はてなキーワード: 大衆小説とは
ライトノベルとかライト文芸とか広く大衆小説の凄さっていうのは、個人で作れて制作予算が低いことに集約されるんだよ。
作るのにあたって初期投資が非常に少なくて済む。商業印刷するにしたって数百万程度で済むし、なろうに連載するなら(作者の人件費以外)ほぼノーコストだ。
商業出版にしたってその作者の人件費は印税という形で出版後の割合報酬ということになってる。
なんだそんなの常識だろ? という人がいるかもしれないけれど、アニメだってゲームだって映画だってそんなことはないわけだよね。「放映中止になったんでギャラ払いません」なんてないわけだ。
この初期コストの低さというのが、メディアミックスの原作生成にむいているんだよ。
テンプレという言葉は今現在否定的な意味で用いられることが多いけれど、それって「創作者たるものは独自性を追求すべきだ」であるとか「読者である我々により大きなメリット(新鮮な読書体験)を与えるべきだ」みたいな、突き詰めると根拠があいまいで言いがかりに近い否定要素なんだよね。
でもそれじゃなんでテンプレがこんなにあるかっていうと、創作者レベルでいえばある程度創作の指針を借用できるからってのももちろんあるんだけど、業界レベルでいうと「初期条件をわずかに変えた実験を大量並列でやることに価値があるから」なんだよ。この実験可能ていう価値観ってのは研究者になら判りやすいと思う。
その実験が商業的に、つまり、メディアミックス原作を探査するうえで有用があるからこの状況があるんだ。
もし小説を作るのにかかるお金が現在の十倍もあれば、こんな実験は原価割れするので絶対に行われなかった。
実験コストが高いのならば、実験の施行回数を絞らざるを得ない。そこでは「作品Aと0.1%違う作品Bを作って反応差異を計測する」なんてのよりも、もっと距離のあるBの実験の方が優先される。マンガは、この状況にある。
つまり、なろうという環境でなんであんなにテンプレが謳歌されているかといえば、もちろんそれが作者に負担を書けないっていうのもあるんだけど、なろう連載はラノベ出版よりもさらにお金がかからないので、実験環境として優秀だっていうのがあるんだよ。実験コストが(それこそ素人の思い付き労力以外消費しないほど)低いから、ほとんど差異がないような作品が並行して連載される。
なにをもってメディアが豊饒なのか否かというかにはいろんな見地があるとおもうけれど、個人がわずかなコストで実験可能だ、という意味で、小説ジャンルは「豊穣」なんだよ。
なんてのはたいていどこ言っても見かけるもんだ。
ところが、このテンプレラノベの一見した多さというのはライトノベルではなくて、アニメ業界の危なさを象徴するものだということに気づいていない。
今現在、ライトノベル業界はかつてないほど盛り上がっているといってもいい。
ライトノベルを過去に書いていた人たちはライト文芸や少しターゲットを大人向けに絞ったレーベルに新作を書き下ろすパターンが増えている。
また、なろうに代表されるWeb小説が増加し、かつてない盛り上がりを見せている。
既存のライトノベルレーベルだけを注力しているとその豊穣さに気づかないことが多い。
年間2~3千冊が刊行され、かつないほどに多様なジャンルが生み出され、市場規模もハードカバーなどを含めるとどんどん拡大して言っているのが現状だ。
ところが、アニメファンからライトノベルはテンプレ作品が多すぎるという発言をよく耳にする。
「最弱無敗の神装機龍」がテンプレート的であるという批判も耳にした。
しかし、冷静になってアニメーションの作品と、ライトノベルの作品を見比べれてみると強烈なまでにアニメの作品がテンプレート塗れなのに気づく。
テンプレラノベアニメといわれる作品がまさにそうなのだが似たようなラノベばかりアニメ化するのだ。
また、日常系、ロボットアニメなどの作品も毎回のように作られておりその画一的な作風にあまりにもおどろかされる。
