はてなキーワード: 甲斐とは
馬を手放す
今日、馬を手放した。
死ぬほど好きな馬だった。
深夜に東名をかっ飛ばして東京←→大阪を駆け巡ったり、北海道まで船で運んでひたすら真っ直ぐ続く道を走ったのも今となってはいい思い出だ。
雑費というか、馬にかかる額が桁違いにでかい事に気づいた。
税金、馬検代、保険代、駐馬場代、エサ代、高速代、メンテ代全部計算すると年間でかなりの額になる。
計算するまでその額に気がつかなかった。
正直、金をつぎ込んできた事には後悔していない。
好きな馬だから湯水のようにつぎ込んできた。
無理に手元においておくという選択肢も何度か浮かび上がった。
でも、凄く大事な馬だから、自分が腐らせて駄目にする前にしっかりと管理できて、維持できる人に譲った方がその馬にとっても良いのではないかと考えた。
馬の走行距離はかなりのものだったけど、脚の調子はよく、備品もかなり交換した。
限りなく純正に近い状態までダウングレード(?)して大事に乗ってきた甲斐があり、十五年落ちだけど現役に負けないくらい良く走る。
その馬と今日でお別れして、少しだけ悲しい気持ちになっている。
いや、悲しいというよりは寂しいと言う方がより正しいだろう。
最近、若者の馬離れって言葉を良く聴くけど、僕みたいに馬が好きだけど維持できないから手放すって人が多いんじゃないだろうか。
もちろん馬があまり好きじゃない若者も増えていると思うが、全体がそうなっているとは思わない。
またいつか馬を手に入れたい。
落ち込んだので吐き出す。
幼少期、スポーツ系の習い事をしていた。指導役が肉親だったこともあり、脂の乗っていた時期には、練習が朝の五時まで続くことも稀ではなかった。
そんな日々が数週間も続けば嫌にもなる。
しかし、その「やらされていた」時間のお陰で(当時の精神状態や幸福度はさておきとして)当時はそこそこの成績を維持していた。
時が経ち、今、私は別の趣味を得た。
少しでも上手くなりたいと思った私は、技術書を読み、習慣的に練習を続けている。甲斐あって、以前の自分と比べれば巧くなってもいる。6年も続ければ当然の話だとも言える。
しかし不満がある。それは、自分が他者に嫉妬を抱けないという点だ。
ーーー
不満に至るまでの流れを思い出す。
練習法を探す私は、さまざまな媒体に触れた。本、Webサイト、動画、SNS、有償授業…ほんの少し探しただけでも、モチベーションの維持の重要さに触れている記事は多い。
未熟さを笑われたことへの反発、同世代のライバルへの負けん気、嫉妬…それらの感情は、素直に認められるのであれば、たしかに努力に対する強い原動力になるだろう。
私自身、覚えがある。
かつて習い事を「やらされていた」私は、隙さえあれば体を休めることや他の遊びをすることに執心していた。しかし、本当にその競技で人よりも巧くなりたいと思っていた友人は、常に積極的な努力を怠らなかった。鬼気迫るやる気を抱いていた。私が限界を感じた時間をゆうにこなし、同じ時間の練習でも密度に差が出来た。
当時は「こんなこと、よく好きでできるな…」止まりで、彼よりも巧くなりたい、彼に負けない結果を出したいとは一切思わなかった。当然だ。好きでやっていた事ではないのだから。
押し付けられた内容量が規定値に達したので、最低限たどり着いた。かつて私の技量はそんなものでしかなかった。
しかし今は違う。
今の自分は好きなことをやりたくてやっている。他の事が充分できる時間もあって、そのジャンルに固執しなければいけない理由もない。
だのに、だ。自分は、明らかに自分よりも優れた者相手に、全く嫉妬や反発心と言ったものを抱くことができない。
素晴らしいな、これは良いものだな、これは見たことのない表現だな、これはどのような意図で行われているのだろう…色々思うところはあるが、そのどれもがせいぜい感動や興味、憧れ止まりであるのだ。
ーーー
勿論、負の感情抜きでも練習は出来る。惰性にならないように心がけながら、自分なりに努力を続けている。
それでも、折に触れ彼のガッツを思い出す。
というか、逆に、どうして自分はあれを抱くことができないのだろうと思う。
思いつつもわかっている。負の感情や情熱と言うものは、抱きたくて抱くようなものではない。
あれは、抱いてしまったから抱くしかない類いの感情なのだろう。
つまり、今の趣味を、自分自身が好きでありたいと思っているほどには好きではない……それだけの話なのかもしれない…
まぁ、だとしても、この趣味が今一番楽しい趣味であることには変わりないので、マイペースに進めていくだけの話なのだが。
色々と吐き出してるうちに、気持ちも落ち着いてきた。
日が昇ってきた。朝食を作ろう。
ただ、幸せだと胸を張って言えない。
おそらく結婚して家族を持つことが幸せだという洗脳に近い教育のせいだろう。
