はてなキーワード: 若葉マークとは
この件を茶化すな!男の射精の話を混ぜるのが不思議!生理をセクハラ扱いすんな!などという意見があって、違和感しかないので書いておく。
※この辺りのブコメに対して
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191125-00030892-forbes-soci
■茶化すなについて
そもそも元の漫画は「オモコロ」発だし、例えば「性欲くん」が登場して生理ちゃんに「生理パンチ」を喰らい、
「スペルマ(精子)!」「中折れ」などと叫ぶシーンがあるように明らかにギャグ漫画なんだけど、それを使ってる時点で茶化してると思われるんじゃないか?
本当に真面目に話をしたいなら、ギャグ漫画とコラボせず、若葉マークみたいなシンプルな記号にすべきだろう。
※てか大丸のマーケ戦略と、あと芸能人を使った漫画の映画化があり、がっつり広告代理店が絡んでるので本来はただの商業的な話題作りなんだけどね
これも元の漫画に描かれているが、生理ちゃんの対比として「性欲くん」がよく表れる。
男女が入れ替わった回の話だと、男になった女性は男の性欲を体験し、性欲がつらく自慰で射精したりする様子も描かれる。
…という風に明らかに生理の対比としての「男の性欲・射精」が描かれてるんだけど、この漫画とコラボしてる時点でその話が出てもおかしくないよな。
あと「生理は神聖で射精は茶化し」というのもおかしな話だろ。なんで射精が下に見られてんの?どちらもヒトの生理現象で、それ自体が恥ずかしいことではなく、但し他人にアピールするような事ではない。
「生理は射精と違って体がつらいから全く違う」と主張する人もいるだろうが、それを言いたいのなら、今回つけるべきバッジは生理と射精の差異である「体がつらい」バッジだろって話。
生理バッジには生理ですよというアピール以外の意味は無く、それはセクシャルな個人情報と言う意味において異性の生理現象と対比されても仕方ないだろう。
生理そのものがセクハラって言ってる奴いんの?いないだろ。藁人形やめろ。
セクハラだと言ってる人は、生理を「他人」に「アピール」することがセクハラになりかねんって話だろう。
射精は子作りをするために夫婦に必要な崇高な行為でもあるが、それを他人にアピールしたらセクハラだろう。
馬鹿が勘違いして話してるけど、生理そのものがセクハラだと誰も言っていない。
なお個人的には、仮に生理をアピールすること自体がセクハラではないのなら、上司が部下に生理か聞いてもセクハラではないという、対称性のある社会にすべきだと思う。
俺自身は良く知らない女性に生理アピールをされたら気持ち悪いしセクハラだと感じるし、彼女が上司から生理を尋ねられるのも嫌なので、どちらも他人に言うべきじゃないと思うけど。
(はてブ的には受け取り側がセクハラと感じたらセクハラなんだよな)
■でも議論が深まったろ?に対して
議論が深まるのが良い事ならば、それこそ男性の性欲と射精についても女性は理解できない部分があるので、原作漫画で生理ちゃんの男性版である「性欲くん」のバッジをつけるべきでは?
原作でも描かれてるように男の性欲は(個人差があるけど)辛いからな。
■最後に
行きつけのドトールでカフェラテの機械が壊れていることを忘れていて、その店に行ってカフェラテを頼んでしまった。
普段カウンター内には2~3人しかいないんだが、若葉マーク付きの新人アルバイトらしき男子たちと、カフェラテを作る機械の修理業者らしき人がいて、やたら人手が多かった。他にはベテラン店員もいるしオーナー(店長ではないらしい)もいた。
そんなときに「カフェラテのホットお願いします」などと言ってしまったものだから新人バイトくんたち困惑。が、ミルクを泡立てる機械は復活しているらしく、それをコーヒーと混ぜる機能だけが壊れているようだ。
で、気前の良いオーナーが、「実験台でいい?」と泡立ったミルクにブレンドコーヒーを入れたカフェラテっぽいものを作ってタダで出してくれた。そんなにコーヒーの味にうるさくない私にとって、それは立派なカフェラテだった。
そういえば普段家でコーヒーを飲むときもミルクをレンジでちょっとチンして泡立て機(?)みたいなので泡立て、そこにドリップコーヒーをセットしてお湯を注いで飲んでいるんだからあまり変わらないに決まっている。
「協力」を強制してる時点で協力ではないだろ。
女性専用車両は利用者も駅員も一体になって、電車を遅らせてまで男性を排除する。これは協力ではない。強制だ。
https://anond.hatelabo.jp/20180822005110
こんな程度の噓んこ数字遊びにあっさり騙されるってどういうことなの。脳みそ入ってんの?
