はてなキーワード: でっち上げとは
24才男子大学院生、修論もほぼ書けてもうすぐ卒業。内定もある。学歴と初任給だけ見れば相当いい方だと思う。けれど、大学6年間ですっかり心をやられてしまって、とてもじゃないが働ける気がしない。寝ても覚めても不愉快で趣味もろくに楽しめない生活を送ってる。自分語りして整理すれば仕切り直せるかなと思って書くことにした。
高校までは田舎で優等生やってた。学校の成績はいつも1位で、生徒会長やったりもして、不満はほとんどなかった。地頭はなくて数学の難しい問題は苦手だったけど、勉強はやっただけ成果が出たから、つらいと思ったことはほとんどなかった。今思うとどうしてあんなに勉強やれてたのか分からないし、「勉強しない」っていう選択肢を知らなかっただけなんだろうな。親や先生が褒めてくれるのが気持ちよくて望まれるがままに勉強してた。大学入試も難なくクリアして、いわゆる難関大学の情報系に進んだ。情報系を選んだのは、ブログの運営で少し触ったプログラミングがなんとなく面白そうだったから。当時はニュースでビッグデータがもてはやされていて職に困ることもなさそうだった。
大学1年目、高校の延長で真面目に勉強してたら自然と上のほうにいた。だけど、自分の周りでは、小学生からプログラミングやってて課題で褒められるやつとか、やたらレポートの内容が濃くて授業中に取り上げられるやつとか、無難に試験問題が解けるだけじゃない化け物がより目立っててかなり焦った。当時はまだギラギラしてたから、すぐにプログラミングの入門書とか買って自分で勉強した。幸い自学する力はあったから、大学から始めた人の中では頭ふたつ分くらい抜きん出たと思う。Twitterで自分が勉強した内容とか発信してかなりイキってた。ただ、自分でプログラミングを勉強していくのは結構しんどくて、月に何日かとにかく不快で何も手につかない日があった。自分はなんて頭が悪いんだろうとか、どうしてプログラミングを楽しめないんだろうとか、そういうことをぐるぐる考えてた。
大学2年目、先輩に誘われて一緒に小さなプロジェクトをやることになった。プロジェクトの過程で、プログラミング能力の低さとTwitterでイキてったのをめちゃめちゃに叩かれて人格がかなり矯正された。不健康気味だったメンタルが更に脆くなって自信とか自尊心がなくなったけど、プログラミング能力はすごく伸びたし、なによりあのままTwitterで井の中の蛙やってたらと思うとゾッとするし、トータルでは感謝してる。とはいえ、そのプロジェクトやってる間は大変だった。深夜にやってた萌えアニメを録画して起きてる間ずっとリピート再生したりしてた。今なら絶対に続けられないけど、当時は「つらいことをやめる」っていう選択肢を知らなかった。
大学3年目、自信を失ったなりに必死に勉強した。優秀な人の真似をしてみたり、流行りの技術に手をつけてみたり、自分の興味は二の次でひたすら迷走した。見かねた先輩に「君、意志ある?」と言われたのは今でも鮮明に覚えてる。意志はなかった。それでも、とにかく自信を取り戻したくて、別に面白くもないことを無理やり勉強し続けた。もちろん、当時は面白いと思い込んで勉強していたわけだけど。
大学4年目、研究室に配属され快進撃が始まる。たぶん人生で一番賢い時期だったと思う。きっかけはゼミの輪読。準備のために全部の定理を証明したり順序立てて説明する練習をしていたら一気に賢くなった。学校の先生がしきりに言っていた「論理的思考」がどういうことなのか分かって、頭の使い方が変わった。自分が急速に成長するのがわかって、すごく嬉しくて、それまでやっていたプログラミングを全部捨てて研究にのめり込んだ。指導教員は聡明な優しい方で、目の付けどころが良いと褒めてくれて更に研究が進んだ。今になって振り返ると、別に研究対象が面白かったわけではなかったと思う。一般に上手くできることは面白いし、人に褒められたら気持ち良い。ただそれだけのことだったけど、寸暇を惜しんで研究をした。眠りにつく直前まで研究のことを考えて、良いアイデアを思いついたら飛び起きてメモした。
