はてなキーワード: 広告屋とは
Qi2がMagsafeベースで標準化されることについて「AppleがLightningでこれをやってれば」的なコメントに星が沢山付いてたのを見て思ったことを適当に書く。
何故かそのことを記憶から捨て去ってる人達がはてな村には多い。なぜだろう。
個人的な見解としては、「Appleがスマートフォンの物理ポートの標準化を積極的にやることは今までもこれからもないんじゃないか?」という感じだ。
Lightningが何故標準化されなかったか、それは「セキュリティリスクの不確定要素が増す」からだと思ってる。
物理的に接続して電気信号をやりとりするポートの仕様を他社と合意を取りながら決めると、おいそれと変更できなくなる。
他社の要求を捻じ込まれて自社の仕様を曲げなければならなくなる場合もある。
沢山の企業の都合が限界まで盛り込まれて見るも無惨な混乱が生じている。
その混乱が物理ポートで起こると、USB-Cの仕様上の欠陥がスマホのセキュリティリスクを生じさせることもある。
自社の独自仕様なら仕様策定も自社のみで対応可能だが、標準化されているとその対応を多数の会社の合意を取りながら進めなければならない。
そういう自社の戦略上の自由度が減ることを嫌っているというのもあると思う。
あとはこれだ。
広告屋になり損ねたAppleが生存の為に仕方なく掲げたのは「プライバシー保護」だ。
プライバシー保護の観点からすれば仕様違反の機器の接続を拒否できない物理ポートの実装は受け入れられない。
もちろん、iPadの外部ディスプレイ接続のようにメリットがあれば実装するだろうが、スマホを物理ポートで画面出力する需要がそこまで大きいモノではないのは個人的な実感としてもそうだし、Appleもそう考えてるだろう。
他国の企業が好き勝手商売するのが気に食わないから自国企業に利益誘導したい、というのを標準化を盾にやっているので、Appleも従わざるを得ない。
EUは2024年10月までに対応必須というのも絶妙な期限なのが面白い。
物理ポート廃止にはちょっと早すぎるが、一度物理ポート標準化を受け入れてしまうとなし崩し的にビジネスが変容していく。
今回Qi2の発表でiPhoneのUSB-C実装の噂に冷や水ぶっかけられたのは大きいだろう。
実際に物理ポートの標準化を突っぱねられるかどうかは正直微妙だと思ってるが、周りが盛り上がりすぎて逃げ道を塞がれるのはギリギリ防いだ感じだろう。
なにをどうしてもネットでモロが漢字一文字で検索して表示される世の中で、駅のエロ広告が目につくからってのはみんな心の底から「アホか」と思ってるのよね。「ケシカランと訴えてるひとも大多数それやろ(天然もいるだろうが)
あいつらは「気に入らない」と唱えたらそれをすぐに引っ込めてくれる魔法の杖がほしいのね。
そして「気に入らない」から「引っ込める」を常態化したのちに、なんらかの思想や政治を盛り込んでくるのかと。
陰謀論乙なのかもしれないが、さしあたり今のやり方が嫌なので抵抗し続ける。
【追記】
出たよ、こういうすっとぼけ。
駅の広告は鉄道会社や広告屋のすり合わせによって「これで大丈夫」という公序良俗に合わせたものが掲示される。
これはわかりますよね?
それは検索して出てくるモロよりはかなり抑えた表現でありますよね。
公共の場でモロが出ないのはなぜか?それは大好きな建前であるところの「子供に悪い影響を与える」というものです。これを主砲として持ってきてます。というかそれ以外はありません。なぜなら、「虹絵のセクシーな女の絵が気持ち悪くてしょうがない」じゃ、「ハイ2番テーブルお気持ち入りました!」「ヨロコンデー」で終わるからです。だから、「子供」という便利な存在が必要なのです。
では、便利じゃないリアル子供は駅の広告以上のエロを知らずに育っているか? ペアレンツコントロールは絶対に機能してるか?
そんなわけないですよね。それ以上言うのは野暮ですけど説明いります?あなたの子供時代を思い出せばいいだけです。
じゃあ駅の広告を開示する際に関わる沢山の人が「大丈夫」としたもの、子供にもぬるくてぬるくて死ぬぜ!な広告に異議を唱えるのはなんででしょう?
答えは上記です。
わかってていってるのでしょう?
