はてなキーワード: 教会とは
香典帳というのは、お葬式の時の香典を誰から何円もらったかを一冊の帳面に記したものだ。
古くは近世期のものもあるが、私の仕事場は北海道なので、近代以降の香典帳を主に集めている。
集めているのは、正確に言うと香典帳だけではない。
香典の他に、葬式で必要なものを一式記してその代金をまとめた買物帳や、お布施を払った際の布施帳なども付随することが多い。
どうしてこういうものを集めるのかというと、物価がよく解るからだ。
人の死というのは今も昔も絶え間なく続く。
だからそれに際しての香典や、調達物資は、物価の移り変わりの物差しとして極めて優秀なのだ。
昔は、コメが物価の指標になっていた。高度経済成長期以降、食料の多様化により、コメという物差しはぐにゃぐにゃとあやふやなものになってしまった。
他の、価値があると考えられてきた指標すらそうだった。貨幣で買える貨幣も横行した。
だが、未だ死ぬことは、医学が発展したとは言え平等だ。共同体があれほど変質したとしても、寺なり神社なり教会なりで、古墳時代とさして変わらない営みが続いている。
今日は、古い家の仏壇に入っていた香典帳を見た。昔ながらの折り紙状の和紙の帳面だ。9才で死んだ男の子のものがあった。尋常小学校の同級生一同で香典が出されていた。
親族(子孫)からいただいた付随データを網膜上にダウンロードする。昭和11年に腸チフスで死んだのだという。
昨日は、古いHDDに保存されたpdfの香典帳を見た。元々はエクセルというデータ形式らしい。94才で死んだ女に、101才の姉が香典を出していた。
これも親族からの付随データが功を奏して判明したもの。平成29年の香典帳。死因は老衰。小学校教諭を長く務めた勉強熱心な女で、この時代にしては香典が多い。
香典システムから物価や人的ネットワークを構築するのはよい手法だが、そもそも香典を出さない葬式(家族葬や新しい宗教観に基づく葬式)の形態が増えたことによる影響はどう考えているのか?
後継者講習会なるものに参加して来た。(http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/kokeisha/)
これは、20~40歳までの男女が3日間で教理を学ぶ合宿みたいなものだ。私も実家の流れには逆らえず今回参加した。
似たような行事(学修・リー講)にはよく参加はしていた。にもかかわらず大して得るものもなくなあなあで続けて来た信仰だが、今回の3日間では色々思うところがあった。
私の実家は教会で、生まれてからずっと天理教の教育を受けていた。毎日のおつとめや神名流し・路傍公演など経験させられて来た。しかも、管内の学校でがっつり教理を学んでさえいた。
だが私は釈然としない。本当に神様などいるのだろうか、いたとしてもコテコテの関西弁をしゃべるような神様なのだろうか
実家の教会を継ぐこともあり得るようなポジションにいる私だが、幼少のころの実家の貧乏な惨状を覚えているので、自身の子供に同じような経験をさせたいとは到底思わないし、性格がねじ曲がっているので教会長を引き継げる気もしない
あくまで天理教を否定しているわけではない。しかし信じてはいない。宗教は社会的にはセーフティネットであり、個人レベルでは内的なスタビライザーとして機能しているのだ。私はその一つとして天理教を見ている。
そんな状態で講習に参加した。
色々な講師のお話を聞いていると、どの講師も同じような話しかしていない。「夫婦仲良く」や「陽気ぐらしは自分がやればみんなに広がる」など、自明なことをつらつらと数十分と語っていることに改めて気づいた。天理教の教理のトピックは幾多にもあるはずだが、幼少から様々な講話や教理を勉強している私にとってはどれも何処かで聞いたような話(しかも自明的な内容)である。それゆえ眠くなっても仕方ない。最初の5分ほど講師の話を聞くといつもまぶたが落ちて来ていた
