はてなキーワード: 利き手とは
俺は偏差値70越えの私立高校に通っていたが、そのときでも「クラスの誰それ達がスーパーのカゴ盗んだ数自慢しあってる」とか聞こえてきたぜ?
友達になろうとした奴が「中学時代は万引きしてたけどリスクがあるからもうやってない」みたいな話を振ってきたから距離を取ったこともある。
「留学時に大麻クッキー食わされてからちょっとハマって、今もダークウェブで仕入れてるわ」って話を普通にしてる奴らもいたし、ソイツの知り合いが「アイツの家で吸ったけど、学校で見せられるビデオほど気持ちよくはねーな。タバコの延長でしかない。酒でガチ酔いした時の方がズッとヤバかった(当然ですが未成年です)」とか抜かしてるのも聞いた。
河原の喧嘩で顎やられて2週間ぐらい休んだやつとか、そんときにボクサー骨折して利き手ギプスの奴とか、偏差値70超えてる高校だろうと普通にあったよ。
結局さ、「俺の周りで犯罪の話しとか聞いたことないよ」って奴らは、単に「周りの人とちゃんと話したことないよ」ってだけなんじゃないのかな?
俺にはそうとしか思えないんだけど。
言っとくけど俺は犯罪は一つもしてないぜ?
法定速度はキッチリ守るし、自転車は間違って逆走しないように絶対に歩道しか走らないし、割れや漫画村が流行ったときも落とす専門でアップはしなかったし、職場で使う道具も刃物だけは私物は一切使わず必ず経費で買うようにして銃刀法でしょっぴかれるリスクを0にしてるし、飲み会に誘われたら飲酒運転に巻き込まれるかも知れんからいつもチャット飲みにしてもらってるし、犯罪と関わらないための努力をキッチリしてるんだぜ。
そんな俺でも、学生時代にはクラスに潜む色んなワルの噂を耳にしてしまったもんよ。
ひとつのノートの中に自分の精神を集約するという考えがしばしば私の心を捉える。私の注意力は散漫であり、精神活動の成果をただ生活の諸場面に撒き散らして終わってしまう。だがそれを一か所に押しとどめることができれば、そこに何か、私の精神の輝きと呼べるようなものが見えてくるのではないか、と期待するのである。
瞑想がその役割を果たしてくれればよいのにと思う。だがこうして左手で文章を書くことのほうが、はるかに強く光を集める。(注:この文章は紙のノートに利き手でない手で書いた文章を転記したものである)
瞑想によって心を集中させるには、私は自分に甘すぎるのかもしれない。単にコツが掴めていないだけかもしれないが。
これからの自分の人生に何一つ希望が持てていない。希望というか、楽しみにしていることがない。またそのような対象ができるとも思えない。というのは、未来において何かが得られることを心待ちにするという心理状態が、もはや私においては不可能と感じられるからだ。
つまりこういうことだ。手を尽くして欲しいものを掴み取ったとする。すると私は「手を尽くしたのでこれは当然のことだ。起こるべきことが起こっただけだ」と思うだろう。そこには高揚感や達成感はなく、自明な疲労感が残されるだけである。では苦労なく手に入れたとしたらどうか。その場合は「ただそのようになっただけだ。私の人生とは関係がない」と思うだろう。
要するに、私は非常に疲れやすいので、達成の小さな喜びは、達成に至るまでの労力に打ち消されてしまい、かといって単なる幸運を自分の手柄とも思えない、ということである。
そもそも達成したい事柄が自分にはほとんど存在しないのである。物質的成功はもはや煩わしいものとなっている。もちろん私は虚栄心にまみれた人間だから、ちょっとした成功でしばしば調子に乗ってしまう。そしてしばらくして我に返り、みじめな気分になるのだ。それは、その時の喜びが、純粋に虚栄心に由来するのであって、自分の本当の望みとは関係ないことを知るからだ。何かが上手くいくたびにそれがわかるのだ。
この記述自体が虚栄心によるのであって、私は自己認識に失敗している、と思う。
仮に努力の末に二兆円の資産を得たとしよう(自己認識の上では、別にそれが欲しいわけではないが)。私は喜ぶだろうか?働く必要がなくなり、時間的自由を得られたことを自分はポジティブに評価するだろうとは思う。つまり少し安心するだろうということだ。
私にとって物質的成功とは、物質的苦痛を減らす方法に過ぎない。苦痛は少ないに越したことはないが、耐えれば済む話でもある。快適に生きて快適に死んだとして、それをよい人生とは思えない。その意味で、快も苦痛も大差ないと考えている。
私は異常に理想が高いのだ。あるいは、私の理想は、現代社会で一般的なそれとは位相が異なっている。これは宗教的な感情である。
もちろん、物質的快楽よりも宗教的崇高さのほうが格上だから、と私の虚栄心がささやいているだけという可能性は否めない。というかたぶんそうなのだろう。自分のやる気の無さにもっともらしい説明を与えているだけだ。
異様な無気力。これだけが真実である。しかしそれが真実であるなら、私の人生の目的が形而上学的位相にのみ存在しうる(しないかもしれないが)、ということもまた真実ではないか?
