はてなキーワード: 玄人とは
【追記】追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。
anond:20220131231934にインスパイアされてやってみた。
省力のために一部wikipediaからの引用も交えながら独自の解説を記した。
一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。
江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。
隅を占めるのに二手かかるのが欠点。
4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。
後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかあまり見られなかった。
地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである。
碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。
後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。
実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。
盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。
手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。
1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。
例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。
隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。
安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。
右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。
序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間の棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。
囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。
相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。
一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。
漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。
相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。
相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
駄目については後述。追記編を参照。
ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。
一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。
盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしまう運命にある。
これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである。
2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態が存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである。
この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。
この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。
相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。
「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意
相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。
隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手
ふたつ隙間を空けて打つ手
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自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。
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相手の石の隣にくっつけて置くこと
相手の石を挟むように置くこと
相手の石の斜めに置くこと
相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと
相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石
相手の石を押すように平行に打たれる石
目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
竹の節のような並び。
一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。
仏教用語ではひとつの宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。
囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしまう特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。
コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。
通常、白石はハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど
冒頭で説明。
限られた局面、特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。
定石は手練の碁打ちの長い研鑽、研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である
どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。
または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。
囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題(クイズ)のことである。
現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。
そのため
と転じたと言われている。
自分が第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。
一目は一子(石ひとつ)の意。
囲碁においては強さに差がある場合、相手より多く先に石を置いた状態で始めることから、相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。
手を省くこと。
力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。
囲碁にはいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁の第一人者であり、世界に囲碁を広めた日本のルールが用いられている。
日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。
この2つの大きな違いは、日本ルールが自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である。
このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。
日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。
そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。
他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。
碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用)
永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日)
江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流。
大橋宗桂との将棋対局は将棋の現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要な人物の一人。
正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日)
手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士。史上最強という呼び声も高い。
文政12年5月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日〈1862年9月3日〉
ヒカルの碁で著名。
1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日
またタイトルとなる前の、「名人は一世に一人」の終身名人制時代の最後の名人でもある。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り。
「オマ●コ」発言など、昭和の棋士らしい数々の破天荒なエピソードが有名。
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
天元 1期 (1975)
その日に俺は35歳の誕生日を迎えた。
"こんな日"に生まれながら、一抹ほどの女っ気のない人生を歩んできた自分は当然ながら童貞だった。
当時働いていた職場の先輩が俺の境遇を一大事と勝手に騒いで、誕生日のその日に無理矢理に風俗へ連れていかれた。
玄人とさえ交わったことがなかった俺にとっては初の体験だった。
嬢に何と呼んで欲しいか、どういうシチュエーションにするのか(先輩後輩関係/禁断の関係/メイドとご主人様関係 等々)、NGプレイは何か 等々…
へぇ、風俗店ってこんなに細かい注文を受けるんだと感心した(後にこれはこの店独自のウリだと知る)。
アンケートの回答を進めていくうちに、衝撃の文言が俺の目に飛び込んできた。
それは「どういうプレイを望むか」という問いにあった。
回答欄には、69、騎乗位、バック……童貞ながらに今まで見てきた"映像"でどんなものかはだいたい想像ができる内容の中で、
「アナル攻め」
というものがあった。
この文言は、衝撃だった。
え?アナルって、アレだよね?ケツの穴だよね?
そんなとこ、男ながらに攻められるものなの??
…言い得ようもない興味が沸いた俺は、若干手を震わせながら「アナル攻め」に〇をつけていた。
待合室で30分ほど待った後、
「受付番号28番のお客様!お待たせしました!女の子のご用意ができました~!!」というすんげぇ威勢の良い声と同時に、待合室と通路を仕切ったカーテンが"シャーーッッッ!!!"と開いて、この日の相手、そして"初めて"となる女の子と対面した。
マジで可愛かった。
石原さとみと伊藤沙莉のミックスみたいな、すげぇ可愛い子だった。
腕を組まれて(女の素肌に触れたのは、これが実質初めて)クソほど狭い階段を3階ほど上がった後、風呂とエアマットしかない個室に入れられた。
他愛のない会話をしながら体を洗われ、マットに連れていかれてローションまみれにされたあと、プレイが始まった。
キスされて、乳首吸われて、チンチンを手でシコシコされたあと、
「じゃあ、四つん這いになって☆」
と言われるがまま、犬みたいな恰好をされられた。
一体何が始まるのかわからないでいると、ケツの穴に35年=2928日間生きてきた間に、一度も受けたことがない"快感"が走った…!!!
