はてなキーワード: スラブとは
大学に入るまではそう思っていたけれど、全くそうではなかった。
まあ、そこに土を固めた路盤くらいはあるけれど、自分が走るレールは一切敷かれていない。自分が敷かなきゃならない。
不器用でもいい。都会チックでもなんでもない、枕木がまばらでレールが多少歪んでいても走れるものを作っていく。それでこそ人生だろう。
PCまくらぎだったり、スラブ軌道だったり、新幹線のような高規格な路線が敷ければいいけど、そんなのはまあ無理だとしても、だ。
それに、敷かれたレールの上を走るにしたって赤信号で突っ切れば事故は起こるし、スピードを出しすぎれば脱線もする。逆に、エンジンもモーターもついてない車輌になってしまえば、せっかくのレールも錆びていく一方だ。敷かれたレールを走るのも技術が要るのだ。大抵の人は走れるもんだけど。
ごく一部の人は、敷かれたレールの上を走りたくはないなんて言ってそれを実行している人の中には、森林を開拓して、沼地を固めて、路盤から作っていく人もいるけれど。
野心的ではあるけれど、さすがに僕はそこまでの野心は持たなかった。
勉強をサボって、2回も留年して、この段になってやっと焦って、一体何をしてるんだろう。走らなきゃならない。走るための道を造らなきゃならない。
早くレールを敷く作業に戻れ。もう十分、休んだだろう?
・食べ物のプレゼントは殆どが捨てるか従業員の胃袋に入っちゃうからあげるならせいぜい飲み物にしておけ
・プロフィールのW60以上はデブだっていう従業員からのサイン。
・プロフィール写真じゃなくて写メ日記を確認しろ。(指を見て体型を推測する)
・したらばやホスラブや爆サイで情報収集するとなお良し。(ただし風俗スレにはおかしなのが居着いてる場合があるから要注意)
・従業員と仲良くなる(常連になるといい子が入ると連絡してくるから得)
・従業員にどんな女の子がいいか聞かれたら「愛想が良くてデブじゃない女の子」と言うのがベター。
・フリーで入るときは「いい子だったら延長するから取り敢えず一番短いコースで」と言う。
・女の子はお前の事なんか好きにならない。
・一番喜ばれる対応は「何もプレイしない」事。(でもその事によってお前を好きになる事は無い)
・要望をはっきり言った方がいい(乳首を重点的に攻めながら玉裏さわってとか)
・風俗によく来るか聞かれたら「よく行くんだけど今オキニの女の子を探してるんだよね」と言うとサービスが良くなるかも。
・デリヘルの場合自宅というだけで女の子のテンションが下がるから出来ればホテルとかの方がいい。
・ソープの場合2万円の店と6万円の店とではすごく差があるが6万円の店と10万円の店だとそんな差はない気がする。
評価基準は以下3つ。
研究:どうせ学者になんてなれないんだから、ほんまはどーでもいいけど。ま、一応。分野?えーっとじゃあ、日文(適当)
就職:ダメなりにどう良いのか、ということなので法、経済学部の就職の良し悪しなんかより死活問題
S 東京大学(研究:S、就職:S、OB:S いけるんなら東大いくよね)
A 京都大学(研究:A、就職:A、OB:S 京都学派の遺産で細々と暮らす)
A- 早稲田大学(研究:B-、就職:A、OB:A+ 村上春樹、東京にあるから就職はかなりまし)
慶応義塾大学(研究:B、就職:A+、OB:B 永井荷風がゆうてたで、慶応の学生は勉強せずに野球ばっかりやって)
B 大阪大学(研究:B、就職:B+、OB:D、OBがおらんのがなー、自慢できへんやん。大阪なんで就職それなり)
C 東北大学(研究:B、就職:D、OB:B 伊坂幸太郎は法学部、魯迅とか?)