そして気づく。
と。
はっきり言ってしまえば、アニメを通してみるといろんなメディア原作の作品(漫画・大衆小説・ラノベ)が画一的に見えてしまうのだ。
いたいた。
だれでも知ってるような生活上の知識がなかったり、
まわりの人と雑談が成立しないことがあった。
発達障害?って思ったけどそうでもない感じで、
話してるうちに禁止事項の多い教育で育ったって聞いて納得した。
テレビはあるけどNHKの行儀がいい感じの番組しか見ちゃだめだったり、
新聞は取ってるけどチラシは見ちゃだめだったり、
本は買ってもらえるけど猥雑なものはだめだったり(教育的なものなら漫画も可だけど活字でも流行りの大衆小説みたいなのはだめ)、
という感じだったらしい。
すごくいい人なんだけどすごくつまらない人で、
だれからも嫌われてもないけどだれからも好かれてない人だった。
あと友達がいる気配がなかった。
これは声を大にして言いたい。
理由なく「欲しい」と思うことがあるが、買えるなら買うんだ。
良く考えて欲しいんだが、人生に必要なものなんてホトンド無い。
今きっと、自由に金が使える立場なんだろう?成人してるんじゃないか?
つまり、新しいPCを買うのが5年に一回なら、あと10台しか触れられない。
50台でも、500台でも無い。たったの10台だ。
なるほど、やりたいことは全てWindowsで出来るかもしれない。
さらに、既に持っているPCで全てまかなえるのに、サブPCを買う理由がない。
それはそうだ、目的もなく10万近くを興味があるだけで出すのに躊躇するのはわかる。
買ってみてスタバに持って行ってプログラミングしても、イマイチ乗らないかもしれない。
ココで唐突にスプラトゥーンというネット対戦ゲームの話をするが、発売日に買った人にしか体験できないことがたくさんあった。
ネットで対戦する楽しさ、第一回大会の興奮と問題点、それが改善され、細かくパワーバランスが調整される。
水鉄砲をぶつけあうフィールドの地形ですら変化するその調整は、今から買って遊ぶ人には体験することすら出来ない。
今、自分に出せる金額でMacに手が届くなら、なぜ躊躇するんだ?
そのお金は確かに高いかもしれない。必要ないと感じるかもしれない。
でも、この後中年になり、壮年になり、老年期に差し掛かるにあたって、Macを買う機会は二度と訪れないかもしれない。
あらゆるモノは、本来人生には必要無いんだ。本当に必要な物なんてほとんどない。
でも、人は、大衆小説を読み、宝飾品で着飾り、鳥のさえずりに耳を傾け、ゲームに熱中する。
服の色や形や素材に一喜一憂し、髪の量で劣等感を感じたり、道行くカップルに嫉妬したりする。
それらの情動全てが、人生には本来必要無く、そしてそれこそが人生だとも言える。
人が生きるとはそういう事だ。
どうせあと100年後にはオレもオマエも塵になるんだ。
買わない理由など無い。
質問の件に触れる前に前回の補足と今回の質問に関係する部分をお話ししたいと思います。話が長くなって申し訳ないです。くどかったら飛ばして下さい。
ものには何でも「値ごろ感」とでも言うべきものがあり、それはその値段の歴史でおおざっぱに決まっているようです。原価や需給のバランスというのは経済学的には価格決定の要素として解説されるのですが、マクロにはともかくミクロや日常レベルではそこまでビビッドは要因にはなりません(人間の目は店頭で需給バランスが可視化して見えるというわけではないですからね)。書籍で言えば文庫本って500円から1000円弱くらいだよなあ。ハードカバーって2000円から3000円くらい? そういう肌感覚です。もちろんこれは永遠不変のものではなく、値上げしたり値下げしたりがおこなわれ、受け入れられ日常化する繰り返しです。いまから10年ほど前、おそらく文庫本の平均価格は50円ほど安かったと思いますし、僕たちが子どもの頃(というとばらつきがありますが)週刊少年ジャンプは200円を切っていました。
