と無償の就職支援会社斡旋をもって会社を辞めた。
これが2013年の5月(32歳)。
就職支援を得ていくつかのIT企業を紹介され、業界未経験であるにも関わらず前職とほぼ同じ給料で雇ってくれた会社が今の会社で
入社したのが2013年の7月。
この会社は、大手SIerの2次請を主な生業としており、細々と自社パッケージを取り扱う感じの従業員100名前後の会社。
まず驚いたのは、求人票に「残業手当あり」と書いてあったので当然残業代全額支給だと思っていたが
内定書には「裁量労働制適用」とありみなし残業代が毎月10時間分つくだけだということ。
「これがIT業界というやつなのですね!」と、前職の製造業では考えられない条件を簡単に受け入れられたのは今でも不思議。
入社してからおおよそ1年半、携わったのは1人から3人程度の小プロジェクトのみで、官公庁向けシステムの改造がほとんど。
しかも、言語はすべてVB系(6.0、.NEt、VBA)、データベースはアクセスとスーパーマイナーなみたこともないもののみ。
それでも、知らないことを初めてやるのは新鮮で楽しかったし、勉強にもなったが、最近なんか違う、このままじゃだめかも、って不安になってきた。
このまま、VBで小さいシステムの改造だけやってて、将来大丈夫?
最近SIerの未来は暗いっていう記事たくさんみるけど、今の会社はクラウドとかの今風の技術はまったくやらないし、大丈夫かなって感じてきた。
つい最近、掲示板に「SVNってすごくいいツールがあるから、みんなVSSから乗り換えてみない?」って書いてあって、とても不安になった。
二番に、ちゃんとソースレビューとかしてもらって、もっと色々学びたいって思ってること。
「自分で勉強しろ!!」って思うかもしれないが、社内にソースの内容について語れる人がほとんどいないし、既存ソースはとても古臭く
オブジェクト指向すらあやしいものばっかりで、とりあえず動けばいいやって感じが読んでて伝わってくるし、プロジェクトでも実際にそう言われてる。
残業代でないって普通だと思ってたけど、出るとこも普通にあるんですね。
昨年末、別プロジェクトで納期3カ月おくれてるとこにヘルプで行った人達は、平日は毎日泊まり込みで休日出勤も当然して
総労働時間は私の倍はいってるはずなのに、たぶん給料は私と同じくらいしかもらえない。
自分のことじゃないけど、これはやってられないなと思った。
てなことで会社を変えたいなって思ってるんですが、私の経歴で他に雇ってくれる会社ありますかね?
もうシステム開発とかVBとかじゃなくて、パイソンとかルビーとかでWebとかやりたいなぁ。
無理かなぁ。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47