はてなキーワード: 人物とは
ふつーの人より、マンガや映画見てるが、もうびっくりするくらい血肉になっていないの続き
特に血肉になってねーなって思うのは、カメラアングルとマンガのコマ割りの動線
その次に、キャラクターの性格を反映した動きによる写実的な心情表現、マンガ・アニメ的な誇張アクション
(見開きや大コマ用の見栄の切り方は、大御所になっても相当試行錯誤してるみたいなのでこっちは略)
うまいマンガはそのまんま娯楽として楽しんで『ああ面白かった』で終わるので、カメラアングルとコマ割りの動線、キャラクターのお芝居を意識するのは、
この4パターン
でもよく考えてみたら、そもそも『カメラアングルとコマ割りの動線、お芝居で魅せる』って、商業でも全員がやってるわけじゃなかったわ
そして、ワイが単行本買ってる作家の大半は、『カメラアングルとコマ割りの動線、お芝居で魅せる』に該当する作風の作家では無かったことに気づいた
ぼんやりワイの手持ちで該当しそうな作家を考えてみたが、ぴったり合致する作家の作品を買っていなくて、
ぴったりではなく、ぼんやりでも、両手で数えられるくらいしか持ってなかったわ
たぶん、ストーリーやキャラがワイの好みに合わなかったのだろう。そんで好きなの買ってたら、似たような作風の作品の所有が多くなったのだろう
(アメコミ含めた海外の作品は予算と語学力の問題でまったく買っていない。買っても作家買いでは無くて単発買い)
つまり、何を見て・・・以前にそもそもぴったり該当する作風の作家のマンガを買っていなかったわけやな・・・
『カメラアングルとコマ割りの動線、お芝居で魅せる』にぼんやりなら該当しそうな持ってたので、商業作家あげてみる
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前者は日本の実写映画的な作り込みしてるので画面密度高いが、マンガ力が高くてめっちゃ見易い
その上、話も好み!やったーーー!
でも日本のメインストリームの映画の絵作りしてるので、年齢と体格とステレオイメージくらいは意識するけど、
こういう性格のキャラはこういう身体の動きするとかまではしないし、舞台装置全体で心情表情やストーリーを想像させるみたいな話作りはしていない
ただ服の動きとかマジでヤバいのよね。3DCG使ってるけど、クロスシュミレーションだけでどうこう出来るやつじゃないのよな・・・
アシスタントの人にポーズ取ってもらって写真合成か下書きにして描いてると思うんだけど、めっちゃくちゃ金掛かってそう
後者はただひたすらに絵がうまい。アニメーターでもアメコミの人でもそうそうこの人よりも上手い人いない
写実的ではなくマンガ・アニメ的な表現なので、服の動きとかはクロスシュミレーションでイケそうな範囲
けど、3DCGじゃ出来ない嘘表現(誇張表現)ガンガンしてくる
しかし、あのカメラアングル、3DCGシミュレーション無しでよく出来るよな・・・化け物じみた空間認識能力ですわ・・・
ただ、この作家も動きとカメラアングルで魅せる作家であっても、お芝居でお話作る系の作家じゃないのよな
氏は絵があまり画力は高くなくて、化け物じみた空間認識能力も無くて、おそらく予算も時間もないので、
アクションシーンや画面密度が高いシーンになると、正直何をしているかよくわからなくなることがあるし、
写実的なのに、人体も服もイマイチ(興味持って無さそう)だし、漫画的なポージングで見栄切ったりもしない(こっちも興味持って無さそう)
キャラクターの身体全体の芝居ではなく、ハイブランドの広告の不機嫌な若者みてーな表情で、コマの空間を切り取っていくパターンの作風と言えそう
でも、ここ重要なんだけど、写実的な絵作りをしているけど、現実そのものをそのままをトレースして描いていないんだよね
ここは画力や予算・時間の問題ではなく、ハッキリと氏の『作風』だと言える
雑にわかりやすく言えば、写真のHDR合成みたいな、北野ブルーみたいな、写実的だけどテーマに合わせた見せたい色が最初からある
話の流れもそんな感じ。視点があたっている人物がベラベラ気持ちをしゃべったりはしない(というか心情テキスト無し)
おそらくあっただろうやりとりセリフはガンガン削られていて、『人間が過去のことを思い出した時に思い出すだろう場面とセリフだけ』で話が構成されている
話の構成力はめっちゃ高いので、原作の方が向いてそう感あるが(実際売れたのは原作者として関わった作品)、氏の独特な空気感表現をやってくれる作画担当とタッグを組めるかは運
莫大な予算で氏に好きに描かせたらすごいの描きそう
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商業作家はなんかこれくらいで、『カメラアングルとコマ割りの動線、お芝居で魅せる』にばっちり一致するマンガ買ってなかったわ
アニメーターやアメコミ好きな人が、キャラクターの年齢や性格や体格に合わせた、お芝居を描いてるの見るのわくわくするので、
買ってたと思ったが買ってなかったわ、うんち!!!!!