これは1意見だが、20~40歳の男子女子がそんな好んで教理を聞くだろうか?もっと面白い話や、エッジの効いた弁士オリジナルの教理の解釈を話せば良いのでは?と気になっていた。もし解釈が他人と大きくずれていてもそれでいい。ずれが聞き手に疑問を残す。疑問が議論につながる。議論こそが思考を引き起こす手っ取り早い方法なのではと思う。
また、気になったのがグループワークだ。
このような講習では、毎回知らない人とグループを組み、教理について色々議論する時間がある。3日間でトータル5時間ぐらいだろうか、
参加者は20歳を超えているから一部の大学生とその他大勢の社会人のはずで、前で人が喋っている時にベラベラ喋ったり、出会いを求めにギラギラした目で女性を見る輩はいないだろうと思っていた。
しかし実際は各班30人のうち、一人はそんな輩が存在していた。いったい何をしに来ているのか?天理教の教理を知っていながらどうしてああも横暴がでいるのか、「八つのほこり」を頭にきざみこめ低脳め。
講習中は基本的には各部屋での飲酒が禁止されているのだが、ゆうづとめが終わると、大勢の受講者が近くのファミマでカゴいっぱいの酒を買っている。部屋で消灯を過ぎても飲んでいるzちゅ後者を見ても監督者は見て見ぬ振り。過去には鍋や焼肉も宿泊部屋で行われていたらしい
私としては、同じ部屋の仲間と仲を深めれて楽しかったが、学修やリー講の時は厳しかった門限やその他ルールと比べると、後継者講習会はルールというものが全く機能していない。
おそらく社会人になると、いうことを聞かない適当な大人が増えているのだろうと思うと悲しくなった。
働きながら信仰をしている有名な方もたくさんいることに驚いた。
チューリッヒのCEOや万田酵素の社長など、大成しているひともいらっしゃるのだ。こういう大人になりたいものだと私は思った
よく賛否両論になる男性絵本作家のぶみ、おかあさんだからの歌詞も賛否両論だ。
ママのスマホになりたいという絵本では、元になった作文のパパとママのスマホになりたいからパパだけ消えて、ママに見てもらいたい息子の心情が語られる。
母子家庭で息子が「ママと結婚する」と言うので、散らかった自宅でドレスを着て母親と息子が結婚式をし、その後ママが死んでおばけになり息子の成長を見守る。
大人になった息子の結婚式で、お嫁さんはママのウエディングドレスを着て、昔のママとの結婚式の映像が流れお嫁さんと息子は感涙、息子は大好きなママに届け僕の声と号泣する。
その後産まれた娘がママにそっくりで、驚く息子は何故か三歳に戻っており、それからママのおばけは出なくなりハッピーエンド。
読んでいて母親としてもお嫁さんとしても、背筋が寒くなる程に母親が重かった。
パパが娘に結婚式をプレゼントして、立派な教会に牧師や招待客達を集めて綺麗なドレスを着てパパと結婚式をし、忙しいのに結婚式ありがとうと感謝する娘に感動して仕事から早く帰るようになったと言う粗筋。
娘がドレスアップしたりキスをする横で招待客の男の子が「俺も娘と結婚したかった〜」とずっと悔しがっているのがパパの欲望丸出しっぽかったが、ママに比べたら情念が薄い内容だった。
何故こんなに母親愛が重いのか不思議だったが、このインタビューを見て納得した。
『ママがおばけになっちゃった!』作者・のぶみが語る、32年越しの母との和解
https://wotopi.jp/archives/36431
だから、本に人生の指針を求めるとか、そもそもそういう発想がなかった
娯楽として読んだものの中から自然にとか、ちょうどツボにはまってとか、そういう形で価値観を吸収することはもちろんあるよ
ゲームでも漫画でもそういうことはあるし、酒やギャンブルで人生語る人も居るし、それはそういうものだと思う
あとは、娯楽のつもりで読み始めた本が思いのほか説教臭かった、みたいなこともある