年が明けて1月、卒論は早々に完成させた。同期が卒論執筆でひいひい言ってるのを横目に、ひとりヨーロッパに飛び、トップカンファレンスのポスター発表コンペで2位をもらった。賞金の300ドルは iPad Pro を買う足しにした。日本に戻ると、すぐに国際学会に出すための論文を書き始めた。1か月ちょっと、毎日10時間くらい研究室にこもって論文を書き続けた。2月末には30ページの英語フルペーパーが出来上がって、それがトップカンファレンスに一発で通った。割と流行りの分野だったし、近い内容の論文が同時にアクセプトされたりしていて、巡り合わせが良かったのだと思う。それでも十分に異常な成果だったし、このあたりでもう博士課程に進むことになるんだろうなと考えていた。
大学院1年目、アクセプトされた論文の諸手続きや発表準備をしながら次の研究テーマを探した。博士号をもらうには更に2本国際学会に論文を通す必要があって、1本目の論文が技術的にも精神的にも指導教員に依存していた自覚があったから、次のテーマは自分の力で見出したかった。指導教員からもしばらく迷走しなさいと言われた。たぶんここが分岐点で、ここで手厚い指導をお願いしていたら何か変わっていたかもしれない。当時の自分は、博士号取得に向けたアドバンテージを得たのを良いことに、時間をたっぷり使って自力で研究テーマを探そうと思った。手始めにここ30年くらいの関連研究を根こそぎリストアップしてひたすら読んだ。研究テーマを見つける最短経路ではなかったけど、一人前の研究者になるには歴史を知る必要があると思った。たぶんこれが大学生活最大のミスで、大して面白いとも思ってないくせに、何十ページもある論文をいくつもいくつも読み続けた。少しずつ、論文を読むのに飽きて、研究テーマをまとめる期限がせまって、メンタルがやられていった。
翌年2月、下宿のクローゼットに大きな穴が空いた。もう1文字も論文を読みたくない、研究テーマもろくにまとまらない、どうしたら良いんだって頭を抱えて家にこもってるところに、知り合いからしょうもない説教めいたメッセージが届いて目の前が真っ白になった。机を目一杯殴って立ち上がって、自分が座ってたゴツいオフィスチェアーをクローゼットめがけてぶん投げた。木が割れるすごい音がして、クローゼットに人の顔くらいの穴が空いた。そうするしか自分を守る方法は無かったと思うけど、引越しのことを思うと気が重い。そこまで追い詰められても、まだ教員に相談しなかった。初期の成果が異次元すぎて、それに見合う研究者にならなければいけないと思っていた。
大学院2年目の5月、自力で学振の申請書を書き上げた。めぼしい研究から無理やり話を広げてそれらしい展望をでっち上げた。内心、その研究が面白いとも有力な結果に結び付くとも思っていなかったけど、とにかく研究の段階を前に進めないと精神がもたなかった。指導教員にコメントをもらいながら、5000字くらいある申請書を10回書き直した。申請書を書いた後は、修士論文の影もちらついていたから、申請書に書いてある内容に沿って研究を進めることにした。もともと愛着も情熱もないテーマなのに、行き詰まって、読みたくもない論文を読み込んで、理論を改善して、というのを繰り返す日々が続いた。折れた足で無理やり走っているような気がした。足の骨を折ったことはないけれど。
同8月、ようやく研究が形になってきて指導教員とミーティングをした。それまでも月に1、2回は簡単なミーティングはしていたけど、理論も含めてしっかりと方針を説明するのは初めてだった。自分のメモを前に映して30分話して、色々と質問された後、この方針は厳しいねというような話が始まった。先行研究の流れを十分に汲んでおらず眉唾モノとのことで、一番近い先行研究を改善する方針を提案してもらった。教員からすれば僕の研究はいわば初稿、それを足がかりにして研究を広げれば良いと思って話をするのは当然だけど、僕からすると1年半の集大成が30分で水の泡になったわけで、たぶん致命傷だったと思う。事態の原因が自分の研究の進め方にあったことは理解していたし、現実問題として修士論文を書かなければいけないので、そこから2週間くらいは騙し騙し提案してもらった研究を続けた。