そんなことはないだろう。事故が起こる要因を考えればいい、車種で決まるだろうか?むしろ車種によらない要因が主で、更に多数あるはずである。
軽自動車の交通事故件数は 131,909件、登録台数21,847,783に対し、1万台あたりの事故は60.4件と7%程度多くなっている。
普通自動車の死亡事故発生件数は 1,097件、1万台あたり0.28件に対し、軽自動車は 853件、1万台あたり0.39と、普通車に比べ39%も多くなっている。
したがって、車種による安全性を比較したいという趣旨においては、この比較には全く意味がない。
本来であれば速度、事故がおこった道路、出来れば性別・年齢ごとに比較して車種の影響のみを考慮する工夫をすべきだが、元増田が出した数字のみで辛うじて意味のある評価をしたい。
元増田は「②JNCAPの新安全性能評価」において車種ごとの試験結果を比較している。これが実際の事故において、どの程度の影響を持っているか?を見るべきだ。
したがって、事故の発生件数に対する、死亡事故の割合をみるのがいい。
普通自動車 死亡事故 1097件 事故件数 222,486件 死亡事故は、事故 100件に対して0.493件となる
軽自動車 死亡事故 853件 事故件数 131,909件 死亡事故は、事故 100件に対して0.647件となる
繰り返すが、この評価には事故が起こった条件にたいする評価がない。したがって数値にはブレが存在する。この時100件あたりの事故件数の差の 0.154件は有意に危険であるといえる差であろうか?
乗員保護性能の平均値を有意に反映した数字になっているだろうか?その評価は、元増田が出している数字のみからでは行えない。
軽自動車が、普通自動車に比べて、死にやすい危険な車種であるか?は、元増田がやった事故件数の評価では全く言えていない。(安全性能試験の評価数値のみで語るべきだっただろう)
確率は条件がそろえば加減乗除の対象にしてもいいが、何を比較しているのか理解していなければまるで意味がない。
台数あたりの事故発生数は7%増なのに死亡数は39%増ということは、一事故あたり30%多く死ぬってこと(4人乗ってた普通車なら1人生き残れても軽だと全滅する)
まったく意味が分からん無価値な評価だ。なんで死亡事故の増加割合と、事故の発生数の増加割合を引いていいと思ったのだろうか。
7%と39%という評価はミスリード。正解は、事故率は0.5658%と0.6037%なので0.0379%増。死亡事故率は0.02789%と0.03794%なので0.01114%増。さわぐほどの差かね?
恐らく、0.6037 - 0.5658 なんだろうが、引いたことで何を評価できているのか理解できてるのだろうか。。。「割合は」0.0379%「増加」していない。
割合の差は0.0379だが、この場合、あるドライバーが事故を起こす確率は 0.0379% 高いと言って価値があるか?
まだ元増田が1万件あたりに均して、その割合を取って7%と言っている方が意味がある。
これらのコメントに星を付けた奴は阿保。
はてなーは数字も読めない、3行以上の文章は理解できない、タイトルしか読めない阿保ばかりである。
数字を使った場合に、その数字が何を評価しているか?というロジカルシンキングの基本がミジンコほどもできない連中が政治だなんだ言ってるのは笑える。
cider_kondo どうでもいいけど軽運転者に多そうな属性って 1.若葉マーク 2.紅葉マーク 3.大きな車の取り回しに自信がない人 だよね。増田時空には、因果関係がないと相関関係は存在しないの? それとも馬鹿なの?(煽ってみる
俺が分かったのは、お前って奴は
という事だな。頭が悪すぎてどうすればいいのか分からん
俺が言ってることは、相関そのものについてなのは、交絡って言葉一つで、正しく理解できている事を表現できているブクマカの存在で分かるだろ
ある事象の発生確率に影響がある複数の変数が、互いに相関している状態を排除して、1変数(この場合は車種のみ)の確率に与える影響を正しく評価しなくてはならないという事だ。運転手の年齢性別、事故時の速度、気象、時刻 etcとある中で、車種の影響を評価するのは、おまえのような馬鹿が考えるほど簡単ではない。
因果とか、相関とか、時空とか、自分でも意味を理解してない言葉は使うな。
馬鹿だ阿保だ間抜けだと罵倒せずに済むような評価はどういうものか?