でも最初からお説教されるつもりで本に臨むというのは、何か自分の中で「それは本に求めてない」という感じ
今のところそもそも積極的にお説教されたいとか道を示してほしいとかもあまり無いが(誰かが示した道はその人の利益誘導じゃないかと疑ってしまう)、
もしそれを望むようになったら、どこに向かおうかな
のび太のお祖母ちゃんをタイムマシンで現代に連れてきて、泥酔したのび太のパパ(=お祖母ちゃんの息子)に会わせたところ
パパが泣きながら仕事の辛さを訴え始めたシーンで、ドラえもんがそっと口にした感想だ
のび太のお祖母ちゃんは故人だけれど、亡くなっていなくてもこの年になると、
親と言えど弱く小さい、何ならもう自分よりも体も小さく頭も古い、頼りない一人の人間でしかない
親がそうならそれ以外の他人は尚のことだ
無邪気に不満や繰り言を訴えて受け入れてくれるような、大きく頼れる存在はどこにも居ない
神様というのはきっと、大人のそんな寄る辺ない気持ちに応じて生まれた、必要不可欠な発明なのかもしれないと思う
俺はどの宗教も特に信じていないが、心の中で神様に語り掛けたいと思うことが増えた
奇跡や裁きは与えてくれなくていい
とりとめもない泣き言や愚痴を、苛立たず、心痛めず、無理もせず、ただ静かに聞いてくれるだけでいい
神社で手を合わせるのは、少しの間だけそういう気持ちを叶えてくれる
けれど、そういった偶像や象徴だって誰かが維持管理しているのだし
行ったことはないが教会の懺悔室などは、もっと直接的に神職の人が懺悔を聞いてくれるのだろう
話が噛みあってないだけだよ。学問の上での区分の話をしてる。典型的な、「宗教」アレルギーみたいだからしょうがないけどね。
別に増田が「何だかんだで(神教)仏教徒なんでしょー?」と言いたいわけじゃなくて、「○○教とかとは関係なく、「宗教観」からは簡単に逃れられにくいよという話をしてたんだ。
今時アメリカに住むWASPの皆さんですら、いわゆる「○○教」の信者らしい毎日を送っているかと言えば違うし(毎週末教会に行ってるキリスト教徒はアメリカや英国だとかなり少なくなったらしいし)
じゃあ彼らが「無宗教」なのかというと、違うんだと思うんだよ。、
例えば世間体のために一応親が死んだら経ぐらいは読ませといた方がいいよな、みたいなことこそが、逃れにくい文化なんじゃねーの?と思うわけで。
アーミッシュが電線を使わないのは、発電設備など高度なインフラを必要とするものがあると、『貧富の格差』が生まれてしまうから、というのが理由だそうです。同様な理由でガソリンも使わなかったと。
正確に言うとインフラの否定なので、アーミッシュは自宅家屋に電線を引きこむ(つまりインフラ)を否定してるんだよね。別に電気使うのは否定してない。アホみたいなロジックだと思うけれど、彼らはそう言ってる。
また自動車免許を取ることを否定している(若いアーミッシュは両親や教会に無断で免許を取り、これがしばしばトラブルの種になる)けれど、自動車に乗ることは否定してない。なので外部と接触するときは相手側に運転を要求する。
アーミッシュは技術の進歩について「新しいものは悪魔のもの」っていう信仰をもってて否定的なんだけど、一方で「聖書は現代医学を禁じてない」という理由で現代医療を受けることは認めてる。これもダブスタに見えるけれど、まあ、そういうふうに言ってるんだからそうなんだろう。一方で彼らはその宗教観から医療保険(と言うか社会保障全般)を認めていない(神の試練だとしている)ため、それらの参加をしないし、アーミッシュの参加を許さない。なのでフリーライダーとしての批判が根強い。
総じて「自分らは開発しないし手を汚さないがその利益を受け取ることはやぶさかじゃない」というのがアーミッシュのポリシーらしい。機械化農業はしないけれど通販で農機具は買うとか。