【追記2】
電通の五輪談合疑惑が報じられて「なんで広告代理店の電通がどこにでも顔出して金さらってくんだよ?」と訝る人が結構居る。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/4348b7be7c6a3f20646eded102d521f62fbe07dd
そうではなくて電通はスポーツイベントの元締め、親請け業もやっていてその分野では殆ど独占に近い寡占状態なんである。
五輪をはじめ、スポーツイベントには沢山の業種が関わるが、その元請けが電通ってわけ。
例えば警備業では;発注自治体--電通--警備会社(警察に警備計画出して許可貰う)--警備員
イベント業;電通--大手イベント業者--下請けイベント業者--とび職
といった具合で多種多様の業種が加わるが、みんな電通の下流で仕事貰うって形になるわけ。
因みに、広告では鉄道会社なんかは自社の子会社の交通広告社通してって所もあるので広告の多重請負は必須。
イベント業者は会場の作成で、屋外で床材敷いたりテントを設営したりステージ組んだり。
鉄管で観客席作ったりする場合はとび職を呼ぶ。
リースってのは仮設トイレや誘導のLEDやぼんぼり(発電機の上に白くて大きい丸いのを光らせるアレ)とかプレハブとかね。
五輪などでは会場の作成、特にトイレの改修やバリアフリー化、床の平坦化なんかが必要なので。但し小さい改修だけ。大きい箱ものの建築は別建てで自治体や国から直接ゼネコンに委託する。
要するに何でもかんでも全部であって、これだけイベントで多業種を統べて下請けに出す能力があるのって電通ぐらいしかない。
だから行政が絡むイベント、スポーツイベントっていうのはなんでもかんでも電通が元請けになっている。
国体もマラソン大会も「県主催社会人野球大会」とかのややマイナー系も殆どだ。
さらに最近増えてきた自治体主催のお祭や花火大会とかも同じだ。「タレントが来る祭」となったら電通とかじゃないとセッティング難しいってのは想像できるだろう。
「自治体」「スポーツ」「芸能人」が絡んだら電通案件、はっきり分かんだね。
実際、広告業に従事してる人でもこの辺の常識知らない人は居る。
例えば博報堂出身の中川淳一郎は、五輪と休業助成金事務委託問題が湧きあがった時に、東京新聞に「おまいら落ち着け、広告代理店の電通が悪の秘密結社みたいに政財界を牛耳ってる訳じゃないだろ」というコラムを掲載している(紙だけでデジタル版はないのでリンク出来ない)。
この記事でもその認識が出てる。https://www.dailyshincho.jp/article/2016/11100800/?all=1
いや、電通は広告屋だけじゃないからアチコチで顔を出すんだよ。特に「国」が開催する「大」「スポール」大会の五輪ともなれば。
中川が在籍していた業界ナンバー2の博報堂にはイベントプランニングの業務はなかったので、当然電通にもないんだと思い込んでしまってるのだな。
マラソン大会や大きい名産展とかの行政発イベントの前日や翌日に会場に行くと、「電通」のワッペンや腕章した作業員が沢山働いているのが見られる。
無論彼等は電通職員じゃなくて下請けのイベント会社やとび職やリース会社の社員やバイトだ。元請けが電通だから「電通でーす」と言って入場してるのである。
こんな風に何でもかんでも電通に投げればイベントがつつがなく終わるのだが、もう一方で行政の委託先が独占だったり不透明だと良くない、という風潮も出てきた。90年代からだ。
そこでなるべく業務を細分化して競争入札やプロポーザルにしようという流れになってきた。
イベント部門も投げる内容が狭ければ、総合イベント業みたいな会社も育つ。広告も直接地方で大手の代理店に投げればいい。建築もスタジアム立て直しみたいな巨額の金が動くものでは建築土木を分離して別建てにして入札の様子も公開したほうがいい。
委託先独占は権力との癒着を生む。毎回電通っていうのは畢竟随契なんだから契約内容も交渉も不透明だ。
という感じで、ノウハウも独占してる電通以外に委託するのは困難を伴うが、腐敗防止と契約透明化の為にわざわざ事業を分割して競争入札の形にしてあったというわけ。
そこで「おめえらだけじゃ不安だしノウハウも足りんだろ。後で協力体制を敷けるようにここはこの価格で提案はこの内容で、と割り振ろうじゃねーかhehehe」って感じの談合をしたのかなと想像する。
さて、2020年の五輪は流れてしまったわけだが、その年に休業助成金事務委託問題が湧きあがった。どうも受注の経緯が不透明で怪しいってやつだ。
上記の業界構造が判れば、これはどうも損失補填に国が応じたって事なんじゃないのか?という疑念が出てくる。五輪流れでイベントの実業分野の収入ががた落ちとなった。その代わりに派遣、事務業務請負の方で補填という請願に国が応じたのではないか?と。
