はてなキーワード: ファンタジー小説とは
【追記】「十二国記ってアンチ女性向けファンタジーなんだな」ってタイトルが良くないって言われて、その通りだって思ったから消す。
どう言えばいいんだろうな? 甘やかされる系ファンタジーに厳しいっていうか、自分が書いていることに自覚的って言うか。
男女問わず、思春期に空想しがちな「ここからどこか素敵なところに連れていってくれ」という願望やそれに基づいた創作に厳しいってことなんかなあ?
ブクマカの「登場人物すべてに潔癖で厳しい」って趣旨の指摘を見て、私が一番言いたかったのってこれだったんだって気づいた。
フェミニズム小説ではって指摘についてはその通りで、前のエントリではそれについて触れたんだけど、やっぱりリンク張るだけじゃ分かりづらいよね。
十代のころに背伸びしてラノベとか少年少女小説から遠ざかってたから偏見です、これについてもごめんなさい。
ファンタジー小説と自分に都合がいいファンタジー・空想って言葉もいい加減に使ってた。
ー以下追記前ー
ここでいうアンチってのは否定的とか叩いているとかそういう意味じゃなくて、対案とか批評的なとかそんなニュアンスね。
なんでそんなこと思ったのかっていうと、異世界に行って素敵な男性と出会ってお姫様として幸せに暮らすっていう女性向けファンタジーのシチュエーション(正確にはいかにもありそうだなーって偏見なんだけど)を話をひねった設定が多いって気づいたんだ。
例えばシリーズ最初の「月の影 影の海」ってのは、内気な女子高生である陽子が景麒ってイケメン男性に異世界に連れて行かれる場面から話が始まるんだけど、よくある異世界ものと違って、向こうの世界については何の説明もされずにほぼ身一つで放り出されるんだよね。で、最終的には彼女が新しい王だってわかるんだけれども、彼女が武器を持って立ちあがり、囚われのお姫様みたいに鎖につながれた景麒を救い出すところでお話が終わってる。
で、この世界の王様ってのは忙しくて、反乱が起きたら自ら戦場に立つし、妖魔と剣で切ったはったやるし、官僚のトップと口でやりあわなきゃいけないし、美しいだけの世界じゃないんだ。
なんというか、「覚悟」を決める話なんだよ。
異世界で他人に裏切られ続けて荒み切った果てに、「他人を信じるな」と嘲笑する謎の存在蒼猿(実は彼女自身の内なる声)と決別し、裏切られてもいいから他者を信じる道を選ぶシーンは超かっこいい。それに、陽子の元の世界の父親は「女は女らしくしろ」という何かのカリカチュアみたいなキャラクターで、フェミニンなものがこの話ではそこまで肯定的に扱われていないんだよね。女性として扱われたのは、売春宿に売られそうになったときくらいか。これ以降のストーリーでも彼女は女王としての服装を窮屈だと感じ、街に出るときは男装を好むし、この世界の女性は妊娠・出産をしない。
他に批評的だなって感じたのは「風の万里 黎明の空」のふたりの副主人公、祥瓊と鈴だ。祥瓊は反乱軍に父王が処刑され、命こそ救われるのだが村では無能な下働きとして虐待され、しかも正体が露見して危うくリンチされかける。安全のため隣国の女王の下働きになるも、そこの女王にも冷遇される。
一方、日本出身の鈴は言葉の通じない異世界で仙人の奴隷同然の暮らしをさせられ、ついに意を決して出奔する。二人とも、女王となった陽子に憧れたり憎悪を抱いたりして、陽子の治める国に向かって旅をする。
これだけ見ると、いじめられたかわいそうなヒロインが返り咲く話の序盤のように見える。読者はこう予想するだろう。いずれも二人とも陽子によって救われるだろうと。だが、中盤で二人はそれぞれ別の人物によって己の落ち度を諭される。祥瓊は長い華やかな王宮暮らしの中で、四十年も父の暴政を止めようともせず、自分の国のありようを知ろうともしなかったことを淡々と告げられる。外国人のほうが自分の国の歴史に詳しいのがどれだけ恥ずかしいことかわかるかと。
鈴は、自分だけが不幸を我慢すればやり過ごせると思い込み、百年間何もしなかっただけであり、彼女の不遇の嘆きはただの不幸自慢であるのだと責められる(この世界では特定の条件を満たすと寿命がなくなる)。
このあたり、小野不由美が読者層の中高生に説教をかましている側面も感じる。
そして祥瓊と鈴が救われるのは陽子によってでもないし、イケメンによってでもない。自分の落ち度に気づき、目覚め、やはり剣を持って立ち上がる。
(ところで、祥瓊を冷遇した女王は気が強く悪役令嬢っぽさを持ちながら筋が一本通った倫理観の持ち主で「図南の翼」では主役を張っている。というか悪役令嬢ものの起源の一つなんじゃないか?)