カメラアングルとマンガのコマ割りの動線はヤバい商業作家のマンガならそれなりに持ってた。まぁびっくりするくらい血肉になっていないけどね
やっぱ面白いの読んだら『面白かった』で終わっちゃうよね (美味しいご飯食べても『美味しかった』だけで終わるタイプ)
あと、ものすごい金と時間掛かってる or 化け物じみた空間認識能力 でどうこうなるか?感ある
(前者は3DCG使って時間かければある程度は再現できそうだが・・・)
買ってる作品で多かったのは、
人情ものとギャグマンガは研究を重ねた技巧かもだが、基本的に超マンガ力!!!!よりも、エモとか重視している模様
エモとか重視してるのに『カメラアングルとコマ割りの動線、お芝居で魅せる』が何故どうこうってなったんだ?と思ったが、
やっぱ、アニメーターやアメコミ好きな人が楽しそうに描いてるからなんだろうな・・・・
まぁストーリーやキャラが好みに合わなかったのか、読むだけで殆ど買って無かった&処分したみたいだが・・・・・・うんち!!!!!
女だけど聞かれたら「腐女子…?」って答えてる。
活動の方針としてはナマモノは以ての外で、同僚とか増田の匿名の人物での
それでいて界隈の外の人に勘繰られたいときは「B…… L……?」
Apple とかと同じ性的消費のない世界を建て前だけでも堅持してる。
男の人たちは鍵なしであっけらかんにやってるから見かけるたび、あ゛ー、って思ってるわ。
はてな匿名ダイアリー・はてなブックマーク…言わずと知れた"クソ"の中の"クソ"
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こいつら例外なく皆クソっすね
忌憚のない意見って奴っス
テレビで女が他人に合わせてるかのように誰かをイケメンとか言ってるのを見るたびに思うわ。
俺はテレビの取材とか見てて一般人が出てくるとこいつとやりたいと思ってたら別の人でてきたらああこっちでやりたいとか思うってむらっけが映ってる人が切り替わるたびに際限なくおこるんだわ。いやいやほとんどの人間が可愛く感じちゃう。誰の方がいいとか序列決められんわ。強いて言うなら単純接触効果のせいだと思うがその時画面に写ってる人が大体の場合一番魅力的に感じてしまう
元々、苦手な人がいたらすぐ距離を置くタイプだったから、誰かを嫌いになるという経験がなかった。
しかし、色々な事情でとある苦手な人物と距離を置けない状況が年単位で続いた。苦手といっても、相手が悪いことをしたわけではない。ただただ性格が合わないだけだったのだが、その結果、その人物のことが大嫌いになった。
かつてないほど人を嫌いになって、初めて自分にも「他人を攻撃したい」という感情があることを知った。
大嫌いな相手に嫌がらせをしたい。困らせたい。社会に出れなくなってほしい。そういった感情に囚われるようになった。(間接的に)殺す妄想すらした。
相手の存在が憎くて仕方ないのだ。何なら、「普段は他人に攻撃的でない自分を、ここまで攻撃的にさせる貴方の存在が許せない」という逆恨み感情さえ生まれてきて、自分でも嫌になる。
人には言えないが、実際せこい嫌がらせのようなこともした。ショックを受けている相手の様子を見て、一時的に溜飲は下がったが、それ以上に自分がやったことに対する後悔や罪悪感、不安なんかの方が大きくて、もうやりたくないと思った。
でも、しばらくして相手への負の感情が増幅してくると、また嫌がらせをしたい、相手を貶めたいという気持ちが出てきてしまう。
自分は姑息なので、例え相手のことがどんだけ憎くても、法を犯すようなことは絶対にしない。ただ、このままだとまたみみっちい嫌がらせのようなことをしてしまうんだろうな、という予感はある。
嫌がらせとする方とされる方、どんな理由があっても「嫌がらせをする方」が100%悪いことは分かっている。分かっていて、それになりたくないのに、自分の感情がコントロール出来ない。