今でこそ晩婚化や一人◯◯のようなシングルに対して許容する社会になってきてはいるが、それでもまだ未婚者は未熟者、という風潮はある。
正直、未熟者である自覚はある。責任を負いたくないのだ。結婚相手や子供と人生を歩んでいく責務を、まだまだ想像できないし、したくない。
自分は一人暮らしをしているだけの“子供部屋おじさん”なのではないか。
Wikipediaによると子供部屋おじさんの定義は40歳以上とあるが、予備軍・潜在性は十分にそれである。
鍵っ子だったせいもあってか、一日に必ず自分の時間と空間が欲しい。親族の集まりがあっても早々に切り上げて自室に戻る事が多かった。
同棲なんて考えられない。
そして、昨今SNSやWebエッセイであまりに多くの不倫話や旦那への愚痴を見る機会が増えた。
ただ、諦めきれていないのも事実。
一つはその家族を築く=幸せというような思想が染み込んでしまっている事。
もう一つは、両親。自分の中で理想の夫婦像となってしまっている事だ。お互いを尊敬し合う、人生のパートナーに見える。そして、その両親を安心させたいという願いもある。
どこぞの上手くいかなかった夫婦の話より、一番身近で敬愛する両親を参考にすべきなのは分かるが、あの境地に至るまでの甲斐性が自分にはやはり無い気がしてならない。
結局少女漫画は、ある程度性的(恋愛的といってのいい)に魅力的なキャラが描けて普通の恋愛が描ければやっていけるから中々発展しづらい、というのが大きいと思う。男のエロ(萌え含む)漫画と一緒。ただ男のエロ漫画は、競合者がavアイドルエロアニメIVエロゲーエロ小説グラビアキャバクラ風俗素人エロ垢と多すぎるのでそれだけで身を立てるのは難しいし、男性作家の場合は出世への圧力が大きいからできれば一般紙にいきたいという気持ちも大きいのであの手この手で性や恋愛以外で売れようと頑張る。
その点、女は基本性や恋愛欲を満たす方法がドラマと漫画とアイドル位しかなかった(ホストも女性向けavもあるけど少数派)うえに、恋愛欲はエロ写真見るだけじゃ満たされないので恋愛フィクション市場にいれば一定の需要がある。しかも女性作家は男性作家ほど収入を求められないから、出世プレッシャーも弱いので苦心して恋愛以外で勝負しようとも思いづらい。
思う人がいても、恋愛市場の読者はそういうの求めてないから甲斐もないしね。恋愛以外の物語を求める女性読者はそれこそ少年漫画にいっちゃうし。そして野心あふれる女性作家も少年誌にいく。結局「少女漫画」は「恋愛主体でない物語」を描く場ではなくなったし、恋愛主体である以上キャラやシチュエーションの性的魅力描写に注力せざるを得ないのでそれ以外の面白くなる要素がそぎおとされるのも仕方ない。
じいさんが死にそう。
90になるじいさんだ。
元気がなくなってて、下血したので検査したら、腎不全に胃がん疑いにがんの全身転移疑いだそうだ。
がんの検査は体力的に耐えられないだろう、ということでやらないことになった。
この冬乗り切れるか。
悲しいような気もするが、ついに来るかという実感の方が大きい。
じいさんはろくでもないやつだった。
若いころから金遣いが荒く、実家の資産は全部なくなったしまった。
女遊びも激しかった。ばあさんは大変だっただろう。
定職についてない時期も長かった。
タクシー運転手だったり、送迎バスの運転手をちょっとやってた記憶しかない。
実家には畑に田んぼと農地がたくさんあったが、じいさんが農作業しているところはほとんど見たことがない。
トラクターで耕すぐらい。
根っからの怠け者だった。
趣味はパチンコで、酒を飲み、たばこを吸い、テレビを見て過ごす、ろくでなしだ。
じいさんとの思い出は特にない。
ばあさんはこんな野郎に嫁がなくてはならなくてかわいそうだった。
このばあさんでなければこの家は続いておらず、俺が生まれることもなかった。
ばあさんには感謝してる。
ばあさんはすっかりぼけてしまっていろんなこと忘れてしまっている。
かわいそうに。
じいさんがいない悠々自適な時間を楽しんでほしかったが、憎まれっ子世にはばかるだ。
そういうやつはしぶとい。
大人しくなると情が沸くもので、いざ死ぬとなると寂しいものだ。
母も憎たらしいと思っていただろうが、腐っても自分の父なので最近は甲斐甲斐しく面倒を見ていた。
最後は看取ると言っていたので、満足だろう。
娘が生まれたのでこんな世の中じゃなきゃひ孫見せてやりたいところだが、
双方リスクが高くて踏み切れない。
ばあさんには見せてやりたい。誰だかよく理解できないだろうけど。
落ちも何もない。
まあなんかわかる。
わたしも私立共学校(なんちゃって進学校の部類)に通ってたけど、男性教師に“懐きすぎてる”なあって思う子いたもん。
発情期真っ盛りに、頼り甲斐ある男がそばにいりゃ、かたむくよね。
ただ、一部教師の方も勘違いしてんじゃないかなー。自分の気持ち。
つけ込んでるつもりも「唆してる」つもりもないんじゃない?