同8月末のある朝、起きたら研究をやめていた。あの朝の感覚を説明するのはすごく難しいのだけど、とにかく、自分の中の何かが壊れて研究をやめていた。研究をしたくてもできないなんてレベルの話ではなくて、きれいさっぱり研究をやめていた。研究をしなくてもなんとも思わないし、すごく不思議な感覚だった。そこから10月まで毎日ゲームをした。あんなに遊んだのは人生で初めてだった。途中、指導教員に「もう研究できません」といったメールを書いたところ、とても優しく対応してくださった。返信の言葉は適切でとても暖かく、もう数ヶ月早く同じ言葉を聞いていればさぞ励みになっただろうと思いながらゲームをした。成果にも指導教員にも恵まれていたし、とても貴重な機会を棒に振ったなと思った。
同10月、指導教員とミーティングをした。1ヶ月半ゲームをして療養したので、もしかしたら研究ができるかもしれない、という淡い期待を持って臨んだ。8月のわずかな進捗とその後の顛末を報告して、全く新しい研究テーマでやってみましょうということになった。参考文献を教えてもらって読み始めたが、アブストを半分過ぎたあたりで胃腸がギリギリ痛んで吐きそうになった。指導教員に「もう無理です、すみません」と泣きついて1本目の成果で修士論文を書くことを許してもらった。その後、就活をして内定をもらった。大学での成果を振り回して精一杯の虚勢をはったので、さぞ優秀な学生に見えたと思う。会社の内定と同じくらいの時期に、学振の内定通知も届いた。申請書に書いた展望はまるっと没になっているが、一体どんな素質を見出されたのだろう。
そうして今に至る。研究ではそれぐらいの挫折はよくあることだよ、とも言われたけど、それを乗り越えられるほどの情熱や興味はなかった。というか、乗り越えて平気な顔で研究を続ける人の方が狂ってると思う。努力は夢中に勝てないというやつ。何か夢中になれるものに出会いたいと思うけど、何かに夢中になりたいって言いながら年を取るんだと思う。何をやったとしても、上達するにはどこかで自分に負荷をかけて頑張らないといけない。そこで夢中でいるための気力を大学の6年間で全部使い果たしてしまった感じがする。つらいことや興味のないことを頑張りすぎた。
社会に出て働くわけだし、流石に関連技術を勉強しなければと思うのだけど、ひたすらつまらない。以前の自分なら、会社で評価されそうな技術を喜んで勉強したと思うのだけど、そういうギラギラした熱意は失われてしまった。たぶん研究に全部持っていかれた。どの分野もどの技術もつまらない。物事の細部や深い意味に立ち入りたいという欲求が一切湧いてこない。自分が知的好奇心の乏しい人間であることを痛感する。この状態で働き始めて、仕事を続けられる気がしない。毎日少しずつ自分が衰えていくのが分かってとても怖い。何か努力をしなければと思うけど、何をしてもつまらなくて30分ともたない。何も努力していないから、手放しで遊ぶこともできない。人生どん詰まり状態。早く仕切り直したい。
光久(こうきゅう)
昭和の時の没案「光文」の光に、他の発言でちらほらおすすめされてる久の文字。
日本という国が(斜陽だけど)ずっと輝き続けられるようにという願いは時代にマッチしそう。画数も少ないしイニシャルも問題なさそう。
文献は後付けでどうにでもなるだろう。
なければでっち上げればいい。
女の嘘一つで務所にぶち込まれ、国家賠償も棄却される不安定さ。
社会の歯車として懸命に働いても童貞というだけで馬鹿にされる哀れさ。
女性のでっち上げに怯えるも専用車両は与えられず、やってもいない痴漢の罪に連座して責められる。
顔に傷を負っても査定は女性に比べてかなり低く、寡婦年金など法的な女性優遇も枚挙に暇がない。
配偶者から受けたDVを相談しようにも窓口は女性に比べて少なく、受付時間も短い。
必死に努力しても議員になれないようにされる動きさえある。(クォータ制)
数多ある女性割引・女性限定に対して男性専用のコミュニティは少なく、そしてそのわずかなオアシスも叩かれ潰される。
現実の女性を恐れ二次元に逃げ込もうとしても、そこに対しても女性からの執拗な攻撃。
一体、男の何が保護されてるって?