この感情を終わらせるにはどうすればいいんだろうか。この誰も得しない負の感情が消えることはあるんだろうか。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 氷室 ひむろ
・05 [子どもだけ][3択]2(番
・06 [子どもだけ]6 3/4
・08 [親子で]クレーター
・09 阿倍仲麻呂 あべのなかまろ
・10 [近似値]27(人
・11 [すべて][順番4答]イギリス ブラジル トルコ スリランカ
・14 吉田修一 よしだしゅういち
・15 岩手(県
・18 湊川《みなとがわ》の戦い
・19 ピラルク
・20 19
・25 [3択]しょくぱんまん
・26 市松(模様
・27 12(名以上
・29 鼻緒
・30e 『ねないこだれだ』
ファックスも無かった頃には記者が現地から本社に電話をかけて記事を読み上げて入稿していたのだがその過程で起きた面白エピソード
戦前の話。ある左翼活動家が逮捕された記事で、「この人物は左傾思想の持ち主として当局も注目していた人物」と書くはずだったのが実際の記事では「酒一升の持ち主として〜」
[2.どんな水だろうな]
数日前から行方不明になっていた人物がマンションの貯水槽から発見された。
「マンション住人は腐乱死体入りの水飲んだか」という記事になるはずが「〜フランケンシュタイン入りの水飲んだか」に化けたらしい
不正確な記憶でブコメ書いた上に、憶測を加えてしまったが、それが違っていたようだ。
Ciniiで役割語、老人などで出てきた論文にちょうどそのことを論じているものがあったので勉強もかねて増田に書いてみた。
論文1本だけで断言的なことは言えないかもしれないが、参考にはなるんじゃないかと。
『「役割語から考える自称詞 「わし」 の方言性と出現時期』黒崎佐仁子 (2011)からの孫引きになるが、以下のような理由らしい。
金水(2007)は,「そうじゃ,わしが知っておる」のようなアニメやマンガに登場する博士および老人の言葉の特徴を以下のようにまとめている。
⑸ 「A=B」の関係を表すとき,標準語では B の後ろに「だ」をつけるが,老人語・博士語で は「じゃ」をつける。また否定を表す表現として,標準語では動詞の後ろに「ない」をつけるが,老人語・博士語では「ん」をつける。さらに,一人称代名詞として,老人語・博士語ではよく「わし(博士語では,さらに「吾輩」)を用いる。(p. 98)
金水(2003:4)は「これらの特徴の対立は,実はそのまま日本の東西方言の対立に重なる」として,以下のような表を提示している。
博士語 標準語 西日本方言 東日本方言 断定 ~じゃ ~だ ~じゃ、~や ~だ 打消 知らん、知らぬ 知らない 知らん、知らへん 知らない、知らねえ
西日本方言の断定表現として「じゃ」と「や」が挙げられているが,このうち「じゃ」のみが博士語として認識される。この理由は,真田(1990)が述べているように「や」が「じゃ」の変種として新しく生み出されたものであるため,「や」が西日本方言として認知されるより前に「じゃ」が 博士語・老人語として定着したからだと考えられる。
江戸時代の言語使用特徴に関しては,佐藤(2002)が分かりやすく解説している。
(略)
当時の人々は「上方語的な言い方が伝統的に正しい」(小松 1985:21)という意識を持っていた。そのため,「若年・壮年層の人物が,いち早く江戸の新共通語である東国的表現を自分たちの言葉として駆使していた時点で,老年層は未だ上方語的表現を規範的な言葉として手放さなかったというような構図が,江戸においてある程度現実に存在した」(金水 2003:26)と考えられ,「明治期に入ると,江戸語の文法を受け継いで新しい〈標準語〉が形成されていく。