前回はなした「ハードカバー3000円ほどで売り出して、後に廉価版で700円ほどの文庫で出し直す」というのも、この値ごろ感が関係した結果です。最初から3000円の文庫でだし、部数が伸びるに従って値段を下げることは(少なくとも法制上や原理上)不可能ではありませんが、みなさんの「値ごろ感」が邪魔をして、3000円の文庫は購入してもらえないのです。なかには「いいや俺は本棚圧縮のために喜んで金を払うね」という方もいらっしゃいますが、それは少数派です。
さて、値ごろ感の話ですが「ハードカバーって2000円から3000円くらい」の本は売れます。多くは売れません。しかし少なくとも、その規格の本が現在でも毎月出る程度には、世間に受容されているわけです。「この大きさの商品に2000円から3000円くらいは払うよ」というのが一定読者層からは理解を得られていると考えられます。それは文庫も同じです。文庫サイズで500円から1000円弱(じりじり値上がりしています)は世間に「まあ、そんな値段のアイテムだろう」と思われているわけです。パッケージと値段のセットはセットであって、たとえば「ハードカバーと文庫の間の大きさで、値段も真ん中くらい」とか自由に決めてもなかなか浸透しません。書棚のサイズの問題や整理の問題もありますし、なにしろ値ごろ感は皆さんの内部の常識ですからそれを固定化するのに時間やコストがかかります。
角川ホラー文庫とかあとハヤカワとかの、
さてやっとこの話が出来るのですが、「B6程度のソフトカバーで1000円~1500円程度の小説を売る」というのは、最近「発明」されて「根付いた」新しい値ごろ感なのです。
いやいや昔からあったよ、という指摘もあるとは思いますが、いまほど安定できたのはごく最近のことだと思います。(さらに以前はカッパノベルスなどのノベルス判型があった地位なのですが、仮想戦記没落のあたりで徐々に廃れて行ってしまいましたね)
この新しい値ごろ感は、Web小説などをきっかけに広まったように思います(ここは私見です。きちんと統計などを蒐集すれば別の経緯かもしれません)。
新しい値ごろ感の発見というのは、そのまま、新しい読者層の発見でもあります。いってみれば「文庫しか買ってくれないと思っていたライトノベルユーザーが、少し大きめの判型であれば1200円だしてくれるのだ!」というエウレカでした。はっきりとした統計データなどはもっていませんが、現場の肌触り的な感覚で言えば、a)初期ラノベを読んでいた読者の皆さんが年齢を重ね可処分所得が増えた結果、1200円程度のレーベルでも購入してくれるようになった。b)すべての国内大衆小説が多かれ少なかれラノベの影響を受ける中で、文庫判型ではないライトノベル(の隣接したなにか)が要請された――などの実感を持っています。
日常的に書店に行く皆さんであれば判ると思うのですが、ここ数年の間に書店ではB6判型ソフトカバーのライトノベル的な書籍がふえていませんか? Web小説が主流ですがそれ以外の参入や、ボカロ小説と呼ばれるものや、自動文学的なもの、推理小説とライトノベルのハイブリットのようなものも見られると思います。それはこの「新しい値ごろ感」=「新しい判型と価格のバランスポイント」が皆さんに受け入れられ、希望があると出版社が判断したからです。もちろんそれが全面的に善だとはいいません。まだ固まっていない規格でぼったくってやれ、というような出版社やレーベルがあるかもしれませんし、読者的には「文庫で良かったのに」と思われるかもしれません。
とはいえ、新しいチャレンジなど10して1つか2つ成功すれば万歳ですから、この「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジは、最近の出版業界では(かなり)成功した部類だと言えます。
http://anond.hatelabo.jp/20151017161356