(うちの学校なんて付属中含め、夫婦子供一家で学校に在籍してるのいたし)
出会いがないなかで、若い女の子が自分を頼ってくれてるって状態、恋愛感情湧いてもおかしくない。
増田みたいに「倫理的に完全にアウト」って意識高くできる男ばかりじゃないからねー。
ヤリチンで生徒喰いまくってるって教師じゃなきゃ、お互いに恋愛経験少ない同士、勘違いした幸せな付き合いなのかもよ?
ちゃんと結婚するくらいなら、ある意味“真面目”な先生なんだろうしねー。
親の立場なら、もちろん反対させてもらうけど。
てか増田がもし独身なら、どうやってこの恋に落ちやすい状況を乗りきってるわけ?
職業倫理だけで乗り越えられるもんなの?
あれは忘れもしない。5歳の頃に幼稚園でピアニカの発表会の練習をしていた時の事。
クソ寒い体育館?みたいなとこで練習してたんだけど、当時から陰キャ爆発してた俺はおしっこを漏らした。泣いた。周囲に気付いた人はあんまりいなかった。
この経験は人生初の壮絶な羞恥であり、今の俺の性癖の土台となった。
これも忘れはしない、広島の己〇小学校、四年生のとき、帰りの会でリコーダーで「パフ」という曲を全員で練習するのが当時の常だった。
俺は全力で演奏していたが、演奏中に隣の女子がリコーダーを置いて教卓の前に歩いていき、一人静かに出て行ったのを横目で見た。
全力の演奏が終わり、あとは挨拶して帰るだけ、なのに隣の女子は帰ってこないし先生も「待ってろ」と言い残して消えた。
ふと横を見ると水溜まりが広がっており、俺の机の足にもばっちり届いていた。おもらしだ。あの隣の内気な女の子が、おもらしをしたんだ。
もう9歳か10歳にもなるというのに、おもらしをした。それまでその子に興味を持ったことは一度も無かったのに、それからはその子の事を考えるだけで胸がはち切れんばかりだった。
5歳の頃でさえ、俺は死ぬほど恥ずかしく、泣きじゃくり、消えてしまいたいと絶望感が身を襲っていたのだから、倍の年齢である10歳でのおもらし、しかも教室中に知れ渡っている。
あの子の羞恥心と絶望感は筆舌に尽くし難いことを俺は知った。そして、酷く興奮した。
あの子は翌日普通の顔して登校した。いじめも起きず不登校もなく、みんな優しかった。俺はひとり「女の子はなんて強いんだろう」と感動し、また興奮した。
そして俺は今26歳になり、女の子が教室や体育館でおもらしする同人誌を買い漁っては抜いている。
放尿ではなく、着衣失禁で無いとダメだ。できれば人前が良い。大は範囲外。
漏らすまでずっと心の中の葛藤(「トイレ行きたい、でも手を上げたらみんなに『おしっこ我慢してるんだ』ってバレるし恥ずかしい」「あと〇分なら我慢できる…」)があるとなおよい。
そして葛藤とは裏腹にドンドンもじもじが強くなり、手はスカートの上から押さえてないともう漏れ出しそうな状況で、とにかく我慢するしかなくて、「おしっこしたい、おしっこしたい、おしっこしたい」以外の感情がなくなり、ふとした瞬間、押さえた手の隙間からおしっこが漏れ出し、何とか我慢するも止まらず、止められず、無力に自分の意志とは裏腹におしっこが溢れ出し、暖かさと微かなアンモニア臭が鼻孔をくすぐりながら、「もう〇歳なのに…」と不甲斐なさに絶望して泣きじゃくり、みんなに「漏らしてる…」と気付かれる終わり方。そういうので抜いている。
熱が38度ある。不味い。
味覚嗅覚はある、今まで高熱が出た時のような特有の倦怠感は感じない。鼻水・咳・他特別なコロナっぽい症状はない。
便秘気味なので腹は痛い。腹痛・頭痛はいつものことなので気にしてなかった。腹痛によるいつもの怠さと熱感は感じている。
腹をあっためようとコタツで暖をとってたらすこし全身が暑く感じて、なんとなく体温計で測ったら熱があった。コタツで体温が上がったって8度台にはならないだろう。たぶん。そんで左脇8度台、右脇7度台。左の方がそりゃ高いだろうが、1度も変わるもんなのか?なんだこれは。両脇、五回以上計測したが結果ほぼ変わらず。