つまるところ、十二国記のシリーズ前半は幻想に逃げる少女に対して戦うよう促しているのだ。そしてサポートキャラの最高の内面イケメン楽俊とは恋愛関係になっているわけではなく、対等な友人だ。「男性に過度に頼るな、対等たれ」と言っているように見える(あと、シリーズ後半になると時代小説や政治小説っぽくなって、中高年の男性にウケる要素がどんどん増えていく感じだ。きらびやかな幻想とたもとを分かったせいか、少女向けレーベルからははみ出てしまっている。最新作「白銀の墟 玄の月」は講談社X文庫ホワイトハートから出てないよね?)。
似ているなって思ったのがミヒャエル・エンデの「はてしない物語」だ。これは物語後半で主人公バスチアンが崩壊したファンタジー世界の救い主となって本の中に入り込み、高性能イケメンのチート野郎になるんだけれど、チートを使うたびに元の世界のダメな自分のことをどんどん忘れていき、記憶喪失のまま永遠に物語世界に閉じ込められる危機に陥るんだよね。同じ末路を迎えた人間の描写はぞっとする。児童文学の中でここまでいわゆる恐ろしい末路を描いたのも珍しい。
これってまさにやっていることが同じで、小野不由美が少女小説のフォーマットを使って女性向けフィクションに対して批評的な作品を書いたように、エンデはファンタジーの形式を使いながら現実逃避するポルノ的ファンタジーを批判しているのがすごい。アンチファンタジーだ。しかも、それがめっぽう面白いんだ。
私はポルノ的ファンタジーがダメだとは思わない。エッチなものも含めてポルノってのは、なんでも願いが叶う世界の中で遊ぶことで、願いが叶わないことが多い現実と戦うためのパワーを充電する遊び場だ。ここが虚構だってわかって遊んでいる限り、心の健康を保つのにはプラスだ。
でも、ときどき自分に「これは嘘だぞ」って言い聞かせないと危ない。幸せイチャイチャラブラブなアブノーマルプレイなしのポルノでも、これも本当のセックスと間違えたらいけない。相手の気持ちいいところが全部わかって、自分の気持ちいいところ全部責めてもらえるセックスなんてこの世にはなくて、「あれやってみたい」 「こうしてほしい」 「今のは良かった」 「ありがとう」ってちゃんと言わなきゃ伝わらない。
ああいうイチャラブエロ漫画はインスタグラムみたいにいいところだけ繋いで作った虚像なんだよ。小野不由美も十二国記外伝「魔性の子」で「異世界に逃げるな、お前の生きる世界はここだ」という話をしている(「帰山」の中の難民支援でも「自立する気概を失うレベルまで支援してはならない」って趣旨のことを言ってる)。
つまるところ、自分で欲しいものを能動的につかまなきゃダメなんだよな。
なんてことを日曜日にファミレスで友人にぶちまけてしまった。あー楽しかった。
ハイスペックイケメンを素朴女子が救う話の起源について話題になったから書いたわけじゃないんだけど、「ジェイン・エア」は一つのオリジンよね。この話を裏面から見たジーン・リース「サルガッソーの広い海」や批評「ジェイン・エアは幸せになれるか? 名作小説のさらなる謎」も面白いよ。
陽子が異世界に入るときに剣を授けられるので、これって男性原理の象徴じゃないかと冗談半分で書こうとしたんだけれども、実際に剣とは別に回復アイテムの玉(二つではないけれど)も授けられるし、鞘は失くしてしまう。鞘を女性原理と見るか包皮と見るかはともかく、フロイト的な解釈が全くのデタラメではない気がしてしまった。
鞘を女性原理と見るならば、作中でそれを無くす(機能を失う)ことは女性原理が弱まることを意味するし、包皮と見るならば、その喪失は男子割礼・成人の儀礼を意味していると読めなくもない。
ほら、作中でも過酷な旅でげっそり痩せて、身体から丸みが失われたともあるし。
こんなことを書いて申し訳ない気持ちもあるのだが、剣と同時に球も授けられるなんて話として出来過ぎているし、そうした作品を他に私は知らない。あったら教えてください。
以上だ! いつか男性向けハーレムものと女子向けの後宮ものの差異について書きたいぜ!