"最近のラノベ" site:twitter.com -rt 約 3,500 件 (0.39 秒) "最近の純文学" site:twitter.com -rt 約 72 件 (0.48 秒) "最近のケータイ小説" site:twitter.com -rt 約 43 件 (0.46 秒) "最近のSF" site:twitter.com -rt 約 530 件 (0.38 秒) "最近のミステリ" site:twitter.com -rt 約 208 件 (0.36 秒) "最近の大衆小説" site:twitter.com -rt "最近の大衆小説" site:twitter.com -rtとの一致はありません。
ハッシュタグとかも含まれるし、元増田がいうような使い方だけではないかもしれないけど
「最近のラノベ」が突出してるのは間違いないもののSFやミステリは無視できるほどでもなさそう。
いちおうマンガも。
"最近の漫画" site:twitter.com -rt 約 11,000 件 (0.33 秒) "最近のマンガ" site:twitter.com -rt 約 1,930 件 (0.47 秒) "最近のまんが" site:twitter.com -rt 約 878 件 (0.46 秒)
ラノベより多い。
映像作品も。
"最近の映画" site:twitter.com -rt 約 12,800 件 (0.38 秒) "最近のテレビ" site:twitter.com -rt 約 6,880 件 (0.36 秒) "最近のドラマ" site:twitter.com -rt 約 6,570 件 (0.36 秒) "最近のアニメ" site:twitter.com -rt 約 28,700 件 (0.34 秒)
ツイッター検索したらわかるけど、「最近の純文学」も「最近のケータイ小説」も「最近のSF」も「最近のミステリー」も「最近の大衆小説」もないんだわ。
ラノベとは比較にならんけど、「最近のホラー」は割とあるんですわ
http://anond.hatelabo.jp/20151017150249
ところで、どうしてライトノベルだけ「最近の」という枕詞がつくのだろう。
ツイッター検索したらわかるけど、「最近の純文学」も「最近のケータイ小説」も「最近のSF」も「最近のミステリー」も「最近の大衆小説」もないんだわ。
たとえば「最近の純文学」というフレーズを用いると、「最近の純文学ってなんだ? 綿矢りさの蹴りたい背中か?」「何言ってるんだあれ出版されたの2003年だぞ。もう10年以上も前だ。最近の純文学あげてみろよ」「ひ、火花……」みたいになって話が盛り上がらない。
そして「最近のケータイ小説」というフレーズを用いると、「最近のケータイ小説ってなんだ? あれだろ、映画化された恋空だろ?」「恋空も10年前の2005年に執筆されたんだ。てめえは一体いつの話をしている」となってやはり話が成り立たない。
最近のSFとして虐殺器官(2007年)を挙げるのも、最近のミステリーとしてすべてがFになる(1996年)を挙げるのも、「それは最近じゃねえだろ!!」とツッコミが入って、やっぱ話にならない。
でもま、なぜか「最近のラノベ」だけは話が通じてしまう。不思議なんだよな。
「最近のラノベってなんだ? ああ、あのアニメでやってるあれだろ。巨乳が生き物みたいに自己主張するやつ。昔はよかったよな。灼眼のシャナの貧乳なんて最高だったのに、最近のやからは貧乳がどれほどの価値を持つのか理解していない。嘆かわしい」
「最近の」とわざわざ言うからには、過去との対比がよほどやりたいのだろう。
スレイヤーズ(1989年)の頃は良かった、ブギーポップ(1998年)の頃は良かった、禁書目録(2004年)の頃は良かった。
それと比べて「最近のラノベは」と嘆くのは、果たしてそうだろうか。昔だって、99%のラノベはゴミみたいなもんだったぜ。