これがゼネコンなどではぶら下がってる土建業者や職人が食い詰めてしまうので、一見無駄だが工事して金を流すっていうのは判る。でもこの電通の場合は下流のイベント業者などには金が流れず、電通しか救済されないのだからあの不透明随契と委託費抜き過ぎの構造はかなりいただけない。
電通=広告屋なのに五輪で暗躍してるのなんで?と思ってた人については、博報堂出身の中川淳一郎も判ってなかったので気にしなくていいと思うよ。
でも業界構造や委託の仕組みが判れば秘密結社の陰謀とかじゃなくてノウハウを牛耳ってるが故に行政、スポーツが絡むイベントにはどこでも元請けしてて、癒着に近い状態であり、各自治体や国は随契から公開プロポーザルへの流れに乗っていたのにそれをぶっちぎったのが今回の談合疑惑であり、その後ろには積み上げられた社会的了承に無頓着な安倍管時代という「追い風」もあったのでは、という事が具体性を持って判ると思われるよ。
恋愛とは何か。
思春期がいつまでも続いているような大人なので、ときたまそんなことを考える。
小説家の多くも、似たようなことを言っている。
このような言葉をよく見るということは、それだけ世にあふれる「恋愛」のイメージが、自分自身それを信じていない人たちによって作られていることを意味する。それは確かなのだろう。
しかし、それだけなのだろうか。そんな、誰かに作られた虚像をみんな信じているから、恋愛をするのだろうか。
そこで結論としてしまうのは、余りにも中途半端な、それこそ中学生のニヒリズムに過ぎないように思う。
広告屋がキャッチコピーを使う前から、作家が恋愛小説を書く前から、人は恋愛を神聖なものと考えているし、だからこそ出会い、結婚し、種を残し続けられた。
真実の愛なんて幻想に過ぎないと、現代人の多くがどこかで思いながら、それでも、愛を拒絶した人生や、愛に対する裏切りに、抵抗を感じない人は少数である。
愛を疑いながらも、愛を信じたいと多くの人が望んでいる。それもまたひとつの真実だ。
人は愛を信じたいし、自分の愛を証明したいし、自分の愛が真実のものであることを信じて欲しいといつも願っている。
愛によって自分の生を確かめたい。愛によって自分の価値を確かめたい。愛によって、自分の存在意義を確かめたい。
……結局のところ、人は恋愛を通して、自分の誠実さを証明したいのではないか、という気がする。
自分が人を愛せるということ。愛した人に誠実でいられるということ。それを示したいという欲求こそが、小説家や広告屋のつくった「恋愛」に引っ張られてのものでない、もっと根源的な人間の恋愛に対する欲求なのではないか。
これはもちろん、だから「結局自分のためだ」なんて皮肉を言いたいわけではない。
本当に自分を証明するに足る、心から尊いと思える相手に出会えなければ、こんな気持ちも起こらないわけだから……。
ここで言っているのは、恋愛という情熱がどこから来るのかということだ。
人は何故、人を恋しいと思うことに、苦しい思いをしたり、大きな罪の意識を感じるのかということだ。
恋をする、人を愛すという気持ちだけだったら、そこまで激しい葛藤に飲まれることはないはずだ。
ただ幸せな気持ちで、人生を充ちたりたものにしてくれるひとつの要素として楽しめるはずだ。
だが恋愛はそれだけではなく、人は誰でも苦しい思いをしながら、ときに辛い経験も乗り越えながら、それでも愛に誠実であろうと努力する。
それは、恋愛が相手に対する気持ちであると同時に、自分の誠実さを肯定するための儀式でもあるからだ。
恋愛は自分の誠実さを試す人生の試練だ。そして、だからこそ人は、それが小説に描かれるように美しいだけのものでなくても、苦しくても、辛くても、不器用に追い求めずにいられないのだ。
オタクがけしからんって思う人が世の中のたくさんいるのはそれはそうだと思うし別に糾弾する文章を書くのは良いとは思うんだけど
「チンドン屋」扱いってのはなんかどうしても違和感があるんだよな、チンドン屋さんに失礼って方向で。
確かに例の文章はそもそもチンドン屋についても批判するような文献を引いた上で言っているから、
世の中の凡百のチンドン屋扱い暴言に比べたらマシではあるんだろうけど、
でも当該文章における「オタク」のけしからんと扱われているレベルは社会に対する悪とかいうそういうレベルであって、
チンドン屋さんの広告屋さんとしてどうしても発生してしまうしかたない部分のようなものと同列視したらそれは尚「チンドン屋さんに失礼」とおもってしまうんよ。
勿論自分のチンドン屋さんへの理解や読解力が不足しているがゆえにこういうことを言ってしまう可能性は高いと思うけど、
すくなくとも自分にはあの文章で書かれている内容ではそこまでチンドン屋さんが「悪い」とは思えなかった。
よく政治的な敵を「ヒトラー扱い」することは多いわけだけどあれが許され得るのはヒトラーはヒトラーに失礼とか考えなくて良い「絶対悪」だからなわけで。