→ 追記! 昔書いたやつ
https://anond.hatelabo.jp/20200609075504
生理妊娠出産がないとか逆に女性向けっぽいと感じた要素はここです
読み返して思ったけど、アンチ「一昔前の」とかアンチ「世間的に女性受けしそうと思われがちな」ファンタジー、アンチ「童話から想像される」ファンタジーって気がしてきた。
AIで俺好みのダークファンタジー小説(短編)書かそうとしてるんだけど、どれがいいのか分からんよ…
1つ目は生成速度の問題。12Bなら快適、20B付近はやや遅め、32Bは遅め、70Bは使えたもんじゃない。
2つ目はパラメータ数と性能が比例しないこと。賢過ぎて創造性が失われてる説が濃厚。そのため、(流石に0.5Bや2Bは低過ぎると思うが)7B〜9Bの方が面白い小説書く可能性がある。ただし、性能落とすと記憶力が悪くなり、こちらが指定した設定をすっぽかしてしまうことも多々ある。
3つ目は日本語モデルの少なさ。日本語用に調整された(japanese)instructなるタイプのモデルが、やはり、流暢な日本語を出力する(と感じる)。でも、これが少ない。
そして、AIで小説書こうなんて試みをする人は少なく、イラスト界隈でいう元素法典みたいな、革新的なプロンプト集もないし、いいベンチマークもリーダーボードも見当たんねえ…
『異世界NTR~親友のオンナを最強スキルで堕とす方法~』を読んだ(漫画版)
異世界転移した人間不信チャラ男が、自分を救ってくれた無垢童貞に心酔し、チート能力を持つ童貞が人の良さから騙されないか警戒し、近づいてくる女を片っ端から手籠めにして童貞から遠ざける作品だ
女とセックスしまくる一方で、「童貞を守るため、女なんかどうでもいい、童貞のことが一番大事で一番好き」というBL臭さも漂う
抱いた女たちは「街を守ってもらいたいので旅に出ないよう媚びて引き止めてる」という悪心からではないが打算を持って童貞に接する者もいたが、
結局のところ悪意を持つ女というのは誰もいなかった
無垢な童貞を守りたい、怪しい女は遠ざけたい、そんな思いが結局童貞を決定的に傷つけて修復不可能になってしまう
出落ちでセックスしまくるだけの漫画だと思っていたら、意外にも話が進行してからも面白い
ちな、「最強スキル」とは、人間やモンスターと深く接触することで相手のスキルをコピーできるというもの
死にかけの魔物にトドメを刺す前に、体内に腕を突っ込むと毒耐性やら超聴覚やらを得られる
異世界では負傷などで冒険者を引退して娼婦をやっている女が多く、娼館に通うだけで彼女たちが過去に習得した剣術や魔術のスキルを得られて気持ちよく強くなれる
異世界転移ものは、海外古典ファンタジー小説よりもJRPGの雰囲気が強い
この作品の面白いところは、ゲームによくある「二周目」がはじまるところだ
空回りして童貞を決定的に傷つけ心身を救えない状態にしてしまったチャラ男は、異世界に転移した最初の瞬間からやり直しする道を選ぶ
童貞を守りたいというのは驕りだった、童貞のそばに自分のような汚れた人間がいない方がいいと悟り、思い出の初対面の瞬間からすぐに童貞と袂を分かつ
はてなの多くがディズニー嫌いなので宗教上の理由でSHOGUNをみれなくて空想で語っていると思うんだ。
まずこの話はフィクションなのでキャラクターは架空の人物である。
「このドラマは歴史的に正しいのであって政治的に正しいわけじゃない」というコメントがみられたが歴史的に全然正しくない。
秀吉の死後家康が大阪城に幽閉され、三浦按針を切り札にキリシタンの五大老の仲を切り崩す。
全員架空の名前ではあるが日本人なら細部描写からモデルとなった歴史上の人物が想像できるようになっている。
歴史がわかる人なら「ん?」となる話だがアメリカ人の原作なんだからしょうがない。
家康(ここでは虎永)は由緒正しき美濃原の血筋とか訳の分からん言説も出てくる。源氏のことだろうか?