いや、ラノベだけじゃない。99%の純文学も、99%のSFも、99%の大衆小説も、99%の恋愛小説も、等しくゴミなんだ。
スタージョンの法則って知ってるか。
「最低の作例を引っ張り出しては叩く」という悪意の攻撃に対して、自分から直接反撃しているのだ。90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費材などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである。(Wikipedia:スタージョンの法則)
つまりな、そういうことだ。
「最近のラノベ」なんて存在しない。語ったところで、得られるものが何もない。
しいて言うならば、そのフレーズはラノベ天狗を怒らせることにのみ貢献する。
ラノベ天狗はな、俺は奴が怒る気持ちはよく理解できるんだが、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うんだ。やり過ぎっつーか、不毛だわな。果てしなく不毛な戦いである。
雑なラノベ語りをする輩に喧嘩を売って、それで相手を論破して勝ったところでな、スカッとはしない。精神的な疲弊だけが残る。どれだけ叩いても、次々と飛び出てくるモグラのように「最近のラノベ」というフレーズが現れる。駆逐できない。無駄なんだ。
たとえブギーポップであっても、このオバケは倒せねーと思うぜ。何でって、「最近のラノベ」って言葉は、もうライトノベルを語る人々の心に憑り憑いてしまっているからだ。もう手遅れ。
だから俺はもう、諦めた。「最近のラノベ」それは取るに足りない、ちょっと足元を通り抜ける冷たいつむじ風のようなものだ。放っておいてやればいい。下手につむじ風をやっつけようと、足でバンバン踏みつけると、そいつは調子に乗って巨大化して、竜巻になるんだ。
「最近のラノベ」はもはや空気のようなものだ。あってもなくてもいい、存在していても存在していなくてもいい、その言葉そのものが持つ情報的価値はとっくに失われている。
なあ、だからラノベ天狗よ。俺は、先に逝くぜ。Windows8と共に、安らかな眠りの世界にな。
昭和22(れ)177強盗昭和22年12月9日最高裁判所第一小法廷判決破棄差戻東京高等裁判所
主 文
原判決を破棄する。
理 由
弁護人大井静雄上告趣意第四点及び弁護人松本重夫上告趣意第一点について。
記録を調査すると、原審公判において被告人の弁護人は所論のように心神耗弱の
主張をなし、その立証として証人の訊問及び被告人の精神鑑定の申請をしたに拘わ
らず、原審裁判所は不心要としてその申請を全部却下した。そして、その判決理由
においては、「被告人は、昭和二二年三月私立A学院中学部を卒業して、上級学校
への入学試験を受ける準備中の者であつたが、他人を脅迫して金品を強奪しようと
考え、犯意を継続して云々」と本件犯罪の原因、動機に関する事実を判示し、原審
公判廷における被告人の供述によりこれを認定し、更に右弁護人の主張に対しては
「本件犯罪の動機、態様及び被告人の当公廷における供述態度等を綜合すると、被
告人は本件犯行当時正常の精神状況にあつて心神耗弱者であることは認めることが
出来ない」と説示しているのである。
ては、右のように単に「他人を脅迫して金品を強奪しようと考え」と抽象的に判示
しただけで、少しも具体的な判示がなく、またその証拠に供した原審における被告
人の供述によるも、その点に関する弁護人松本重夫の上告趣旨に述べられているよ
うな供述記載があるのみで、右判示に該当する具体的な供述は存在しない。その他
全記録によるも、被告人が如何なる原因、動機により本件犯行をするに至つたのか、
殊に金銭に窮した事情があつたのか、新聞又は大衆小説その他により示唆を受けた
のか等についても何等明確な証拠がない。また被告人の本件犯行後の行動、就中、