会社休みたい気持ちはあるが、自分が休むと年末追い込みの仕事が遅れてしまって真剣に困る。しかもこのところ残業続きだったので、完全に自業自得とぶん殴られるだろう。けれど仮に無症状気味のコロナだったら職場のオッサンたちに移してしまう。今在宅せず出社してるのは自分みたいなド下っ端と数名のお偉いさんなので、彼らを重症化させたら自分は謝っても謝りきれない、圧倒的罪人だ。さらに電車通勤なので不特定多数にばら撒く可能性がある。悪だ。自分が不特定多数の側なら、「フザケンナ家で寝てろアホ」と怒り心頭間違いなし。
しかし、今住んでいる場所が地元と段違いな寒さということもあり、不甲斐ないことに冬になると毎年風邪を引いてしまっている。そんなヨワヨワな自分がコロナだとしたら軽症じゃ済まされない気がしているので、例年通りただの風邪な気がしてならない。いや風邪でも8度台なら休むか。あああー、うーーーん
いやクソな言い訳。
普通に考えて迷惑承知で休むのが常識よな。ただ不安で吐き散らかしたくなっただけです。
💩ロナ。そして💩自分。💩💩💩
風邪薬飲んで寝る
男子校で育った自分にとって、リアルな恋愛模様を目にしたのは大学に入ってからであった
それは、告白した瞬間から彼氏と彼女という役割を演じるロールプレイングゲームのようであった
女性は彼女になった瞬間から妙に依存的になったり自分勝手になったりし、男性は彼氏になった瞬間から妙に甲斐甲斐しくなった
それは、種々のイベントをステレオタイプにこなすことをチェックポイントにしたオリエンテーリングのようであった
みんな付き合ったら旅行に行き、クリスマスは一緒に過ごし(一緒じゃないと周囲が心配する)、夜になると長電話をする
付き合うまでのプロセスにしてもそう、どこでデートして、どんなものを食べて、どういうシチュエーションで告白して、と
そしてほとぼりが冷めたら別れて他人同士になり、近くにいる別の男女ととっかえひっかえ
恋愛には憧れがあった、というか純粋に異性のパートナーが欲しかった
ただオリエンテーリングで興味のないイベントまで回収しなきゃいけないのかということを面倒に感じ(みんな紋切り型だったからなおさらそう感じた)
ロールプレイングで「彼氏」という役割を演じきれなくなったら捨てられるんじゃないかという不安を感じ、よそ行きの仮面がとれた「彼女」を好きなままでいれる自信もなかった
何よりロールプレイングとオリエンテーリングの行きつく先に未来があるのか?積み上げても結局は他人同士に戻るのか?
向いてる人は楽しみながらゲームを進め、ゲームの先に未来を見出すのだろう
自分はそうじゃない、それだけ
ただ世間はそう思っちゃくれない
男なら彼女の一人くらいいて当たり前、童貞で成人を迎えたらヤラハタ、童貞で30歳を迎えたら魔法使い、そんな悪口が平気でまかり通っていたのだから
そして当時の自分は、うまく恋愛できない自分のことをひどく臆病で、価値がなく、人として欠陥があるのだと思い込んでいた
在学中運よく女性と交際することができたが、交際することそのものが目的となってしまい、当然うまくゲームをすすめることができなかった
その後社会人になり、親や周囲には見合い話があったら持ってきてほしいと言うようになったのだが、まともに相手をしてもらえなかった
幸いにしてそのうちに、過度なロールプレイングやオリエンテーリングを要求しない相手と巡り合い、結婚することができた
結婚した瞬間に浮かんだのは「これで恋愛しなくてもいい」というホッとした感情だった
振り返ってみると、最初から自分は恋愛したかったのではなく、配偶者が欲しかったんだと思う
もちろんいわゆる恋愛の先に結婚が待っているカップルだっているんだけど、そんな結婚は自分には想像がつかない
なぜ恋愛というゲームをプレイしないと異性のパートナーが得られないのか
いつまでそんな漫然としたゲームを続けなきゃいけないのか
ゲームを苦手とする者は劣っているのか
ゲームが苦手なのにプレイせざるを得ず、疲労している者もいるのではないか
じつは出生率の低下も恋愛下手が結婚できなくなったせいじゃないの?
みんな恋愛に毒されているんだよ
そして恋愛できないという事実をもって自己評価を著しく下げてしまった自分もまた恋愛に毒されていた…
そんな風に思うこの頃である