C- 名古屋大学(研究:C、就職:B、OB:D なんのイメージもわかない)
徹底した自己開示と執拗な自己解釈による独演を社会に提示した喪服の死神。
幼少の個人的出来事からネット右翼、アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティのカムアウト。
陳述で同性愛を告白し、ボーイスラブ系二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。
…
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。
…
自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。
執拗な自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である。
喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ的自意識には向けられて、彼は饒舌にウェブ上に氾濫する非モテキモオタの類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。
本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識に代替されている。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。
汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。
もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。
ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャル・マイノリティは「自分はセクシャルな存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。
彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまり、ホモ、オカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。
ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。
喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期にボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実のセクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。
自らを汚物と信じた喪服は、現実のセクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。
自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。
LGBT当事者の書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。
今ではオープンリーゲイを公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である。
愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。
2000年代、2ちゃんねるやはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定、キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定のレッテルを貼り付けることで自己肯定に転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。
あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定のレッテルに飛びついた人々である。
自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定のスパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。
自己否定のレッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。
しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
…
幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期、セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。
汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティを現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。
本来ならば健全なセクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美な世界を描いたボーイズラブ系二次創作を愛した喪服の死神。
現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性の世界の性愛に耽溺している。
喪服のチグハグなセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。
「何か」が欠落してしまっていた。
ウェブ上での自己開示および匿名の対話者からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。
だが、喪服の自意識の歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。
喪服の自己対話は精緻であって、他者の解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内にインストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。
このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。
喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャル・マイノリティの為に用いられる言葉は現れない。
自らを異性愛者の視点から「同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子の言葉で性指向を空想している。
喪服の自己対話には、セクシャル・マイノリティが自らをセクシャル・マイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。
というより、喪服がウェブで本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。
非モテから同性愛者を斥けてミソジニーとホモソーシャルの産物と断罪するセクシャリティ論。