本件奪取の金品を如何なる場所に、如何なる目的を以て隠匿したのか、その金銭を
費消したのかしないのか、犯行直後父兄その他の者に会つたのか、直ちに臥床した
1 -
のか、翌朝何時に起き何をしたのか、等々の事実については原審審理において何等
触れるところがない。その点について一件記録によれば寧ろ犯行直後における本件
金品の処置に関しては常識に反し特殊異常の点あることを窺い知ることができる。
しかのみならず、本件弁護人の主張によれば被告人の祖父が精神病となり壮年にし
て投身自殺した事実ありとして原審に証拠申請をしたもののごとくである。このよ
うに本件で重要な関係にある犯罪の動機が判決において具体的に判示確定されてお
らず、却つて異常な特殊事情が伏在する疑が濃厚である本件の場合に、この点に関
する証拠申請を全部却下してその審理をなさず、しかも犯行当時の精神状態を判断
説示するのに、前記のように只抽象的な犯罪の動機と犯行後数ケ月を経た原審公判
廷における被告人の供述態度等をもつて犯行当時正常の精神状態にあつたと認める
旨を説示した原判決は、審理不尽に基く理由不備の違法あるものと言わざるを得な
い。
従つて、本論旨は結局理由があることになるから、その余の上告趣意に対する
判断を省略し、なお右の違法は事実の確定に影響を及ぼすものと認めるから刑訴第
裁判官 沢 田 竹 治 郎
裁判官 齋 藤 悠 輔
裁判官 岩 松 三 郎
昭和22(れ)177強盗昭和22年12月9日最高裁判所第一小法廷判決破棄差戻東京高等裁判所
主 文
原判決を破棄する。
理 由
弁護人大井静雄上告趣意第四点及び弁護人松本重夫上告趣意第一点について。
記録を調査すると、原審公判において被告人の弁護人は所論のように心神耗弱の
主張をなし、その立証として証人の訊問及び被告人の精神鑑定の申請をしたに拘わ
らず、原審裁判所は不心要としてその申請を全部却下した。そして、その判決理由
においては、「被告人は、昭和二二年三月私立A学院中学部を卒業して、上級学校
への入学試験を受ける準備中の者であつたが、他人を脅迫して金品を強奪しようと
考え、犯意を継続して云々」と本件犯罪の原因、動機に関する事実を判示し、原審
公判廷における被告人の供述によりこれを認定し、更に右弁護人の主張に対しては
「本件犯罪の動機、態様及び被告人の当公廷における供述態度等を綜合すると、被
告人は本件犯行当時正常の精神状況にあつて心神耗弱者であることは認めることが
出来ない」と説示しているのである。
ては、右のように単に「他人を脅迫して金品を強奪しようと考え」と抽象的に判示
しただけで、少しも具体的な判示がなく、またその証拠に供した原審における被告
人の供述によるも、その点に関する弁護人松本重夫の上告趣旨に述べられているよ
うな供述記載があるのみで、右判示に該当する具体的な供述は存在しない。その他
全記録によるも、被告人が如何なる原因、動機により本件犯行をするに至つたのか、
殊に金銭に窮した事情があつたのか、新聞又は大衆小説その他により示唆を受けた
のか等についても何等明確な証拠がない。また被告人の本件犯行後の行動、就中、
本件奪取の金品を如何なる場所に、如何なる目的を以て隠匿したのか、その金銭を
費消したのかしないのか、犯行直後父兄その他の者に会つたのか、直ちに臥床した
1 -
のか、翌朝何時に起き何をしたのか、等々の事実については原審審理において何等
触れるところがない。その点について一件記録によれば寧ろ犯行直後における本件
金品の処置に関しては常識に反し特殊異常の点あることを窺い知ることができる。
しかのみならず、本件弁護人の主張によれば被告人の祖父が精神病となり壮年にし
て投身自殺した事実ありとして原審に証拠申請をしたもののごとくである。このよ
うに本件で重要な関係にある犯罪の動機が判決において具体的に判示確定されてお