https://web.archive.org/web/20150309221722/https://nikkan-spa.jp/195594
>「呆れるのはその祖父が被害者の母親にあたる娘に対しても、小5から高1まで同じように強姦していたこと。当時、娘には土下座して謝り、事件化は免れていたのですが、その後孫娘に対しても同じことをしていたことを知って母親が激怒し、刑事告訴したのです」
>祖父は「かつての娘とのセックスは合意の上だった。孫娘とはしていない。すべては娘の陰謀だ」と言い逃れしたが、大阪地裁で懲役12年を言い渡された。
この記事は職歴、逮捕時期が異なり別の事件であるか信ぴょう性が薄いとも言われている。
https://hanrei.saiban.in/d/85443
>②被害を打ち明けるまでに数年を要していたり,実母に問い詰められるまでは尻や胸を触られた旨打ち明けるに留まっていたなどの事情
>Aは,再審請求審において,①被害を受けたとの確定審での供述は虚偽であり,本件各犯行の事実は存在しない,②被告人からお尻を触られる旨大伯母であるCに話したところ,それを伝え聞いた実母であるD及びその夫であるEから他にも何かされたのではないかと何日間も深夜に及んで問い詰められたため,最後には,胸を揉まれたと認めた,その後,強姦されたのではないかとの問いに対しても,これを否定することができなかった,③また,産婦人科に三度連れて行かれ,診察を受けさせられた,④取調べではDが怖くて虚偽であることを打ち明けられなかった
胸や尻を触られていたのは事実らしい。強姦されたと言うまで問い詰められたのは産経の記事にもあった通り。
【刑事】強姦被害者とされる者の虚偽の供述があったために有罪とされた冤罪事件に関するメモ
http://milight-partners-law.hatenablog.com/entry/2019/01/06/092747
>弁護人は,被害少女の母親であるCが,中学生から高校1年生のころまで同意の上で被告人と性的関係を持っていたのに,その後,被告人がBを選びCを選ばなかったことから,これを恨みに思い,被害少女や兄Aを使って今回の各被害をでっち上げた可能性がある旨主張する。なるほど,母Cの少女時代,高校1年生ころまでの間に,被告人とCとの間に性的関係があったことは関係者間で争いのないところであるが(なお,Cや同女から事情を聴いたとするD〔被告人の妻Bの姉〕は,この関係は被告人の強姦によるものであったと証言している。)
これによっても男性が娘(女性の母親)を強姦した、少なくとも性的関係を持っていたのは事実っぽい。SPAの記事は中学生ではなく小五から、とのことだったけど、高1まで、というのは同じだ。
だからといって司法の落ち度は変わらないが、祖父に胸や尻を触られた上強姦されたと嘘を吐くまで問い詰められ続け(しかもブログによるとそれを母親に流布され)たこの女性が「冤罪加害者の極悪女」「刑務所にぶち込め、死刑にしろ」と日本中からバッシングされていることに胸糞感がある。性的虐待男は「可哀想な冤罪被害者」だし。