「無気力は治療できる」という通念が、社会の物質的傾向を強化しているのだ。物質的傾向というのはここでは精神的位相を無視する傾向性のことを意味している。「我々に迎合しないのは甘えである。なぜならその手段は常に準備されているのだから」というわけだ。コンサータを飲んで労働にいそしまないのは甘えである。
勇気をもって NO を突き返そう。だがその NO が具体的にどのような形をとるのか分からないから困っている、と言える。出家か?だがこの道も物質世界に吸収されて久しい。
利き手が2本あったほうが便利だろ。
ネタバレかもしれない
「なんか面白いらしいからやってみるか」くらいで、事前の情報ほぼゼロでやってみた
・天邪鬼だから、開始直後いきなり延々と逆走してみて、時間を無駄にする
・「毛がフサフサになるハズ」と期待してがっかりする
・「ネクタイしたり半袖になったりするハズ」と期待してがっかりする
・「おねーさんがこちらを見てくれるハズ」と期待してがっかりする
・ずーーーっと異変が起きないので、「異変が起きないという異変」と読んで引き返し、先に進めたが、単に見落としていただけだった
なんか今更?って感じだけど。
職場でもコロナ感染者が増えてきたしワクチン無料なのもあとちょっとなので、わが子のコロナワクチンのことを書く。
0歳で罹患した。5歳以下の乳幼児ワクチンはまだ出てなかった頃に感染。今まで見たことが無いぐらいぐったりして、親の私は頭が真っ白になってこのまま目を覚まさないのかと絶望したし、我が子に感染させた人を恨んだ。
ワクチンが認可された直後、速攻で予約して打たせた。運良く軽症だったけど、二度とあんな苦しむ愛するわが子の姿は見たくなかった!
■打たせた理由
言葉も話せず意思疎通満足にできない子供相手にコロナ後遺症があるかどうかマジでわからんかった。
乳幼児検診で小児科医に診てもらっても「後遺症あるかわからんね!」が回答だった。ひどいね〜。
で、その頃コロワクで後遺症も改善するって論文もあると知り、もし親が気が付かない後遺症があったとしても打たせて改善するなら…と思ったんよね。
実際、コロナ罹患後は半年以上は何かしらの病気に罹りやすかったし、カルボシステインシロップを半年ずっと毎日飲んでるようなものだった。
ワクチン3回完了した後は徐々に体力つけ、現在たいした病気にも罹りにくくなり鼻水も極稀に出る程度になった。
今思うとあの病気しがちもコロナ後遺症もあったんだろうなと思う。ので打たせたワクチンが何らかの効果あったと思いたい。
ただ、今のさらなる研究で、ワクチンで後遺症が必ず治るってわけじゃないのがわかってきたらしいので、危うい選択だったかも。(ワクチン接種は感染したあと2ヶ月は期間を空けた。)
今後同じようにもらってくるとしたら溜まったもんじゃないと思ったので。
その後、何度か園でコロナ感染者発生したけど、発症しなかったので、ほんとに打っててよかったと思う。
ワクチン反対派の有名どころや医者が主張してることも確認したんだけど、なんか主張内容がヘンテコだったり、他人からそれはグラフの読み間違いだよと指摘されてたり、他の人を誹謗中傷して訴えられてたり、いわゆる陰謀論者だったり…って人が多すぎて反ワクチン、ワクチン慎重派の意見が信用ならなかった。
まともな人いたらごめんね。結果的にコロナワクチンのこと信頼してしまった。
■副反応とか
医クラはこぞって「乳幼児ワクチンは副反応軽い!」ってアピールするけど無いわけではない。