論文ではないから評価手法の妥当性を検証せずともいい、条件の絞り込みに蓋然性があれば、多くの人は納得するはずだ
これであれば、
事故発生件数にたいする死亡事故の割合の評価=車種が死因の直接的な要因であることの指標
朝から長男は起きず、代わりに普段は起きてこない専業主婦の妻が起きてきたと思ったらやれ洗濯してないのか!とかなんで米を炊いておかないんだ!とか騒ぎ出す。挙げ句の果てにそんなに家族が大事じゃないならもう帰ってくるなとまで言われた。長男は言う事を聞かず、癇癪を起こして暴れている。
駅についてコンビニへ寄る。財布には2千円。帰りの分のSuicaチャージを考えると今日使えるのは千円か。
朝飯におにぎりを一個買う。家で朝食なんてもう何年も食べていない。妻に「食べたいなら自分で作れ!」と怒鳴られて以来、家で朝食を食べたいなんて思った事はない。
レジに並ぶ。いつもの光景。順番に空いているレジに振り分けられていると、自分が工業製品になったような気分になる。順番が来てレジに着く。初めて見る店員さんだ。胸のプレートに若葉マークが貼ってある。
朝からおにぎり一個を買う中年サラリーマンを見て、この子は何を感じるのだろう。いや、順番に流れてくる工業製品に何も感じる事などある訳ないか。。。
左手を添えて丁寧にお釣りを渡しながら彼女はにっこりと微笑んだ。
今日は1日、頑張れる気がした。
全然ぶった切れてねーよバーカ
ねーよバーカ
まともな旅館なら既に暴力団お断りのステッカーを入口に貼ってあるわ馬鹿が
それでも日本国内で嫌われている悪印象持たれてるのに刺青入れてくるような馬鹿は
ヤクザって相場が決まってるから黙って入ってくんなよボケがって意味だよ言わせんな恥ずかしい
ちげーよバーカ
馬鹿が刺青したがるから馬鹿の自己申告ステッカーになってんだよ馬鹿が
アウトロー気取りたがる馬鹿です俺はって若葉マークよろしく周りに公言してるわけ
だから嫌われてんの
ヤクザ「なめられるうううう~~~~~そうだ、刺青いれよ!」←京都
お前が生まれるはるか前から刺青入れるやつは馬鹿って相場が決まってんだよ
分かったら黙ってろボケが
お前みたいな感覚のゆとりだらけになってっから刺青カッコいいとか言い出す馬鹿が出るんだよ
逆に煽られる可能性UPとしか思えず付けている人の気が知れない
と思ったらhttp://b.hatena.ne.jp/entry/suminotiger.hatenadiary.jp/entry/2014/12/09/121422では
そんな事書いている人が一人もいなくて自分の心の穢れっぷりを思い知った。
いや、若葉マークも付けたら煽られる、義務だから仕方なく付けさせられるけど本末転倒なマーク、ってのが一般論じゃないの?違うの?
それとも若葉は煽られるけど赤ちゃんなら煽られないと思ってるとか?
職員玄関で『若葉マーク』を渡されたのにも驚いたが、なによりも授業風景に腰を抜かした。
教科書を読めば分かるようなことを教員が白墨で板書し、生徒がそれを紙のノートにシャーペンで写している。
どうしてパワーポイントで授業しないの?
スーファミの研究しているウチの教授たちはほぼパワポ。定年間近のおじいちゃんはOHP
白墨、手汚れるだろ。
電子黒板とか意味不明なガジェットはいいよ。普通にパワポ使えよ。
ここまで書いた内容を先輩に話したら「どこの学校も同じだよ」と返された。知らなかった。
もう文科省に頼るのはやめよう。
問題は値段ですね。ちと高い。
どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教は神の国に行くし、仏教は輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。
http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...
神道では、人間が死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。
私たちが死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者、若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。
「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことなく霊界へ行くことができるのです。
この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。
ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。
有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療や科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教の場合も神の試練だと、仏教は功徳が足りないと思っていたのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
仏教的にはどちらかと言うと荒神の信仰に近いものかな。阿修羅とか。
靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である。
http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
前進は明治2年にできているので、戊辰戦争の御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。
政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。
こうしてみると、靖国にA級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかちます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。
んで次に気になるのは、別に首相がいかなくてもいいんじゃね?という点である。
多分これは崇徳天皇のせい。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。
[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。
しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人の天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇が御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップが御霊慰霊を行うようになった理由だろう。
1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。
しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲、内閣総理大臣を天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである。
ただ天皇は戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である。
このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。
2は前述のとおりグレー。
3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しかも信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ。一般的にキリスト教では参拝は神への信仰、仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体は功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。
したがって、問題の争点は政教分離の観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉の原則に反するが、言うの自体は自由である。