ところが文芸作品,演劇作品の中では,伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていく」(金水 2003:27)という過程を経て,アニメ・マンガの博士語・老人語が確立していったのである。
西日本方言のじゃ→やの変化とマンガの成立の時期からして、老人役割語ができたのは大正・戦前くらいかな、と想像していたが、どうやらもっと古いらしい。
江戸時代に老人役割語の原型がすでにあったらしいのはびっくりだ。伝統の慣性の力の大きさを感じる。
美人についても同じだが、同一人物のなかでその判定に容易に矛盾が生じるのがこの観念の脆さ危うさだと思う。
たとえば同じ人間にAとB、BとC、AとC、CとDについて立て続けにどちらの方がイケメンに思うか判断してもらってA>B、B<C、A>C、C>Dという結果が得られたとする。この時点で論理的にはA>C>B>Dであることが確定する。しかしその後さらに間髪入れずにBとDどっちがイケメンであるか聞いたら果たして必ずしもDよりBの方がイケメンであるという答えが得られるだろうか?本人が自分の答えとその論理的関係を記憶しているなら、確かにそう答えるかもしれない。しかし逆の答えであったとしても、その立て続けの質問のごく数分の間に本人の中の美醜に関する価値基準が変化したとは考えにくい。
AからDという四つの中での比較では、数が少ないので論理的に一貫した答えになる可能性が高いと思う人も多いので、もっとたくさんの中からの比較でもいい。美醜に関する価値基準が変化を起こさない程度の長さで、比較作業が完了する範囲でならいくらでも比較させる人数を増やしてよい。人数が多いほど、その人数間の美醜の優劣の判定により全ての間での順序が確定するのに必要な比較数と、順列組み合わせとしての考えうる比較数との間の差は大きくなるだろう。考えうる比較数から順序の確定に必要な比較数を引いた残りの比較数分の比較において、それ以前の比較に対して矛盾した答えが得られそうなことは、人数が多ければ多いほどそうなりそうなことは想像に難くないだろう。
またAとB、BとCみたいに二人ずつ提示して比較させるのと、最初から比較対象を全て提示してこれらをイケメンである順に並べ替えてもらうのでも、同日人物なのに結果は違ってくるかもしれない。
そう考えると「美醜に関する価値基準」なるもの自体存在しないという仮定が浮上する。これは一瞬一瞬その基準が変化するという意味で存在しないと言っているという次元のものではなく、そんな基準なるものは一個人の中にある一時点においても論理的に記述可能な形でなど存在していないのではないかということを言っている。
もちろん一つずつ提示して、こいつはイケメンかブサイクかと聞いていくやり方でならどっちかの答えを得られるのだろうから、定性的観念としてのイケメンとか言うのは破綻なく存在しているのだろう。そこもまた奇妙なわけだが。
だけども二者比較をさせれば全体の順序関係がわかる、その人の美醜に関する基準がそこから論理的に推測できるような。半定量的観念としてはそのような観念は存在していないのではないかと思う。
もし多数派にとって今現在顔面偏差値がトップクラスの顔の割合が全体の99.9%でも占めるようになったらどうなるだろう?そういえばテストの場合だと満点の人数がそれ以外の点数を取った人数の合計よりも多い時の満点の偏差値はいくつ以下となるのだったか。多分一般に高偏差値と言われるような数字ではなかったはず。
つまり顔面偏差値という言葉自体使われてなくなるかもしれない。
ただし0.01%のブサメンの恋愛市場における価値がその希少性によって上がるかといえば、これは生理的に受け付けないという要素によるものも大きい可能性があるので、無関係かもしれない。
同じ理屈で、99.9%が今でいう超ブサメンになっても、相対的にその低い価値が普遍性によって押し上げれられるかといえばそんなことはないように思われる