らず、却つて異常な特殊事情が伏在する疑が濃厚である本件の場合に、この点に関
する証拠申請を全部却下してその審理をなさず、しかも犯行当時の精神状態を判断
説示するのに、前記のように只抽象的な犯罪の動機と犯行後数ケ月を経た原審公判
廷における被告人の供述態度等をもつて犯行当時正常の精神状態にあつたと認める
旨を説示した原判決は、審理不尽に基く理由不備の違法あるものと言わざるを得な
い。
従つて、本論旨は結局理由があることになるから、その余の上告趣意に対する
判断を省略し、なお右の違法は事実の確定に影響を及ぼすものと認めるから刑訴第
裁判官 沢 田 竹 治 郎
裁判官 齋 藤 悠 輔
裁判官 岩 松 三 郎
文字になってれば時間があれば大抵読むが、小説となるとラノベが主体にはなる。吉本ばななとか村上春樹とかはまず読まないだろうけど、ホラー・SF・ミステリとかは海外翻訳物中心。でも主にファンタジー。
ラノベファンだけど、まあ、昔、大衆小説という切り分け方で、新しい小説を切り分けたみたいになっているとは思う。あと、メディア展開が劇的に異なる。が、角川の映画文化とか考えると意外と切り分けが難しいなと思う。
ガンヘッドって、ラノベなんだろうか?とか言っても分かんない人は多そうだけど。
パロディの定義にもよるんだけど。そもそもアッチコッチの文化からネタを拝借してくるのは結構普通。
タイミング重要で、ネタは分かりやすくやる、とかのルールを守っていればいいよ。ただ、単にアイテム出しているだけとかだと厳しい。
表立って言われないけどキーの分類は可能。
ただ、ジャンルとして意識されるには、一連似たような作品かつ他のとは違う作品としてまとめられないといけないのだけど、そういう動きよりも、各レーベルの影響が強くてよく分かんなくなってるだけだと思うよ。
****************************************
▽
遠山の金さんといえば庶民感覚で犯罪者を裁いた”名裁判官”として歴史に残る。通俗大衆小説のモデルにもなり、何回かテレビドラマにもなった。
お白砂には花吹雪舞う刺青の松方弘樹扮する金さんが颯爽と登場して悪を懲らしめ、弱き庶民から拍手喝采をあびる。
江戸時代までは検非違使の伝統が息づいていた所為か警察、検察、司法が同じ行政機関で行われた。警察が逮捕し、検察が起訴し、裁判所が法に従って結審するという近代の概念はなかった。火つけ強盗改めの長谷川平蔵も然り。
大岡越前守も温情主義裁判で庶民に人気がある。考えてみれば南町と北町奉行所の同心だけであらゆる民事裁判をまかなっていたのである。
江戸時代を世界同時代的に俯瞰すると日本はたいそう治安が良かった。日本人が裁判沙汰を好まなかった証左にもなる。
水戸黄門様は印籠をかざして即席裁判。これは超法規行為であり、そもそも黄門様は司法の独立って概念を知っていたのかな。
そういうわけだから日本人は争い事が嫌い、裁判は避ける。なにごとも裁判で決着をつけ、交通事故でも弁護士をよぶ米国とは法律の風土が違う。
だが世の中が変わり「国際化」というアメリカ化が進んだ。外国人の犯罪ばかりか、外国企業との軋轢、特許係争が頻発し、あげくは米国からの強い要求が突きつけられる。日本に弁護士が少ない、と。
この結果、二つの政策が実現した。まずは大学に雨後の竹の子のごとく誕生した法科大学院。
そして日本に馴染むかどうか不明な新制度、すなわち裁判員である。しかもこの裁判員が臨む裁判と言えば殺人、傷害致死、放火、身代金誘拐などの重大犯罪であり、死刑か量刑か無罪かを決める「大岡越前」の小型ヴァージョンとなる。実際に最初の判決が八月初旬に実現し「業界予想よりすこし思い」量刑が下った。世間の常識が裁判官の常識を変えた例になった。
ともかく裁判員制度の発足は米国からの圧力が遠因、これに財界の要求が一致し、日弁連が便乗した。奇妙な、面妖な裁判員制度が日本にうまれた。