女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ系二次創作の世界。
最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定のトンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティの本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ系二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。
しかし、喪服が創作するには、表現の原動力たる空想の世界は耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間はウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。
喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力。
本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作の表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ、自己否定のトンネルに差す光として見えるのみ。
もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元のベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である。
喪服は、呪っただろう。
喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ系二次創作の賞賛を得る者を。
空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美な世界で肥大化した自我は、現実世界の自己表現を求めて、自走する。
喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。
喪服に残された肯定的な表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。
喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。
恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。
喪服は、斑目晴信がオタク濃度を感じたように、キモオタが秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。
喪服は、ボーイスラブ系二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。
喪服は、自覚することはなかっただろう。
喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。
執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。
自己疎外された人々が、自らに自己否定のレッテルを貼り付けることで、健全な精神をギリギリのところで保った非モテの論理。
2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。
喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性のホモソーシャルの世界であって、男の喪服を救わなかった。
セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティのはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。
《身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。
身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美な世界に誘い込み、彼の自我を肥大させて、現実を呪った。
デリヘル嬢のセフレが生理不順で5日間休んでいたら在籍のお店のHPから写真が消えてしまった。
ちゃんと電話連絡したのに5日出勤しなかったらもう写真を削除するっていうのは、店の対応として正直どうかと思ったけど
その店は新人の嬢に入った場合アンケートも細かくて、酷い嬢だった時に素直にクレームを伝えたら次回予約した際に無料にするという
良い対応もしてくれた店なので(多くのお客さんがクレームを入れたようでしたが)セフレが削除された理由は彼女のサービスが適当でアンケートの結果
が悪かったんだろうな、と思った。
俺は攻め好きなんだけど、くすぐったがって殆ど体に触らせないし顔の産毛処理を怠ってることが多くて、キスするとヒゲがあるような感じがしたり
とか、すぐフェラにいこうとしてとにかく早く終わらせたい感がプンプンする接客だったからまぁどこでもダメだろうな。。。
そういうダメ嬢を弾いてくれる良店舗なので一寸高いんだけど、暫くメインで利用しようかな?と思う。
ホスラブとか見てても稼げるお店って評判になっているみたいだから、続々と良嬢が体験入店してくるしね。
セフレの方はその店をクビになっちゃったので、今度はソープに行くって。
デリヘルなら基盤させてくれるってことである程度プレミアになるけど、ソープは本番ありきだからあのサービスじゃまた直ぐ駄目になるんじゃないかな・・・
いや、単に侵略されまくった国ってのが多い。ここでいう「侵略」はアジア人もヨーロッパ人もアラブ人も大量に流れこんできたってこと。
だから、ベラルーシとかの東欧が美人の宝庫って言われる。あそこら辺は、スラブ人、ゲルマン人、モンゴル人、テュルク人、アラブ人が引っ切り無しに侵入してきた土地だからな。
いろんな顔立ちの民族が交じり合った結果、あらゆる民族から見て平均的な顔立ちが作られ、美人と認識されるようになっていったのだ。侵略されまくった土地と言っても、同じ白人系やアジア系ばっかり侵略してきた土地は、顔立ちそのものは変わることがないから、美人が多い国にはならない。
苗字に「金」や「福」、「本」、「神」が付いてる人は日本人もいるけど、一応注意した方がいい
名前に「姫」や「美」、「博」、「大」が付いてる人は要注意(但し名前ブーム時期の「大」は違う可能性あり)。
本人が知らないだけで在日何世だったりする。
やたら男尊女卑思想が強い男性、「同胞」や「友」という言葉を普段使ってる人も怪しいので注意。
人は見かけによらないというしね。
原日本人はスラブ、アイヌ系統に縄文・弥生が混ざった顔立ちだから、
二重瞼の人は日本人の可能性があるが、これは小さい子どもしか判断できない。
というのも半島人は恐ろしく日本人や欧米人が好きなので真似っこをしたがり12歳以上の女性は教育として目元のプチ整形を奨励しているから
最近は二重=日本人というのは当てにならなくなってるが、一つの指標として見ることは可能。
在日だからどうって事はないんだけど、大阪や愛知、東京ですら同和地区の問題で差別、逆差別が起ってる。
そういうゴタゴタに巻き込まれたくないなら覚えておくべし。
どうかな。カルロスゴーンはブラジル生まれでフランスで教育を受けているが日産で経営手腕を発揮している。
フランス語やポルトガル語を使わず英語を使って従業員とコミュニケーションしているはずだ。