でも他の回数の時は熱もでないし、一回目、四回目の副反応で吐いた後も、他の症状もなく元気いっぱいに遊び回っていた。安心した。なるべく安静にはさせたけどね。
■打つ時やってて良かったこと
初回から三回目接種の時は常に軽く風邪引いて毎週耳鼻科通いだったんだけど、ワクチン接種は熱が出ても大丈夫な薬を処方してもらった。結果的に熱は出なかったが相談しておいて良かったな〜と。
乳幼児ワクチン打てる病院のGoogleマップ評価がどこもかしこも星が少なくて絶望した(※後述)ので
お医者さんは乳幼児コロワクについて質問しても丁寧に答えてくれたし信頼できる病院だな、と安心することが出来た。Google評価は当てにならんね。
少ないとはいえ副反応はあったわけで、すぐに近くの医者に相談できたのはよかった。親も仕事のことを気にしなくて良かった。
■打つ時やっておけばと後悔したこと
同じ腕にワクチンを打つと効能が上がるという論文があったので。大人は大抵は利き手と反対に打つので関係ないけど、子供はメモっとかなきゃわからなくなっていた。もし、これから打たせる予定の人がいるなら、母子手帳に打った腕の方向を記入するのオススメします。
■心配だなぁということ、不満点
1)接種会場が少なすぎ
医クラは子供のコロワク接種率が低い事を懸念点としてよく挙げているが、親としちゃ、「じゃあもっと接種会場増やしてよ!」としか思えない…
インフルワクチンですら、【どこでやってるのか】【いつから始まるのか】【何歳から接種できるのか】が明確にまとまって打てる病院を案内してくれるサイトなりガイドなりが存在しないのも不満だが、コロナはそれ以前の問題でそもそもの打てる病院数がない。
乳幼児コロナワクチンは私の市内で打てる病院が2つか3つしか無い!!!しかも一週間で水曜だけ一回とかだったり、アクセスの悪い辺境の病院だったり、昼の変な時間しか時間が無かったり(子どもの昼寝の時間はどうしろと?叩き起こせと?) 、Google評価が低い病院しかなかったりする。
そしてこの年齢のこどもは、すぐに熱を出したり体調が悪くなるので、うまく予約できてもリスケはザラなんだよね…
来年有料化してもコロナワクチンは打つつもりだけど、値段以上に不安なのは接種会場の少なさ、アクセスの悪さ。もし今より接種できる病院が少なくなったらと思うと気が狂いそうになる。
2)周りの理解がなさすぎる
なんで子供にコロナワクチン接種させるほうが肩身狭い思いをしなきゃならんのだ。
・親の年代は「一回感染したから免疫ついたでしょ」というカビの生えた古い知識でうんざりした。コロナは感染しても長期的な免疫つかないし、何度も感染するほうが重症化率、後遺症率が高くなるやべー病気です…
・ 私や主人の同世代は「新しいワクチンを子供に打たせるのは怖い」という意見も多い。
自分たちはコロワク打って、今もピンピン生きてる生きた実証じゃねえかと思うのと、コロナ感染した後にノーガードで我が子が大人になるまで放置するほうがよほど怖いだろ、と私は思っている。
新しいワクチンが信頼できる期間を待ってたら我が子が老人になってしまうし、ぼやぼや待ってたらその老人になれないかもしれん。
あと個人的には、健康食品あげたりスマホやYouTubeとかを長時間見せるほうが、コロナワクチンよりよっぽど将来の影響が怖い…。コロナワクチンより論文やエビデンスもないので。
・びっくりしたのは、かかりつけのでかい病院の小児科医が「年寄りには必要だが子供は重症化しないからお勧めしない」と コロナワクチン接種に反対したこと。
コロナって子供もワクチンなかったら重症化するし死ぬ病気だし後遺症がある病気では?