「んはぁつ?!」と思わず声が出た。
自分が何をされているのか全く分からず、慌ててケツのほうを振り向いた。
すると、先ほどの石原さとみと伊藤沙莉のミックスみたいなすげぇ可愛い子が、俺のケツの穴を、ペロペロペロペロ、舐めていたのだ。
すげぇ!
これすげぇ!!
ああンしゅごぉぉぉいいいぃぃぃィィィィ!!!!
女の子は攻められると、切なそうな、可愛らしい声で鳴く。
穴を攻められている間は指一本たりとも触られていない俺のアレが、ありえないほどにギンギンになっている頃合いを見測われて、やがて嬢の口に含まれながら、その中でフィニッシュをきめた。
俺の中で何かが劇的に変わった瞬間だった。
もう毎晩でも通いたかった。だけど仕事柄、翌年3月末まではクソ忙しい日々が続くのはわかっていた。
だから4月になったら、またこの嬢を指名してアナルをガシガシ攻めてもらおうと心に誓った。
年が明けて2020年。
後のことは諸氏ご存じのとおりである。コロナとやらが蔓延した。
俺のアナル攻めはお預け。
たまにあの日のプレイがフラッシュバックし、身悶えするのほど劣情を抱えながら一人で処置をほどこしてきた。
もう大丈夫だろう。
先ほどのことだ。俺はかつて再度の快感取得を誓ったあの店に行った。
行ったが、店は無くなっていた。
もう、あの嬢と会えることはない。
他では得難い快感だったのに。
元気かな、あのときの嬢。
https://president.jp/articles/-/51794
バリバリ定型発達の研究者が頑張って宇宙人の気持ちを想像しようとして失敗してる感がある。
個人的には自閉症者が方言を話したくない気持ちがわかるように思うんだよね。それは音の処理が苦手だからとか親の真似ができないからテレビを真似てるんだとかそういうことではなくて、方言を話すことによる内輪感、「俺ら」の中に入っていく感がたまらなく気持ち悪いと感じるからじゃないかと思う。
俺は標準語圏で育ったから方言での葛藤は無かったけど、気持ち悪くてどうしても話せないのがビジネス用語や業界用語の類だ。銀座をザギンと言ったり(ほんとに言うのか?)、出版社系で「青年」を「アオネン」と読んだり、工業系で単語の最後の伸ばし棒を頑なに全部省略したり(「エネルギ」ってなんだよ馬鹿じゃないか?と思う)、そういうやつだ。本来の標準的な言葉や言い方があるのに、それをわざわざ奇妙に捻じ曲げた言葉を使えるかどうかで「玄人かどうか」「仲間かどうか」を測るような空気が本当に気持ち悪い。
たぶん、定型発達傾向の強い人間は、むしろそうやって「俺ら」だけの言葉を操って仲間意識を醸成し余所者を排斥することで気持ちよさや安心感を覚えるんじゃないかと想像している。方言もそういう類のものだと思うんだよね。同じ方言を話していると同郷だと分かって安心するという。自閉症者はそれこそが心理的に受け付けないのではないか。機能的に発話できないとか習得に困難があるとかではなく、話そうと思えば話せるけど話したくない、そういうことなんじゃないかと思うんですよね。
自分が「萌え系」と呼ばれる表現が好きだから、それを作ってるクリエータも「そういうもの」が好きなはずだ、
という前提で話をする人がいるけど、おかしくないですか?
生活の安定を諦めてでもクリエータとしてエンタメの世界で生きていこうという覚悟があるような人は、
かなりの確率でハードコアな SF ファンだったり、ファンタジーならハイファンタジーというタイプだったり、
好きにやらせてもらえるなら、萌えキャラや人気声優が入り込む余地のない玄人好みの、
できることなら SF、ファンタジー、映画の歴史に残るような、「本格○○」をやりたいんじゃないの??
彼らが所謂「萌え系」の表現をやるのは、そうしないとビジネスとして成立しない(そもそも何も出来ない)
からで、では何故ビジネスとして成立しないかというと、ロリ美少女キャラに人気声優の声をあてて
キャピキャピやらせればそれで満足するような程度の低いお客さんが多いからですよね?
つまり、「乳が揺れた」だの「ほとんどパンツが見えそうな超ミニスカ」だので悦んでる
オーディエンスのレベルの低さが間接的に(直接的?)クリエータの手足を縛ってるわけで…
そういうことの方が、よっぽど「表現規制」だという見方もできるわけです。
最近話題のサンデルの本の英語タイトルは『The Tyranny of the Meritocracy』(直訳:能力主義の専制・強権統治)
だけど、自分たちの何気ない「可愛いは正義」みたいな選択が、市場原理を経由して(映像作家を志す者に対して)
「Tyranny」として現れることがある、という自覚はあってもいいと思う。