英語が重要なのは世界共通語で、英語ネイティブの人以外とコミュニケーションするにも大事だからだ。
まず、ポルトガル語圏・フランス語圏と英語圏の文化的・言語学的距離を日本語とのそれと比べてみることだな。どちらも、日本語と韓国語以上に近い殊はあっても逆はあり得ないよ。
俺はポルトガル語など全く学んだことないし、ロマンス語全体まで拡げてもフランス語を少しかじっただけだが、ポルトガル語の新聞記事をなんとか読めてしまうし、フランス語に至ってはほとんど抵抗ない。なぜかというと、英語からの類推でほとんどできてしまうし、新聞記事のような堅い調子のものに至っては語彙のほとんどが共有されているからだ。特にフランス語文と英文が並んでいたような場合、切り替わったことが気づかないことさえある。むしろ、言語学的によほど近いドイツ語の方が、ポルトガル語やイタリア語と同じぐらい手こずる。
立場を逆にしてみるといい。韓国語が世界共通語だったと想像してみればいい。色々な母語の人間が大勢集まって韓国語を本気で勉強すれば、集団としては絶対日本人が圧倒的優位。礼儀作法のような文化的コードも含めて、日本の言語・習慣からのマイナーチェンジで全部できてしまう。漢語経由で高級語彙まで共有してるから、敬語やら助詞やら礼儀作法やらの基本的考え方すら身につけられずに苦労する欧米人などから見れば日本人は半ネイティブのようなものだ。
要するに、カルロス・ゴーンが英語圏の標準にさしたる苦労なく適応できるのは当たり前なのだ。その辺のことを全く指摘せず、「オランダ人はほとんど誰でも英語がペラペラだ、オランダの英語教育に学べ」などと力説する馬鹿が後を絶たないのだから呆れかえる。オランダ語はおそらく地球上で英語に最も近い言語で、本土の人間が琉球語を覚えるのとほとんど同じ程度の労力しかかからずに奴らは英語を学べるのだ。たとえば本土の人間は「めんそーれ」とか「てーげー」と聞いて「見え候え」とか「大概」だと簡単に類推して直観的にこれらの語彙を取り込めるが、それ以外の人間はにはこんなことは無理だ。
はっきり言って、日本という場所は世界一英語学習に向いていないと言っても過言ではない。そもそも文化的に外国語を話すことが必要とされたことがほとんどなく、漢文という名の訳読と作文だけで済んでしまっていた土地柄で、「外国語を学ぶ」という文化自体が極めて薄い。そして日本とイギリスはユーラシアの東と西の外れの島国で、言語学的にも文化的にも接点を見出す方が難しい。
英国>米国>加・豪・NZ>(越えられない壁)>その他ゲルマン語圏>その他ロマンス語圏>>その他スラブ語圏>その他ヨーロッパ>(越えられない壁)>その他旧英米植民地>(越えられない壁)>セム語圏>(越えられない壁)>その他
一番に思い浮かんだのが、
スラブ人だろうが漢人だろうが朝鮮人だろうが、誰が操作しても動く港湾設備がある港が山ほどあるし、
地政学のこともあるし…。
あ、あと
日本が攻めていってどっかを占領して維持するコストは無茶苦茶高く危険につくんだけど、
外国が日本に攻めてきて維持するコストはべらぼうに安くて安全。
北方四島、竹島、ガス田、みんな日本が軽くあしらわれているし、アメリカもなんもしてくれない。
尖閣列島は日本が実効支配しているが、中国がその気になったらあっという間に占領されてしまう。
『中国分裂 七つの理由』(阪急コミュニケーションズ、1680円)
◎
「中国の近未来をいま一度考えてみると、これまでの固定概念的な地方軍閥、地域対立、王朝の腐敗、衰退という文脈から分裂に至るというシナリオは遠のき、むしろ現代中国に拡がった新しい空間、すなわちネットにおける反政府言論というゲリラ戦争、イスラムの思想的連帯という見えない武装戦争、利権争いの集大成としての個別経済ブロック化、他方ではグローバル化に波に乗った資産の海外逃亡などが次の舞台の開幕を告げるであろう」(あとがきより)。
「つねに未来がリスクに満ちていると仮定すれば、わたし達は日常的に危機に対応するシナリオを幾通りも用意しておく必要があるだろう。賢者は最悪に備えるという箴言もあるように、中国が分裂しないという保障は何処にも存在しないのである」。
「米国も英国も分裂気味なうえ、カナダも恒にフランス語圏の分離独立運動を抱えている。イラクにはクルド族独立運動、グルジアにはオセチア、アブハジアという「国内国」との紛争、スペインにもバスク独立運動。。。。。。。。。」
「フランスの人口学者、エマニエル・トッドは1976年にソ連の崩壊を予測した。当時、だれも彼の予測に耳を傾けなかった。あり得ないと踏んで、その仮説を嗤った。
ソ連を構成していた十五の共和国のうち、バルト三国(ラトビア、エストニア、リトアニア)はすぐに西側に飛び込み、カフカスのグルジア、モルドバ、アゼルバイジャンはモスクワ離れが激しく、そして”スラブ三兄弟”といわれたウクライナ、ベラルースもモスクワと袂をわかった。この趨勢をみていたイスラム圏中央アジア五ヶ国も便乗して独立した。カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンだ」。
「そもそもチベット、新彊ウィグル自治区、内蒙古自治区、旧満州はそれぞれが独自の歴史をもつ漢族とは異なる国家だ」。
「チトー大統領の強引な手腕で「国家」を形成したユーゴスラビア連邦は重圧な桎梏が消えると血なまぐさい殺戮を開始し、北からスロベニア、クロアチアがさっさとセルビアに反旗を翻し、ボスニア&ヘルツェゴビナとの紛争に手間取る間にモンテネグロとマケドニアも独立、セルビアが孤立した。加えてコソボが事実上の独立宣言をしており、ユーゴは六つの分裂から事実上は七つの分裂国家になる。
この伝でいけば中国が七つ前後に分裂するという議論はまったくおかしくない(本書の仮説は七分裂だか、必ずしも分裂後の中国が七つになるとこだわっているわけではない。五つかも知れないし、或いは十数に大分裂を引き起こすかも知れない)」。
本日発売
『中国分裂 七つの理由』(阪急コミュニケーションズ、1680円)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%86%E8%A3%82-%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1-%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E5%BC%98/dp/4484092344/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1253137807&sr=1-1
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は共通する語彙が多いから互いに学習するのは楽だよね??
そこにドイツ語を入れるか、あんた。ドイツ語とフランス語の語彙って悲しいほど重ならないぞ。ドイツ語もフランス語も言語に対して純潔思想が強く、外来語はできるかぎり祖語の語彙から作る(日本語で言えば、漢語やカタカナ語を全部やまとことばで置き換えるということ)。だから、ドイツ語はゲルマン系の言葉だらけだしフランス語はラテン系の言葉だらけ。英語や日本語みたいに外来語を無節操に取り込んだりはしないんだよ。
あのさあ、ノルウェー語とかデンマーク語とか眺めたことある?ドイツ語や英語を知ってれば気合いで読めなくもないような言葉だよ、こいつら。
で、フィンランド語やトルコ語は印欧語系じゃないから、ラテン・ゲルマン・スラブ系の諸語とは似ても似つかないんだがそのことは理解してるか?