あなたが所属されてる日本小児科学会さん、小児へのコロナワクチン接種おすすめしてるじゃん!?!?!?
http://www.jpeds.or.jp/modules/activity/index.php?content_id=531
と思ったが反論はせずに後日こっそり打たせた。
ワクチン関連のお悩み相談の回答の締めは、たいてい「お近くのかかりつけ医に相談してください」 なんだけど、まさかお近くのかかりつけ小児科医がコロナワクチン接種に反対するとは思わなかったです。打たせたけど。
乳幼児コロナワクチン接種会場の少なさって、こういう意識の小児科医が多いのが関係してるのかな?どうなんですかね。
・保育園の先生も、コロナワクチン接種した児童は我が家が初めてだったようで、どう対処すれば良いのか困惑されてたり、インフルワクチンと勘違いされたりした。
1)で書いた不満点と似ているが。平日に仕事の休みを三回取らないといけないわけで。他にも冬にはインフルワクチンも二回打たせないといけないし。
コロナとインフルワクチンは同時接種可能とは言われてるが、そんな病院数が少なすぎるし、何ならインフルワクチン打ちたいならコロナワクチン接種後に絶対二週間は空けろと指定してくる病院もある。
我が家は子供がひとりだけだが、子供が複数いるご家庭は積むしか無いじゃん?なにこれ。
とはいえ一回の量を少なくして副反応を減らしてくれているのはすごくありがたいので、これ副反応が辛い大人にも応用できないのかな?とは思ったりする。
あと今年の追加接種は一回で済んだので、去年頑張って三回打たせられて良かったな〜と思っている。
■まとめ
ワクチンの効果は実感しているし、良い効果があるという論文も数多く出ているようなので、有料化する来年以降も我が子にコロナワクチン打たせるし、自分も打つし感染予防にマスクも続ける。
が、子供へのコロナワクチンをもっと打ちやすい環境にしてくれ…と強く思います。
そして私の住んでいる街のコロナワクチン接種予約サイト、どうか来年以降も継続してください。電話予約とか前時代な仕組みに戻ってしまったら会社員の私は予約できなくなってしまうので!!!頼む!!!!
何かを考えるとき、無言である限りは漫画のキャラの吹き出しと同じように頭の中で思考内容を言葉として浮かべているだろう。
しかし自室とかでひとたびしゃべってもいいやとタガが外れると、その普段なら頭の中で浮かべている内容がそのまま発声されることになる。
そのときは少なくとも意識の内にはもはや頭の中では言葉が浮かんでいる感じはなく、むしろその声を聴くことによって自分が何を考えているのか理解する感じだ。
それが、こうやってキーボードを打ってる時なら、ディスプレイに映し出された文字を見て自分が何を考えているのか自覚するようになるって違いしか、前者との間にはその違いはないように思う。
だから自室での独り言だろうが書き込みだろうが、頭の中で思考されるべきだった内容をそのまま投射してるだけだ。
つまり単語が登場する順番なり文章としての組み立てなりは、頭の中でやることでも話すことでも書き込むことでも変わらないのがむしろ本来的だ。表現媒体の違いの間は思考する側にとって一続きだ。
それが前提であるとして、話すこについては感情的になっていてもうこいつとの関係なんかどうでもいいと思ってる相手に対しては一呼吸おかず言葉がぼんぼん出てくるわけで、上記と同じように発声が思考に先立っている面がある。それでも相手には言いたいことが伝わっているものだ。
しかし文章の場合がそれが通用しない、わざわざ表現した後推敲しなければならないというのは歯がゆいものだ。
しかもこれは、まるで体の利き手と逆側が半身不随になった人間が、食事の時手づかみを許されず、逆の手で箸で食べることを強制されても、どんなに努力してもきれいに食べきれるところまで橋の扱いがうまくなる保証などないのと同様、推敲してどれだけち多数派にとって納得できる文章にできるかも素質次第なところがある。そのようなことが一律に求められ、できて当然みたいに言うのはおかしいと思う。
激痛ではないが未だに痛みがあり、夜はしっかりは眠れない。
患部について医師は聞いても簡単に大丈夫というだけだし、療養の注意点なども相談するところもない。
つらい
子供が今までのように飛びつこうとしては気付いて止めるのがいじらしいし申し訳ない。怪我の無い側からそっと抱きしめてくるので無言で抱き合う感じになっている。
同じ家で寝起きして隣の布団で寝て毎夜蹴られてるのに。
利き手で無い側で、しかも完全片手での包丁の扱いが自分は案外上手くて、結局のところなんとか3食作っている。
生肉を大きな塊から切ったりキャベツなど千切り薄切りは無理だが。
在宅仕事の配偶者は料理(ピーラーで皮むきも始終悲鳴を上げ血は出て無いが傷を作った痛みをうったえ悪態をつくため3日で諦めた。自分が教えるには相性が悪すぎる。子供は同じ教え方で十倍上手くやる)と介添えは何もだが皿洗いと風呂洗いを毎日してくれている。