ハンセン病のキリスト教に帰依した大老が登場するなど日本が舞台のファンタジー小説を読んでいるような気分だ。
話の筋としてはプロテスタントの按針がカトリックを蹴散らし関ヶ原の趨勢に影響を与えるというアングロサクソンが喜びそうなお話となっている。
劇中ポルトガル語を話している体のシーンは全て英語で話している。
これは展開重視だったり、配信の視聴成績を考慮してだろうがちょっと変ではある。
細部にこだわった日本人スタッフがどう感じたか気になるところだ。
当たり前のように英語で話し白人文化にそれほど興味がない本作はとても「ポリコレ的」であると言えなくもない。
そもそも原作は白人万歳な70年代の歴史風ファンタジーで日本描写が適当だったら大炎上した可能性さえある。
いわゆる白人酋長モノ(アバターなどがわかりやすい。未開人の破滅の運命を賢明な白人様が救うお話)で昨今ではわかりやすい差別的な表現と言われているが今作では白人も日本人も互いに野蛮と罵り合っていてバランスを取ろうとする試みが窺える。
ハリウッドで何か賞を受賞する場合マイノリティ要素が大きく影響するのは最近のトレンドであるが本作の場合日本描写が丁寧だった点が評価されたのは想像に難くない。
少々イジワルな言い方だがあなたの習った歴史では五大老五奉行に「大谷吉継」がいたのかな?
インパクト重視の人物配置をして異国情緒を意識した、日本を「異世界」として扱うファンタジー作品と評しているんだよ。
実在の大老前田利家は織田家臣からここまできて悲喜交々の物語があるが架空人物を置いたらもったいないじゃないか。
囚われの身→安針の活躍で脱出→地震で大ピンチ→また囚われの身…
都合の良すぎる展開も去ることながら日本版ゲースロと称されるだけあって無駄に三角関係作ったりノイズになる。
史実から引っ張ってきたエピソードと適当に作った話の混ぜこぜで歴史がわかる日本人には特殊な体験になったと思う。
それでもこの作品の魅力が足り得ているのは俳優陣の引き締まった所作と小道具やセットの作り込み、ロケーションの良さ、落ち着いたCGIの使い方などがあるためだと思う。
偏見にまみれた原作からこれだけの視聴体験をつむぎ出したのはハリウッドでのマイノリティにあたる日本人の描かれ方や起用に疑問を呈し、日本人役は日本人、日本語劇、日本スタッフによる文化監修の賜物。
将軍のポリコレがわからない人は自身を名誉白人だと思っているという評があったけれど国外に出ないでいたら差別的な扱いを受けた事がないので自分のことをマイノリティと認識できていないのかもしれない。
1. アメリカン・ゴッズ(American Gods)
作者: ニール・ゲイマン
概要: 古代の神々が現代の新しい神々と対峙する物語。主人公シャドウ・ムーンは、刑務所から出所直前に妻の死を知らされ、オーディンを名乗る謎の男と出会い、神々の戦いに巻き込まれていきます。
2. アースシーの魔法使い(A Wizard of Earthsea)
作者: アーシュラ・K・ル=グウィン
概要: 魔法学校に通う少年ゲドが、誤って暗黒の力を解き放ってしまい、その結果を修正するための冒険に出る物語。政治やフェミニズムのテーマを背景に、ファンタジーの枠を超えた深い物語が展開されます。
3. ファーシーアの物語(The Farseer Trilogy)
作者: ロビン・ホブ
概要: 王子の私生児であるフィッツが、暗殺者として育てられ、六公国を舞台にした冒険と陰謀に巻き込まれる物語。魔法や政治的陰謀、ゾンビの呪いなどが絡み合う壮大なファンタジーです。
4. ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル(Jonathan Strange & Mr Norrell)
作者: スザンナ・クラーク
概要: 19世紀のイギリスを舞台に、魔法が復活し、2人の魔法使いがその力を振るう物語。ナポレオン戦争の時代背景を持ち、優雅でウィットに富んだ歴史的ファンタジーとして高く評価されています。
概要: 外宇宙を舞台にした外交的な陰謀と詩的な形式が絡み合う物語。小さな宇宙ステーションの大使であるマヒト・ズマレが、巨大な帝国ティクスカランに赴き、前任者の死の謎を解き明かす過程が描かれます。
中学生の頃から、はてな、なろう、Twitter、個人ブログ、note、某ゲームのファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンルの文章を書いてきた。主戦場を匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。
このような過去から察せられる通り、自分は文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説やはてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。
最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときはサービスのアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。
このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分は文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロの小説家先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリーの矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントはストーリーの構成がしっかりしていて、論理的に妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。
しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主の自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品を主観的、客観的に分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである。
このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分の意見を表明する場合でも、脳内にある自分のアイデアはパソコンのディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分の脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分の脳内にあるものと自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内にしかないもの、書いたものにしかないものも無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行の名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色、スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分の意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。
そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかったことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分は普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたものを100%他人のものであると断じてしまうことである。中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去の自分と現在の自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分の文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法は文章を100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章とにらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分の意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分の意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分の脳内と文章が一致する。
根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分の意見が初めから脳内に整然とした文章で存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分の意見は言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章を100%自分のものにする方法の最後で、自分の意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分の意見を言語化するあいだに自分の意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。
元増田のいうことはなんとなくわかる
ファンタジーにもいろいろあるし、元増田の口に合うかはわからないけど増田の好きななろう小説おいとくね
・今は千年ほど昔
https://ncode.syosetu.com/n4018eo/
https://ncode.syosetu.com/n4521de/
増田はこっちの方が好き
・地位レベル−32768の〈魔女〉は、【ステータス】魔法でなんとなく世渡りしたい
https://ncode.syosetu.com/n2866en/
・とこしえの黄昏の国
https://ncode.syosetu.com/s2305b/
ファンタジーといえば旅よな
転生先の世界が主人公にとって都合が良すぎるとなんだか白けるというか、嘘臭くささが先に立って楽しめない
難しいジャンルなんだろうな
指輪物語(The Lord of the Rings):1954年。
小説、映画。それまで妖精として使われていたエルフ、ドワーフを亜人類として登場させたファンタジー小説の原点といえる作品。
ホビットの名称は権利関係のため他の作品では使われなくなった。
ダンジョンズ&ドラゴンズ(Dungeons & Dragons、D&D):1974年。
世界最初のRPG。テーブルトークという紙とサイコロを使い会話で遊ぶスタイル。人間、エルフ、ドワーフなどの種族、戦士、魔法使い、僧侶などの職業がある。
ロードス島戦記:1988年。ライトノベル。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」に掲載されたテーブルトークRPGのリプレイから派生した
日本のファンタジー長編小説。ディードリットはエルフのパブリックイメージと言えるキャラ。
ウィザードリィ(Wizardry):1981年。コンピュータRPG。3Dダンジョン探索型ゲームの原点。転送失敗や蘇生失敗でキャラが消えるペナルティがある。
ダンジョンマスター(Dungeon Master):1987年。コンピュータRPG。魔物を食べる要素が登場。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」でコミカライズが連載されていた。
wikipediaの内容を読んでも特に「借り物の設定はロー」とは書かれていない。
それどころか
ゲーム設定
ダンジョンズ&ドラゴンズなどのロールプレイングゲームは、トレイシー・ヒックマンとマーガレット・ワイズによる「ドラゴンランス」やエド・グリーンウッドによる「フォーゴットン・レルム」のようなキャンペーン設定と共に、多くのファンタジー小説の基盤として一般的です。そして、多くの他の作家もこれらの設定に貢献し続けています。
と書かれている。
というかハイファンタジーとエピックファンタジーを同一視しているのは謎だ。
(少なくとも数年前まではそんな内容ではなかったはず)
https://somethingorange.jp/entry/fantasytoha
タイトルの2作品は明らかにファンタジーなのに、筆者の言いたいことが記事を最初に読んだとき、全く分からなかった。
一晩経って読み直したらなんとなく掴めたので。
「fantasy」は、空想や想像力によって生み出された物語や世界観を指す言葉である。また、現実とは異なる非現実的な要素が含まれたフィクション作品やジャンルを指すこともある。例えば、魔法や神話の生き物が登場する物語は、ファンタジーと呼ばれることが一般的である。
https://www.weblio.jp/content/ファンタジー
要するに
②現実とは異なる非現実的な要素が含まれたフィクション作品やジャンル
の2種類の意味がある。
自分は②の認識が強かったので、2作品はファンタジーだろと思っていた。
なので元記事のタイトルになったり、コピーだ、オリジナリティだ云々言ってんだなと理解できました。
それらは表面的にファンタジー小説のガジェットを使っているだけであって、「ファンタジーの精神」ともいうべきものを備えていない。
いわゆる「古典的なファンタジー」のコピーのコピーのコピー、ただそのアイテムを流用しただけの作品をほんとうに「ファンタジー」といえるのかといったら、むずかしいところだろう。
筆者が言いたいことは、ここに集約されている。
筆者は①の視点を重視しているので、②の視点で雑に「ファンタジー」にまとめてくれるなと。
まあ全然拘ってくれて構わないんだが、こういう人って漏れなく「優劣ではない」と言いつつ、文章から優劣が滲み出ている。
「コピーのコピーのコピー」だったり、「アイテムを流用しただけ」だったり、言葉遣いに表れている。
「コピーのコピーのコピー」→「お決まりからの派生」「設定の引用」
「流用」って言葉の意味も「所定の目的以外のことに用いること」なので、悪意のある書き方に見えますよ。「だけ」にも感じるところあるよね。
そもそもジャンルの話をしたいのであれば、「ファンタジー」の言葉の意味を調べて、①の話をしますね、で始めたらわかりやすいのに。
文章下手なのか。