左右の境界線がないまま賛否両論が渦巻き、「ともかく始めてみなければ分からない」ということになったわけだ。
議論は曖昧なまま、米国へのジェスチャーのごとくに審議が進み、国民が誰も知らないうちに米国流の「陪審員」制度の誕生となったことは述べたが、米国には黒人奴隷制やリンチによる縛り首があった。日本とは異なり犯罪者も多く、弁護士は百万人以上、なかには悪徳弁護士、アンビュランス・チェイサー(救急車を追いかけて患者から事故の弁護士を成功報酬でいかがかと注文をとる)もいれば、マッチ・ポンプもいる。セクハラをでっち上げて日本企業から大枚をせしめた手合いもいる。
だから伝統重視の保守派がいきり立って反対の論陣を張る。教養の低い、裁判官に比べると法律知識のない素人にそんな重大犯罪を判定させて良いのか、それこそ左翼の思う壺ではないのか、と。
第一に無知蒙昧なる庶民が重大犯罪を裁けるのか。冷徹な判断が出来ず情実に走り、死刑を避ける傾向が顕著になるのではないのか。
第二に陪審員は買収されやすく誤審、冤罪が多く死刑執行後に真犯人がでるケースが米国では頻発している。だから「逃亡者」というテレビは大ヒットした。反面で、陪審員を黒人ばかりにして、妻殺しの「無罪」を勝ち取ったO・J・シンプソン事件のような法廷テクニックの悪用がおこる。
第三にこれは基本的に人民裁判であり、ソクラテスの「法は法なり」と言って毒杯をあおいで死ぬようなケース、あるいはマリー・アントアネットのように左翼お得意の人民裁判が復活する恐れはないのか。
▲上告審には適用されず、なんのために必要なのかは不明
細かな問題点はほかにも多々ある。
一、選挙管理委員会のリストを元に無作為に選ばれる「裁判員候補者」は面接で拒否されることもあるシステムとはいえ、拒めば罰金とか、法廷の密室での協議内容は一切喋ってはいけないが、違反した場合、数十万円の罰金とか馴染めない特徴あり。
四、多数決で裁定することが本当に妥当なのか等々、問題点が沸騰する。
ところが新制度では凶悪犯罪の一審でしか適用にならず、高裁から最高裁へと上告するに従い、裁判員はおかれない。どのみち現在の裁判で一審で終わる裁判は稀だから、それならいったい何のためにこういう「改革」が必要かも論議された。
裁判員制度導入に賛成する保守の論客も意外に目立つ。代表選手はコラムニストの高山正之氏だ。
高山氏は産経新聞ロスアンジェルス特派員時代に多くの裁判を傍聴し、陪審員制度に精通し日米の裁判に関連する著作も多い。
法律の解釈しか知らない裁判官、世間知らずの無知な裁判官より大衆の叡智、つまり民度が裁いたほうが適正な判決が出やすく、主知主義、インテリの暴走、左翼優勢といういまの偏向状況を覆せる嚆矢になるかも知れないという。世間智の欠如甚だしきインテリの裁きより大衆のほうが賢いという日本人への信頼がそう言わせるのだろう。これぞまさしく遠山の金さんの時代への回帰ではないか。
ただし米国の陪審員制度といい、今度の日本の裁判員制度といい、これらは民主主義の発展とは相関関係にはない。司法の民主化などというお題目は寝言の部類であり、推進側だったはずの日弁連ですら一部は反対に回っているそうな。
通巻第2702号
私の出身地では,公立図書館は主婦と退職者のたまり場になっている。
購入リクエストも流行の大衆小説とか料理本とかそんなのばっかりだ。ひどい話だが大作や血液型占いまで入ってる。
「利用者のニーズ」を優先して蔵書を構築していくととんでもないことになる。が,それを無視して教養主義に走ったところで独善的の謗りは免れないし,利用指標が落ち込んで予算削減,下手をすれば廃止検討対象になるのは目に見えている。困るよなあこういうの。
公立図書館の使命は知る権利の保障だと思う。「真理はわれらを自由にする」だ。報道・学術・基礎資料だけあればいい。娯楽本は市場の流通にまかせる。書店や貸本屋でいいじゃない。と理想論をはきたくなるがそれじゃ絶対に現実は回らないんだよなあ。むむ。